ある旅人の〇〇な日々

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読書録「昭和十六年 早川元・沖縄県知事日記」

2007年05月14日 | Weblog
野里洋著の「昭和十六年 早川元・沖縄県知事日記」(ひるぎ社おきなわ文庫)を読む。
早川元は第25代沖縄県知事であり、昭和16年1月に熊本県総務部長から沖縄県知事に転任し、昭和18年7月まで約2年半にわたってその任にあった。昭和16年というと、ちょうど太平洋戦争に突入する時期であった。その時期の沖縄に関する資料はほとんど焼失しており、早川元の日記は貴重なものである。この著作は著者が早川元の子息が保管していた昭和16年の1年分だけの日記コピーを提供してもらい、当時の朝日新聞鹿児島・沖縄版の知事関連記事とともにまとめたものである。
早川知事は「大政翼賛会知事」、第26代泉守紀知事は「戦場化するのを恐れて逃げた知事」、第27代島田叡知事は「悲劇の知事」と一般によばれている。早川知事は国策に忠実に県政を行ったのである。当時の新聞では、人情知事とか行動知事として好意的に書かれている。宮古島や大東島を視察したり、いろんな行事に参加している。日記は、たいへん素っ気なく備忘録ふうに書かれ、天候、公私にわたる出来事しか書いていない。早川知事の意見、主張、想いなど一切ない。でも面会や同行した人名が数多く記載されている。
例えば次のようなものである。
 二月十七日(月)
 曇後小雨、夜雷鳴を聞く。
 庶務課長より主管事務の報告を聴く。
 午後海洋会館に於て谷寿夫中将を囲みて座談会を開く。
 全購販連中央本部より吉田資材部長以下一行三名来覇、祝宴会あり。
 
興味深いのは、5月30日に「久松五勇士」の生存者二人に面会するため宮古島を訪れていることだ。目的は戦意昂揚のための格好の材料として取り上げることだったようだ。久松五勇士とは日露戦争のとき、バルチック艦隊発見を知らせるため宮古島から石垣島へサバニで急行した人たちのこと。ところが朝日新聞記事によると艦隊の第一発見者は「バルチック艦隊に発見され、捕虜になったが、言語、動作、服装の点から支那人と誤認されて釈放された」ということになっている。著者はこの事実は次第に隠蔽されて神話として歪曲されたのではないかと見なしている。 
早川知事は昭和18年7月に大分県知事に転任、翌年蘭領ボルネオへ海軍司政官として赴任、戦後に公職追放された。沖縄10.10空襲前の知事だったので、泉・島田知事に比べ幸運な人だったのかもしれない。

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2 コメント

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早川元の孫です。 (kirata)
2007-07-01 01:59:04
祖父の名前で検索していたら、こちらのブログをみつけました。
祖父の長女(暢子=私の母)は、元気で79歳になり、福岡県に在住。長男(明)は、東京都、次男は横浜在住、従って早川元の子どもは、3人とも元気です。
我が家にも、この本はあります。
見知らぬ方が、こんな本を読んでいらしたとは驚きです。
私にとって、祖父は子ども好きなやさしい祖父で、度の強い眼鏡越しに名前を読んでもらった記憶が残っています。
祖父は、背中にできた皮膚がんで亡くなりましたが、祖母や母には「痛い」とも「苦しい」とも言わずに、ただただ家族のことを気遣って亡くなっていった、と聞きました。(私は、子育て真っ最中で会いに行けませんでした。)
曲がったことの嫌いだった祖父、家族にやさしかった祖父…と、聞いております。
また、消防庁に勤めていた時は、白木屋の火事の時、部下の方が止めるのもきかずに、助けに行こうとしていたということも聞きました。
私も驚きました (ある旅人)
2007-07-01 19:31:12
kirataさん
早川元・沖縄県知事のお孫さんがコメントを書かれるとはびっくりしました。
今年、野里洋の「癒しの島、沖縄の真実」(ソフトバンク新書)を読み、戦中の沖縄県知事に関する本を読んだわけです。
泉、島田、そしてあまり知られていない早川さん。
当時は戦争協力が当たり前の時代。
島守として顕彰されている島田さんさえ、最近の沖縄の新聞では軍部に協力的だったと批判する記事も見られます。

あの著書は記録を失った沖縄のことを日記で知らせてくれて貴重でしょう。
早川さんについても好意的に書かれてます。

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