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コミュニケーションアプリ

2018-10-18 | 木瓜日記
バイオリズムの休息がある、10年前、1年前と、ブログを記録と見て、同じようなことである。さて、どうしてかと、世代の差を考える。その前提には2世代くらいの開きがあるのだけれど、つまり連続することがない、ワンクッションがある世代に、平成10年であるから、それからの時代を考える。ここで特徴となるのは、確かに、声を出してのコミュニケーションがない、少ない、出ない、というのは、声掛けで伝えることがない。ケータイメールが端末のメール会話に便利なアプリ会話である。ラインである。コミュニケーションアプリと銘打つ。 LINE、ラインがソーシャル・ネットワーキング・サービス、SNSであることは、2012年7月3日にはプラットフォーム化したことから、いまの世代の中学生のときのツールとなっていて、個人間のやり取りにしていることである。


オリジナルキャラクターのひとつである「ムーン」
LINEは韓国NHN株式会社(現:ネイバー株式会社)傘下の日本法人NHN Japan株式会社(現:LINE株式会社)が開発したアプリケーションソフトである。

当時「NHN JAPAN」であったLINE株式会社会長[6]でNHN創業者の李海珍(イ・ヘジン)が、家族や親戚と連絡を取ろうとする東日本大震災被災者の映像を見て発案[7]し、自ら日本に滞在して開発プロジェクトを推進した。規模が拡大した本社の代わりに小さな組織の速やかな意思決定力と集中力を活用するため、韓国本社ではなく、日本に滞在した李海珍推進のもとNHN JAPANが開発[8]を担当した。開発陣の国籍は日本、韓国、米国、中国など[9][10][7]で、各自が母国語へ翻訳したアプリケーションを手掛け[7]ている。

アプリやスタンプなどに登場する「ブラウン」「コニー」「ムーン」「ジェームズ」などのLINEオリジナルキャラクターは、社内の韓国人デザイナーであるカン・ビョンモクが「昔からマンガが好きで、人の表情を観察して描いたりすることも好きでした。LINEの企画担当者などの意見も聞き、キャラクターごとの特徴を活かしてシチュエーションに合わせた感情を表現できるよう」[11][12]デザインしたと語っている。なお、オリジナルキャラクターの大半のグッズは「LINE FRIENDS」(ラインフレンズ)というブランドで展開されている(2013年以後)[13]。

開発元に関する報道
LINEの普及に伴い大手メディアでの露出が多くなると『日本経済新聞』(2012年)では「純国産・和製」[14]、『産経新聞』(2013年)では「和製」[15]、『ウォール・ストリート・ジャーナル』(2014年)では「日本子会社が開発し、日本で生まれた」[16]、『SankeiBiz』(2013年)では「韓国系」[17]、『聯合ニュース』(2012年)では「韓国アプリ」[18]、と報道に差異が現れ始めた。2013年には、報道へのネット上の疑問に対して「純国産・和製」と表現した日本経済新聞の井上理記者は「日本支社で企画・開発されたから」との説明や、LINE事業を統括する舛田淳執行役員の「最終的には国籍関係なく無国籍のブランドとして使ってもらいたい。どこの国だと感じられないくらいになった方がいい」との回答を掲載した
ウイキペディアより。

世代の差を考えると、このアプリがコミュニケーションを変えてきていることがわかる。


国民が考えなければならないこと3
2017-10-18 18:01:49 | 思い遥かに

生活の安定、安寧は得られているか、それはなにによるものか。自らの政治意識を何においているか。政党、政策、政治家を選ぶのは自分である。生活を基にした経済は重要である。その経済の動きをしっかりと見つめると、循環する金が見えてくるので、その動きが庶民生活にどのように回ってくるかを知る。目先にとらわれては見えない、考えが足らない結果になる。社会保障として生活には健康、福祉、労働、文化、教育、環境と、わたしたちにとっての指標は数多くあるようで、どれか優先事項であるか、どれも大切であるから、安定と前進、上昇を問題として解決するなら、考え方をどうとるか、成熟した日本社会にはないが機動力となるだろう。自分の足元をしっかりおいて、そこに立つ姿勢を自ら正しくする。



