言葉の背景にあるものと言って、はて何がある、なんでもあるような、そこには歴史があるとして、時間と空間で考え合わせる。
大和によって統一国家となったと認めれば、それに見かけでも屈しているなら、それは大和と呼称することになるが、必ずしもそれをよしとしない、などと言うことがあるのだろうかと、朝廷に対する幕府による、征夷代将軍の国であったことで、征夷と言ってもそれははじめに授かったことによる、その後は同様に言うところの天の王と遣わされた将軍の国である。ここで天王といい、天皇をいただくことはよしとしなければ統一は果たされないが、近代になって天子様の御代となったとする民族の意識には、その時に大和であるよりはその前代の徳川幕府が将軍政治を返還したということになるので、日本がよいわけである。
日本がよいと言ってもそれはそれで長い歴史にあったのは、千年超の大和にくっついたヤマト即ち日本であるこの島にいた人たちであった。そこに正義としての軍事がまかり通るようになると、この空間に国の版図と言う拡大域に民族問題が内包されることになる。徳川幕府までですでに室町、安土桃山からその空間には支配欲のあらわれがなかったわけではない。ここでその地域を見ようとすることは四海を超えて、陸続きなら越境であるが、用意されたのは内紛を経ての軍隊の登場であるとすると、封土封建の武士は警護にあったった軍事であったから、変わりなく地域の他をも視野に入れるようになっていて、ことばとなるとその自立独立にさらされるようになって、民族のことか、ことばのことか、ハイブリッドとして言語はその極に至るようである。
ヤマトを良しとせず天の王にも唱えることになると日本はどうなるか。日本でもない、にほんにはならない、倭語と記録された言葉に戻っていく。
hybrid とは、なにか。