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南京林業大学日語科、講演 文学の影響

2018-03-29 | まさごと
4年前の南京林業大学の桜を懐かしむ思い出をリマインダーが知らせる。南林大に桜の木が70本ある。そう数えたように思う。その美しさは大学の目抜き通りを明るくする。桜祭りが催されて南京の桜名所となっている。南京駅から地下鉄が開通して便利になるというころだった。



南京の大学で桜が咲く 春の訪れを伝える_中国網_日本語 - チャイナネット
japanese.china.org.cn/photos/2018-03/23/content_50741693_4.htm
3月22日、南京林業大学の桜ストリートで桜を見る人たち。気温が上昇し、江南地区の各地で春の花が咲いている。 「中国網日本語版(チャイナネット)」2018年3月23日. < 1 2 3 4. フォトギャラリー. 米日の海上合同演習、南中国海に言及せず · 米最新のバージニア級原潜、コロラドが就役 · 女性兵士を率いる男性班長、合理的な訓練が重要 · 中国海軍第27期護衛航行艦隊が凱旋 · 武装警察新疆生産建設兵団総隊、密林で技術を磨く · 特戦女子兵士の格闘訓練 相手を3秒でKO · 広州塔と東塔が雲を突き抜ける

南京林業大学、桜が満開 - 中国国際放送局
japanese.cri.cn/881/2011/03/30/181s172750.htm
南京林業大学、桜が満開. 2011-03-30 13:48:08 cri [A A A]. 南京林業大学の桜が満開となりました。キャンパス内で咲き乱れている桜は彩雲のように鮮やかで、市民や学生などの花見客が絶えません。(翻訳:牟ケン チェック:小野) 旅行・文化へ. 関連ニュース ...

南京林業大学、桜ほころび花見客を魅了 - 中国国際放送局
japanese.cri.cn/881/2014/03/25/161s218966.htm
南京林業大学、桜ほころび花見客を魅了. 2014-03-25 12:06:53 cri [A A A]. 南京は今まさに陽春を迎えています。気温が徐々に上がり、南京林業大学のキャンパス内では桜が満開になりました。南京林業大学の長さ50メートルの桜大通りは、桜の開花時期になると特別な風景として多くの市民や学生が殺到し、花見の楽しいひと時を過ごしています。(Lin、吉野)暮らし・経済へ. 関連ニュース. 写真トピック


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2014年03月27日13:28
素晴らしい天気になった

桜日和は続く、このホテルは10階の眺めである、柴金山が霞む
                                                           
                                                            
南京生活にやっと慣れたようだ、折よく気温が上がってしのぎやすい
すぐにも夏がおとずれるようなことで春の季節は短い
午後に講演がある、後半を済ませることになる

やっとすんだ!


南京林業大学日本語科                      2014年3月27日pm3:30

文 学 の 影 響
―中国文学が日本古典文学に対する―
                              

 中国文学と日本文学は相互に影響しあいました。中日交通史においては長く、漢文学から日本古典文学に対して、その文学の享受(きょうじゅ)があり、そこに文学の影響が実現しています。その漢文学をいま中国文学とし日本文学を古典文学として、その影響を簡明に説きおこそうとすると、やはり文学とはなにものか、影響とはどうすることかを考えることになります。漢文学は、言語はもとより、政治、社会、思想、規律、文化にわたって多くを日本にもたらしました。古典文学はそれを受容(じゅよう)して実現したのは何だったのでしょう。わたしはそれを学び続け、問い直して、より確かにしていくことが、大切なことだと思います。

1 文学はなにものか
  中国文学は日本文学を享受したが、古典文学は漢文学を享受し、その影響を表した
  日本文学は古典文学、近代文学、現代文学にわかれ、さらには漢文学の流れがある。
  日本古典文学は、7世紀から19世紀までの時間を主に指し示し、内容としては各分野に及ぶ。
  叢書(そうしょ)には日本古典文学大系、日本古典文学全集、日本古典(こてん)集成(しゅうせい)、そして日本古典全書がある。
  古典文学には歴史記録、物語作品、詞(し)華(か)集(しゅう)、漢文漢詩、説話(せつわ)伝承(でんしょう)、政治思想、芸能(げいのう)脚本(きゃくほん)など。