18日
2007年10月18日07:00

うす雲だ

日記が一日跳んでしまった
さすがアクセスゼロが出て
記録的なことになった

>さきの源氏物語の例では、白居易の長恨歌の筋立てを桐壺更衣の形見としての簪に象徴した内容があったのを見ることができました。そして、さらに美人を表現する詩句の引用で強調してしまいました。文学上のデフォルメができあがっています。それは、しかし、作者の紫式部がしたものではなくて、そのような文献上の操作が、源氏物語の文章で、写本の経過に見ることができました。

それでは、どのように白氏の文学は影響していたのかとみてまいりますと、まず、日本の漢詩文学は次のように始まります。西暦の751年には初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂されました。続いて、9世紀になって、814年『凌雲集』、818年『文華秀麗集』、827年『経国集』と三つの勅撰集が編まれました。これが漢風賛美と呼ばれる時代です。顕著な影響を受けた文学が、次にあります

しばらく、貴族たちは漢詩を学びました。その後、905年に『古今和歌集』が編纂されるまで、和歌は、国風暗黒時代を迎えていました。平安時代の物語などでは、「詩」と書けば漢詩を意味し、「からうた」という訓読みがつけられました。その後、漢詩は、『和漢朗詠集』に数多く作品が収められ、白居易の作品が好まれたことが知られています。この歌集は、西暦1018年ごろに成立しました

和漢朗詠は、その名前の通り、日本の和歌216首と中国の漢詩588詩、合計804首が収められました。和歌では最も多い紀貫之の26首に対して、漢詩では白居易の135詩を数えます。和歌の集にならった構成で、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を入れています。白居易の「雪月花時最憶君」は和漢朗詠集の交友の部に採られていて、「雪月花」の語句で、有名になりました。

和歌が国風文化として盛んで会った当時に、藤原公任による編集「和漢朗詠集」は、吟ずる、いわば朗詠のための歌集です。漢詩の詩句が親しまれていたのです。そして平安期の代表詩人には、島田忠臣、菅原道真がいます。道真は正統的な漢詩を製作したことで知られています。845年から903年の生涯です。漢詩人、政治家、学者でした。いまは学の問の神として親しまれます。

道真は33歳のときに文章博士に任じられ、時の天皇に重用され、右大臣にまでなりますが、左大臣に讒訴されて大宰府へ権帥として左遷されました。そこで没したため、残念無念の思いを残したようです。それが詩に現れました。みずからの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻、西暦900年、そして903年ごろに大宰府での作品を集めた『菅家後集』を著しました。

菅原道真の正室には島田忠臣の娘がなりました。道真は忠臣の女婿になります。忠臣は828年から892年の生涯です。平安時代前期の貴族、詩人であります。菅原道真の漢文の師として知られています。この時代を代表する漢詩人で、その号は田達音、でんたつおん、と言いました。わたしは、彼の漢詩集、『田氏家集』を学習し、その後に、注釈をする仕事を、少しの間、経験しました。

その詩集は、はじめは「田達音集」として編まれますが、忠臣の弟の良臣らの詩と併せて、『田氏家集』全3巻に纏められました。その詩は、中国六朝時代の詩や、唐代の白居易の影響を受けたとされています。平明で素直な述懐詩が多いとされます。それを実証する注釈の作業をしました。詩のなかで、中国の習慣である「寒食」を知ることができました。ひとつについて、紹介しましょう。

詩題は「寒食踏青行、得遊」、寒食、青を踏みて行く、です。「寒食踏青細草頭、歳来今日放春遊」、寒食青を踏む、細い草のさき、歳来たりて、今日春遊をほしいままにす。「平明出郭昏応去、小樹花前軟脚留」、平明に郭を出で、暮れにいぬべし、小樹の花前に、軟脚とどめむ。この詩の表現にある、ほとんどの言葉を、白居易の詩の作品から注釈をすることができます。

この詩の語のひとつひとつを表現として、中国から伝来した漢籍によって、貴族たち、詩人たちは学んだことでしょう。それを島田忠臣の作品に裏付けることができます。それは詩のイメージとともに、文学の想像に実現しました。そのなかでも、白居易の詩の表現が、多く取り入れられたことがわかります。もうひとつ、わたしが行った作業から、島田忠臣の作品を挙げてみましょう。



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