

若夏の風物詩、那覇ハーリーが5月3日から5日までの日程で、那覇新港で開かれます。
船漕ぎ競争のハーリーは、漁民の航海の安全と豊漁を祈願する行事で、沖縄県内の各地で行われます。
那覇市は今年で35回目。ハーリーは中国から伝わったといわれ、那覇市では爬竜船(はりゅうせん)とよばれる中国風の舟を漕ぎます。那覇ハーリーは、毎年ゴールデンウィークの最大の楽しみで、大勢の人たちが繰り出し、にぎわいます。
姉妹都市の土佐清水市の少年野球チームを迎えて
ジョン万カップ少年野球交流大会
中浜万次郎が滞在したゆかりの沖縄・豊見城市で、姉妹都市の土佐清水市の少年野球チームを迎えての「第13回教育長杯(ジョン万カップ)少年野球交流大会」がさる3月28日、同市内で開かれました(写真は「琉球新報」4月7日付)。
もう13回開かれているんですね。
土佐清水市から2チームで総勢20人が3泊4日の日程で参加しました。大会は8チームが参加し、沖縄勢で決勝を争い、とよみヤンキースが優勝したそうです。
土佐清水チームは、野球以外に少年野球チームとの交流会や平和学習として、万次郎がアメリカから帰国するさい、上陸した糸満市大度海岸や、半年ほど滞在した豊見城市の高安家を訪問したり、海洋博公園、首里城など見学したそうです。
知られざる高知人・黒岩恒 その1
黒岩恒(ひさし)といっても、高知県内で名前を知っている人がどれくらいいるだろうか。
私もまったく知らなかった。その名前を初めて知ったのは、沖縄に移住して二年目のことだ。
県立図書館で借りた『沖縄の百年―第一巻近代沖縄の人びと』を読んでいた時だった。沖縄でも北部の山原(やんばる)で農学校の校長を務め、学校で学んだ人々からとても尊敬を集めていたという。
なにしろこの本に見るように、「沖縄近代の人びと一〇四人」の中に数えられるほどである。といっても、沖縄でもいまは、有名とは言えない。知る人ぞ知る人物らしい。
「一〇四人」の中に選ばれているからだけでは、とくに驚くことではない。
読んでいて目が引き付けられたのは、出身地が「高知県高岡郡佐川町立野一〇番地に生まれた」とあることだ。
わが郷里、それも私の生まれた同じ町ではないか。
一八九二年というから、明治二五年にこの沖縄に渡ってきたという。「私より一一三年も前に、高知からはるか離れた南島・沖縄にやってきて、立派な業績を上げた先人がいたとは??」と驚いた。
といっても、何をした人なのかまだよくわからない。いきなりそう言われても、戸惑うのは当然である。そこで、黒岩氏の歩みを『沖縄の百年―第一巻近代沖縄の人びと』を中心にしながら紹介したい。
沖縄北部の農学校の初代校長に
沖縄に来たのは、三四歳の時である。その前の経歴はこちらではわからない。どういう動機からかわからないが、なにか志をもっていたのだろうか。
沖縄師範学校で博物・農業教師をしていたという。来県して一〇年後の一九〇二年(明治三五年)、北部の国頭郡組合立の農学校の初代校長に抜擢されたという。
教師として、それなりに注目される教育を実践していたのだろう。沖縄本島の北部は、農林漁業が主な産業となっているから、そこでの農学校は、その後の地域の発展にとってとても大きな役割を果たしただろう。
この農学校は、戦後の一九四六年、北部農林高等学校と改称し、沖縄返還後の一九七二年に沖縄県に移管され、今日でも農林関係の人材を育てている。
黒岩氏が赴任した当時は、農学校と言っても、地方の組合立の学校だから予算は限られている。教師も少なく、黒岩校長は、博物、地質学、水産学から、倫理、東洋史まで教えた。
その教え方がとても素晴らしかったと、教え子が口をそろえて言っているというから、慕われた校長だったのだろう。
この学校では、生徒を名護の民家に分宿させて寄宿舎としていた。「きみらは農民と学者との中間だから、俗人から尊敬されねばならぬ」「戸外には学問がころがっている」とたえず教えたそうである。
沖縄の風土に根付いた農業教育の伝統が築かれたという。
黒岩氏の業績は、教壇の上からの教育だけにとどまっていない。
博物学者である同氏は、沖縄の動植物から地質、民俗までその関心はとても幅広い。
「博物学上よりみたる琉球」「沖縄の自然界」「沖縄の博物界」「琉球島弧における淡水魚類採集概報」「琉球列島の陸虻類」といった論文・著作を残している。
HN:沢村 月刊誌「高知人からの転載」
黒岩氏は、同じ佐川町の出身で親しかった四歳年下の植物学者・牧野富太郎に沖縄の植物の標本をたびたび送ったという。
牧野氏にしても、遠い沖縄からの植物は興味をひいたことだろう。牧野氏は「黒岩恒氏採集琉球植物」という著述もある。
黒岩氏は、動物にも強い関心を持ち、昆虫を採集して北海道帝大の松村松年教授に送っていたという。黒岩氏自身が沖縄の動植物、新種の発見と報告を行っている。
なにしろ、「クロイワ」の名前がついた動植物は数十種類もあるそうだ。
例をあげてみる。クロイワカワトンボ、クロイワゼミ、クロイワニイニイ、クロイワツクツク(いずれもセミ)、クロイワハゼ、クロイワトカゲモドキ、クロイワラン??。
この中では、クロイワトカゲモドキというのを地元のテレビの映像で見たことがある。
