極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

アクアフロントなアクロポリス

2011年04月02日 | 緊急|東日本大震災





【分散型住職分離拠点都市構想】

ギリシャの都市国家は必ず海岸線から離れた小高い丘陵地帯に
構築されている。アクロポリスとは、古代ギリシアのポリスの
シンボルとなった小高い丘のこと。アクロポリスは「高いとこ
ろ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が
築かれているのが普通である。

海運商業国家。カルタゴにしろギリシャにしろ海の貿易で栄え
た都市国家。こうした点で分散した都市国家はひとつの国家と
して成り立ちにくい。ローマのような農業国家は相手の都市を
飲み込むとその分の農地が手に入り国力が増。このような都市
国家はどんどんと領土を拡大し国力をつけていく。そのような
大国にギリシャの一都市は対抗できず属州となる。しかし、ギ
リシャ人にとってこれは税金を都市に納めるかローマに納める
かの違いでしかなく。ローマ帝国内では交易の安全が保証され
商売に専念できた。



海岸線より高い場所に城塞都市を構築した古代ギリシャを考察
を通し、東日本大震災の復興を考えてみたと思い立ちネットで
下調べすると次の論文が掲載されていた。

ギリシャの空気は澄み切っていて,紺碧の空とそれを写し出す
美しい海が広がっている。和辻哲郎は名著『風土』の中でこの
海を「澄徹」と称した.くっきりとした山々が見える。が,そ
れらは概して急峻な岩山で,背の低い灌木がまばらに生えるだ
けである.袋地のような盆地と,平地は30パーセントに過ぎな
い.海岸線は入り込んでいて,広く散らばっている小島が多い。

このような細切れの大地の一つがクレタ島である。ここには紀
元前2000年頃,クレタ文明として盛えた首都クノッソスがある。
『当時,島内には豊かな農地があり,自給自足はもちろん,輸
出も可能なほどの収穫物があったという.カシやナラの森林資
源にもめぐまれ,これらを建材として輸出したほか,製陶と冶
金のための燃料として伐採した。

当時の,クノッソスの都市人口は約8万人.2km四方(400ha)
の居住地の中心には大宮殿,離宮,住宅,墳墓が配置され,繁
栄を極めていた(友部,1993:15-20).(この大宮殿は「迷
宮(ラビリンス)」で名高く,アリアドネの与えた長い糸でア
テナイの英雄テセウスが脱出するというギリシャ神話の舞台に
もなっている.)しかし,繁栄は永くは続かなかった.人口急
増にともない食料輸入は激増したが,その輸入に必要な外貨を
獲得するためには輸出用燃料の木材生産をさらに活発化させる
はかなかった.島内の森林資源への負荷はより高まり,その乱
伐から引き起こされる農地劣化はどこの文明末期の様相とも共
通していた.その後起こった地震と北の島サントリーニ島の大
噴火による津波は,この文明の衰退に拍車をかけた。

やがて地中海文明の覇者は,ペロポネソス半島のミケーネに移
る。紀元前1600年頃である。 しかし,ここでもクレタ文明と
同じプロセスを歩むことになる。特に,牧畜のため山に放った
羊,山羊がもたらした植生への負荷は大きかった.50度を超え
る急峻な山々でさえ,彼らにとっては植物がある限り,そこは
おいしい餌場であった。

ミケーネにはいくつもの都市国家が分立しており,それぞれの
王権はオリエントの専制君主に比べると支配の規模もレベルも
低い段階にあったが,王室の奴隷所有の発達は著しく,自己の
共同体の中に数千人の奴隷をもっていた.王はまた,このほか
に貢納制的に支配する従属小共同体をいくつか抱えており,例
えばピュロス王国の場合,この従属共同体の数は少なくとも16
あった(弓削,1973:18-86)。

このような奴隷の支配システムによって産業活動は続けられた。
しかしここでも長年の農耕・牧畜によって地力は低下し,食料
不足が紀元前1200年頃には顕在化していた。さらに気候の寒冷
化,北方からのドーリア人の南下などによって,このミケーネ
文明の衰退は一層進んだ.森林の消滅と文明の衰亡は当地でも
一致する。

ミケーネの諸国王は,その後さらによりいっそう小さい地方的
共同体へと分かれていき,奴隷所有の規模もひとつの王室当た
り数十人となっていた(弓削,1973:8-86)。ギリシャのポリ
スが成立するまでのクレタ文明,ミケーネ文明の変遷はざっと
このようなものであった。

