戦後、日本語教育の歴史は大きな画期を迎える。中国から赴日留学生を受け入れたことである。 >中国赴日本国留学生予備学校(以下予備学校)は、中国国家教育部直属の機関であり、中日両国の政府間の教育交流協議にもとづき、1979年東北師範大学に設立されました。予備学校はわが国唯一の中日両政府間の合作により設立された学校であり、さまざまな分野から日本へ派遣される人材に対して、高度な日本語教育を集中的に行っています。 そして、1984年、留学生受け入れ10万人計画が策定される。 >当初の「留学生受入れ10万人計画」の概要
○ 背景
(1) 留学生交流は、我が国と諸外国との相互理解の増進や教育、研究水準の向上、開発途上国の人材育成等に資するものであり、我が国にとって留学生政策は、文教政策及び対外政策上、重要な国策の一つである。
(2) 元留学生の中には、各国の発展や我が国との関係で貴重な役割を果たしている者も少なくない。
(3) 我が国の受入れている留学生の数が、昭和58年当時、他の先進諸国に比べ、際だって少ない。
○ 基本的見通し
(1) 21世紀初頭において、10万人の学生(当時のフランス並み)を受け入れることを目途とする。
(2) 我が国の18才人口が1992年までを前期、減少傾向に転ずる1993年以降を後期とし、前期においては、受入れ態勢、基盤の整備に重点をおき、後期においては、その受入れ態勢、基盤の上に立った受入れ増を見込んでいる。
(3) 国費留学生と私費留学生の割合は、10万人受入れ時においては、フランスの状況等を勘案し、1:9程度とする。
(4) 国費留学生は、私費留学生受入れの牽引力としての役割を果たす。 . . . 本文を読む
第2次大戦後の日本語教育について見よう。1970年代から1980年代にかけて、日本語教育は隆盛期前夜を迎える。
日本語を、外国人のための日本語教育とした年代から外国語としての日本語教育へと転換する。
それは日本語教育学会の動きとなって表れる。
昭和51年、1976年に名称を日本語教育学会とする、The Society for Teaching Japanese as a Foreign Language
一方で、日本語教育研修会が始まる。 . . . 本文を読む
よく利用され普及した海外技術者研修協会の教科書がある。
実用日本語会話 Practical Japanese English 1967
日本語の基礎Ⅰ、Ⅱ 1972年 1981年
新日本語の基礎Ⅰ、Ⅱ 1990年 1993年
研修生は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカから来日し、日本語教育は短期集中学習を行った。100時間ないし200時間として、5週間または1か月の短時間で技術研修期間に併せて実施していた。
海外技術者研修協会 Association for Overseas Technical Scholarship 、AOTSは、海外の産業技術研修者の受け入れ、研修等を行う組織として昭和34年、1959年に設立された。
. . . 本文を読む
日本語教育を実践することは教育にかかわって、空間の広がりを持つ日本語の研究、時間の展開に日本語の遷り変わりを知ることになる。実践は学習と教育にあるので日本語習得に目的がある。日本語享受者には言語を通した日本文化をも知ることになる。日本語教育史を探求することは、日本語研究史、日本語史にも及ぶことになる。さて、その歴史を知るには、歴史ををたどるためには、記録をする文字を持つこと、これが言語にとって条件である。歴史という語の意味を知ることが大切である。言語史の研究は書かれた過去の文献の着実な研究、文献学の確実な成果を基礎に成り立つ。文献学と言語を究明する言語史は記録された言語を探求している。しかしまた、困難な課題として、言語史は口語の歴史であるべきである。歴史のまにまに、言語は流動し、たゆみなく変化していて、その生命としての言語がとらえられるのは口語である。口語そのものを直接に観察できるのは、現代のコトバである。 . . . 本文を読む
第2次大戦後の日本語教育について見よう。教科書と教授法をとりあげると、長馬直兄による、標準日本語読本巻一 1964 にはじまる、同 巻五 1967 のテキストがあり、この教授法にはH.E.パーマーのオーラルメソッドを用いていることがわかる。別冊に、文法とグロッサリー 1950 が、ある。その後の初級教科書の、構造別文型、表現意図別文型、語の用法別文型の選択配列に影響を与えた。この標準日本語読本は再訂版である。最初に、1931‐1934 次いで、改定版が 1948 全8巻で出版されていた。これは言語文化研究所付属の日本語学校の編であった。一方で、取り上げるのは同じく戦前に出版されていた国際学友会の教科書である。NIPPONNGO NO HANASIKATA 1964 読み方 1959 そして、日本語読本一~四 1957 で、これは入門用テキストとして編まれた。文型分類が、表現の種々の場合に於ける文型 とあって、表現分類に工夫があってわかりよい。