形は普通のトカゲだが、驚いた動作をすることで知られている。長い舌を出して、自分の眼をペロッとなめて掃除をするのだ。
眼が汚れたので掃除をしたのか、はたまた暑いからなめて涼しくしたのか、その動作の意味はよくわからない。それにしても、面白い癖がある動物だ。いまでは絶滅危惧種になっている。
クロイワゼミは、沖縄本島と久米島にだけ分布している。色や形、生態は国内の他のセミとは異なり、特異な存在だという。黒岩氏が最初に報告し、一九一三年に新種として発表されたそうだ。
クロイワニイニイは、沖縄諸島と奄美諸島に分布している。黒岩氏によって学術的な発見がなされて、同氏の名前がついた。ツクツクボウシと亜種関係にあるクロイワツクツクもやはり同様のようだ。
クロイワカワトンボは、西表島と石垣島だけに分布している。陰湿な渓流に集団で生息しているという。沖縄の昆虫類の解明に貢献した黒岩氏の名にちなんで、この名称がついているという。
リュウキュウアユは、黒岩氏の名前がついているわけではない。しかし、アユは本土の川にはたくさんいて昔から有名だが、沖縄では北部の山原の川にアユがいることを、生物学的に明らかにしたのは、黒岩氏である。
一九二七年(昭和二年)に動物学雑誌に発表した論文の中で、北部の河川の主要な種としてアユをあげているそうだ。
山原の川にいるアユを明らかにしたことは、当時の新聞で取り上げられ、有識者の間で話題になったという。ただし、開発によって河川が汚れ、アユがいなくなったといわれるのは残念だ。
黒岩氏は、海外、県外から沖縄に適した野菜や植物を導入することにも熱心だったようだ。
一八九二年(明治二五年)に、清国大丸ナス、キャベツ、温州ミカンを導入し、一八九六年(同二九年)には台湾から相思樹を導入した。相思樹は、薪炭材として植栽したり、農地防風林として最初に活用したという。
観葉植物の花木として知られるクロトンは、一九一〇年(明治四三年)に黒岩氏がシンガポールから導入したそうだ。
さらに地学関係では、黒岩氏は『地質学雑誌』に「沖縄島について」「石垣島について」「久米島について」それぞれ、発表している。
石垣島には、一八九八年(明治三一年)一二月に、小学校教員検定試験のために渡航し、主務のかたわらで、島の地理の大要を観察したという。別の仕事で離島に出張しても、島の地理、地学について調査する熱心さがうかがえる。
HN:沢村 月刊誌「高知人からの転載」
柳田国男よりも前に沖縄の民俗に注目
沖縄北部の山原の写真・川の河口部に生えているマングローブの林
黒岩氏は、動植物や地質など自然だけでなく、沖縄の社会にも目を向けている。それは、沖縄社会が、中国文化の影響を受けたり、もう本土では失われた古い習慣、風俗、民間信仰が残るなど、本土とは異なるさまざまな特色をもっているからだろう。
黒岩氏は、沖縄の民間に伝わることわざを採集し、『東京人類学界雑誌』に、一八九七年(明治三〇年)三月から一九〇〇年(同三三年)三月発行まで四回にわたり報告文を掲載している。
ことわざには、そこに生きる人々の、暮らしのあり様から物の見方、考え方などが反映されている。「琉球俚諺(りげん)第一篇、沖縄島」に掲載されたことわざにはこんなのがある。
「水の夢を見るときは火事あり」「彗星の顕はるゝは戦争の兆なり」「蛇に咬まれたるときこれまでなしたる悪事を自白すれば治す」「豚を永く養ふときは人に化ける」「星は人間の魂なり」。
「第二篇、宮古」は言葉が特に難しいので手こずったのか、先に「第三篇、八重山」を発表している。八重山語も「琉球語三大派中の一つに属し随分解し易からざること多く」とし、ことわざの原語を伝えるためローマ字で発音を併記している。
八重山では「急ぐ蟹は穴に入る能はず」「人と思へは鬼と思へ」「多言なる女は鬼となる」といったことわざを採集している。
このあと、また「第一篇、沖縄島の続き」として、本島北部の国頭(くにがみ)郡のことわざを採集している。これも、方言の原文と対訳をつけている。
ここでは「乞食の夢を見るときは幸あり」「猫の顔を洗ふは降雨の兆」「高山に登らは母を思ひ深海に入らは父を思へ」など報告している。
最後に「第二篇、宮古」となる。宮古では「針は呑まれす」「親の子は親となる」「土は黄金」「木の曲は直るとも人の曲は直らす」などのことわざを採集している。
一八九九年(明治三二年)一月発行の『東京人類学界雑誌』に「琉球土俗調査存稿」という論考を発表している。
沖縄では、民家の塀などによく見かける石敢当(いしかんどう)に注目している。沖縄では、魔物は直進してくる、石敢当は魔物を除ける効力があると信じられ、三叉路には必ず建っている。
黒岩氏は「琉球には極めて多くこれを建つるの目的は全く魔鬼を駆逐」するためであると述べている。挿絵も付いている。これは、現在でも沖縄中のどこを歩いても至る所にみられる光景である。
次に「字紙炉」というものを、やはり挿絵つきで紹介している。文字の書かれた紙はとても大切に扱われ、その紙片を集めて焼くための一種の炉があったという。
