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インス大妃

2019-01-23 | 朝鮮歴史ドラマ

韓国ドラマ「インス大妃」 | BS12 トゥエルビ
https://www.twellv.co.jp/event/insu/
世祖の長男・桃源君の妻であり、成宗の母、インス大妃。 そして、インス大妃の息子・成宗に嫁し、後に暴君として歴史に名を残す燕山君(ヨンサングン)の実の母である廃妃ユン氏。 韓国ドラマとしては初めてインス大妃の人生に焦点をあてて描くとともに、朝鮮 ...

1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
1453年 癸酉靖難。首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取。

癸酉靖難(きゆうせいなん、ケユジョンナン)は、李氏朝鮮の第6代国王端宗の即位1年後の1453年10月に、幼い国王の叔父にあたる首陽大君(のちの世祖)が、皇甫仁、金宗瑞らの顧命大臣を殺害して政権を奪取した宮廷クーデター事件。



ウイキペディアより

1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
1453年 癸酉靖難。首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取。

癸酉靖難(きゆうせいなん、ケユジョンナン)は、李氏朝鮮の第6代国王端宗の即位1年後の1453年10月に、幼い国王の叔父にあたる首陽大君(のちの世祖)が、皇甫仁、金宗瑞らの顧命大臣を殺害して政権を奪取した宮廷クーデター事件。

そんな折、首陽大君は自ら謝恩使として明に赴くことを申し出て、1452年9月から翌年春に帰国するまで国内政治から離れた。この首陽大君の赴任は、彼の政権への野心を隠す絶好の機会となった。首陽大君は、随行の申叔舟や集賢殿の鄭麟趾、権擥などの功臣を傘下に加え、明から帰国するとすぐに具体的な計画に着手した。

準備が整うと、計画の発覚をおそれて、1453年10月10日の深夜にクーデターの実行が決定された。首陽大君は、まずもっとも手強い政敵であった金宗瑞を自宅に訪ねてその場で惨殺し、同時に彼の部下たちは宮廷に大臣たちを招集して、皇甫仁らの主要な大臣たちを一挙に殺害した。一方の黒幕だった安平大君は江華島に配流後、賜薬(死薬)をもって殺害された。

政権を掌握した首陽大君は、クーデターに参加した功臣たちを登用し(これらの功臣たちは、後に勲旧派と呼ばれるようになる)、「靖難」に不満を持つ王族や国王を補佐する臣下を圧迫したので、1455年閏6月に、端宗は譲位して自らは上王となり、首陽大君が第7代国王(世祖)として即位した。

端宗復位事件
事件から1年半後の1456年6月に「端宗復位事件」が発覚し、成三問・朴彭年ら、のちに「死六臣」と呼ばれる文臣たちが処刑される。明において、当時上皇であった英宗が重祚した奪門の変が起こった1457年6月には、上王端宗も魯山君に降格の上、その4か月後に配流先で賜薬を下され17歳という若さで賜死された(死後、端宗が正式に王位を回復されるのは第19代国王粛宗の時代)。この時、端宗復位のために謀反を起こして既に配流されていた第4代王・世宗の六男の錦城大君も、ほぼ同時に配流先で賜死されている。



朝鮮の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。

16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。

1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斉家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。[11]

19世紀半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。


「李氏朝鮮」の呼称
日本においては王室の姓をとり「李氏朝鮮」もしくは「李朝」の呼称が用いられていたが、近年では「李氏朝鮮」を「朝鮮王朝」と言い換え、古朝鮮と朝鮮とで呼び分ける立場が日本の朝鮮史研究者の間では主流となってきた。文部科学省は2002年に「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」との検定意見をつけた。その理由を、日本における学術研究の成果を反映したためとし、特に朝鮮史学界での呼び方に倣ったことを強調した。


日本経済新聞2002年4月10日朝刊。
文部科学省は前年2001年に「つくる会教科書」における「李氏朝鮮」という呼称について大韓民国から修正を要求されたが「明白な誤りとは言えない」として拒絶したことがあった。その翌年2002年の検定意見で「李氏朝鮮」という呼称を不適切としたことについて文部科学省は、韓国の要求に応じたのではなく、学術研究の反映であると説明した。同年の検定意見では「任那日本府説」の是非に絡む「倭日本は加羅を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述にも検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」(日本経済新聞2002年4月10日朝刊)と説明した。


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