「介護うつ」
一線を越える、というのは、性的な意味合いだけなのでしょうか。わからんけれども、若い頃を振り返ってみたならば、ラブレターを書く、メールアドレスを問う、食事に誘う、な~んて、それこそ一大決心のような按配だったような気もするし、今だってそんなん、苦手中の苦手に違いなく、異性と上手く接する自信なんぞ、まるでありません。さらに、(性的な意味合いについてだけではなく)僕は何事においても極めて奥手で、少なくとも早熟であったためしがありません。例えばですけれども、そもそも異性に対しての恋心みたいのが芽生えたのが、中学3年生の時でしたし・・・。
そんなわけで、幼少の頃から、アイドル(芸能界)にはあまり興味がありませんでした。だから、「(ピンクレディーの)ミーちゃんとケーちゃん、どっちが好き?」みたいな質問は、とても苦手でした。2択なのに。というわけで、48人なんて、絶対に無理!わけがわからん。
清水由貴子さんは、なんだかとても好ましかった。意識的に番組などを観ていたことはなかったし、聴いたこともまるでなかったけれど。年を重ねた彼女をたまにテレビで見かけて、いいな、と思った。本能的に、何か自分と接点がありそうだ、と感じた。もしも現実に彼女と何らかの縁があり、出会っていたならば、極めて例外的に、僕のほうから声をかけていただろう、と想像した。有名人だとか、そんな垣根を越えて、もしかしたらこんな僕でも、少しは役に立てるかもしれない、そんな風に感じさせる何かが、少なくとも僕の心の中には芽生えていた。
だから、彼女が一線を越えてしまったとことが、2重の意味でショックだった。報道されている通りだったのだとすれば、介護疲れのあげく、最愛の母と無理心中をはかり、自分だけが命を落としてしまった、ということになる。僕は何の役にも立たなかった。立てなかった。憧れだけで終わってしまった。その道のプロなのに。「人のお世話にはなりたくない」「人に迷惑をかけたくない」。その気持ち、心意気、わかる。わかるけれども、時には「助けて!」って、甘えて欲しい。僕はですね、「(容姿の)劣化」という言葉が大嫌いです。年増が好き。年輪を重ねて、より熟れた果実の、その種さえ味わいたい。
「お元気ですか」清水由貴子
一線を越える、というのは、性的な意味合いだけなのでしょうか。わからんけれども、若い頃を振り返ってみたならば、ラブレターを書く、メールアドレスを問う、食事に誘う、な~んて、それこそ一大決心のような按配だったような気もするし、今だってそんなん、苦手中の苦手に違いなく、異性と上手く接する自信なんぞ、まるでありません。さらに、(性的な意味合いについてだけではなく)僕は何事においても極めて奥手で、少なくとも早熟であったためしがありません。例えばですけれども、そもそも異性に対しての恋心みたいのが芽生えたのが、中学3年生の時でしたし・・・。
そんなわけで、幼少の頃から、アイドル(芸能界)にはあまり興味がありませんでした。だから、「(ピンクレディーの)ミーちゃんとケーちゃん、どっちが好き?」みたいな質問は、とても苦手でした。2択なのに。というわけで、48人なんて、絶対に無理!わけがわからん。
清水由貴子さんは、なんだかとても好ましかった。意識的に番組などを観ていたことはなかったし、聴いたこともまるでなかったけれど。年を重ねた彼女をたまにテレビで見かけて、いいな、と思った。本能的に、何か自分と接点がありそうだ、と感じた。もしも現実に彼女と何らかの縁があり、出会っていたならば、極めて例外的に、僕のほうから声をかけていただろう、と想像した。有名人だとか、そんな垣根を越えて、もしかしたらこんな僕でも、少しは役に立てるかもしれない、そんな風に感じさせる何かが、少なくとも僕の心の中には芽生えていた。
だから、彼女が一線を越えてしまったとことが、2重の意味でショックだった。報道されている通りだったのだとすれば、介護疲れのあげく、最愛の母と無理心中をはかり、自分だけが命を落としてしまった、ということになる。僕は何の役にも立たなかった。立てなかった。憧れだけで終わってしまった。その道のプロなのに。「人のお世話にはなりたくない」「人に迷惑をかけたくない」。その気持ち、心意気、わかる。わかるけれども、時には「助けて!」って、甘えて欲しい。僕はですね、「(容姿の)劣化」という言葉が大嫌いです。年増が好き。年輪を重ねて、より熟れた果実の、その種さえ味わいたい。
「お元気ですか」清水由貴子