日本語教育に興味を持ったのは、どのようなきっかけであったか。
35年の生涯教師にと、その駆けだしたころを思い出してみる。
20代のこと、日本語教師については何も知らなかったが、大学時代のアルバイトに日本語教師をしたことがある。
と言っても、それは、帰国子女の小学生であった。
エルサルバドル共和国、サンサルバドルから、赴任していた親子が帰国後のこと、日本語を教えてほしいと言ってきた。
その向かい側の家で中学生の高校受験を家庭教師として行っていたときのことである。
それは何をどうするのか、小学生児童の国語教育の手助けであるが、困っているようだったので、引き受けた。
姉弟の末っ子で、帰国して友達がほしい、兄替わりでよいから、日本語を相手してくれというので、一計を案じた。
それが日本語教育に当たるかどうか、発音と文字だと思い、ろうそくの科学、と、吾輩は猫である、をテキストにした。
あとは相撲を取ったりゲームをしたり、口の重い、おとなしくしていたのを、鼓舞すべく、あの手この手であった。
その経験からか、大学院に進んで、国語学国文学の一方にある日本語研究に目を開かれることになる。
研究会の主宰にあったのは、恩師、日本語教育学会の副会長の薫陶があったのである。 . . . 本文を読む
日本語教育史、日本語教育の歴史、リマインダーにそれぞれ、このころの日付である。このテーマで3年目である。それぞれ内容は考え方も、とらえ方もかわりばえしない。それをまたくり返すようなことで、歴史であるからその記述には資料の発見、資料の解釈に変更があれば意味あるものとなるが、日本語教育と歴史をならべて、また書いてみるので、新味がないことをお断りしたい。リマインダーにあるところをとりあげて、何を書くか―ー . . . 本文を読む
留学に思いがある。
留学生に日本語教育を続け、留学生に接することであるから、常よりそう考える。
留学はそれだけで人がもつことのできる、後天能力である。
留学をして目的を果たすことはその能力の鍛錬と発揮である。
留学そのものは自国から海外へ出かけて、これは日本のような地理関係の場合に、外国へ行くという言い方になる。
留学先の異文化に接触して、その地の風土習慣に合わせた生活様式を受け容れることは、やはり能力である。
留学は学問研究のためであったのか、外国の文化を学び、自国の文化と対比し、そこに新たな思いを持つ。
留学はコミュニケーション能力のために問われるようになってきたのは、グローバルな環境にかわってきたからだ。 . . . 本文を読む
教育史に立場を作る。歴史の視点を持つ。そのことについて繰り返し述べてきたことである。留学生の教育に携わってきたことが日本語教育史の視点を作って来た。わたしの個人史では学生時代に日本語教師の家庭教師の経験があり、日本語教育の研究職を得ようとした契機があって、その後に大学の非常勤で日本語を教えることになった。それが留学生を対象としたことであった。そして大学院進学の留学生教育を続け、その一方で、日本語教師の研修とサバイバル教育をはじめ、学部留学の予備教育を行い、さらには、わたしの日本語教育は教師養成のコース担当、大学院博士の留学生二研究指導をしている。1970年代のことから36年にもなる。70年街から80年代半ばには中国からの日本語教師研修コースと外国語大学での大学院留学生予備教育、市民向けに日本語教師養成講座を始めた1980年代後半には学部学生の予備教育、留学生別科を作り、 . . . 本文を読む
日本語教育史に植民地時代を作って来た言語教育を歴史事実としてどのように記述するか、困難な課題である。その植民地また外地への進出を時代に見ると、それはどうとらえるかと批判をしなければならない。植民地主義が、国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考であるとする解説に、ウイキペディアによる、それを推進してきた国語教育があったことを、日本語教育に置き換えて記述するのは正しいことではない。日本語教育にその目的があって行われていたとするならば、正しく議論をする必要がある。歴史研究に帝国主義の批判がある。一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策と解説があれば、ウイキペディアによる、これもまたその事実をもって時代への反省を加えることになる。価値や、その目標が違えば、やはり帝国主義日本語教育ではどうであったか、というような、捉えかたをして、区別することも行われなければならないが、そうなると、新日本語教育あるいは現日本語教育は歴史時代にどう映るであろう。 . . . 本文を読む
