いのちにおいて、ものごとをとらえる。わたしたちにできることは、なくなられたひとをいたむことである。そのきもちにたって、ながめていると、あまりにも政治のやりかた、医療行政のすすめかたのことに、メデイアの事実のとりあげにかたむいてしまって、いのちをまもるちからがない。
病魔をただしく、おそれながらも、どういうことなのかをしる。病魔におかされると、わたしたちのうちからでるちからでしか、この病魔にはたちむかえない。くすりがない、臓器をどうしようもない、呼吸力をもって回復するしかない。感染がわかれば、その疑いを持つ行いに気づけば自らを観察してその伝染をおこさないようにすることなのである。疾病を抱えていたなら、およぶことのないように、呼吸困難を起こしてあぶなくならないように、その治療を受けながら病魔に闘うのである。
このウイルスは人間活動のサイクルにはいりこんだ、動物のウイルスであるなら、それを食することがないひとには、もとよりかかわらない。それをするかしないかは、人間の知恵で安全安心に扱ってきたはずである。それができなかったのはその習慣をもつ人の野蛮にある。ひとたび、人間活動のサイクルにはいりこむなら、おこすことのその影響は、病魔となれば、ひとはいのちをかけることにになるだろう。
日本の医療が人工呼吸器を使えば回復する、その50%を救命するとわかってきた。これは、すごいことであるから、人工心肺がそんなにたくさん用意できないかもしれないから、重症になった人をまず呼吸ができるようにする対処法が大切である。