沖縄では「フンジュル」「イリガンヤチドコロ」と呼ばれたそうだ。これは中国の影響だろう。でも、印刷物があふれている今では、見かけることはない。
黒岩氏は、「文字を敬重するの極??汚溝に投するに忍びす??火葬するなり」「字紙を敬重するの俗は明治維新の頃までは帝国(日本)の中土に於いても著しかりき」と述べている。
かつては日本にもあったけれど、すたれてしまった習俗が沖縄に残っていることに注目している。
同年三月発行の同雑誌では、八重山島の神祠及び神殿について調べた論考を発表している。
八重山では「オン」などと呼ばれる「御獄」(うたき、拝所)を沖縄本島と比較して、本島の拝所は、神林はなく、拝殿もほとんどない、鳥居もないが、八重山のそれは、神林を有し、拝殿が発達し、鳥居も有すると述べている。
これら一連の著作をみると、沖縄の民俗に大いに興味を持っていたことがうかがわれる。ちなみに、一八九七年(明治三〇年)三月発行の同雑誌によると、「沖縄人類学会」が設立され、その発起人八人の一人として黒岩恒の名前が入っている。
沖縄は、民俗学者にとっては「宝庫」のように考えられ、とても注目されて研究の対象になった。
日本民俗学の創始者といわれる柳田国男や折口信夫がたびたび沖縄を訪れて、沖縄の民俗を熱心に研究するようになったのは、一九二一年(大正一〇年)以降である。
黒岩氏の民俗学的な調査は、それより二〇年以上も前である。論考はいずれも短文、小論であり、本格的な研究ではないが、沖縄の民俗についての先駆的な関心と調査であることは間違いない。
HN:沢村 月刊誌「高知人からの転載」
尖閣列島の命名者となる
黒岩氏の功績で忘れてはならないのは、尖閣(せんかく)列島を探検し、島名、地名の命名者であることだ。
尖閣列島は、八重山諸島と中国の間の東シナ海に浮かんでいて、中国と領有権をめぐり争いがある。
この島々の存在は、古くから知られてはいたようだ。琉球王国は、一四世紀から中国皇帝の臣下になり、琉球国王が中国に朝貢し、皇帝が冊封使(さっぽうし)を派遣し国王として任命していた。
冊封体制のもとで、中国との貿易も盛んだったので、琉球と中国の間を定期的に船で往来していた。海を渡る時、船が那覇港を出ると、慶良間(けらま)諸島、久米島と見ながら進み、次には尖閣列島を目印にして、中国へと航海したという。
この尖閣列島を最初に探検したのは、福岡県から沖縄に商売でやって来ていた古賀辰四郎という人物だった。古賀は、県内の無人島を探検していて、一八八四年(明治一七年)、尖閣列島を探検したという。
古賀は、まだ黒岩氏が農学校の校長になる前の教師時代に、理学士宮島幹之助とともに、尖閣列島の風土病、伝染病、ハブ、イノシシ、その他の有害動物の有無や飲料水の適否などの調査を委嘱したという。
黒岩氏らが上陸して調査した結果、マラリアや伝染病はなく、ハブ、イノシシも生息せず、四島のうち魚釣島だけ湧水があることも発見された。古賀は、尖閣列島の借地請願を政府に出して、日清戦争の後、島を三〇年間にわたる無償借地の許可を得て、開拓事業も行った。
黒岩氏はこの島々を探検して「尖閣列島探検記事」を『地学雑誌』(一九〇〇年、明治三三年発行)に掲載している。一九〇〇年五月三日に那覇港を出港して五月二〇日に帰り、往復一八日間かかったという。
宮島博士は黄尾嶼(久場島)の一島に留まり、黒岩氏は魚釣島など「他の列島を回遊せり」「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」と記す。
さらに、魚釣島の最高地点を当時の奈良原県知事の名前をとり「奈良原岳」と名付け、水流の流れているところは、八重山島司・野村道安の名前をとり「道安渓」、岬には沖縄師範学校長・安藤喜一郎の名前から「安藤岬」、さらに「イソナの瀬戸」「伊沢泊」「新田の立石」「屏風岳」などといった地名を次々に付けたそうだ。
黒岩氏は主に、島の地質や生物を調べた。鳥類はアホウドリ、クロアシアホウドリが群集してきていることを確認した。
植物は、琉球列島と異なるのは、松、沖縄松に限らずない、蘇鉄は皆無、八重山列島とも大いに異なるところがあると述べている。そして、たくさんの植物を採集し、その植物名の一覧表を掲げている。
黒岩氏の業績を顕彰するために、一九六八年秋に、名護市内の名護城跡の公園内に顕彰碑が建立された。沖縄を離れて五〇年近くも後から顕彰碑が建つというのも、その人柄と業績が沖縄、とくに山原の人々に伝えられていることを示すものだろう。
黒岩氏は、一九二〇年(大正九年)に和歌山県に移住し、高野口町で一九三〇年、七二歳で没したという。
黒岩氏が拠点としていた沖縄本島の山原(やんばる)地方は、中南部と違って、山々が連なり、深い森林におおわれ、ヤンバルクイナやノグチゲラなど固有動植物が数多く生息している。
このやんばるの森を含め琉球列島が世界自然遺産の候補地にリストアップされるほど、世界的にも貴重な自然が残る場所である。
しかし、いま豊かな自然と貴重な生態系が壊されようとしている。開発の波が押し寄せ、特に必要以上に林道建設が進められている。山を削り赤土を河川と海に流し込み、自然と環境に重大な悪影響を与えている。
