唐本ともいう、中国から舶載した書物である、漢籍の目録がある。日本国見在書目録、日本に伝来した書物を目録にしたものの、その書名によることができる。891年、寛平3年ころ成立、藤原佐世 すけよ の撰になる。40家に分類され,1579部,1万6790巻を載せる。
>日本に初めて漢文が入ってきたのがいつかということをはっきり定めることはできない。しかし、『後漢書』には、57年に倭の奴国が後漢の光武帝に使して、光武帝により、奴国の君主が倭奴国王に冊封され金印を綬与されたという記事があり、江戸時代に発見された金印には「漢委奴国王」という漢字が刻まれていた。この記事からすると、当時の倭国の人々が全く漢文が分からなかったとは考え難い。
>当時の渡来人達が様々な技術を日本にもたらした事実に関しては疑いのないところであり、そうした技術をもたらした人々全てが非識字者であったとは考えにくい。名前が今日伝わらなくても、文字を読解し筆記するだけの知識を有した人が日本へ移り住んだ人の中には当然に存在し、その知識が一種の技術として日本側に受け入れられていったと考えた方がより適切である。
この記事は、漢文が入ってきたころは、渡来系の氏族が書記の任務にあたっていたということ、倭国土着の豪族たちは、渡来人たちに書記の仕事をさせていたということを示しているのである。また、『日本書紀』の記事で菟道稚郎子が漢文を習ったと書かれているように、非渡来系の豪族も、渡来系氏族から漢字・漢文を学んでいったと考えられている。このような導入されたばかりの時期の漢文は、中国本土の正則漢文の文法に従い、声調なども用いた中国語の発音に従って読んでいたと考えられている。
ウイキペディア 漢文
>
黄河流域に発生した黄河文明は、言語を筆記する文字として漢字を生み、漢字で文字記録を行う文化を発達させた。ところが、漢字は異なる言語を用いる複数の文化集団によって受容されたため、漢字による文章を取り交わす圏内で共通の文語が形成されていった。これが、漢文の誕生であると言え、漢文を共通文語として用いる文化圏が、正に後の政治的統一中国の原型となった。最初の長期安定統一政権たる漢代には中央と地方との文書のやり取りの中で漢文法が確立し、以降中国ではこの漢代の伝統的な文法に従って、文章が書かれていくことになり、時代や地域によって口語は多様だったにもかかわらず、文語である漢文の文法上の変化は少なかった。普通「漢文」というと、このような伝統的な文法に従っているもの(正則漢文)を指す。
また、漢文で書かれた中国の書物は漢籍と言う。そこには現代中国の書籍は含まない。
20世紀初頭には、中国では魯迅らの働きによって、正則漢文を捨てて話し言葉の文体が試みられた。ここに、現代中国語文が確立した。現代中国語文も、漢字を並べて書くという点では従来の漢文と異ならないが、一種の変体漢文であり、文法的には漢文と大きく異なるようになった。それゆえ、現代中国語文を漢文と呼ぶことはまずない。なお、現代中国では「漢文」は日本で言うところの漢文のほか、白話文、現代中国語文など漢民族の書記言語の総称として用いられ、日本語の「漢文」に相当する語は文言文(単に文言とも)である。これはちょうど日本人が変体漢文を正則漢文と区別しないのと似ている。日中いずれの場合も漢文を自己の属する文化のものと見なしている。日本の高等学校の漢文も国語科の一つである。
中華人民共和国成立以降は、正則漢文で文章が書かれることは、滅多になくなった。たとえ正則漢文を真似る場合でも、口語の影響で崩れた漢文がほとんどである。
定義と範囲
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる。
現存する白話の文献としては唐以後の禅家の語録(『碧巌録』など)が最初であり、つづいて宋代の儒家の語録、元代の演劇の脚本、明代以降の白話小説が現れる。20世紀初めまで中国における文章は、その白話が5%、文言が95%という比率であったが、現在では逆に白話が95%、文言が5%となっている。これは1910年代に行われた白話運動(胡適による理論と魯迅による実践)という変革の結果であり、白話文が近代文学の文体となっている
純漢文
古代中国の古典文語文法で書かれたもの。純粋漢文、正則漢文とも。現代中国では「文言文」と呼ぶ。
変体漢文
