さかしらにことだてるものではないが歴史認識という語の使いようが違うのではないかと思い続ける。歴史に対する認識のありようと言うことで日本国内でのその認識は、第2次世界大戦に至る過程と大戦そのものをどのように認識するのか、という問題ともとらえられて、知恵蔵2013にある解説のように、歴史認識の具体的問題といえる教科書問題と靖国神社参拝問題になってしまっている、なってしまっているというのは、それが繰り返されるようになったので、ともすればいまさらに歴史事件を認識するといった時間が戻らないにもかかわらずそれを議論をするはめになっている。
だから正しく認識せよと言われ続けるのだろうし、言う方も可逆的な結果にならないよう要求することになる。はたして歴史認識とはそういう問題であろうかと考えて、ふと気づいたことがあって、それは文明の生態史観をさぐってその学説から文明史における歴史認識の議論があることにたどり着いて、そういうことであったかと思った。トインビーによれば歴史認識はセオリーとしてある。歴史認識そのものは明らかなことだと思われる。
原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒近代資本制⇒共産制 マルクス主義の唯物史観
だから正しく認識せよと言われ続けるのだろうし、言う方も可逆的な結果にならないよう要求することになる。はたして歴史認識とはそういう問題であろうかと考えて、ふと気づいたことがあって、それは文明の生態史観をさぐってその学説から文明史における歴史認識の議論があることにたどり着いて、そういうことであったかと思った。トインビーによれば歴史認識はセオリーとしてある。歴史認識そのものは明らかなことだと思われる。
原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒近代資本制⇒共産制 マルクス主義の唯物史観