一方で、山原の広大な国有林が在沖米国海兵隊の北部訓練場(約七五〇〇㌶)となっている。演習場の一部返還と合わせて、東村に米軍のヘリコプターの離着陸用の軍用施設(ヘリパッド)の建設が進められようとしている。
その上、名護市辺野古には、ジュゴンの生息する美ら海(ちゅらうみ)を埋め立てて、V字型滑走路をもつ巨大な軍事基地を新たに建設しようとしている。
米軍の新たな基地建設は、いずれも貴重な自然と生活環境、平和と安全を危うくするとして、多くの住民、県内外の人々が建設反対の声を上げている。
黒岩氏が現代に生きていれば、この沖縄北部の現実をどう見るのだろうか。きっと、「なんという愚かなことをするのだろうか」と驚き、悲しみ、そして憤るだろう。
「貴重な自然と環境を守れ!」という声を上げるのではないだろうか。教育者で博物学者として、黒岩氏が打ち込んできた仕事と研究からみて、私はその思いを強くする。 (終わり)
HN:沢村 月刊誌「高知人からの転載」
追記
この小論を書いた後で、天野徹夫氏が書いた「黒岩恒―沖縄自然界の学問的開拓者」という黒岩氏の業績をまとめた著作を見ることができた。
「新沖縄文学」三七号(一九七七年)に「特集・沖縄研究の先人たち」の一人として掲載されている。その中から、黒岩氏の経歴について若干の補足をしておきたい。
黒岩氏は、幼児に父から学問の手ほどきを受け、次いで伊藤徳祐の塾で習字、四書・五経を習い、その後、名教館及び陶治学校に移り、西洋の学問や土佐南学を学んだ。
その後独学で専門学科を研鑽し、諸種の課程の教員資格を得て、佐川小学校に勤務した。
さらに、高知県尋常中学校(後の旧制中学校)や高知県農学校に勤務し、その間、県内の動植物や自然地理の調査・研究を手がけた。
沖縄には、一八九二年(明治二五年)、師範学校兼沖縄県尋常中学校の博物並びに農業の教師を命じられて来たという。
黒岩氏が、沖縄行を決意した動機には、沖縄の動植物・農林業・民俗を学問的に最初に調査研究した田代安定(鹿児島県出身)という人物の「調査研究論文による研究欲の刺激と、牧野の勧めによるものと云われている」と天野氏は述べている。
牧野氏の勧めもあったようだ。
黒岩氏は、沖縄に来て社会・風土・自然界に愛着を感じ、沖縄に永住する決意をした。「私の死に場所は名護に決めている」と語っていたという。
しかし、長女が一九歳で、と長男が二〇歳で相次ぎ死亡し、長年苦労して蒐集した研究資料が弟子に預けていて火災のため焼失するなど不幸が重なった。
それで、一九二〇年(大正九年)に和歌山県に移り、東京大学の嘱託を受けて、淡水魚類を調査した。
和歌山市、大阪市と住居が変わるが、大阪市で奥さんに先立たれた。養子をもらうことになり、和歌山県高野口町に転居し、一九三〇年(昭和五年)同町で死亡した。
息子を養子に出した実父母によって「沖縄の愛弟子たちが、いつか必ず黒岩のおじいさんのお墓参りに来る」といって、町内に黒岩夫妻の墓が建立されたという。
HN:沢村 月刊誌「高知人からの転載」
中浜万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸し、半年間滞在した豊見城市翁長(とみぐすくしおなが)に、ジョン万次郎記念碑が建立され、9月12日に除幕式が行われた。
この碑は、沖縄ジョン万次郎会が昨年11月から20周年記念事業として計画し、約150万円をかけ建設した。
万次郎は、1851年、糸満市の大渡海岸に上陸し、薩摩藩の取り調べを受け、琉球王府から滞在を命じられ、豊見城の翁長で半年間過ごした。滞在した高安家から手厚いもてなしを受けたといわれる。
沖縄で愛される中浜万次郎 その1
沖縄に移り住んで驚いたことの一つに、中浜万次郎(ジョン万次郎)がとても、県民の間でよく知られていることがある。
二〇〇五年一〇月だったか、初めて沖縄本島の南部に行ったとき、地図に糸満市の大渡(おおど)海岸が中浜万次郎の上陸地点であることが記されていて、「ああ、万次郎は沖縄に上陸したのだった」と改めて認識した。
沖縄に移り住むまで、万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸したことは、まるで失念していたというか、そもそも認識がなかったという方が正確だ。東京に三〇年余暮らしていたので、万次郎に対する関心そのものが薄れていたといってよい。
この上陸地点の大渡海岸(小度浜=おどはま=といっていた)は、沖縄戦の終焉の地といわれる摩文仁(まぶに)のすぐ近くにある。
沖縄戦の際、住民は海岸の岩陰や小さなガマなどに隠れたが、激しい戦闘に巻き添えになり、地区住民の半数以上が犠牲になった悲惨な歴史がある。
でもいまは、海岸に岩礁が広がる浜は、シュノーケルをする若者が集まるポイントになっている。万次郎が漂流した仲間二人とボート「アドベンチャー号」を漕いでこの浜に上陸したのは一八五一年二月三日のことだ。
いまから一五八年も昔になる。浜辺に立って「万次郎はどんな思いでこの浜に上陸したのだろうか」と考えながら、真っ青な海と空を眺めると、なにか感慨深いものがこみあげてきた。