それ以外の変則的な文法の漢字文章。普通話や國語といった現代中国語文(現代中国では「漢文」〔簡体字:汉文〕と呼ぶ)やその諸方言文、白話体、日本独自の和習や万葉仮名を含んだ漢文および漢字のみの日本語文、新羅・高句麗の語習を多く含んだ碑文など。
漢籍伝来
白楽天の詩歌と日本
静永健 著
第一部 漢籍のきた道
最初に漢籍を読んだ日本人、菟道稚郎子/悲劇の皇子、菟道稚郎子の最期/『白氏文集』の衝撃
第二部 かぐや姫のくにへ
平安文人たちと『白氏文集』/月を仰ぎ見る妻へ―白居易下ケイ贈内詩考―(ケイは、「圭」+「おおざと」)/『竹取物語』は何処から来たか
第三部 紅葉を愛でる人々
「黄葉」が「紅葉」にかわるまで/菅家廊下の渡来人/菅原道真の漢詩表現と中国語/家から出ない日の詩歌
第四部 日本人の古典、白楽天
日中古典文学の「国境」/日本人の好きな漢詩/十三世紀の『白氏文集』―藤原定家と高麗文人李奎報とにおける書誌的考察―/白楽天、仏教徒になれなかった詩人
エピローグ
漢詩の色―杜甫と白居易の詩から―
附録 白居易年譜略/あとがき/引用詩文・事項索引
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
日本国見在書目録
にほんこくげんざいしょもくろく
>
勅撰の最も古い漢籍目録。1巻。藤原佐世撰。成立は寛平3 (891) 年頃とみられる。 40家に分類され,1579部,1万 6790巻を収め,なかには隋,唐の目録にみえない漢籍も少くない。現存のものは抄略本である。
百科事典マイペディアの解説
日本国見在書目録【にほんこくげんざいしょもくろく】
>
日本最古の漢籍目録。1巻。藤原佐世撰。成立は891年ころ。当時日本に〈見在〉つまり現存していた漢籍を記載。書目は約1580部1万7000巻近い。ただし現存するものは抄本。
世界大百科事典 第2版の解説
にほんこくげんざいしょもくろく【日本国見在書目録】
>
藤原佐世(すけよ)の撰になる日本最古の漢籍目録。1巻。891年(寛平3)ころ成立。〈見在〉とは現存の意で,当時日本にあった漢籍の目録であるが,一部国書が混じる。875年(貞観17)冷然院が焼けて累世の書物の多くを失ったことが編纂の契機となったとの説もある。《隋書》経籍志にならったと思われる分類で,約1580部1万7000巻近くの書籍を,易家,尚書家,詩家など40家に分けて記載。中国では散逸して本書によってのみ知られるものもあり,書誌学上,文献学上貴重な資料となっている。
>日本に初めて漢文が入ってきたのがいつかということをはっきり定めることはできない。しかし、『後漢書』には、57年に倭の奴国が後漢の光武帝に使して、光武帝により、奴国の君主が倭奴国王に冊封され金印を綬与されたという記事があり、江戸時代に発見された金印には「漢委奴国王」という漢字が刻まれていた。この記事からすると、当時の倭国の人々が全く漢文が分からなかったとは考え難い。
>当時の渡来人達が様々な技術を日本にもたらした事実に関しては疑いのないところであり、そうした技術をもたらした人々全てが非識字者であったとは考えにくい。名前が今日伝わらなくても、文字を読解し筆記するだけの知識を有した人が日本へ移り住んだ人の中には当然に存在し、その知識が一種の技術として日本側に受け入れられていったと考えた方がより適切である。
この記事は、漢文が入ってきたころは、渡来系の氏族が書記の任務にあたっていたということ、倭国土着の豪族たちは、渡来人たちに書記の仕事をさせていたということを示しているのである。また、『日本書紀』の記事で菟道稚郎子が漢文を習ったと書かれているように、非渡来系の豪族も、渡来系氏族から漢字・漢文を学んでいったと考えられている。このような導入されたばかりの時期の漢文は、中国本土の正則漢文の文法に従い、声調なども用いた中国語の発音に従って読んでいたと考えられている。
ウイキペディア 漢文
>
黄河流域に発生した黄河文明は、言語を筆記する文字として漢字を生み、漢字で文字記録を行う文化を発達させた。ところが、漢字は異なる言語を用いる複数の文化集団によって受容されたため、漢字による文章を取り交わす圏内で共通の文語が形成されていった。これが、漢文の誕生であると言え、漢文を共通文語として用いる文化圏が、正に後の政治的統一中国の原型となった。最初の長期安定統一政権たる漢代には中央と地方との文書のやり取りの中で漢文法が確立し、以降中国ではこの漢代の伝統的な文法に従って、文章が書かれていくことになり、時代や地域によって口語は多様だったにもかかわらず、文語である漢文の文法上の変化は少なかった。普通「漢文」というと、このような伝統的な文法に従っているもの(正則漢文)を指す。
