橋本文法学説では形式重視という国語学の受け止め方である。それは議論の表現として便宜のまとめである。しかし、その音韻を重視する主義主張こそが、言語の音韻としての、国語の音韻論となる考え方があるので、そのままに学校文法を理論として言うのは、教科文法についても前提が理解されていないことになる。日本語教育で形態文法を扱うのは、教育手段となる分析では、その前提がある。構造言語学の根本である。
時枝文法学説の仮説は何を前提とするか、言語過程説とはどういうものか、議論をすることになる。国語学に文法学説の諸説を対象とする、その理解を単に、音韻、形式重視とのまとめには何があるか。
それを知ることになるので、その前提に対して、形式が形態になりうるのは、日本語話者が言語として意味を持って用いているものだからで、そこに分析するために文法意味がないという批判は全くナンセンスなことである。山田学説には何があり、松下学説には何があり、渡辺実学説には何があるか。
はて、三上章学説、寺村秀夫学説には、言語本質観、文法観があったのだろうか。学校文法批判の批判を考えなければならない。
国文法批判の批判をすることになる。教科文法、学校文法の解説をもって文法学説のように批判をするのは、いささか、気が引ける。そこに文法理論があるのかどうかを学校文法批判はその批判をしないままに、生産的議論を作ってこなかった。言い換えれば、学校文法に対する、曲解がまかり通り、その批判の形をとって表れる議論の根本的な誤謬である。教育文法の論議ならばそれを認めることにもなるかもしれないが、そこには実践者の苦悩を見るだけになる。その論文をここに紹介するが、ここにある学校文法批判者はわたしの良く知る人であり、思い起こせば某雑談会のメンバーとして1970年代半ばの議論からよく知るものである。名を伏せることもないが、それだけに学校文法批判には、よく知る人が議論する、この日本語学の一文を読んだときにもこれではいけない、これをもって教育学部教員養成でやってはいけないことになると感じたものである。日本語学からの直接引用ではなくて、百留さんのダイジェストによる文章からお借りするのも、学校文法の批判の批判は聞く耳を持たれることではない。
『日本語学』1997年4月号の議論を、百留論文がダイジェストするのを解説として引用する。
file:///C:/Users/ymk5/Downloads/b0130044B008.pdf
島根大学教育学部紀要 第44巻別冊 55頁~63頁 平成23年2月
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島根大学教育学部言語文化教育講座
国語の授業と日本語文法
百留康晴
はじめに
学校教育における国語の授業での文法学習は暗記中心で文法嫌いを生んでいる観がある。 しかし, 暗記だけに終わらせず, 言葉の文中での意味に着目し, その背後にある文法を考えさせることは, 文章のよりよい読みや日本語への新たな視点を育てる上で大きな効果が期待できる。 また抽象的な概念を取り扱うことにより思考力を高める効果も期待できるだろう。
そこで本論では国語の授業における文法学習の現状を整理し, 日本語学者による学校文法批判や島根大学教育学
部1年生30名に対して行った文法や文法の授業に関する意識調査の結果を基に文法教育の改善を検討したい。
1. 国語の授業における文法教育批判
国語学, 日本語学の立場からは以前から学校で教えられている文法, 学校文法への批判がある。 そこで, ここでは 「特集21世紀の学校文法」 と銘打たれた 『日本語学』1997年4月号から森山卓郎, 矢澤真人両氏の論文を取り上げ, 学校文法批判の一端を示したい。
まず, 全体的な視点から, 森山 (1997) は学校文法に見られる 「形」 の重視とそれに伴う意味の軽視を批判する。 森山は現行の学校文法の特性として 「形」 の重視という点を挙げ, その理由に, 「文を構成する基本的な単位である 「文節」 は, 発音する上での (ネ, サなどを入れることができる) 最小の 「句切れ」 として定義されている。 「文」 もまた意味的に 「一つの全いもの」 と定義されるが, 外形的に前後に 「音の切れ目がある」 ことが重要な特徴とされている」 という二点を指摘する。 「しかし, 考えてみれば, 意味的にまとまりがあるから音の句切れがあるのであり, あくまでも音の句切れは表面的現象でしかない。 実は学校文法では 「形」 の重視は外形に偏ったものであって, 逆に意味の軽視という欠点になっている」 と森山は批判する。
