玉林師範学院日本語科 2014年3月21日pm7:30
文 学 の 影 響
―中国文学が日本古典文学に対する―
中国文学と日本文学は相互に影響しあいました。中日交通史においては長く、漢文学から日本古典文学に対して、その文学の享受があり、そこに文学の影響が実現しています。その漢文学をいま中国文学とし日本文学を古典文学として、その影響を簡明に説きおこそうとすると、やはり文学とはなにものか、影響とはどうすることかを考えることになります。漢文学は言語はもとより、政治、社会、思想、規律、文化にわたって多くを日本にもたらしました。古典文学はそれを受容して実現したのは何だったのでしょうか。わたしはそれを学び続け、問い直して、より確かにしていくことが、大切なことだと思います。
1 文学はなにものか
中国文学は日本文学を享受したが、古典文学は漢文学を享受し、その影響を表した
日本文学は古典文学、近代文学、現代文学にわかれ、さらには漢文学の流れがある。
日本古典文学は、7世紀から19世紀までの時間を主に指し示し、内容としては各分野に及ぶ。
叢書には日本古典文学大系、日本古典文学全集、日本古典集成、そして日本古典全書がある。
古典文学には歴史記録、物語作品、詞華集、漢文漢詩、説話伝承、政治思想、芸能脚本など。
2 影響とは近代文学にあらわされた
近代以降に文明開化で文学の主義、西洋からのロマン主義が影響し、ついで自然主義が流行した。
日本文学の思潮ははじめに社会思想とも関係し啓蒙主義に続き写実主義、ロマン主義と展開した。
自然主義の流れが反自然主義に展開し、耽美派、高踏および余裕の理智派、新感覚主義などとなる。
白樺派、新現実主義となって、登場するのが、モダニズム、また、プロレタリアート文学であった。
漢文学は近代に入っても日本文学に浸透し、漢文訓読をした日本語に20世紀半ばまで影響し続けた。
3 古典文学の影響
論語先進篇に孔子が弟子を才能別に分けた孔門四科があり、徳行、言語、政事、そして文学とある。
五世紀、南朝、劉宋の文帝が建てた四学である儒学、玄学、史学、文学に、この文学の語がある。
懐風藻は、現存する最古の日本漢詩集で、奈良時代、天平勝宝三年(751年)の序文がある。
日本の古代思想には儒教と仏教が同時に漢籍として移入し、政治と社会体制に著しく実現した。
文学の活動は詞華集の編纂、歴史書の記述に影響があり、とくに日本の漢文学として開花した。
六朝文学の文選、唐代の白氏文集などを、漢文学では漢詩集、仮名文学では源氏物語に享受した。
4 文章経国
三国時代の魏の文帝、曹丕の言葉に、文章経国大業、不朽之盛事とあり、文選に典論が採録された。
嵯峨天皇、弘仁年間810年から824年まで大学寮にて漢文学や中国正史を扱う紀伝道の向上を図る。
日本文学史、平安初期には漢風を謳歌した、弘仁・天長期を漢風謳歌時代と呼ぶ学説がある。
小島憲之 國風暗黒時代の文學
漢詩文集
凌雲集 :勅撰の漢詩文集 平安時代初期、弘仁五年 814年 嵯峨天皇の命
文華秀麗集 :勅撰の漢詩文集 弘仁九年 818年 嵯峨天皇の命 凌雲集に続く
経国集 :勅撰の漢詩文集 天長四年 827年 淳和天皇の命
性霊集 :空海 774年‐835年 漢詩を弟子の真済が編纂した漢詩文集 成立年不詳
菅家文草 :菅原道真 845年‐903年 編纂の漢詩文集
全12巻 900年 大宰府での作品を集めた、菅家後集 903年頃 がある
史書 類聚国史 :菅原道真編纂の勅撰史書 六国史を分類再編集した 892年
中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜書きして分類編纂することが広く行われ、これを類書と称した。この書もまた、類書の形態を踏襲。
詩論 文鏡秘府論 :空海による漢詩文の評論書 平安時代前期に編纂された文学理論書
