日本語文法議論2388
主語はないと言って補語にすると文は成立しない、それが文法であると学んできたから、主語のある構造を想定することができるので、とくに不都合があったわけではない。もちろん、日本語で、ワレがワレが、ということは表現法で国語の伝統でもしてこなかった。仏教的な小我大我の影響もあったかもしれない。
文を意味内容に見ると、そこに主語があるのは一つの形態であるにちがいないし、どうも、格ということと語形ということが、わかっていない。文の意味に主語を求めるのはそういう規則を作ってきたからである。格助詞がある、それを分析できることは語形として屈折変化に対応するので、文における主語の役割を解釈して文の成分とすることは難しくない。文という形態に見えないのではない。
主語と述語を対象とした分析は主語という前提に述語部にある目的語も補語も構成する要素となると、そういう考え方を学説は取り入れたから、日本語も早くにそうであったような合理解釈ををするのは、それまで目的語も補語であるとすることができる、主語と対立する部分があったからである。が、を、に、という格助詞を文に見ることのできる文法である。
したがって、英語学習など、主語を前提とする構造だとよくわかるのだが、その文法の考え方は日本語にこそ当てはめたとも言いたげな様子であるけれど、語順の違いと格変化の有無を理解すれば文に意味内容をとらえるのは日本語でもわかりよく、それまでに行ってきた漢語文法の対象に英語を学び日本語話者に理解できることである。
日本語の文を補語述語構造だからといってみても、英語学習に主語述語構造を学んでいれば、その主語を前提とした文法と合わせて、日本語にも主語を探すことになる。まさに探すのである、文の単位ではなくて文章の単位においてだから可能なことである。そこで主語を構造としない場合、文章に題目、主題としての主語相当のもが日本語にはあったので、それは漢語の文法からは文章の学習に必須であった。