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日本文化論 ことはじめ11

2016-03-11 | 日本文化論
文化論の文化の定義が捉えられて、文化の価値が文化そのものをあらわす議論となり、文化の相対性が明らかになるにつれ、その文化特有の議論はステレオタイプに帰せられ、文化を語ることは文化そのものの実践をさすようになる。言語教育に言語と文化が議論されると、それは日本語とその文化にも影響し、文化そのものを語ることが変容する。そこには文化講座の意味をもってカルチャーセンタの時代がある。生涯教育に連動するものであったが、文化は街へと繰り出し、サブカルチャーが盛んとなる。 . . . 本文を読む

日本文化論ことはじめ10

2016-03-10 | 日本文化論
青木保氏の著作がどういう経緯で語られたかを知るのは興味深いことである。日本文化の変容を日本人論のありようを見て、日本文化としたところにその動機がありそうである。さらにその探求範囲はいわゆる学術論文だけではない評論雑誌にも及ぶことをあえて行って広くその議論を作り上げている。アイデンティティを明らかにするためは日本人、日本民族の反省を視点にしたのは首肯されるところである。 特殊性は家族国家観、相対性は特殊論に対する文明優位論、そして特殊性が普遍性に至る日本文化の規定である。菊と刀が象徴するものはタテ社会の捉え方、恥の文化、甘えの構造を見て、日本らしさを見ようとする。日本型経営といわれた集団と序列は肯定的ですらある。その意思決定にはまるで経済大国への歩みがあったかのようであった。バブル経済へと突入する手前で、この議論の時期となる。 . . . 本文を読む

日本文化論ことはじめ9

2016-03-09 | 日本文化論
日本文化論の変容は、1955年の、もはや戦後ではない、経済白書に言う経済状況を画期としている。白書による文言が現実の日本の姿をどれくらい反映していたかは検証のいるところであるが、この物言いが戦後10年の節目を作ったのである。それはまた文化論の変容を時期区分することにつながったかにみえる。歴史区分を施すことは画期のできごとをどうとらえるかにあり、著者の炯眼による。 . . . 本文を読む

日本文化論ことはじめ8

2016-03-08 | 日本文化論
日本文化論は失意のどん底から這い上がる日本を状況的にとらえる。そこには経済力と技術力の新生日本があった。戦後ではなくなったと経白書が宣言し、それに呼応するかのように経済進出が太平洋の向こうを脅かし、ふたたび日本とは何かが議論されたのが、貿易摩擦であった。そして菊と刀が再び読まれた。日本文化の解明であるかに聞こえてきた。太平洋戦争で課せられた日本解明が、米国にとっての作戦であり敵国の分析であったが、それを敗戦後に公開した文書をもって日本研究の書と位置付けられた。翻訳されてしばらくは日本の情勢には関与しなかったが、文化論としては文化人類学にとらえられた。すべてがあべこべだと書く章の言及が特徴的であった。あらためて義理と恩義、恥について、日本がどうとらえられているかの論議が起こった。 . . . 本文を読む

日本文化論ことはじめ7

2016-03-07 | 日本文化論
日本文化論の変容とはその説明に従えば日本文化の特殊性の認識にある。日本文化の特殊性は日本が特殊であると語られ続けていたことへの内実を明らかにしようとするもので、それは日本人とはなにかを問い続けることへの答え探しでもある。敗戦を契機に語ることが可能となった議論である。その特殊性は日本の家族観にある。いわば家族国家観と呼ぶべきものである。個人主義という呼称も漱石による見方であり、それにはおのれの物言いを持てと天衣無縫の漱石ならではの考え方と、状況に現れた、純粋無垢であるところへの回帰を唱える、日本人の姿を知るには堕落する思想のありようがあてはめられるのは、そこに著者が視点を据えて家族同胞の国家観を見直せと言うことであった。日本人は疲弊し自らを見失い経済にに困窮していたのであるが、そこに戦後があった。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ6

2016-03-06 | 日本文化論
日本思想、日本文化の講座は久しくなかった。それは1990年代にまで及んだ。いまもなお、その状況は変わりないかもしれない。日本を語ることをしなかった。ところが、日本人論となると、日本の民族を議論することの、日本民族のルーツを探ることに困難があるかのように行われなかった。敗戦による精神論が失われたことによるようである。日本文化、日本文明はその拠るべきを見失っていた。教育の場で文化文明のその内容を語ることが行われない時期と状況を抱えていた。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ5

2016-03-05 | 日本文化論
その議論は、日本文化の変容として、日本人論を分析していた。その文化の見方には1945年、戦争の終結によってもたらされた日本文化、日本経済のありようを視点にしている。それによってしばらく、日本文化の議論をおえば、そこに学ぶことがあったのであるが、以後の、それから30年間にグローバルによる、それこそ文化の変容と経済の変化が起こって、いまその議論は古典的でさえある。なにしろ夏目漱石の個人主義の講演、坂口安吾の堕落論、そこにベネディクトの菊と刀が議論の視点となる文化論であった。 . . . 本文を読む

日本的秩序

2016-03-04 | 日本文化論
日本的秩序とは何か。秩序は物事の順序である。それを正しい順序として言う。その秩序における正しさとは何か。その説明にある、一つのものに対するもう一つのものの関係を見る、その一つには関係性を主体の依存しない存在と、主体の存在によっているものとを挙げる。それは宇宙の体系と、数学の体系であるとする。その秩序を想像するに、日本的秩序は宇宙の体系に似る。それでいてひとつの主体を持ちうる主体は宇宙にふたつ、みっつと存在するかのようである。その存在をどう見るか、秩序の現れはどう喩えられるか。押しらく、秩序と混乱をもって対比するならば、日本的秩序をいたるところで目にすることになるが、日本的混乱はその混沌のままに放置されることはない。それをも自然の秩序とみる。列をなす日本人には列をくずすありようは想像しえない。チリ、塵芥のない道路は掃き清められる日本人の道を象徴するし、公共の場での日本的秩序を見てそのあらわれを、宇宙の秩序に思いをはせるのは、主体の存在があるわたしたちの民族性を思うことになる。 . . . 本文を読む