中国の六朝期から唐朝に至る詩文の創作理論を取りまとめたもので、唐代中期の長安に留学した空海が、帰国後、日本の弘仁年間に完成させたとされる。空海は、延暦十一年、792年、十八歳で大学寮に入り、その専攻は明経道で春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝える。
説話集 日本霊異記 :景戒編纂の仏教説話集 弘仁十三年 822年 日本国現報善悪霊異記
平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集、略して呼ぶことが多い。変則的な漢文。
5 漢詩への影響
島田忠臣 828年-892年 平安時代前期の官吏であり、漢詩人として、田氏家集を著わした。
天長五年生まれ。島田清田の孫。少外記、大宰少弐、典薬頭などを歴任。貞観元年、859年と元慶七年、883年に渤海国使の応接にあたる。自由で平明な作風で、屏風詩、奉祝年調、詠史詩など、白居易の詩や六朝詩の影響がある。詩集、田氏家集がある。寛平四年死去。65歳。
号は田達音。なお、島田忠臣の娘の宣来子は菅原道真の正室になった。
田氏家集注 注釈 29番 寒食踏行 32番 病後閑座偶吟所懐 33番 七月一日
6 白楽天の受容
東方社会哲学国際学術研討会に出席して、2001年7月、北戴河度假地において、報告を行った。
中華文化研究奨学金を受けて、1999年3月に南開大学中文系に研究留学をした。その折、孫昌武教授から研究指導を受け、孫教授の著作『禅思と詩情』(中華書局1997.8)に触れる機会を得た。そして、この著作を通し、白居易文学の影響についてそれまで私が抱いていた問題点の解決をすることができるという、研究留学の多大な成果をあげることが出来た。
この発表の機会を与えられたので、孫教授の学説を祖述して報告としたい。その内容を次の点にまとめることができる。
(1) 白居易の詩想は禅思想に拠るところがある。その禅とは洪州禅の馬祖道一がとなえた「平常心是道」の理念にあり、禅は白氏における人生の実践でもあった。
(2) 白居易の文学作品には禅宗とのかかわりを証明する内容がある。それは禅の思想を詩句にあらわすこと、また宗教結社との交わりを詩に読み取ることなど証明できるからである。
(3) 白居易の思想には中国の古代思想である儒教、道教、仏教の三教をとらえるのが研究者のこれまでの説である。とくに「兼済」「独善」の語句を用いて詩作の動機を述べ、白居易は詩の実践を行った。また「知足保和」を唱えて詩作を思いのままに遂げようとした一面もあり、その一方で「狂言奇語」とした願文に見る思想は、研究者の議論が分かれるところであった。しかし、この仏教の思想については上述の1,2のごとく明らかにされる点が、今日の課題としてある。
(4) 白居易の文学の理解は白詩の四分類のうち、諷諭詩を第一とし閑適詩や感傷詩を第二のものとするのが常であるが、この詩作の実行は白居易の詩想にかかわると考えられる。つまり、文学的評価とは別にして感傷詩に自らが入れた「長恨歌」に代表されるような、白氏の感傷の思いに、白氏の考えとは裏腹にも文学的な影響の大きさがあらわれたのである。
(5) 人人が好む閑適の詩は、白居易の生涯の詩作の詩想のうちに大きな意味がこめられることになったのではないか。それは禅の思想への傾倒が詩作にもあらわれて、平常心こそが詩作の動機となったと考える。
(6) 日本文学に受容した白居易の文学の偉大さは、日本文学のさまざまな作品に表れていて、研究者に指摘されているとおりである。詩語の受容を「白詩語」と見る分析は、俗語などの使用をはじめ日本漢詩に影響したし、漢詩の発想は白居易の詩を入れて自然の諷詠におよび詩の材料を広げた。さかんに朗詠に使われたりしたので、白居易は人々に愛されたのである。