その後、図書館で万次郎に関する著書を探してみると、なんと万次郎の関する著書は、沖縄関係図書のコーナーに並べられている。
しかも、沖縄の人が、万次郎の生涯を書いた本が、青少年向けや絵本を含めて何冊も沖縄の出版社から出されていることにまた驚いた。
「上陸しただけで、こんなに万次郎本があるとは、いったいどういうことだろうか」「沖縄でなぜこんなに万次郎が注目されているのだろうか」と関心がわいてきた。
さらに、「ジョン万次郎を語る会」という団体まであって、活動していることを知り、なおさら興味がわいてきた。沖縄に上陸したといっても、滞在したのはわずか半年ほど。「万次郎はなぜこんなに愛されているのだろうか?」。
万次郎を語り継ぐ沖縄の取り組み
本題に入る前に、沖縄での万次郎に関する主な取り組みを紹介しておきたい。
万次郎が琉球に上陸して、一四〇年の節目に当たる一九九一年、万次郎ゆかりの豊見城村(とみぐすくそん、現在は市になっている)に在住する何人かの有志によって「ジョン万次郎を語る会」がつくられた。
会は、「万次郎伝」の執筆を長田亮一氏に依頼し、長田氏は九一年一〇月、『ジョン万次郎物語』を同会から刊行した。
その後、会はシンポジウム、講演会など催し活動を続けている。一九九三年には、万次郎の生まれた土佐清水市と豊見城市が姉妹都市を締結し、児童生徒の交流など行うようになった。
万次郎が沖縄に上陸して一五〇年目にあたる二〇〇一年二月三日、豊見城市内で「万次郎来村一五〇年を祝う会」が開かれた。
この年、六月一二日から「沖縄タイムス」紙上で「絵物語・琉球に上陸したジョン万次郎」が一二回にわたり連載された。著名な版画家の儀間比呂志さんの文・画、神谷良昌さんの案によるものだ。
二〇〇二年五月には、万次郎から四代目の中浜博さんが、万次郎の子孫としては初めて沖縄を訪れて、万次郎が滞在した豊見城の高安家の子孫と対面した。
博さんは「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている」と述べたという。この年、一二月には、豊見城市の市制施行記念自主企画事業として、長田氏の著書を原作にして市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎の夢~豊見城編」が上演された。
二〇〇六年一一月には、劇団四季のファミリー・ミュージカル「ジョン万次郎の夢」が宜野湾市で上演された。
二〇〇六年四月に、第一〇回豊見城市教育長杯(ジョン万カップ)少年野球交流大会が行われ、土佐清水市からも二チームが参加した。二〇〇七年九月には、万次郎の子孫で五代目の中浜京さんが豊見城市に来て「私の大好きなジョン万次郎」と題して講演した。
二〇〇八年一二月には、「寺子屋ニッポン!じんぶん伝―ジョン万次郎琉球へ」が沖縄テレビによって制作され、フジテレビ系列で放送された。
万次郎はなぜ琉球を目指したのか、琉球上陸は偶然ではない、綿密な計算があったというのが主題になっている。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人」からの転載
沖縄で愛される中浜万次郎 その2
ジョン万次郎 1880年頃 (出典:ウイキペディア)
万次郎の漂流と一〇年間の外国暮らし
初めに、万次郎の漂流以来の足跡をスケッチしておこう。
土佐清水市中の浜で生まれた漁師、万次郎は一八四一年に出漁した船が遭難し、アメリカの捕鯨船・ジョン・ハラウンド号に救出された。
ホイットフィールド船長にかわいがられ、そこで教育を受け、さまざまな知識を得た。
一八四七年には捕鯨船フランクリン号で世界の海を航海する。一八四九年には、日本に帰る旅費を稼ぐため、ゴールドラッシュのカリフォルニアで、砂金採りなどして資金を得て、ハワイに渡り仲間二人と帰国を準備する。
ボート「アドベンチャー号」や土産物などを買い集めた。万次郎ら三人は、一八五〇年、ハワイ経由で上海に向かう商船・サラボイド号に乗せてもらう。ちょうど漂流して一〇年目にあたる一八五一年二月三日、琉球の小度浜に上陸した。
その後、鹿児島、長崎、そして土佐藩で取り調べを受けた。当時の日本は鎖国をしており、海外渡航は厳しく処罰される状態にあったからである。
万次郎は、西洋事情に通じた知識や英語の能力をかわれて、幕府に招かれた。
幕府直参の旗本となって、中浜の姓も名乗るようになる。
だが、一八五四年にペリー来航のさいに幕府は、万次郎がアメリカの不利になることは好まないだろう(つまりアメリカに味方する)、ペリーに会わせない方がよいという強硬な意見があり、通訳をさせなかった。
一八六〇年には、勝麟太郎や福沢諭吉らと咸臨丸に乗り渡米した。
一八七〇年には、フランス・プロイセン戦争の視察でヨーロッパを訪れ、その途中にアメリカで恩人のホイットフイールド船長と二〇年ぶりに再会した。一八九八年に死亡。七一歳だった。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より
縄で愛される中浜万次郎 その3 琉球で綱曳きにも参加した 琉球に上陸した万次郎の様子を少し詳しく見ておきたい。