リマインダーが告げる。1年前の記事であるが、つくづく、同じようなことを考えていて書いていて、そして月日が巡るようである、ことを思う。リマインダーの方では、1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?また、ライフログとして1年後の自分に向けて素敵な思い出をブログにまとめましょう♪ というように、おすすめがある。ここに再掲してどういうことで、どういう意味があるか、日本語教育史概略にまとめられたことを、さらにまとめてみるような、新たな発見、記述があるかと思うようなことになる。日本語教育の始まりとする。どこで、いつ、だれが、始めたか。宣教師たちにとってみれば、日本語習得をする学校があった。そこでは誰が教えたのか、どんなふうに、と、想像をめぐらすと、日本語教育は教授側の方から見てのこと、そこに教育方法があるときに、外国語習得の方法をすでに宣教師たちの学校にはあったただろうから、日本語学習から始まると考えたら好いのかもしれない。 . . . 本文を読む
日本語教育の拡大期は1980年代から始まる。時代の要請ともいうべく、日本語学習に求められるものがあった。学習者の多様性が言われる直前に留学生の増加がこの時に起こったのである。ちょうど拡大期に差し掛かる、いわば前夜にあたるころ、わたしは日本語教育を知る、それは1977年になる。大学院博士後期で国語学国文学研究をしていたのだが、日本語教育の研究所での募集の話があるので応募してはどうかというものだった。博士後期をまだ2年近く残すところで書類を整え上京し日本語教育研究要員の面接を受けた。その思い出に個人的なことがらであるから、日本語教育史を重ね合わせるのはまったくもって論外であるが、お許しを乞う。結果は日本語教育センタの拡大に伴う定員予算が当初と異なり人件費が減じられて採用が見送られて、というようにわたしは聞いていた、そのまま帰京し大学院を続けたのである。得難い経験となって日本語教育のメッカに行きあったことになる。付置された日本語教育センタはその後に日本語教育界のパイオニアとなり、それを知る。知り目?に見てのわたしはもう一つの専門を国から日本へと向けることになる。 . . . 本文を読む
戦後復興期から拡大発展期へ、1960年代までと、1970年代以降である。教材開発と教授法で語ると言う。教材開発には、東京外国語大学付属日本語学校の日本語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、国際交流基金の日本語初歩 海外技術者研修協会の日本語の基礎、大阪外国語大学のJapanese For Today などが、相次いで出版された。教授法についてもAL法からオーラルアプローチ全盛期を迎えて、反省期に入っていく。1945年に、Friesの著作による、オーラルアプローチの理論と実際が示され、1965年、Friesが来日して、以後、1959年までに5回訪れる。文献で日本に初めてオーデイオリンガルアプローチが紹介される。1963年、サイレントウェイ考案される。1965年、Carrollがオーデイオリンガルアプローチを批判する。1969年、TPRをAsherが発表する。1972年、CurranによってCL法が開発される。1976年、コミュニカティブアプローチを示あれる。1979年、サジェストペディアが示される。1983年、ナチュラルアプローチが唱えられる。 . . . 本文を読む
日本語教育の歴史は宣教師のための日本語に始まる。16世紀半ばに鉄炮記によれば1543年、種子島へ鉄砲が伝来する。ポルトガル人がやってきて、ほどなくしてザビエルが来日した。 >文献などではっきりと分かっている史料から、日本に到達した最初のキリスト教宣教師はザビエルであるとされる。彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、実際にヤジロウという日本人と出会った。そして、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルはインドを離れ、1549年に念願の日本に到着した。 . . . 本文を読む
留学生30万人計画構想がある。これは1984年中曽根政権による10万人構想に次ぐもので、こちらの方の留学生10万人については2003年に達成した。当時は2000年までに目標を立てた。諸外国でその当時にアメリカが約31万人、フランスが約12万人、イギリスおよび西ドイツがそれぞれ約6万人という留学生を受け入れている実態を踏まえ構想したようである。2003年に109,08人となって、計画よりも3年遅れとなった。そしていま、30万人はどうなったか。それは2020年に30万人を目指すとした。、新たに日本への留学生30万人計画を策定し、実施に移すとともに、産学官連携による海外の優秀な人材の大学院、企業への受入れの拡大を進めますと、福田首相が演説し、日本政府は2008年に留学生30万人計画を発表した。この発表に日本語教育がかかわる提言、実はそれはかかわらないことになる内容だったのだが、大学のコースに英語だけで単位取得できる留学生向けとでもいうべきを作ることだった。もう一つのことは、移民政策に1000万韻構想があることである。高度人材がキーワードでる。 . . . 本文を読む