ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

大神島

2006年05月11日 | Weblog
寺山修司の著作に「花嫁化鳥~日本呪術紀行」(中公文庫、1990年)というのがある。先日、古書店で物色していて見つけた。1973年に雑誌「旅」に連載されたものをまとめたものである。最初の章が「風葬大神島」となっているので買って読むことにした。
大神島は宮古島とは目と鼻の先にある。冒頭が「大神島は老婆の島である」で始まる。舟が島の突端に着いたとき、岩窟の上の一軒家の雨戸が少しだけ開き、誰かがじっと見ているとか、老婆と子どもたちが手鞠をしているとか、片目の漁師に島まで運んでもらったとか、夕暮れに子どもたちがかくれんぼをして遊ぶとか書いているので、まるで寺山ワールドである。子どもに島の頂上まで案内してもらったが、辿り着けず元の場所に戻ってしまうという。もう一度、登っても同じ繰り返しになるそうだ。このあたりは、創作かもしれない。でも、島で民俗学者の鎌田久子女史に会って話をしたというのだから、島に渡ったのは事実かもしれない。子どもにキャラメルを四つやったら、一つ返してきたという理由が分からなくて分教所の先生にきくと島では偶数がとても嫌われていると言われたという。本当だろうか。
その他、海賊伝説や兄妹結婚、海賊キッド騒動、河村只雄の訪島のことにも触れている。

社会学的な目的で大神島を初めて訪れたのは河村只雄である。昭和11年と13年に訪れている。それについては、「南方文化の探究」(講談社学術文庫、1999年)に載っている。当時、戸数23、人口153、小学校児童23人であった。そういえば、今年、小学校児童がゼロとなり、休校となったそうだが。隆起珊瑚礁の島ではなく第三紀層の島と書いている。宮古諸島では珍しい。
小生、10年ほど前に、宮古島をバイクで走ったことがある。池間島のほうへ走っているとき、大神島がみえた。不思議な感覚にとらわれた。すり鉢を伏せたといおうか、円錐に近い形をした高い島だったから。狩俣というところから定期に渡船が出ているようだったが、渡ってみようとは思わなかったことを覚えている。その時は、大神島のことはまったく知っていなかった。
河村は神山(拝所や籠屋がある神聖なところ)を隈無く探検して写真を撮っている。帰京後、島に疫病が流行り、神司も倒れたと知り、神罰だという噂が流れた。その2年後、島を再訪している。上陸を許可してくれないかと予想して行ったそうだ。だが、その前年、海賊キッドの3.5億円財宝騒動で、宮古の旅館の女主人が神山の洞窟を掘り返していた。そのことに河村が同情を寄せたので名誉回復となったというのである。しかし、神事については聴き取ることはできなかった。

民俗学者の谷川健一が「女の風土記」(読売新聞社、1975年)のなかで「大神島の老女」というエッセイを書いている。1972年に中日新聞に連載したものだ。大神島に渡るのに二度失敗し、三度目に成功したそうだ。サバニが使われていたので天候に左右された。数年前に訪れたと書かれているから1960年代だろうか。外来者が神事について聞くこと、御嶽に足を踏み入れることは厳重なタブーであると言っている。島の老女の家に泊まり、島を歩いている。彼も島の人から警戒された。島がススキにおおわれていること、十六夜の月のこと、サバニで宮古に渡るとき航海安全の歌を老女がずっと歌っていたことなど。彼は、3年間隔をおいて2度訪れている。
谷川健一は、宮古とつながりが深くなっていくから、その後も訪れていると想像できる。

「琉球の文化~特集・琉球の焼物」という雑誌を持っている。1972年に琉球文化社から発行された創刊号である。そのなかで星雅彦という作家が「大神島探訪記」を載せている。1971年の12月に訪れている。名を検索してみれば詩人でもあるようだ。詩集を出している。
宮古の平良市の歯科医に便宜をはかってもらったので警戒されながらも島に渡れた。ここでもサバニで猫背の老婆といっしょになり、波を被ってびしょぬれになった。
当時の島は23軒、人口165人。昭和11年と比べると、戸数は同じで人口は微増というところ。の略図まで載っていてわかりやすい。23軒の民家は、船着き場から中央の神山の麓までのなだらかな一本の坂道に、ほとんど寄り添うように集まっていると表現している。セメントを流し込んだだけの簡易舗装道路、民家はそろって二間か三間の平屋、その外壁はブロック、屋根は粗雑なセメント瓦、美的なデザインや優雅さを無視した間に合わせの現代的なもののを貧しさをずばり示しているとも。
小学校の女教師に民宿できる家を世話してもらい、老婆一人の家に泊まっている。部屋にはなにもなく、台所の土間には黒ずんだ石が3個あるだけのカマドがあるというような質素さ。着替えをすませて、1時間もして老婆がお茶を運んできてくれた。茶菓子は、黒砂糖と南京豆。さすが老婆の島で、老婆ばかり登場する。寺山修司のいうとおりである。
星雅彦は、かつて旅行者から大神島についてある話を聞かされていたそうだ。島の頂上に登るつもりでどんどん歩いていったが、また元へ戻ってしまい、カフカの「城」を思わせるように辿り着けなかったと。寺山修司は、この話をパクったのかもしれない。星雅彦は、神山の頂上遠見原に辿り着いた。同宿することになった大学院で動物学を専攻している学生と一緒に登ったという。遠見原には巨大な隕石のような岩が突き刺さったようにポツンとあるというのも神秘的だ。
島での生活のこと、海賊伝説のこともよく書かれており、興味深い紀行文である。
最後は「(未完)」で終わっている。続編があるのか。

琉球王府の支配の時代、大神島は米を栽培できないので人頭税を免除されていた。そのかわり、褐色の着物を着けさせられて差別されていたという。
今も、近づきがたい島なのだろうか。

追加:
検索したら大神島は観光化されつつあることがわかった。
直近の選挙権者が41人だから人口50人程度か。
船便は、狩俣の南の島尻港から1日4便ほどあるようだ。大神島の海運会社が就航している。島の良い収入になる。
大神港から一本坂道を上っていくと標高75メートルの遠見台に10分程度で到着できるそうだ。急なところに木造の階段ができている。頂上には展望台のようなものも整備されている。
島には売店が一つ。予約しておけば島の料理も食べさせてくれるようだ。
島に船が着けば、ゴルフカートのようなもので島民は家路につくという。写真を見ると新築のきれいな民家が増えている。
島の祭祀は行われているのだろうか。
島は、もうすっかり変わったようだ。

(5月12日)

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1 コメント

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地図で見ました。 (寅の子文庫)
2006-05-22 08:25:02
えいちゃんこんにちは。読む度に沖縄・宮古・石垣と興味は尽きません。ソースネクスト社から1980円で出ているデジタル全国地図で検索するとえいちゃんの話が頭の中で位置関係を把握できて一層、リアルで楽しめます!
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