そして, 「学校文法でいう 「文法的分析」 は, 基本的に, 文節への分解と文節相互の関係づけ, そして単語への分解とその品詞分類が中心となっている。 したがって,語形態の分析には有効な側面もあるが, 意味的な関連はほとんど追究されない。 そのため, 文を学校文法で分析したとして, その理解が深まることはほとんど期待できない。 また, 学校文法が第二言語としての日本語教育に有益だということも聞かない。 実際のところ, 多くの教育現場においては, 現行の学校文法とは, 「文法的」 に分解すればどうなるかという, いわば文法のための文法になっており, そこに発展性や 「発見」 はないと言わざるを得ないのである」 と結論付けている。
矢澤 (1997) では, 「現在の教科文法である学校文法は, これまでにも数多くの問題点を指摘されながらも,大きな改変もなく伝えられてきた。 いくつかの実践的な試みを除き, 理論的な文法研究の立場から学校文法に対して行われた批判や改変意見は, いずれも十分には成功したとは言えないだろう」 と現状を整理し, 「21世紀の学校文法」 というテーマに関し, 「「21世紀の学校文法」というのは, 現在の学校文法にとって変わる教科文法を創り出すことを言うのであろうが, 教科文法に望まれる継続性と, 教科文法を取り巻く守旧性からすると, 現実的には, 根底的な改変はきわめて困難であろう」。 そして 「現在の学校文法の修正の方がより現実的な選択だろう」 と述べる。
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森山は現行の学校文法の特性として 「形」 の重視という点を挙げ, その理由に, 「文を構成する基本的な単位である 「文節」 は, 発音する上での (ネ, サなどを入れることができる) 最小の 「句切れ」 として定義されている。 「文」 もまた意味的に 「一つの全いもの」 と定義されるが, 外形的に前後に 「音の切れ目がある」 ことが重要な特徴とされている」 という二点を指摘する。 「しかし, 考えてみれば, 意味的にまとまりがあるから音の句切れがあるのであり, あくまでも音の句切れは表面的現象でしかない。 実は学校文法では 「形」 の重視は外形に偏ったものであって, 逆に意味の軽視という欠点になっている」 と森山は批判,「学校文法でいう 「文法的分析」 は, 基本的に, 文節への分解と文節相互の関係づけ, そして単語への分解とその品詞分類が中心となっている。 したがって,語形態の分析には有効な側面もあるが, 意味的な関連はほとんど追究されない。 そのため, 文を学校文法で分析したとして, その理解が深まることはほとんど期待できない。 また, 学校文法が第二言語としての日本語教育に有益だということも聞かない。 実際のところ, 多くの教育現場においては, 現行の学校文法とは, 「文法的」 に分解すればどうなるかという, いわば文法のための文法になっており, そこに発展性や 「発見」 はないと言わざるを得ないのである」
>「文節」 は, 大まかにはアクセント上の単位にもなり,それなりの有効性も認めてよい」。 「しかし, 文節の関係
が表面的な音の切れ目でしかないにもかかわらず, それを構文論上の単位とする点には大きな問題が残る」 と批判する。そして 「例えば 「桜の花が」 では, 意味的には 「桜の花」 で一つのまとまりになり, その全体に 「が」 がくっついて, 「 [桜の花] が」 という関係になっている。 しかし, それを文節で区切るとなれば表面的に 「桜の/花が/」 と区切ることになり, 意味的な関係を反映しないことになる (連文節という概念は意味を取り入れようとするものだが, それでもこうした問題を繕うことはできない)」。 「さらにいわゆる 「補助」 の関係では, 文節と