2 影響とは近代文学にあらわされた  
  近代以降に文明開化で文学の主義、西洋からのロマン主義が影響し、ついで自然主義が流行した。
  日本文学の思潮(しちょう)ははじめに社会思想とも関係し啓蒙(けいもう)主義(しゅぎ)に続き写実主義、ロマン主義と展開した。
  自然主義の流れが反自然主義に展開し、耽美派(たんびは)、高踏(こうとう)および余裕の理(り)智派(ちは)、新感覚主義などとなる。
  白樺派(しらかばは)、新現実主義となって、登場(とうじょう)するのが、モダニズム、また、プロレタリアート文学であった。
  漢文学は近代に入っても日本文学に浸透(しんとう)し、漢文(かんぶん)訓読(くんどく)をした日本語に20世紀半ばまで影響し続けた。

3 古典文学の影響
  論語(ろんご)先進篇(せんしんへん)に孔子が弟子を才能別に分けた孔門四科があり、徳行、言語、政事、そして文学とある。
 五世紀、南朝、劉宋の文帝が建てた四学である儒学(じゅがく)、玄学(げんがく)、史学、文学に、この文学の語がある。
  懐風(かいふう)藻(そう)は、現存する最古の日本漢詩集で、奈良時代、天平(てんぴょう)勝(しょう)宝(ほう)三年(751年)の序文(じょぶん)がある。
  日本の古代思想には儒教と仏教(ぶっきょう)が同時に漢籍として移入し、政治と社会体制に著しく実現した。
  文学の活動は詞華集の編纂(へんさん)、歴史書の記述に影響があり、とくに日本の漢文学として開花した。
  六朝(りくちょう)文学(ぶんがく)の文選(もんぜん)、唐代の白(はく)氏(し)文集(もんじゅう)などを、漢文学では漢詩集、仮名文学では源氏物語に享受した。

4 文章経国
  三国時代の魏(ぎ)の文帝曹丕(そうひ)の言葉に、文章経国之大業、不朽之盛事とあり、文選に典論が採録された。
  嵯峨(さが)天皇(てんのう)、弘仁年間810年から824年まで大学寮にて漢文学や中国正史を扱う紀伝道の向上を図る。
  日本文学史、平安初期には漢風(かんふう)を謳歌(おうか)した、弘仁・天長期を漢風謳歌時代と呼ぶ学説がある。
                              小島憲之(こじまのりゆき)  國風(こくふう)暗黒(あんこく)時代の文學
  漢詩文集
凌(りょう)雲集(うんしゅう)   :勅撰の漢詩文集 平安時代初期、弘仁五年 814年 嵯峨天皇の命
文(ぶん)華(か)秀麗集(しゅうれいしゅう) :勅撰の漢詩文集  弘仁九年 818年 嵯峨天皇の命 凌雲集に続く
経国集(けいこくしゅう)   :勅撰の漢詩文集  天長四年 827年 淳和天皇の命
性(しょう)霊集(りょうしゅう)  :空海 774年‐835年  漢詩を弟子の真済が編纂した漢詩文集  成立年不詳
菅家(かんけ)文(ぶん)草(そう)  :菅原道真 845年‐903年 編纂の漢詩文集 
 全12巻 900年 大宰府での作品を集めた、菅家後集 903年頃 がある
史書  類聚(るいじゅう)国史(こくし)   :菅原道真編纂の勅撰史書  六国史を分類再編集した  892年
中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜書きして分類編纂することが広く行われ、これを類書と称した。この書もまた、類書の形態を踏襲(とうしゅう)。
詩論  文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)  :空海による漢詩文の評論書  平安時代前期に編纂された文学理論書
中国の六朝期から唐朝に至る詩文の創作理論を取りまとめたもので、唐代中期の長安に留学した空海が、帰国後、日本の弘仁年間に完成させたとされる。空海は、延暦十一年、792年、十八歳で大学寮に入り、その専攻は明経道で春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝える。
説話集  日本(にほん)霊異記(りょういき) :景戒編纂の仏教説話集 弘仁十三年 822年  日本国現報善悪霊異記
平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集、略して呼ぶことが多い。変則的な漢文。