さて時代は紀元前8世紀後半.ポリス(都市国家)の歴史の幕
開けとなる。ギリシャ各地に盛時は1500もあったといわれるポ
リスだが,いったいだれがポリスをつくり,どのような形態と
社会システムをもっていたのであろうか.「サしてそれは本論文
が求めていく森林化社会だったのだろうか.アテネに焦点をあ
てながら検証をはじめてみたい。

アテネにポリスが発達した理由の一つは,その地理による。地
理的に袋地であったということがポリスという独立した都市国
家が数多く成立した理由であろう.山岳によって隔てられた盆
地が各地に散在し,それぞれが相互に遮断され,そこにはいく
つものポリスが分立していた。

ギリシャの年間雨量は350㎜内外.冬期の雨水を利肌た天野業に
よって夏の乾燥に強いオリーブとブドウ,イチジクが作られて
いた.メソポタミアやインダスのように大河川の大流域におけ
る治水灌溜i(氾濫)型の農業ではなく,狭くて孤立分散的な
小規模農業であった(湯浅,1993:80-93).大規模な水力管
理の必要はなく.それゆえ強大な権力をもつ支配者層は発展し
なかった.

このような平凡で小さな共同体は,閉鎖的な自給自足の集団で
あったが,鉄器の使用により,しだいに生産力に余剰を生じる
ようになっていた.共同体間で争奪や防衛の必要性が高まり,
農牧の民から戦士の団体が生まれていった.また交易も盛んに
なり,商工業が発展し,都市を中心に定住化が進み,周辺村落
を併合した新たな共同体の成立も進行していった。

共同体の構成員は貴族(戦士)平民(農民・商工業者)奴隷と
階級分化しており,特に王城をめぐる攻防戦を担う重装歩兵
(ツンフト)がポリスを支えるとともに奴隷たちを支配してい
た.ポリスは部族共同体という古い時代の定住形態ではなく,
防衛的,経済的関心から生じた新しい形の人々の集合の姿一
「凹凹」(シェノイキスモス)であった(レベック,1993).
構造面からポリスを見ると,まず中心部に守護神をまつるア
クロポリスの丘をもつ.これはちょうど日本の鎮守の森のよう
な存在だった.高台の丘の上には森に囲まれた神殿があった.
そのふもとに会議・裁判・取引を行うアゴラ(広場)があり,
その外にはアステー(居住地)と呼ばれる市街地が広がってい
た.アゴラは商品と情報が行き交う市民生活の心臓部・市場で
あり,交流の舞台であった.アクロポリスの丘からは全地域を
見わたすことができた.ポリスは目と耳で知覚でき,人間の足
でアクセスできる人間的尺度と人間的規模をもった都市であっ
たといえよう。



市街地の周囲は城壁が取り囲み,城壁の外側には農村部が連な
っていた.アクロポリス古代都市文明と森林化社会やアゴラに
は大理石を使った壮麗な建築物が建てられた。しかし,アステ
ーの一般住宅地には曲がりくねった道路に劣悪な住宅が並び,
衛生条件は必ずしも良くなかった(紀元前431年ペロポネソス
戦争でアテネ市民は市街地に籠城したが,2年後ペストが発生
し市民の3分の1が死んだ.衛生状態の悪さも一因であった)
(湯浅,1993:80-93). ポリスの規模は,一般には人口2
万人以下で大きくはなかった.例外的に大きかったアテネも最
大時の人口は20万余人(市民12~3万人奴隷10万人など)とい
われ(太田,1991:261-263),面積も25万ha(佐賀県とほぼ
同じ広さ)であった.このようなポリス群はペルシャ戦争(紀
元前492~472年)あたりまで繁栄を続けた。一方,ギリシャ人
はもともと穀類(豆・小麦・大麦)・果物・野菜に依存し,肉
は副食に過ぎなかったが,紀元前8世紀中ば頃から肉食の習慣が
見られるようになってくる。ギリシャ人の酒好き,御馳走好き
は饗宴(シュポシオン=シンポジュウム)ということばも生ん
だ(太田,1991:261-263).大いに飽食を楽しみ,議論に励
んだ。