いう単位は意味をなさなくなる。 例えば, 「壊れている」は 「壊れて/いる」 という二文節になるが, この文節の
区切りは, 例えば 「壊れても/いる」 のような形を説明するにすぎない。 「壊れる」 という 「動き」 が 「状態」
として把握されているという意味的なポイントが逃されるばかりか, 音声的にも実際まとまっているということ
が抜け落ちる (例えば 「壊れてる」 などという発音は普通)。 この分析はわれわれの言語直感から大きくずれた
「分析」 になってしまうのである」 と結論付ける。森山の指摘は文節という単位に対する批判として一般的なものであると考えられる。
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森山の指摘は文節という単位に対する批判として一般的なものであると考えられる。 構文を意味的な観点から
分析していこうとしたとき, 文節分けは適切ではない場合が出てくるのである。 そして文に対して機械的に文節分けを行わせ, それができるように訓練することは単なる暗記に陥り, 文法嫌いを生む原因となっている。このような問題に対して森山は 「むしろ, 形としてどう分解されるかというよりも, 例えば 「~ている」 という形式の意味と用法を取り上げる観点が必要である」 と述べ, 「この例で言えば, 「歩いている」 と 「壊れている」のように, 動きの性質によって 「~している」 の状態が進行中か結果かで違うということがある。 むしろ, こうした意味的問題こそが外国語の学習などにも直結する重要な問題である」 とする。また 「文の分析でも文節相互の関係が表面的に整理されることになっている。 例えば, 主語・述語の関係も表面的であり, 「水が飲みたい」 なども, 定義的には一応「主語」 になってしまう。 そのため, 主語の持つ特性(例えば 「~しよう」 などの述語との呼応, 尊敬語の敬意の目当て, 再帰代名詞の解釈, 構文を考える上での諸現象など) は明らかにされていない。 連用修飾の関係も雑多な内容が含まれており, 「本を読む」 も 「さっさと読む」 も 「ぜひ読んでください」 も連用修飾になる」 などの点が批判されている。
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さらに 「名詞や活用語に付いた場合はいい。 「このように」 のように, 連体詞に付く場合はさらに説明に困っ
てしまう。 連体詞は, もっぱら連体修飾語となる自立語であり, 連体修飾語は体言 (相当) の単語を含む文節を
修飾限定する文の成分である。 「こんなふうに」 なら,連体詞 「こんな」 が, 形式名詞 「ふう」 を含む文節を修
飾限定しているのだから問題ない。 しかし, 「このように」 の場合, 「この」 が連体修飾すべき体言 (相当) の
単語を含む文節がないのである。 教科書のどこにも, 連体詞の連体修飾機能をキャンセルする操作など記されて
いない」 とし, 文を文節に区切らせる時に生まれる, 矛盾, 不合理さを指摘する
森山卓郎 (1997) 「「形重視」 から 「意味重視」 の文法教
育へ―21世紀の学校文法へむけて―」 『日本語学』
16-4
森山卓郎 (2002) 『表現を味わうための日本語文法』 岩
波書店
森山卓郎 (2009) 『国語からはじめる外国語活動』 慶應
義塾大学出版会
矢澤真人 (1997) 「構文論をどう見直すか」 『日本語学』
16-4
https://blog.goo.ne.jp/gooksky/e/66ecb21bb3457d0d8a8f359c4f1d7c6f
現代日本語百科 けふも お元気ですか
文節論このかた
2016-02-05 | 日本語文法
ですから、「学校文法には不備があるから修正しよう」という話は出てくるはずなのですが、「子供が混乱するから」という理由で「変えない」という態度があるのではないか、と感じます。「それは、教師が『変わりたくない』から」ということの上っ面の言い訳ではないでしょうか。