(7) 日本文化の中で、禅の思想の中国からの移入は日本歴史の中世以降とされるが、白居易に禅の思想が表れていたことを指摘し、平安朝の時期にその思想を表した白居易の詩が受け入れられたと分析する研究はまだない。
以上、私が分析する白居易の詩想と禅の実行は、日本文化に影響することがなかったと結論できる。少なくとも表層では文学の受容において「平常心是道」を見ることはない。
(本稿は中華文化研究奨学金による報告論文である。研究留学を果たすことができ、中国政府並びに国家教育委員会にお礼を申します。南開大学中文系、孫昌武教授に研究指導を受けました。記して、感謝を申し上げます。 千九百九十九年四月七日 天津にて )
7 源氏物語への影響
日本古典文学の作品に中国文学が影響したとする研究および学説は数多、見られるところである。
文学の影響として、中国文学が日本古典文学に対する影響として、なにを受け容れ、表わしたか。
その典型は平安時代、十一世紀の物語文学の代表作品、紫式部による源氏物語に見える。
紫式部が物語の内容に白楽天の長恨歌を取り入れ、それを桐壷の巻にあらわしたことを指摘する。
さきの報告で述べたことは、影響とは、文学の創造、それは想像にあるということである。
「源氏物語」と「白氏文集」の関係は「桐壷」と「長恨歌」の関係にあり、これは、多くの研究者に指摘され分析されている。発表者は1984年に西安の華清池を訪れた折、西安の温泉池では当然のことといえ、中国の人々が「長恨歌」に想像して描いた楊貴妃の姿、石碑に描かれた芙蓉に紛う艶やかさを知った。そして「源氏物語」に登場する桐壷更衣とのあまりの懸隔に思いを致し、自己の迂闊さを了解した。読者は「長恨歌」に惹かれ、物語にイメージを抱くのに、その想像は一枚の出浴の図にも及ばない。
白居易の研究が行われるなかで、「長恨歌」についての評価には問題がある。白詩の四分類に諷諭詩、閑適詩、感傷詩、雑律詩があるなかで、白居易自身が「長恨歌」を感傷詩に入れたことをめぐって議論があり、この詩そのものの文学の価値について、白氏による分類と、後世の読者がどのように受容したかを見直そうとする。
新楽府の価値を重んじ、「長恨歌」をその系列に理解するのが一般論とする立場と、白居易が感傷詩に退けた叙情性を強調した受け止め方があって、決着はつきそうにない。文学の内容について言えば、議論が政治性に傾くので、「長恨歌」の評価によって白居易の文学そのものの批判へと連なるからである。読者によって決めればよいとするテクスト論もあり、白詩の思想にそった理解と説明が重要課題となっている。
これを「源氏物語」の受容の議論として見れば、諷諭性を摂取し、感傷性を筋立てとしたと言うことができる。物語作者、紫式部にとっては、読み込んだ「長恨歌」の筋立てから、物語に傾国の美人を造形することにあったのである。白詩の正当な理解を作者がしていたと言うことができる。目を側める大臣たちの傾城の筋立てよりも、楊貴妃を求め続け、道士が方術を使って簪を持ちかえる展開に物語テクストの重点があった。
源氏物語は、桐壷更衣の形見を如何にして帝に届けるかが関心事であるし、桐壺の首巻では皇子を物語でどう誕生させていくか、そして高麗の相人の予言をいかに描くか、物語の展開に作者は腐心したのであった。長恨歌を深く読み込んで道士の方術が叙情として再生され、作者は見事に源氏の物語の叙述のなかに表現したのである。
長恨歌から人々に好まれた詩句は、日本では「太液芙蓉未央柳」「芙蓉如面柳如眉」、さらに「比翼連理」とであったようである。しかし、源氏物語で「夕殿蛍飛思悄然、孤灯挑尽未成眠」の句に作者が表現を選んだように、この句に情緒を動かすかどうか、興味のあるところである。まして、さきの掉尾を飾る「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(白氏文集、巻第十二)」にある「比翼連理」とだけ歎賞していては、「天長地久有時尽 此恨綿綿無尽期」とある「長恨」が伝わらないではないか。