食料が自国で生産できなくても輸入できるだけの財力や軍事力
を有していれぼ,自国の農地劣化,森林荒廃など問題にならな
いというわけで,紀元前770~550年にかけて大部分のギリシャ・
ポリス群は植民地開拓に精を出す.地中海や黒海の沿岸伝いの
あらゆるところにいくつもの植民地を建設した.ギリシャ人は
フェニキア人の昔のやり方に倣って貿易業者,商人産業家とな
っていった.戦後の日本が歩んできた歴史もまた,このような
ものであったといえよう。

紀元前600年以降のアテネは,大半を商工業に依存し,植民地
や諸国から食料などの原料品を輸入する一方,かわりに加工製
品を輸出し,船舶による輸送業,貿易商を営み外貨を稼いでい
た.当時,ギリシャの多くのポリスでは食料供給の1/3~3/4
をエジプト,シチリア,黒海地域などからの輸入に頼っていた
といわれる(カーター外,1975:107-116).いわばアテネと
いうポリスは海上帝国であり,盛時のカルタゴのような勢いで
あった。

しかし,ペルシャ戦争,ペロポネソス戦争(紀元前431~紀元
前404年)とあいつぐ戦乱が直接的な引き金となり,アテネは
衰退していく.ただ,繁栄の時代を終わらせたのは,もう一つ
別の社会変化によるものと考えられている。

商工業や交易の発達は,必然的に共同体内に住む市民の貧富の
差の拡大を生み,ある者は土地を失って貧民化し,またある者
は土地集中で富豪化していった.市民の平等原理はくずれ,政
争は一段と混乱していった.伝統的なポリス市民の徳は疎んじ
られ,「節制」「慎しみ」「中庸」といったそんな古くさい価
値観より,目下の欲望の充足が先になり,快楽やカッコよさが
求められた
(太田,1991:64-65).そして人々の欲望は,ま
すます金で買えるようになった.ポリス間の紛争は繰り返され,
同盟関係は猫の目のように変わった。

ポリスを支える市民の結束も弛緩し,愛国心は薄れていった。
ポリスに背を向けた個人主義がはびこり,このような社会現象
によってポリスは瓦解していったのである。打ちつづく戦乱に
よって各ポリスは廃嘘と化し,一方,アテネのオリーブも多く
が伐り倒された.冬季に豪雨の多いアテネは,もともと侵蝕を
受けやすかったが,失った農耕地や牧草地を償おうとさらに標
高の高い丘陵地への開懇が進められていった。しかし,この悪
循還は一旦始まると止められなかった.そこでオリーブやブド
ウを栽培しようとしたのだが,豊かな腐植土を欠いており,灌
概なしで作物を生産することはできなかった。

ポリス崩壊のさらにもう一つの理由をプラトンは次のように記
している。“今日の多くの山々は,往昔は耕作に適せる丘なり,
今日の湿地は豊穰なる沃土の平地なりき.住時丘陵は森林にて
蔽われ,無限の牧草を産せしが,今日産するものは蜜蜂の食料
のみ.さらに年々の降雨によりて地味は肥え,今日あるごとく
草木なき土地より海への流亡によりて失われしことなし.土壌
深く,水を受くれば保水力ある壌土に貯蔵され,丘に浸透せし
水は,あらゆる地域にて潤沢なる泉と流水を給す”(カーター
外,1975:120).

プラトンだけでなく,その200年も前の紀元前590年にポリス筆
頭職のアルコンであったソロンは,穀物栽培を最優良地にとど
め,山腹は樹木やブドウの栽培に利用することを勧告したとい
われる。結局,アテネは,復興するに足りる天然資源一森林も
農地も水も持たず,かつての名声を取り戻すことはできなかっ
た.塩害とはまた別の土地老朽化の典型的な例であろう。

振り返ってみると,ギリシャ文明の起源をミケーネ文明まで含
めて紀元前1600年頃とすると,マケドニア王国に征服されるま
でのおよそ1200年間(およそ50世代),ギリシャ文明は盛えた
ことになる.しかし,現在のアテネに森はない.埃っぽい乾燥
地帯に灌木がところどころに生えるだけだ.もはや不毛の地を
豊饒の地に戻すことはできないのである。

黄金分割など美しい寸法割で設計されたパルテノン神殿の全容
は,森に似ている.2500年前からの偉容を誇り続けているこの
建築物は,森の中に神がいるという古代ギリシャの多神教の世
界を再現したものだと考えられている.おそらく,ポリスに住
む人たちは多神教の神々を信じ,共同体の繁栄を願ったのであ
ろう。