万次郎の孫にあたる中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から紹介したい。
万次郎の乗った船が、琉球に近づくと、ホイットモア船長は、上陸させるのは身の危険があると心配してくれた。万次郎は、日本の鎖国という国法はよく心得ています。処罰を恐れていたら、何もできないと主張した。船長は、その言葉に深く動かされ、琉球は日本へはいる場所としては、地理的には一番すぐれている、と勧めてくれた。
万次郎たちはボートに乗り移り、陸地に接近した。二月三日の朝、海岸に土地の人が出ている姿を認めた。話しかけてもいっこうに通じない。
内陸の方に進んでいくと、四、五人に出会い、土地の名をたずねると、一人の若者が出てきて、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切(まぎり、村のような単位)の小度浜と答えた。あなたは、どこから来たのか、なんの用事で来たのかとたずねる。漂流の顛末を手短に語ると、その若者は、日本人であるからには粗末には扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれた。
そして、役人のいる所へ案内された。ここでもまた、ふかしたサツマ芋を出して接待してくれ、三人から身の上の聴き取りをされた。
こんどは、那覇に護送する、と出発した。真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所まで着くと、役人がやって来て、那覇には入ってはいけない、翁長(おなが、現在の豊見城市)村へ行けと命令。夜道を、八㌔も行くと翁長村に着いた。
ここの村役人をしている徳門(とくじょう、屋号)という農家に入る(家主は高安公介)。
家のまわりには竹の矢来が作られた。徳門の家族八人は、隣りに茅葺き家を大急ぎで作って引っ越した。薩摩の役人に取り調べを受けた(琉球は今から四〇〇年前の一六〇九年に、薩摩に侵略されて、その支配下にあったからである)。
薩摩の侍五人と琉球の役人二人が、近くで監視していた。でも、漂流民三人に対する待遇は上等だった。食事は、琉球の調理人が結構なご馳走をととのえ、お酒も添えられた。衣服、寝具にも不自由はなかった。
翁長での取り調べは最初だけで、あとは何の沙汰もなく、ほうって置かれた。
万次郎は琉球語の勉強を始めた。竹の矢来をくぐりに抜けて土地の人々のところにも、話に出かけた。
八月の一五夜には、どこの村でも村民総出で、東西に別れて大きな綱曳きが催されるが、早くからその練習が行われるので、万次郎は自分の宿舎が村の東の方(沖縄では、東は「あがり」、西は「いり」という)にあるところから、東組に加わって綱曳きの仲間入りをした。
この綱曳きは、いまでも沖縄県内ではどこでもとっても盛んである。
稲わらを集めてデッカイ綱をなうところから、集落の人々が夜ごと集まり作り上げる。綱曳きは単なるお祭り、娯楽ではない。
五穀豊穣や子孫繁栄など住民の願いが込められ、神事として行われた。先端が輪の形になった雄綱、雌綱という二つの綱を合体させ、カヌチ(貫抜き棒)と呼ばれる大きな棒を差し込んで綱を結合して曳き合う。
東が勝つか西が勝つかで、豊凶を占う。だから、みんな総がかりで力を振り絞って勝負する。一晩で終わらず、二晩曳きあうところもある。予行演習といっても、万次郎が村の綱曳きに参加したというのは、住民といかに親しくなっていたのかをうかがわせるエピソードである。
わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。
ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。
沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。
戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。
それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。
「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。
徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。
たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。
万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。
万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。
後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。
また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。