5 漢詩への影響
  島田忠臣 828年-892年 平安時代前期の官吏であり、漢詩人として、田氏家集を著わした。
    天長五年生まれ。島田清田の孫。少外記、大宰少弐、典薬頭などを歴任。貞観元年、859年と元慶七年、883年に渤海国使の応接にあたる。自由で平明な作風で、屏風詩、奉祝年調、詠史詩など、白居易の詩や六朝詩の影響がある。詩集、田氏家集がある。寛平四年死去。65歳。
号は田達音。なお、島田忠臣の娘の宣来子は菅原道真の正室になった。
  田氏家集注    注釈  29番 寒食踏靑行  32番 病後閑座偶吟所懐  33番 七月一日
 島田忠臣/『前賢故実』より

6 白楽天の受容
  東方社会哲学国際学術研討会に出席して、2001年7月、北戴河度假地において、報告を行った。

     中華文化研究奨学金を受けて、1999年3月に南開大学中文系に研究留学をした。その折、孫昌武教授から研究指導を受け、孫教授の著作『禅思と詩情』(中華書局1997.8)に触れる機会を得た。そして、この著作を通し、白居易文学の影響についてそれまで私が抱いていた問題点の解決をすることができるという、研究留学の多大な成果をあげることが出来た。
     この発表の機会を与えられたので、孫教授の学説を祖述(そじゅつ)して報告としたい。その内容を次の点にまとめることができる。
(1) 白居易の詩想は禅(ぜん)思想(しそう)に拠(よ)るところがある。その禅とは洪州(こうしゅう)禅(ぜん)の馬(ば)祖(そ)道一(どういつ)がとなえた「平常心是道」の理念にあり、禅は白氏における人生の実践(じっせん)でもあった。 
(2) 白居易の文学作品には禅宗(ぜんしゅう)とのかかわりを証明する内容がある。それは禅の思想を詩句にあらわすこと、また宗教結社との交わりを詩に読み取ることなど証明できるからである。
(3) 白居易の思想には中国の古代思想である儒教、道教、仏教の三教をとらえるのが研究者のこれまでの説である。とくに「兼済」「独善」の語句を用いて詩作の動機を述べ、白居易は詩の実践を行った。また「知足保和」を唱えて詩作を思いのままに遂げようとした一面もあり、その一方で「狂言奇語」とした願文(がんもん)に見る思想は、研究者の議論が分かれるところであった。しかし、この仏教の思想については上述の1,2のごとく明らかにされる点が、今日の課題としてある。
(4) 白居易の文学の理解は白詩の四分類のうち、諷諭(ふうゆ)詩(し)を第一とし閑適(かんてき)詩(し)や感傷(かんしょう)詩(し)を第二のものとするのが常(つね)であるが、この詩作の実行は白(はく)居(きょ)易(い)の詩想にかかわると考えられる。つまり、文学的評価とは別にして感傷詩に自らが入れた「長恨歌(ちょうこんか)」に代表されるような、白氏の感傷の思いに、白氏の考えとは裏腹(うらはら)にも文学的な影響の大きさがあらわれたのである。
(5) 人人が好む閑適の詩は、白居易の生涯の詩作の詩想のうちに大きな意味がこめられることになったのではないか。それは禅の思想への傾倒(けいとう)が詩作にもあらわれて、平常(へいじょう)心(しん)こそが詩作の動機となったと考える。
(6) 日本文学に受容した白居易の文学の偉大さは、日本文学のさまざまな作品に表れていて、研究者に指摘されているとおりである。詩語の受容を「白詩語」と見る分析は、俗語などの使用をはじめ日本漢詩に影響したし、漢詩の発想は白居易の詩を入れて自然の諷詠(ふうえい)におよび詩の材料を広げた。さかんに朗詠(ろうえい)に使われたりしたので、白居易は人々に愛されたのである。
(7) 日本文化の中で、禅の思想の中国からの移入は日本歴史の中世以降とされるが、白居易に禅の思想が表れていたことを指摘し、平安朝の時期にその思想を表した白居易の詩が受け入れられたと分析する研究はまだない。
 以上、私が分析する白居易の詩想と禅の実行は、日本文化に影響することがなかったと結論できる。少なくとも表層では文学の受容において「平常心是道」を見ることはない。
 (本稿は中華文化研究奨学金による報告論文である。研究留学を果たすことができ、中国政府並びに国家教育委員会にお礼を申します。南開大学中文系、孫昌武教授に研究指導を受けました。記して、感謝を申し上げます。   千九百九十九年四月七日       天津にて )