森林をごく日常的に意識する社会一森帯化社会に彼らは生きて
いたのである.しかし,このポリスは恒続性をもたなかった。
森林を意識しながら暮らしたかもしれないが,保全しつつ利用
していくことを怠ったともいえよう.森林と土地からの収奪は,
自然の再生力を超えていた.全体として巨大化しすぎたポリス
群の必要以上の搾取は,ここでも永遠の繁栄を約束してくれな
かったのである。

そのパルテノン神殿がいま,酸性雨に侵されつつある.その昔,
木材が枯渇したので素材はやむなく大理石を使った(パーリン,
1984:87)といわれるが,大理石はこの数年の間に侵蝕が進み
遺跡の存立が危ぶまれている.森林に替わる新しいストック資
源たる石油や石炭から発せられるNOx,SOxがもたらす酸性雨禍
一がゆっくりと歴史を溶かしはじめている。

ギリシャ・ポリスの本当の意味での万引きを20世紀の酸性雨が
担っているようである。

                   平野秀樹・堺正紘
        『古代都市文明と森林化社会に関する考察』





【アクアフロント・シャトル】

漁港の職場とアクアポリスを結ぶ‘アクアフロン・シャトル’
(住職往来自動車)として被災地にこんなのが寄付されたら良
いのではないかなとネットで下調べめぼしいものを参考までに
ピック・アップしてみた。








【メリハリの効いた事故対処を】

下記の記事が目を引く。最悪事態を想定し、いま起こっている
状況との距離感を持ち最善を尽くすというメリハリの効いた迅
速な事故対応が大切だと指摘いているように思う。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

4月2日(土)7時57分(産経新聞)
福島原発事故 チェルノブイリ作業責任者語る 独立の技術者
チーム必要
ソ連・チェルノブイリ原発事故が起きた1986年から5年間、放
射能汚染除去作業の責任者を務めたユーリ・アンドレエフ氏(
ロシア)が産経新聞の電話インタビューに対し、「福島第1原
発事故に必要なのはチェルノブイリ原発を覆った石棺ではなく
東京電力から独立した技術者の特別チームだ」と指摘した。

Q:福島の事故の状況は
A:2号機は炉心や原子炉圧力容器が溶融している疑いがある。
国際原子力事象評価尺度でチェルノブイリは最悪の7だった。
福島の事故は日本がいう5ではなく、最初から6であることは
明らかだ。今は6と7の間と判断している」

Q:状況はなぜ悪化しているのか
A:東電の情報が不正確で不足しているからだ。会社の利益を
優先して行動するので作業から外す必要がある。幅広い知識を
持つ経験豊富な技術者を日本中から集めて特別チームを編成し、
作業に当たらせるべきだ

Q:チェルノブイリで得た教訓は
A:ヘリから放水したり原子炉の下に穴を掘ったり無意味な作
業に追われた。原子炉内に核燃料があるのかを知りたかったが
実際はすでに溶け出して残っていなかった。ソ連当局は事故の
原因と規模を隠し、状況を悪化させた。日本では原子力政策と
安全規制を同じ経産省が担当している。世界的にみても安全規
制当局は原子力産業界に依存しており、独立した委員会を作る
必要がある

Q:福島でもチェルノブイリと同じ石棺が必要か
A:チェルノブイリで事故炉を石棺で覆ったのは放射線の放出
を防ぐためではなく、残った原子炉の運転を続けるためだった。
福島で石棺が必要とは思わない

Q:放射能汚染の除去にどれぐらいかかるか
A:チェルノブイリでは原発の汚染除去に2年かかった。30キ
ロ圏内の除去は実際上、不可能なので行われなかった
。福島の
場合、放射線量が明らかでないので答えるのは難しいが1~2
年かかる可能性がある

Q:「フクシマ50」と報じられた現場の作業員について助言は
あるか
A:50人は少なすぎる。5千人以上を投入すべきだ。特別な防
護服を着用してもガンマ線を浴びたり、プルトニウムを吸引し
たりする危険性がある。確かに彼らはサムライだが、ロボット
も導入すべきだ

以上だが、このことは相当重い発言だ。改めて考察することに。

 

コメント
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