たとえば、「仮定形は、かつての『已然形』であり、文語の『仮定形』とは別」とかいった話をすると「子供が混乱する」。
あるいは、「形容動詞」です。「形容動詞は活用する」というのは本当でしょうか。「桜が綺麗ですね」は「綺麗な桜ですね」は同義ではなくて文構造が違うのでしょうか。「桜が~」は、とりたて詞「が」によって強調されて転置が起こり、結果的に「綺麗な」の「な」と、その後にくる体言が省略されたと考えるのが自然ではないでしょうか。
「僕は鰻だ」は「僕(の注文)は鰻だ」で、「鰻は僕だ」は「鰻(を注文した客)は僕だ」であり、省略表現と解釈してはいけないのでしょうか。
まぁ、「それに相当する表現が英語にないからダメだ」というのなら、「文語の形容詞には連体形と終止形があって述語になる」というのもダメなはずです。じゃあ、「高校では英語を学んでいる学生がいるから文語文法を教えると混乱する。だから文語文法は教えてはならない」というのは通るのでしょうか。
「現行の国語教科書にある国文法の説明がおかしい」のと、「だから文科省は国語教科書をもっと厳しく検定しろ」という視点はあっていいと思います。
コメントを拝読、あわせて、リンクにも。名のリンク先をクリックしました。
http://animaleconomicus.blog106.fc2.com/
>「日本語に主語は必要だ」
2020-10-23(11:13) : 日本語
この議論は、主語か、主格補語か、となります。いずれ、学校教育に影響すると、子どもは答えるようになるでしょう、どういうふうに。日本語に主語はない、日本語の文は、補語―述語の構造だ、と言います。
現実に、大学生が日本語教育方法を学習し、主語がないと言い出すので(彼らは、おそらく、ほくそ笑んで、新知識のようにおもっていますよ)、文法観がどうなるか。
そこまで、現在の日本語教育文法が及ぶかどうかはわかりませんが。きみのこの文章に主語(主格補語)がないと指摘すると、日本語には主語がないんでしょ、だからいらなぁい、と、言うようになる時代が、目の前に来ています。教育が、そういうふうに仕向けるかは、わかりませんが、文規定も変わってしまいますから、文法であるかどうか、という議論です。
これは、そちらのブログに投稿すべきでした。コピーしておきましょう。
さて、「ポツダム文法」、「ドガチャカ文法」は知識不足でした。批判にはそういうのがあるのでしょうか。戦後の混乱期をどう見たかということですね。
コメントには一つずつ、論点があります。わたしがすべてわかったように言うのは、おおけなきことですが、ながながと、ここに、ご無礼申します。
学校文法の不備をとらえる教師に、その不備があったと考えるのが妥当でしょう。教師たちの論議にも理があるとするか。
そこで、例えばに書いてある、未然、已然となる語の意味を教師に問うてみると、どういう答えが出るでしょう。未然形はまだしも、教師に、已然形がわかっていたか。説明できなくなれば、口語文法でわかりやすくしたものでしょう。
活用形は文法機能で語幹に命名したものと考えているのでしょうから、語の意味がないとするとらえ方では、これは推測ですが、子どもたちに説明不能となります。語の論が不備です。
形容動詞は教育用文法として品詞になりましたから、形容詞、名詞形容詞とでもいうべき論議のうちで、わざわざ、形容動詞にすることはいらないという、もっともな説明があります。
すると、これも、形容詞と名詞のかかわりと言う、限定修飾の考え、捉え方が教師に不備となって、説明が立ち行かなくなります。「奇麗」です、これを名詞に、「奇麗な」花、これを形容詞にすることは、ありうる考えで、動詞活用という不自然分類に入れなくてもよいわけですが、名詞形容詞の、ナノ変換と呼ぶ現象があって、それをわかりよくするということでしょう、国語教育では、覚えやすい現象に形容動詞を使っています。
文法で省略という説明は、現象をわかりにくくしたり、便宜使い始めると、日本語は省略で済ませることが多く起こってしまいました。これにも、文法をとらえる不備があると言っていいのですが、「僕は、ウナギだ」という発話がそれだけで使われる場面、文脈という捉え方で、「注文は、なに?」「僕(の注文)は鰻だ」となったり、「注文の品が来たよ。ウナギの人は?」「鰻(を注文した客)は僕だ」となるのでしょう。そのやり取りが日本語の文法にあって、「ウナギの人」などの表現は奇妙な物言いですが、そういう場面、文脈の省略ということを言わないで、問題を言う、奥津敬一郎氏の提議です。
