まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

銀河鉄道の四半世紀

2017-10-13 15:15:35 | 日記
彼女と列車に乗り込む時は、予定を何も決めていない、そんな行動、旅を繰り返し重ねてきた。滅多にないことだけれども、時には怒られることもあって、例えば温泉に行く時はその旨を伝えてくれ、せめて着替えだけは用意させてくれ、と。その怒りに少しは反省しつつ、嬉しくも感じている。なぜなら、こんな私にも本気で怒ってくれる人がいるんだな、有り難いことだな、と。

変わらない関係、変えられない関係、変える気のない関係、はたしてどれに相当するのだろう、近いのだろう。少しは変化しているのかどうか。例えるならば、彼女は犬で、私は猫だ。何の因果か、再会すると必ず、尻尾を振っている。生活を供にしていないからなのか、どうか。一緒に居たいと思うことと、一緒に居られるということは、違う、ということなのか。少なくとも彼女は自分の方から出て行こうとはしない。

背中の傷は何なのだろう。掻いた、と言うが、そんな痕ではないことは明らかなのではないか。電話がかかってくる。「男といるんけ?」「そんなことあるわけねぇっぺし!」。馴染みの客であろう。横にいる私の存在に気を使う様子はまるでなく、また私も、咎めるような気はさらさらない。むしろ、彼女のその無神経さを、好ましくさえ感じている。

「女もわからんす!」と、友からのコメントが届いた。
確かに、と思うと同時に、わかることもあるのだ、と、言いたくなる時もある。
コメント

新しい棘

2017-10-13 14:29:28 | 日記
彼女の顔立ちには、琉球か、あるいはアイヌというような濃さがあって、そんな歪さが、なんとも好ましかった。しかし、その類の女性ならば、私の周囲にだって、いないことはない。つまりはきっと、一緒にいたい、さらには、一緒にいられる、その痛切さに陥ったということなのだろう。こんな状況は滅多にないことだということを、私は経験的に知っている。概ね半世紀において、馴染んで親しむ、そんな出会いは、あっただろうか。

我々は、或る大道芸人を観ていた、というか、ベンチに立って、遠くから眺めていた。私は靴を脱いでいたが、彼女はそのままだった。その果敢な感じもまた、好ましかった。その芸人はテレビでちょっとした話題になっていたらしく、周囲にはそれなりの観客で満ちている。彼女を知りたい、その思いは、先ずは、言葉によってでしか成し遂げられない。

「投稿とか、するんですか」と、私。
「えぇ、まぁ」と、彼女。

彼女は、熱心にその舞台を、スマホに納めていた。右手指には指輪があり、左手指にはない。私は、ひたすらにビールを呑み、酩酊していた。酔わずに声を掛けることなど、出来やしないはずだから、この状況に感謝しなくてはなるまい。確か、この芸人さんをどうして知ったのか、そんな質問をした時に、「両親が・・・」云々と、彼女の口から出たのではなかったのか。記憶は定かではないけれども、私はなぜか「両親」という単語を鍵として捉えたのだ。きっとここに彼女の源泉があるのだろうな、と。
コメント