以 上
文 学 の 影 響
―中国文学が日本古典文学に対する―
中国文学と日本文学は相互に影響しあいました。中日交通史においては長く、漢文学から日本古典文学に対して、その文学の享受があり、そこに文学の影響が実現しています。その漢文学をいま中国文学とし日本文学を古典文学として、その影響を簡明に説きおこそうとすると、やはり文学とはなにものか、影響とはどうすることかを考えることになります。漢文学は言語はもとより、政治、社会、思想、規律、文化にわたって多くを日本にもたらしました。古典文学はそれを受容して実現したのは何だったのでしょうか。わたしはそれを学び続け、問い直して、より確かにしていくことが、大切なことだと思います。
1 文学はなにものか
中国文学は日本文学を享受したが、古典文学は漢文学を享受し、その影響を表した
日本文学は古典文学、近代文学、現代文学にわかれ、さらには漢文学の流れがある。
日本古典文学は、7世紀から19世紀までの時間を主に指し示し、内容としては各分野に及ぶ。
叢書には日本古典文学大系、日本古典文学全集、日本古典集成、そして日本古典全書がある。
古典文学には歴史記録、物語作品、詞華集、漢文漢詩、説話伝承、政治思想、芸能脚本など。
2 影響とは近代文学にあらわされた
近代以降に文明開化で文学の主義、西洋からのロマン主義が影響し、ついで自然主義が流行した。
日本文学の思潮ははじめに社会思想とも関係し啓蒙主義に続き写実主義、ロマン主義と展開した。
自然主義の流れが反自然主義に展開し、耽美派、高踏および余裕の理智派、新感覚主義などとなる。
白樺派、新現実主義となって、登場するのが、モダニズム、また、プロレタリアート文学であった。
漢文学は近代に入っても日本文学に浸透し、漢文訓読をした日本語に20世紀半ばまで影響し続けた。
3 古典文学の影響
論語先進篇に孔子が弟子を才能別に分けた孔門四科があり、徳行、言語、政事、そして文学とある。
五世紀、南朝、劉宋の文帝が建てた四学である儒学、玄学、史学、文学に、この文学の語がある。
懐風藻は、現存する最古の日本漢詩集で、奈良時代、天平勝宝三年(751年)の序文がある。
日本の古代思想には儒教と仏教が同時に漢籍として移入し、政治と社会体制に著しく実現した。
文学の活動は詞華集の編纂、歴史書の記述に影響があり、とくに日本の漢文学として開花した。
六朝文学の文選、唐代の白氏文集などを、漢文学では漢詩集、仮名文学では源氏物語に享受した。
4 文章経国
三国時代の魏の文帝、曹丕の言葉に、文章経国大業、不朽之盛事とあり、文選に典論が採録された。
嵯峨天皇、弘仁年間810年から824年まで大学寮にて漢文学や中国正史を扱う紀伝道の向上を図る。
日本文学史、平安初期には漢風を謳歌した、弘仁・天長期を漢風謳歌時代と呼ぶ学説がある。
小島憲之 國風暗黒時代の文學
漢詩文集
凌雲集 :勅撰の漢詩文集 平安時代初期、弘仁五年 814年 嵯峨天皇の命
文華秀麗集 :勅撰の漢詩文集 弘仁九年 818年 嵯峨天皇の命 凌雲集に続く
経国集 :勅撰の漢詩文集 天長四年 827年 淳和天皇の命
性霊集 :空海 774年‐835年 漢詩を弟子の真済が編纂した漢詩文集 成立年不詳
菅家文草 :菅原道真 845年‐903年 編纂の漢詩文集
全12巻 900年 大宰府での作品を集めた、菅家後集 903年頃 がある
史書 類聚国史 :菅原道真編纂の勅撰史書 六国史を分類再編集した 892年
中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜書きして分類編纂することが広く行われ、これを類書と称した。この書もまた、類書の形態を踏襲。
詩論 文鏡秘府論 :空海による漢詩文の評論書 平安時代前期に編纂された文学理論書