終止連体同形にも、この省略についてのこととすると、省略であるとするのを進めて、連体形は不要である、との物言いが、まかり通ってしまいました。これは、現代語文法の形態を分析する手法ですから、その語に、連体形をなくして、終止形と言っているのか、どうか、日本語教育では、基本形、普通形の用法ですから、ここにも不備と言わざるを得ないことが起こっています。
コメントをいただき、ありがとうございました。
お読みいただき、お礼を申します。
お読みいただき、お礼を申します。
こちらこそ、丁寧な Res を頂いて、恐縮しております m(_ _)m。
> さて、「ポツダム文法」、「ドガチャカ文法」は知識不足でした。批判にはそういうのがあるのでしょうか。戦後の混乱期をどう見たかということですね。
戦後の混乱期に、いろいろな方面で人材不足というのが起きまして、「とにかく人を集めろ」という時代がありました。大学教授とか落語家とかスキーの指導員とか、各方面で「ポツダム教授」とか「ドガチャカ真打」とか云われていた、という話を聞いたことがあります。
> 形容動詞は教育用文法として品詞になりましたから、形容詞、名詞形容詞とでもいうべき論議のうちで、わざわざ、形容動詞にすることはいらないという、もっともな説明があります。
形容動詞については、「お綺麗」「ご丁寧」が、どこに係るかという話になります。「綺麗な」「丁寧な」という連体形があって、形容動詞を跨ぎ越して体言に係っていて、そこに「お」や「ご」が作用している「係り結び」的な運用がされている、という解釈も、もちろんあり得るわけですし、そもそも「文法」というのは「合目的的であれば、どういう体系であってもかまわない」ので、「そういう解釈があってもいいんじゃないの?」と思っています。「オッカムの剃刀」的に、「たぶん、これが一番完結な説明だろう」という話はあるのですが、必ずしも「その解釈が唯一絶対の解釈」というわけではありませんので。
> 終止連体同形にも、この省略についてのこととすると、省略であるとするのを進めて、連体形は不要である、との物言いが、まかり通ってしまいました。
個人的には、むしろ「連体形」が主であって、補助的に「言い切り」の用法を担う連体形を「終止形」として立てる、というのがベターではないかと思っています。
「秋深し隣は何をする人ぞ」は、原文では「秋深き」だったそうです。「秋深し」で言い切る(終止形)ではなく、連体形で「秋深き隣」だったそうな。「隣」は連句の会の朋輩(ほうばい)で、芭蕉翁が会に参加できないので「立句(たてく)を」と請われて詠んだのが「秋深き」だとか。「隣」は朋輩を意味するそうです。
「『秋が深いなぁ』と思っている輩(ともがら)は、いまは何をしているんだろう」というのが原意だと聞いたことがあります。
(動詞と形容詞の)「終止形」と(動詞の)「仮定形」がどのように廃れていったか、というのは、別の話として興味深いことではありますし、「ひょっとしたら、現代に復活することもあるんじゃねぇの?」という楽しみあるいは期待もあります。
そういった意味では、(詩歌の世界以外でも)「文語文法は実学たりうる」と思っています。
ポツダム教授の用例に。
https://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/hatou/naiyou/676.htm
>その後、友人の会社の経理をみたり、親戚の会社の非常勤重役をしたこともあるが、埼玉大学、国学院大学、そして法政大学と一貫して教育畑を歩んできた。自称ポツダム教授である。
ドガチャカ真打⇔どがちゃが
隠語大辞典
>物事が混乱する。どさくさ。ごま化す落語「口入屋」で、番頭が女中の目見得に「お前はんが気に入つた縮緬と繻子との抱合せ帯がある。いや、まア、あつたとしいな。買うときんかいな、ええなアと思うやろうが、番頭はんこの帯なんぼだす。それかいなア、メメチ(符牒)で三円五十銭や、一ぺんやのうて、崩しでええがな、始めに三十銭、次が二十銭、次が十銭と入れておいて、あとは帳面どがちやがで、帳面棒引きでしまいや、これ番頭の有難さ」。
