ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

ドイツ語学者と海洋学者

2010年03月04日 | Weblog
この前のチリ地震による大津波警報で、三好父子を想い出された。昔のこと、小生は某国立大学の理学部地球科学教室にいた。教養課程でドイツ語を履修したのだが、そのときの非常勤講師が三好助三郎先生だった。すでに大学をリタイアして故郷の県北に帰って暮らしておられ、もう80歳ぐらいの老学者だった。彼の息子さんの三好寿という海洋学者を自慢しておられた。東大の海洋学のドンは日高教授で、そのグループに息子さんは入らなかったので冷遇され、他所の大学に移ったという。小生らの学生と息子さんの地球科学が共通することで親しみがあって、そういう話もされたのだろう。
三好助三郎先生の講義は面白かった。週一回の講義で午前中だったので、暗いうちから県北の家を出ていたので池に落ちそうだったなんてことも話された。ドイツ語で次の三つだけ覚えておけとも言われた。「イッヒ・ハーベ・カイン・ゲルト(私は一文無しです)」、「エトバス・マッヘン(トイレに行きたい)」、「アイン・ツバイ・ドライ(一・二・三)」。だから数十年の歳月が経った今でも覚えている。それから駄洒落も言っていたな。ベヘーレン(命令する)という単語についてだった。娘さんが彼に「なぜ、お父さんはベ平連に入らないの」と聞いたという。彼は「ぼくに命令する気か」と応えたという。もちろん作り話であろう。
その当時買った「海と人生―ピッグ・サイエンスの窓 」(三好寿、三省堂新書、1970年発行)という本を久しぶりにみた。 石垣島に行ったら牧野清の「八重山の明和大津波」が右から左へとものすごく売れていたこと、どの津波の犠牲者も女、子どもの弱者が多いことなど書かれていた。
懐かしくなり、「津波 イルカ君との対話」(三好寿、青磁社、1985年発行)という古本を取り寄せたところである。

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3 コメント

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三好助三郎の娘です (坂爪逸子)
2010-08-15 08:04:22
三好助三郎の娘です。
十年前に102 歳で亡くなりました。
全く過去の人で、インターネットに載っているなど夢にも思っていませんでした。
遊び半分で父の名前を検索していたら、『独英比較文法』と共に父の名前が生きていることを知りびっくりしました。
偶然敗戦の日が近づき、戦争にまつわる我が家の重い話をお伝えしたく思いました。
父が自慢していたという兄は、旧制中学生のとき、開戦三日目に「日本は負ける」と公然と言い出して、憲兵に「一度なぐってやる」とにらまれていました。日米の飛行機の数と石油量を比較した結果であり、愛国心から出た言葉ではありません。
父は愛国心のかたまり、ひたすら一途に日本の勝つことを信じていました。父の怒りにも対処しなくてはならず、母の兄に対する心配も大変なものでした。
敗戦で兄は我が家のヒーローになり、父の権威は落ちきりました。
しかし父は「日本は学問をバカにしたから負けたのだ」と、以後、スパルタ教授として、鬼のようになって授業に打ち込みました。60年安保のときも、「一人でも授業に出席する学生がいたら彼のために授業をする」と、学生の休講の要求も、娘の反対も押し切り、大学でただ一人授業を強行しました。欠席者は二・三人だったと記憶しています。
退官後、娘がいったなどと嘘までいって、学生に笑いをとろうとしていた父など全く思いもよらないことです。頭も心もマルクなったのでしょう。
その後我が家では、父と兄の関係は、私の中では逆転しました。父の期待にこたえられなかった兄が苦し紛れに、「オヤジは戦争に協力したでしないか」と過去をむしかえしたとき、父は
「僕は協力した。命をかけて戦争に協力した」
と、かなりの迫力で兄に言い切りました。このとき兄は一言も言葉がありませんでした。
だから戦後の父の一途な生きかたもあったのでしょう。
敗戦によって世代間の立場が逆転して、さらに数十年後、戦争に懸命に協力した人々の真摯な生きかたが、再度世代間の精神的立場を逆転させている。こういうことが日本のあちこちで起こっていたのではないかと願い、一筆しました。
なお父は旧制松山高等学校の教授時代、名物教授といわれた、東洋史の植村清二先生の戦争反対論にもただ一人くってかかっていました。植村先生は、心配した校長によって他の学校へ転職されています。このときの植村先生と父との別れが、『歴史の教師・植村清二』という息子さんの本に書かれています。いい本です。
                         坂爪逸子
コメントありがとう (かやの)
2010-08-15 21:43:13
坂爪逸子様
コメント、ありがとうございます。
三好先生の講義は面白かったです。『独英比較文法』はテキストとして使ってました。ご子息の三好寿さんのことも話されていたので、その相乗効果で数十年経っても記憶しているのだと思います。102歳の長寿を全うされたんですね。

『歴史の教師・植村清二』、図書館にあったので少し読んでみました。ふたりは、輪講や囲碁の気が置けない仲間ように書かれてました。植村さんは歴史学者であり、著書に「万里の長城」があるということぐらいは知ってました。実兄が直木三十五であることは初めて知りましたが。植村さんも85歳まで教壇に立っておられたんですね。

終戦記念日に、佳いお話をありがとうございました。
大変お世話になりました (高橋信之)
2015-02-19 13:52:54
三好助三郎先生には大変お世話になりました。愛媛大学一年の初めからドイツ語を教えていただき、卒業後は、母校の教壇に立たせていただきました。逸子さんもよく覚えています。

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