今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
沖縄で愛される中浜万次郎 その4
なぜ万次郎は琉球に上陸したのか
万次郎が琉球に上陸したのは、たまたま乗船した商船が近くを通ったからなのか。そうではない。
当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、漂流であっても国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首にされかねない。万次郎も打ち首を恐れていた。だから、どのようにすれば無事に帰国できるのかはよくよく検討しなければならない事柄であった。
万次郎は、前から帰国するなら琉球に上陸するのがよいと考えていた。
「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよいので、便船を得て琉球の近くまで航海して、そこで本船を離れてボートで島の一つに上陸しようともくろんでいた」(中浜明氏著、前掲書)のである。
村田典枝氏(沖縄キリスト教学院大学准教授)は、論文「ジョン万次郎とその生涯」で次のように指摘している。「万次郎は外国人たちから日本の鎖国政策についてかなり情報を得ていた。そこで、直接日本本土に上陸するよりも琉球に上陸した方が、安全で、成功率も高いと判断していた」。
なぜ、日本本土ではなく、沖縄が一番都合よいのか、成功率が高いのだろうか。いくつかの理由が考えられる。
一つは、琉球の歴史的な特殊性である。琉球は、長く独立国であり、中国と冊封(さっぽう)関係にあった。冊封関係とは、琉球国王が中国皇帝の臣下になり、皇帝に朝貢し、皇帝から国王として任命を受けることである。
冊封体制は、一四世紀以来、五〇〇年近くも続いている。薩摩藩に一六〇九年侵略され支配されていたが、冊封体制に変わりはない。琉球王国は中国と日本の両国に属する関係にあった。
日本の幕藩体制に組み込まれているが、あくまで形式的には独立国であった。しかも、地理的には遠く離れた離島であり、中国に近い南島である。江戸幕府も異国のような扱いをしていた。
そこは本土の厳格な幕府の直接的な支配とは多少の違いがあるだろう。
また、万次郎が上陸した当時、薩摩藩は守旧派の島津斉興が退き、最も開明的な島津斉彬が藩主となっていた。
のちにふれるが、西洋の学問、技術、軍事などに強い関心をもっていた斉彬は、万次郎をじきじきに招き寄せ、詳しく西洋事情を聴取するほどであった。
琉球王府は、万次郎への対処について、薩摩藩にお伺いを立てて対処していたことはいうまでもない。万次郎の強運はこういうところにもあるかもしれない。
こういう島国としての歴史をもち、海洋国家である琉球にとって、船の遭難による漂流、漂着は絶えず発生する問題である。
それは、自国の船も何度も遭難して、中国や朝鮮、日本などに漂着し救助された。逆に、中国や朝鮮、日本その他の国々の船も遠い昔から、遭難しては琉球に漂着する。そういう場合、必ず漂流者を救助して丁重に保護し、しかも、相手の国にまで送り届けるのが慣例であった。
琉球王国の膨大な外交文書を収録した「歴代宝案」という古文書の中には、漂流者の取り扱いに関する文書が、とても多い。
外交の重要な一分野だった。外国からの漂流者を丁重に扱ってこそ、自国民の漂流者もまた助けてもらえる。東アジアの国々とそういう関係をきずいていた。それは海に生きる民、島国にとっては不可欠のルールでもある。その伝統は脈々と生きている。
江戸幕府は当時、鎖国政策をとっていたが、対外貿易の窓口として、長崎の対オランダ、対馬の対朝鮮、函館の対蝦夷、そして琉球の対中国との貿易は公認していた。
琉球は中国への朝貢の際、中国が必要とする物産を持ち込み、買ってもらう朝貢貿易で大きな利益を得てきた。中国から、国王の任命のために冊封使を乗せた御冠船(うかんしん)が那覇の港に来る時も、さまざまな中国物産を積んできて琉球王府が買い付けていた。
この中国貿易は薩摩支配下でも続くばかりか、中国貿易を薩摩の管理下に置き、そこから利益をあげようとしたのだ。
だから、日本は鎖国政策をとっていても、琉球では国家事業として対外貿易が堂々と営まれていた。琉球はそういう特殊な位置にあったのである。
万次郎がどこまで琉球についての事情を知っていたのかはわからないが、万次郎が琉球を上陸地点に選び、それを足がかりにして帰国しようとしたのは、なかなかの見識である。
万次郎が無事に故郷に帰ることができ、さらに江戸にまで招かれたことをみても、彼がたんに幸運だっただけでなく、的確な情報を得て、賢明な選択をしたことを証明している。
万次郎は、上陸以前にも一度、琉球の離島にいったん上陸したことがあった。一八四七年に、フランクリン号に乗り込み、捕鯨航海をした際、琉球諸島に属する島の沖合に錨を降ろして上陸したのである。
島民と出会ったが、相手の言葉がわからず、がっかりした。でも島で牛二頭をもらい、お返しに木綿を贈った。この島は、慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷(とかしき)島だと長田亮一氏は書いている。
