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句点には

2023-09-04 | 日本語文法論議23





日本語文法議論2394   
      文の形式と意味内容を議論して、おおかたにとらえる句読とひとまとまりの思想というあらわれかたに収束する。ことばを用いるわたしたちの営為であるから、それを現代にコミュニケーションのために見ても時代をさかのぼって文法の普遍をみようとしてもその文の成立と組成にあまたの見方がある。文という定義が唱える人によって際限なく編みだされるのも意味の世界につながるからである。

いわば思想と言いひとまとまりと言いそこには具体的な内容を得て議論することはない。思想とは何か、人が思うことであるというような、ひとまとまりとは何か、そこにあわせて働く言葉による統覚、統一のような話し手、語り手、書き手にある意識となるものを、人間の活動実態に見ることなく、ことばの作用にしてわかりきったことのように議論する。まずは句読を明らかにせよ、ついで思想を解明せよ。

句読は句点に読点という読みをつける。そこで句点とするのはどうしてか。難しいことを言えば哲学的になるのか、論理はそこにはない。日本語なら、日本人が漢文を日本語の翻訳する作業でもちいた句読であることを誰もが知る、その句読であるから、原理を考えてみればわかることである。ただし、その区切り符号となった句点をいまもピリオドの役割と見る使い方に疑問をさしはさむことがなくなった。

疑問にならないくらいに分かりきったことだったか、それをとらえなおすことをしないのか、このままで文法に用いても支障がないからか。ちょっと現象的に見ると、科学論文の区切りに点、丸を変えて、横書きのままにもっぱらカンマ、ピリオドにするJISの統一的な書き方がある。このパソコンのワープロに設定をすれば、直ちにこの文章にも句読点ではなくなるという取り決めで、その違いにあるものを感じる。

そこで立ち戻って句点というのを国語にとらえて日本語にする経緯をちょっと考えてみればよいだろう。しかし、やっぱりそこなのであるが、どこなのか、漢文を学ぶ日本語の言葉のとらえ方にある。いまや、国語の学習とともにあった漢文の訓読には学びがなくなったので、通用するところがない。句点が文法となり、その本来の形式を知るべきであろう。それを逆手にとってわからなくしてしまったコピーである。

文章に句点を用いたのをフレーズにわざわざつけるという奇を衒うかのようにも見えるキャッチコピーに、句点がなぜ必要なのか発案と実行者のみ知る流行である。したがって、付けてもいい、カッコイイ、などとか思わせる効果は、文章に用いるでなく、名称やタイトルに用いて何を訴えるのであろう、と思わされる。いまや、入門となるメッセージ性を強めるためにつけるという常識のようである。






ウイキペディアより
>句点(くてん)は、日本語・中国語の文書で、文の終わりに打たれる約物である。通称マル。
句点にはマル「。」と終止符「.」の2形がある。句点とは本来、形ではなく機能を説明した語であり、文の終わりであれば「。」「.」のどちらをも含むが、ここでは主にマル「。」について述べる。
句点と読点(「、」)を合わせて句読点と呼ぶ。
日本語では、縦書き文書では文の終わりにもっぱら「。」が用いられるのに対して、技術論文をはじめとした横書き文書では全角の「.」も用いられる。
両者に意味の違いはない。少なくとも一文書中ではどちらか一方のみを使用する。上記の出典元である電子情報通信学会などの学会や、専門誌などでは、どちらを使用するか全記事で統一することが多い。 
>句点は文章中に用いられるものであり、固有名詞やタイトルに句点が含まれる事はあまりなかった。1980年代に糸井重里が「じぶん、新発見。」(1980年、西武百貨店の広告)、「不思議、大好き。」(1981年、西武百貨店)、「おいしい生活。」(1982年、西武百貨店)などのキャッチコピーに句点を使用したことがきっかけとなり、作品のタイトル等にも句点を用いることが流行した。  
      




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