中国の六朝期から唐朝に至る詩文の創作理論を取りまとめたもので、唐代中期の長安に留学した空海が、帰国後、日本の弘仁年間に完成させたとされる。空海は、延暦十一年、792年、十八歳で大学寮に入り、その専攻は明経道で春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝える。
説話集 日本霊異記 :景戒編纂の仏教説話集 弘仁十三年 822年 日本国現報善悪霊異記
平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集、略して呼ぶことが多い。変則的な漢文。
5 漢詩への影響
島田忠臣 828年-892年 平安時代前期の官吏であり、漢詩人として、田氏家集を著わした。
天長五年生まれ。島田清田の孫。少外記、大宰少弐、典薬頭などを歴任。貞観元年、859年と元慶七年、883年に渤海国使の応接にあたる。自由で平明な作風で、屏風詩、奉祝年調、詠史詩など、白居易の詩や六朝詩の影響がある。詩集、田氏家集がある。寛平四年死去。65歳。
号は田達音。なお、島田忠臣の娘の宣来子は菅原道真の正室になった。
田氏家集注 注釈 29番 寒食踏行 32番 病後閑座偶吟所懐 33番 七月一日
6 白楽天の受容
東方社会哲学国際学術研討会に出席して、2001年7月、北戴河度假地において、報告を行った。
中華文化研究奨学金を受けて、1999年3月に南開大学中文系に研究留学をした。その折、孫昌武教授から研究指導を受け、孫教授の著作『禅思と詩情』(中華書局1997.8)に触れる機会を得た。そして、この著作を通し、白居易文学の影響についてそれまで私が抱いていた問題点の解決をすることができるという、研究留学の多大な成果をあげることが出来た。
この発表の機会を与えられたので、孫教授の学説を祖述して報告としたい。その内容を次の点にまとめることができる。
(1) 白居易の詩想は禅思想に拠るところがある。その禅とは洪州禅の馬祖道一がとなえた「平常心是道」の理念にあり、禅は白氏における人生の実践でもあった。
(2) 白居易の文学作品には禅宗とのかかわりを証明する内容がある。それは禅の思想を詩句にあらわすこと、また宗教結社との交わりを詩に読み取ることなど証明できるからである。
(3) 白居易の思想には中国の古代思想である儒教、道教、仏教の三教をとらえるのが研究者のこれまでの説である。とくに「兼済」「独善」の語句を用いて詩作の動機を述べ、白居易は詩の実践を行った。また「知足保和」を唱えて詩作を思いのままに遂げようとした一面もあり、その一方で「狂言奇語」とした願文に見る思想は、研究者の議論が分かれるところであった。しかし、この仏教の思想については上述の1,2のごとく明らかにされる点が、今日の課題としてある。
(4) 白居易の文学の理解は白詩の四分類のうち、諷諭詩を第一とし閑適詩や感傷詩を第二のものとするのが常であるが、この詩作の実行は白居易の詩想にかかわると考えられる。つまり、文学的評価とは別にして感傷詩に自らが入れた「長恨歌」に代表されるような、白氏の感傷の思いに、白氏の考えとは裏腹にも文学的な影響の大きさがあらわれたのである。
(5) 人人が好む閑適の詩は、白居易の生涯の詩作の詩想のうちに大きな意味がこめられることになったのではないか。それは禅の思想への傾倒が詩作にもあらわれて、平常心こそが詩作の動機となったと考える。
(6) 日本文学に受容した白居易の文学の偉大さは、日本文学のさまざまな作品に表れていて、研究者に指摘されているとおりである。詩語の受容を「白詩語」と見る分析は、俗語などの使用をはじめ日本漢詩に影響したし、漢詩の発想は白居易の詩を入れて自然の諷詠におよび詩の材料を広げた。さかんに朗詠に使われたりしたので、白居易は人々に愛されたのである。
(7) 日本文化の中で、禅の思想の中国からの移入は日本歴史の中世以降とされるが、白居易に禅の思想が表れていたことを指摘し、平安朝の時期にその思想を表した白居易の詩が受け入れられたと分析する研究はまだない。
