やりすぎとあやまちは、共に同じ過の字で、訓が違っている。
自分の見る所では、世の中の人で、何事でもやり過ぎる人は必ず過ちをしていると思 う。これが同じ字を用いたわけである。ところで、人事はむしろ及ばないことがあるにして も、過ぎることがあってはいけない。 言志晩録181 座右版 言志四緑588ページ
あること、こういうことがあった、それが起こってから、6週間が経過して今日を迎えた。ふと目にしたこの書に、言葉を見つける。
もうひとつ、心に中和を 言志後録103
心が平静で偏らずに正しければ、人の気持ちがみな自分のほうへ従ってくるが、心に中和を失っておれば、人の気持ちはみな自分に背いて離れていくものである。人が感心をするきっかけは自分の方にあるからして、人もわれも一体であると考え、人情にも道理にも通ずる人であって、初めて政治に関与することができる。
座右版 言志四緑298ページ
政治に関与するもの心得っである。
自分の見る所では、世の中の人で、何事でもやり過ぎる人は必ず過ちをしていると思 う。これが同じ字を用いたわけである。ところで、人事はむしろ及ばないことがあるにして も、過ぎることがあってはいけない。 言志晩録181 座右版 言志四緑588ページ
あること、こういうことがあった、それが起こってから、6週間が経過して今日を迎えた。ふと目にしたこの書に、言葉を見つける。
もうひとつ、心に中和を 言志後録103
心が平静で偏らずに正しければ、人の気持ちがみな自分のほうへ従ってくるが、心に中和を失っておれば、人の気持ちはみな自分に背いて離れていくものである。人が感心をするきっかけは自分の方にあるからして、人もわれも一体であると考え、人情にも道理にも通ずる人であって、初めて政治に関与することができる。
座右版 言志四緑298ページ
政治に関与するもの心得っである。