7 源氏物語への影響
  日本古典文学の作品に中国文学が影響したとする研究および学説は数多(あまた)、見られるところである。
文学の影響として、中国文学が日本古典文学に対する影響として、なにを受け容れ、表わしたか。
その典型(てんけい)は平安時代、十一世紀の物語文学の代表作品、紫式部(むらさきしきぶ)による源氏物語に見える。
  紫式部が物語の内容に白(はく)楽天(らくてん)の長恨歌を取り入れ、それを桐(きり)壷(つぼ)の巻にあらわしたことを指摘する。
  さきの報告で述べたことは、影響とは、文学の創造(そうぞう)、それは想像(そうぞう)にあるということである。

 「源氏物語」と「白氏文集」の関係は「桐壷」と「長恨歌」の関係にあり、これは、多くの研究者に指摘され分析されている。発表者は1984年に西安の華(か)清(せい)池(ち)を訪れた折、西安の温泉池では当然のことといえ、中国の人々が「長恨歌」に想像して描いた楊(よう)貴(き)妃(ひ)の姿、石碑に描かれた芙蓉(ふよう)に紛う艶(つや)やかさを知った。そして「源氏物語」に登場する桐(きり)壷(つぼ)更衣(こうい)とのあまりの懸隔(けんかく)に思いを致し、自己の迂闊(うかつ)さを了(りょう)解(かい)した。読者は「長恨歌」に惹(ひ)かれ、物語にイメージを抱くのに、その想像は一枚の出浴の図にも及ばない。
 白居易の研究が行われるなかで、「長恨歌」についての評価には問題がある。白詩の四分類に諷諭詩、閑適詩、感傷詩、雑律詩があるなかで、白居易自身が「長恨歌」を感傷詩に入れたことをめぐって議論があり、この詩そのものの文学の価値について、白氏による分類と、後世の読者がどのように受容したかを見直そうとする。
新楽府の価値を重んじ、「長恨歌」をその系列に理解するのが一般論とする立場と、白居易が感傷詩に退けた叙情性を強調した受け止め方があって、決着はつきそうにない。文学の内容について言えば、議論が政治性に傾くので、「長恨歌」の評価によって白居易の文学そのものの批判へと連なるからである。読者によって決めればよいとするテクスト論もあり、白詩の思想にそった理解と説明が重要課題となっている。
 これを「源氏物語」の受容の議論として見れば、諷諭性を摂取(せっしゅ)し、感傷性を筋立てとしたと言うことができる。物語作者、紫式部にとっては、読み込んだ「長恨歌」の筋立てから、物語に傾国(けいこく)の美人を造形することにあったのである。白詩の正当な理解を作者がしていたと言うことができる。目を側める大臣たちの傾城の筋立てよりも、楊貴妃を求め続け、道士が方術を使って簪(かんざし)を持ちかえる展開に物語テクストの重点があった。
源氏物語は、桐壷更衣の形見(かたみ)を如何にして帝(みかど)に届けるかが関心事であるし、桐壺の首巻では皇子を物語でどう誕生させていくか、そして高麗(こうらい)の相人の予言をいかに描くか、物語の展開に作者は腐心(ふしん)したのであった。長恨歌を深く読み込んで道士の方術が叙情として再生され、作者は見事に源氏の物語の叙述のなかに表現したのである。
長恨歌から人々に好まれた詩句は、日本では「太液芙蓉未央柳」「芙蓉如面柳如眉」、さらに「比翼(ひよく)連理(れんり)」とであったようである。しかし、源氏物語で「夕殿蛍飛思悄然、孤灯挑尽未成眠」の句に作者が表現を選んだように、この句に情緒(じょうちょ)を動かすかどうか、興味のあるところである。まして、さきの掉尾(ちょうび)を飾る「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(白氏文集、巻第十二)」にある「比翼連理」とだけ歎賞(たんしょう)していては、「天長地久有時尽 此恨綿綿無尽期」とある「長恨」が伝わらないではないか。

白居易の詩想   中国政府に提出したものを改定した  2001年5月1日

資料
    田氏家集            <田氏家集注 巻之上 和泉書院 一九九一年>
29 寒食踏靑行 得遊     寒食青を踏みて行く  遊を得たり
寒食踏靑細草頭      寒食青を踏む 細草のさき
歳來今日放春遊      歳来たりて 今日春遊をほしきままにす
平明出郭昏應去      平明に郭を出で 昏に去ぬべし
小樹花前軟脚留      小樹の花前に 軟脚とどめむ