以上、私が分析する白居易の詩想と禅の実行は、日本文化に影響することがなかったと結論できる。少なくとも表層では文学の受容において「平常心是道」を見ることはない。
(本稿は中華文化研究奨学金による報告論文である。研究留学を果たすことができ、中国政府並びに国家教育委員会にお礼を申します。南開大学中文系、孫昌武教授に研究指導を受けました。記して、感謝を申し上げます。 千九百九十九年四月七日 天津にて )
7 源氏物語への影響
日本古典文学の作品に中国文学が影響したとする研究および学説は数多、見られるところである。
文学の影響として、中国文学が日本古典文学に対する影響として、なにを受け容れ、表わしたか。
その典型は平安時代、十一世紀の物語文学の代表作品、紫式部による源氏物語に見える。
紫式部が物語の内容に白楽天の長恨歌を取り入れ、それを桐壷の巻にあらわしたことを指摘する。
さきの報告で述べたことは、影響とは、文学の創造、それは想像にあるということである。
「源氏物語」と「白氏文集」の関係は「桐壷」と「長恨歌」の関係にあり、これは、多くの研究者に指摘され分析されている。発表者は1984年に西安の華清池を訪れた折、西安の温泉池では当然のことといえ、中国の人々が「長恨歌」に想像して描いた楊貴妃の姿、石碑に描かれた芙蓉に紛う艶やかさを知った。そして「源氏物語」に登場する桐壷更衣とのあまりの懸隔に思いを致し、自己の迂闊さを了解した。読者は「長恨歌」に惹かれ、物語にイメージを抱くのに、その想像は一枚の出浴の図にも及ばない。
白居易の研究が行われるなかで、「長恨歌」についての評価には問題がある。白詩の四分類に諷諭詩、閑適詩、感傷詩、雑律詩があるなかで、白居易自身が「長恨歌」を感傷詩に入れたことをめぐって議論があり、この詩そのものの文学の価値について、白氏による分類と、後世の読者がどのように受容したかを見直そうとする。
新楽府の価値を重んじ、「長恨歌」をその系列に理解するのが一般論とする立場と、白居易が感傷詩に退けた叙情性を強調した受け止め方があって、決着はつきそうにない。文学の内容について言えば、議論が政治性に傾くので、「長恨歌」の評価によって白居易の文学そのものの批判へと連なるからである。読者によって決めればよいとするテクスト論もあり、白詩の思想にそった理解と説明が重要課題となっている。
これを「源氏物語」の受容の議論として見れば、諷諭性を摂取し、感傷性を筋立てとしたと言うことができる。物語作者、紫式部にとっては、読み込んだ「長恨歌」の筋立てから、物語に傾国の美人を造形することにあったのである。白詩の正当な理解を作者がしていたと言うことができる。目を側める大臣たちの傾城の筋立てよりも、楊貴妃を求め続け、道士が方術を使って簪を持ちかえる展開に物語テクストの重点があった。
源氏物語は、桐壷更衣の形見を如何にして帝に届けるかが関心事であるし、桐壺の首巻では皇子を物語でどう誕生させていくか、そして高麗の相人の予言をいかに描くか、物語の展開に作者は腐心したのであった。長恨歌を深く読み込んで道士の方術が叙情として再生され、作者は見事に源氏の物語の叙述のなかに表現したのである。
長恨歌から人々に好まれた詩句は、日本では「太液芙蓉未央柳」「芙蓉如面柳如眉」、さらに「比翼連理」とであったようである。しかし、源氏物語で「夕殿蛍飛思悄然、孤灯挑尽未成眠」の句に作者が表現を選んだように、この句に情緒を動かすかどうか、興味のあるところである。まして、さきの掉尾を飾る「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(白氏文集、巻第十二)」にある「比翼連理」とだけ歎賞していては、「天長地久有時尽 此恨綿綿無尽期」とある「長恨」が伝わらないではないか。
以 上