. . . 本文を読む
留学生教育が日本語教育の視点となり、それを辿ることで日本語教育を知る。留学生を迎えるのは清国留学生の経緯がある。遡れば留学生の視点は留学僧にまで時代を上がることになるが、そこには日本語教育はない。したがって第2次大戦の戦後になってふたたび留学生の日本語教育が盛んになるとその契機は何にあるか。日本政府の留学生受け入れ政策にある。国語教育からに日本語教育に変わってあらたに留学生に日本語促成教育をしようとした。いまふうに言えば集中教育である。そこに、賠償留学生教育と赴日留学生教育がある。それは1960年のインドネシア留学生の来日であり、そして1979年から戦後における日本語教育の画期となる、中国での赴日予備学校は、まず5か年計画が実行された。中国との友好条約の発効によって1980年代に日本語教育が中国留学生に盛んになった。 . . . 本文を読む
日本語研究史は1980年代以降に日本語教育とかかわりをもって展開した。日本語学と言う広まりである。現代に始まったことではない。日本語教育を歴史的に見ていくと、そこには日本語を学習するための日本語そのものについての分析が行われたり、日本語を記録しようとする研究があるのを知る。たとえば17世紀にポルトガル宣教師たちにより日葡辞書が編纂された。その成果は、日本語の文法記述としてロドリゲスが著わした日本語大文典とともに日本語研究には大きな業績である。これはまた日本語の歴史を知る上での貴重な資料でもある。日本語教育の歴史は、日本語教育史となったときに、日本語研究史、日本語史とあわせて、日本語についての見方をわたしたちに与えてくれる。 . . . 本文を読む
日本語教育の歴史は日本独立とともに始まる。日本独立はいつか。近年では1945年を境に大日本帝国から連合軍による被占領国となり、日本になったのは1952年である。その時期以後に賠償留学生を迎える動きがあった。そのうちに、インドネシアからの留学生がいた。学制百年史文科省の白書によれば国費外国人留学生制度は1954年に始まる。東南アジアの留学生の受け入れが行われた。国費に対して私費留学の受け入れもあった。そのような留学生の受け入れに賠償留学生がいた。留学生の受け入れには日本語教育がともに行われた。ここでは、日本語教育の歴史の視点に留学生の受け入れを持つ。第2次大戦の戦前、戦中と戦後に分けることができる。いま、留学生の日本語教育に戦後の日本語教育史の展開を見ようとする。経済復興と国際社会への復帰による日本の歩みとともにある日本語教育である . . . 本文を読む
ロシア資料による日本語研究、研究叢書545、この書によって漂流民が遺した日本語についての具体的なようすがわかる。専門書としての内容はつぶさに伝わった日本語の事実がわかり裨益するところが大きい。18世紀薩摩漂流民がロシアで遺したした資料のうち、文献を利用して日本語研究を行って漂流民の資料故に京都語の中央語史とちがった、方言研究史になると言う。方言国語史であり、口頭語の資料として位置付けられる。漂流民たちは漢字を十分に理解していたか、あるいは公卿が話したり読んだりするような日本語をインフォーマントとして伝えたわけではない。当時の薩隅方言資料となる。扱っているのは、露日単語集、日本語会話入門、友好会話手本集、世界図絵である。ロシア資料の沿革はこの著作によってこれまでの研究に合わせてほとんど明らかになる。ゴンザ、ソーザの足跡はロシアに渡った薩摩方言の日本語としてさまざまに思い合わせられることは計り知れない。 . . . 本文を読む
西洋人の日本語発見より、露西亜への漂流民の記述を紹介した。講談社学術文庫版のあとがきによると、これは1989年の創拓社版にはなかったのを補訂している。ポルトガル人、オランダ人、アメリカ人らの日本語観、日本語研究を取り上げていたもので、それにロシア人が加わった。四海より臨む日本を取り囲む周辺はそのかなたに人知れず流れ着いた人々の世界があったのである。日本に宣教、貿易のためにやってきた人ではなく、漂流して過酷な状況でやむなくその運命を受け入れたものであろうが、生き延びた人たちの異郷の地での活躍は決して見過ごされない。日本語教育史の視点には留学生教育をすえるものではあるけれど、また布教のために日本語をかの地で教えてきた人たちも多いことだろう、そのなかにあってロシアからヨーロッパへ、そして革命にあって、パリからアメリカ大陸へと日本語の関心は運ばれていく様子はそれを知るものとして何ほどを感じるであろうか。 . . . 本文を読む