オッカムの剃刀 Occam's razor
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80
>Pluralitas non est ponenda sine neccesitate
(≒Entities shouldn't be necessary ; (直訳)構成要素は必要ない)
https://kijidasu.com/?p=6483
《気になる科学の言葉》
秋深き隣は何をする人ぞ
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/aki2.htm
に、
> 原文:德不孤、必有鄰。
> 訓読:徳は孤ならず、必ず鄰有り。
> 翻訳:徳のある人は孤独ではない。必ず仲間がある――『論語』里仁
という用例を見つけました。
「隣」とは偏(へん)と旁(つくり)が逆になっていまずが、同じ字であるそうな。「仲間」「同胞」「朋輩」「朋友」あたりに「となり」とルビを振ってくれると雰囲気が伝わりやすいのに、と思っています。
引用されたブログに出典のことがあって、「字通」批判をする、「常用字解」にターゲットをおいていて、”常用漢字論―白川漢字学説の検証”を読みふけりました。面白かったです。次の文意は、ブログの限界があるからと、思ってしまいましたが。
>本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。
さらに、啓発されて検索して、次の論文を読むに至りました。
白川静ブームとその問題点www.lib.kobe-u.ac.jp › repository
JKで、日国大、ニッポニカ、字通など、よく参考にするので、古代社会の解釈は気をつけましょう。
「秋深き隣は何をする人ぞ」では形容詞「深き」の主語は芭蕉本人のはずですが、そこに朋輩(隣)を持ってきて「皆も秋が深いと感じているに違いない」という表現につなげているのだと思います。
「梅が香にのっと日の出る山路哉」も、「梅が香」と「日の出る」には何の因果関係もないのに、「山路」を焦点として情景につなげています。
「古池や蛙飛びこむ水の音」も、因果関係としては「蛙が古池に飛びこんだ水音」なわけですが、これもまた「古池を焦点としての音の情景」の描写になっています。
正直なところ、これらの句を構文解析しようとすると処理屋泣かせではあるのですが、この「きわどいバランス感覚」が、芭蕉の「軽み」の正体ではないのか、と考えつつあります。
短詩の好きな芥川の文章を紹介します。つぎに、間に髪を入れず、です。
芥川龍之介 青空文庫
芥川龍之介 続芭蕉雑記 - 青空文庫
www.aozora.gr.jp › cards › files
>芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語がうごしたのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活れいくわつに語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
>下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気あつけにとられてしまふ外はない。
秋ふかき隣は何をする人ぞ
かう云ふ荘重の「調べ」を捉とらへ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である
名文で、青空文庫のルビにも入れたままに引用しました。俗語にも、文法の教師ようでなくて、魂であって、調べをつくる、龍之介ならではの文章です。
「それこそが、『文法学は実学である』という証左である」と、我々は断じております。
正直なところ、現代語の文法は「自らの心根(こころね)を表現する道具」としては、いささか不自由なのではないかと思います。
とはいえ文語文で書いたら、単なる「ヘンなヒト」になっちゃうワケですが(笑)。