  32 病後閑座偶吟所懐     病後閑座して所懐を偶吟す
  任死任生無所爲       死に任せ生に任せ 為す所なし
  何曾用意患尩羸       何ぞ曾て意を用ゐて尩羸をうれへむ
  從他軟脚難行歩       さもあらばあれ 軟脚にして行歩難きを
  只幸凝神不坐馳       只幸に 凝神して坐馳せず
  物理是非閑裏得       物理の是非は閑裏に得たり
  人情踈密病中知       人情の疎密は病中に知れり
  天敎方寸虎舟似       天は方寸をして虎舟に似しめ
  不爲平常憂苦移       平常の憂苦の為に移さず

  33 七月一日          七月一日
  自去自來不復留       自ら去り自ら来り また留まらず
  暗然空任歳時流       暗然として空しく任す 歳時の流るるに
  今朝何事殊驚愕       今朝 何事ぞ 殊に驚愕するは
  應是傷心第一秋       応に是れ傷心の第一秋なるべし

 29 寒食の日に青草を踏んでいく  寒食の日に、青草の伸びでたばかりの葉先を踏む。  新しい年が来て、今日は心のままに春の野辺の遊びをする。  明け方に城郭を出て、昏れ方にはかえらねばならない。  だがしかし、低い樹の花の前で疲れた足を休めよう。

 32 病後閑座のうちに思いを偶詠す  死にまかせ生にまかせて、さだめのままに何もしないでいる。  
どうして気を遣って体が弱っていることを思い悩んだりしようか。  たとい足が弱って歩くことがむつかしくともままよ、  たださいわいに、精神を集中していて、心は名利を求めて外に走り出しはしない。  物の道理の是か非かは、閑座のうちに会得した。  人間の親しさと疎ましさは、病中に思い知った。  天は、わたしの心を、からの舟のごとく虚心になるように仕向けているのだ。  もはや平生の憂苦のためにはわたしの思いは変わらなくなっている。

 33 七月一日  去りまた来たり月日はとどまることがない。  何となくむなしく任せきっている、年月の流れるままに。  今朝はどうしたわけか、ことさらおどろきを感じている。  まさにこれは人の心を傷ましめる悲秋の第一日が始まったためにちがいない。
白居易長恨歌と源氏物語桐壺の巻 命婦の復命



漢王重色思傾國,禦宇多年求不得。楊家有女出長成,養在深閨人未識。
漢皇色を重んじて傾国を思ふ    御宇多年求むれども得ず
楊家に女有り初めて長成す     養はれて深閨に在りて人未だ識らず

歸來池苑皆依舊,太液芙蓉未央柳。芙蓉如面柳如眉,對此如何不淚垂?
帰り来たれば池苑皆旧に依る    太液の芙蓉未央の柳
芙蓉は面の如く柳は眉の如し    此に対して如何ぞ涙垂れざらん

夕殿螢飛思悄然,孤燈挑盡未成眠。
夕殿蛍飛びて思ひ悄然       孤灯挑げ尽くして未だ眠りを成さず

在天願作比翼鳥,在地願為連理枝,天長地久有時盡,此恨綿綿無絕期。
天に在りては願はくは比翼の鳥と作り 地に在りては願はくは連理の枝と為らんと 
天長地久時有りて尽くるも     此の恨みは綿綿として絶ゆる期無からん 



かの贈り物御覧ぜさす。亡き人の住処尋ね出でたりけむ しるしの釵 ならましかばと思ほすもいとかひなし。

尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく 

絵に描ける 楊貴妃 の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。

大液芙蓉未央柳 も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。
(長恨歌につき、原中最秘抄に、未央柳について、藤原行成自筆本にはミセケチという指摘がある。青表紙本系諸本には存在するが、河内本系諸本、別本の御物本、陽明文庫本、国冬本は、未央柳の句がない。また、源氏釈の一伝本の、源氏或抄物所引の源氏物語の本文にも、その句がない。)

朝夕の言種に、翼をならべ、枝を交はさむ と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。

思し召しやりつつ、 燈火をかかげ尽くして 起きおはします。
朝に起きさせたまふとても、 明くるも知らでと思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬ べかめり。

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