今晩が、十五夜なのは、旧暦でのことである。葉月十五日であるから、十五夜となる。満月は6日、然し17となり立待月、寝待月と変わっていく。旧暦と新暦との差を知っていないと日数が合わない。世間がそうであるからでは、間違いが起こる。
昨夜は、涼しくてよく眠れた。虫の声にも勢いがなくなり、本格的な秋を感じる。灯火親しむ読書の秋は月末になるが、今年図書館では、初夏とこの時期に、テラスを開放してくれ、カフェをするようだ。市販のインスタントは飲めないので持参する。
最近、銀座の珈琲屋からの取り寄せで、豆を挽いて淹れるが、他社の物も、多少は飲めるが、微妙な風味が、その日の気分で変わるので困る。勤務先には小川珈琲を置いている。まあ、一般的な価格だし、味も不味くはない。風味は水で変化だ。
自宅では、水にも拘っているから、Aさん家の地下水が欠かせない。咽喉越しの微妙な感じが異なり、水道水では味わえない。米にも同じで、洗い物は致し方なくだが、二つには譲れない。自宅に飲みに来たり、淹れたのを持参すれば一目瞭然。
宮部みゆきさんの、この世の春の中に、汲んだ瓶の中の水が濁る件に、生姜を入れて置く。というのがあった。昔の人の知恵に驚かされる。そういえば、祖母が遣っていたような気がする。尤も、井戸からの汲み上げであったから、水神さま対策。
水神さまは、天龍である。美しい白龍で、人語を解し、時折人目に触れることもあった。わたくしや娘にも視えたのも、不思議なことではない。雨が少し必要な時、宇宙を観ているとお湿りが来る。天知る、地知る、人知るであろう。自然崇拝の基本。
自分だけのことと思わず、誰かの援けになればいい、と心を掛けていけば、自分への報いがなくとも、自然からの恩恵を受け取ることが出来る。我が家の枇杷葉が、霊力を持ち、無心に病平癒を願えば叶う。邪心があれば、どんなにしても否だ。
立春を過ぎて、玄関の脇の枇杷葉に、やっと見えてきた花芽。結実はならなかったが、香りは馥郁と。