また、漢文で書かれた中国の書物は漢籍と言う。そこには現代中国の書籍は含まない。
20世紀初頭には、中国では魯迅らの働きによって、正則漢文を捨てて話し言葉の文体が試みられた。ここに、現代中国語文が確立した。現代中国語文も、漢字を並べて書くという点では従来の漢文と異ならないが、一種の変体漢文であり、文法的には漢文と大きく異なるようになった。それゆえ、現代中国語文を漢文と呼ぶことはまずない。なお、現代中国では「漢文」は日本で言うところの漢文のほか、白話文、現代中国語文など漢民族の書記言語の総称として用いられ、日本語の「漢文」に相当する語は文言文(単に文言とも)である。これはちょうど日本人が変体漢文を正則漢文と区別しないのと似ている。日中いずれの場合も漢文を自己の属する文化のものと見なしている。日本の高等学校の漢文も国語科の一つである。
中華人民共和国成立以降は、正則漢文で文章が書かれることは、滅多になくなった。たとえ正則漢文を真似る場合でも、口語の影響で崩れた漢文がほとんどである。
定義と範囲
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる。
現存する白話の文献としては唐以後の禅家の語録(『碧巌録』など)が最初であり、つづいて宋代の儒家の語録、元代の演劇の脚本、明代以降の白話小説が現れる。20世紀初めまで中国における文章は、その白話が5%、文言が95%という比率であったが、現在では逆に白話が95%、文言が5%となっている。これは1910年代に行われた白話運動(胡適による理論と魯迅による実践)という変革の結果であり、白話文が近代文学の文体となっている
純漢文
古代中国の古典文語文法で書かれたもの。純粋漢文、正則漢文とも。現代中国では「文言文」と呼ぶ。
変体漢文
それ以外の変則的な文法の漢字文章。普通話や國語といった現代中国語文(現代中国では「漢文」〔簡体字:汉文〕と呼ぶ)やその諸方言文、白話体、日本独自の和習や万葉仮名を含んだ漢文および漢字のみの日本語文、新羅・高句麗の語習を多く含んだ碑文など。
漢籍伝来
白楽天の詩歌と日本
静永健 著
第一部 漢籍のきた道
最初に漢籍を読んだ日本人、菟道稚郎子/悲劇の皇子、菟道稚郎子の最期/『白氏文集』の衝撃
第二部 かぐや姫のくにへ
平安文人たちと『白氏文集』/月を仰ぎ見る妻へ―白居易下ケイ贈内詩考―(ケイは、「圭」+「おおざと」)/『竹取物語』は何処から来たか
第三部 紅葉を愛でる人々
「黄葉」が「紅葉」にかわるまで/菅家廊下の渡来人/菅原道真の漢詩表現と中国語/家から出ない日の詩歌
第四部 日本人の古典、白楽天
日中古典文学の「国境」/日本人の好きな漢詩/十三世紀の『白氏文集』―藤原定家と高麗文人李奎報とにおける書誌的考察―/白楽天、仏教徒になれなかった詩人
エピローグ
漢詩の色―杜甫と白居易の詩から―
附録 白居易年譜略/あとがき/引用詩文・事項索引
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
日本国見在書目録
にほんこくげんざいしょもくろく
>
勅撰の最も古い漢籍目録。1巻。藤原佐世撰。成立は寛平3 (891) 年頃とみられる。 40家に分類され,1579部,1万 6790巻を収め,なかには隋,唐の目録にみえない漢籍も少くない。現存のものは抄略本である。
百科事典マイペディアの解説
日本国見在書目録【にほんこくげんざいしょもくろく】
>
日本最古の漢籍目録。1巻。藤原佐世撰。成立は891年ころ。当時日本に〈見在〉つまり現存していた漢籍を記載。書目は約1580部1万7000巻近い。ただし現存するものは抄本。
世界大百科事典 第2版の解説
にほんこくげんざいしょもくろく【日本国見在書目録】
>
藤原佐世(すけよ)の撰になる日本最古の漢籍目録。1巻。891年(寛平3)ころ成立。〈見在〉とは現存の意で,当時日本にあった漢籍の目録であるが,一部国書が混じる。875年(貞観17)冷然院が焼けて累世の書物の多くを失ったことが編纂の契機となったとの説もある。《隋書》経籍志にならったと思われる分類で,約1580部1万7000巻近くの書籍を,易家,尚書家,詩家など40家に分けて記載。中国では散逸して本書によってのみ知られるものもあり,書誌学上,文献学上貴重な資料となっている。