万次郎は、これより前にグァム島に寄港したさい、他の捕鯨船の船長から、日本の鎖国政策について、厳しい非難を受けた。
だから、「捕鯨船のために、日本の海岸に平和な補給地が欲しい、万次郎は早くからそうした意見だった」(中浜明氏著、前掲書)。それは、グァム滞在中に、万次郎を救出してくれたホイットフィールド船長宛てに出した手紙にも表れている。
「当地を出ましたら西北をさして、日本の琉球諸島に向かいます。そして無事上陸できたらと望んでいます。捕鯨船が補給を受けられるよう、港を開くようにさせたいと思ってもいます」と手紙で記している。
実際には、この思いはこの時には実現できなかった。でも万次郎が琉球に強い関心を持ち、開国への希望を持っていたことを示している。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
万次郎から勉強した島津斉彬
万次郎ら三人は、拘留されていたい琉球を出て鹿児島に向かった。
先に見たように、この時代、琉球は薩摩藩の支配下にあり、琉球での万次郎の取り扱いを考える上でも、薩摩で万次郎がどう取り扱われたのかを見ておくことが必要だと思う。
昨年、好評を博したNHKの大河ドラマ「篤姫」の中でも、薩摩で藩主の島津斉彬がじきじきに万次郎から聴取するシーンがあったが、それはそのままの事実である。
ここでも、中浜明氏の前掲書からその模様を紹介したい。
万次郎らは鹿児島に入り、宿舎を与えられたが、殿様の言いつけと言って、待遇はたいへんに良く、りっぱな食膳、お酒。衣類、日用品もすべてゆきとどいて賓客のもてなしだったという。
当分の小遣いとして金一両も賜った。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問が始まった。
万次郎は、異国の方々を旅してきた中で、わけてもアメリカ合衆国の文化の総体にわたって詳しい質問を受けたという。
アメリカでは、家柄、門地といったものは問題にされないで、人はすべてその能力によって登用されていること、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につくこと、人はみな自分の幸福と公共の幸福をいっしょに考えているから、世の中が常に栄えていること、デモクラシー、
人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。
斉彬は、万次郎に会うより前から、西洋の科学技術や軍事などに強い関心をもち、オランダの書物をとりよせ、翻訳させて勉強していた。
ヨーロッパ列強が中国に進出し、食い物にしようとしていることも熟知しており、やがて日本を狙ってくることを警戒して、これに日本がどう対応するのか、その方途を考えていた。
だから、万次郎の漂着は、西洋事情を直接、耳にすることができる絶好の機会と考えたのだろう。
「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明氏、前掲書)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。
ここでは、西洋の進んだ科学技術や軍事の内容だけでなく、殿様の前で、日本の封建体制を根底から否定するようなアメリカのデモクラシー、人権の政治制度や思想まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。
日本の幕藩政治の大改革を考えていた斉彬が、政治制度にも関心を持ち、質問したことは確かだろう。
それだけでなく、万次郎の話の内容は、アメリカ社会と民主主義に対する的確な認識があったことを示しており、万次郎自身が、アメリカのデモクラシーを目にして日本の封建社会の後進性をいやというほど痛感し、先進的な政治制度や思想に強い共感を持っていたこともうかがえる。
ちなみに万次郎は、土佐から江戸幕府に呼び出されて取り調べをされたときも、アメリカの民主政治について、堂々と語っている。
アメリカはイギリスに所属していたけれど、人民は不服従となり、独立国となって「共和之政治を相建」したこと。国王はいなく、国中の政治を掌る大統領をフラジデンといい、「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替する。
国法を重んじ、大統領といえども国法に違反してはならないと述べている。さらに、万次郎は、帰国すれば日本を開国させたいと夢見ていた。
幕府の取り調べでも、アメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、米人が日本近海で漂流して過酷な扱いを受けたことを残念に思っており、「両国之和親」をはかりたいという主張をしている、と紹介している。
ペリーが来航する前に、万次郎はこういう形で開国の必要性を説いていたのである。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」