極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

アンスリウムと「媚中派 vs. 媚米派」

2009年12月16日 | 神道物語


強烈な アッパーフック 躊躇なく アンスリウムは 打ちすえ砕く 





【平成天皇と東アジア共同体】

「日中両国の交流は、二千年の歴史を誇っておりま
す。1972年、私が師と仰ぐ先達の方々のご協力によ
って、念願の日中国交正常化がなされて以来、両国
の関係は、隆々と発展の一途を辿っており、誠に喜
ばしい限りであります。とりわけ、日米関係のさら
なる発展と並んで、日中両国の平和友好は、アジア
の安定と、世界の平和の為に、極めて重要な意義を
持ちます。2007年12月、日中国交正常化35周年を記
念して、民主党の「(日中)交流協議機構」と日中
至誠基金の「長城計画」の合同で「(日中)交流協
議機構大長城計画方中団」派遣が決行されました。
第1回長城計画は、1986年中華全国青年連合会、日中
中国青少年交流協会の協力を得て開催されました。
本年、第16回目を迎える「長城計画」が、一昨年に
続き民主党の「(日中)交流協議機構」との合同で
さらに日中の裾野を深めることができるに至り、感
無量です。日中両国に平和と友好の為の、永遠の『
長城』が築かれんことを切に願い、皆様と共に参加
するこの「(日中)交流協議機構・長城計画」が両
国民の心と心の交流を、さらに深めていく大切な役
割を果たすものと確信しております」(『
(日中)
交流協議機構・長城計画」訪中団のご案内
』)

 


国事行為の政治的中立性をめぐり、保守派と保守派
が小競り合いを展開している。前者
から見れば小沢
一郎は「土下座外交」(=
冊封外交)のように映る。
後者からすると「
白村江の戦い」から「支那事変

のトラウマの 派の反動と映る違いな
い。その意味
では谷垣自民党総裁の言うように、象
徴天皇のポジ
ショニングは微妙だ  ^^;。




「韓国は米国とのFTAを強く望んできたが、米議
会の反対でまだ実現していない。
米韓より先に中韓
のFTAが締結されると、韓国は経済面で対米従属
を離れ、東アジアに統合される傾向が強くなる
。来
年は、日中韓の東アジア3ヵ国間の協調関係が強ま
りそうだ。6カ国協議が進展すると、日朝問題でも
何らかの動きがあるだろう。ボズワースは訪朝帰り
に東京で『北朝鮮は拉致問題などに関する日朝対話
に前向きだ』と言っている」と「媚中 vs. 媚米」の
構図と関係なしに世界は動いていると田中宇は解説
している(『
強まる日中韓の強調』)。それが正し
いなら日本の保守政治委員は時代の流
れから取り残される格好になるが。

※いわゆる、
昭和維新派の硬直したものでなく、象
 徴天皇を含めた広範な天皇親政を是とする
 をここでは意味する。



【文化深層:ご託宣とはなにか】

さて、昨日のブログのつづきを。

託宣の「託」字は日本最古の漢和辞書である『新撰
字鏡』によれば「伊乃留。又久留比毛乃伊不。又口
波志留。」とあり、即ち「祈る。また、狂い物言ふ。
また、口走る」との意であるというのである。森田
康之助博士はこの『新撰宇鏡』をもとに、「神を祈
る」と「神に祈る」のその違いについて次のように
述べておられる。

 祈ることによって、神霊は活動を開始するので
 ある。その活動が「狂ひて物いふ」とか「口ば
 しる」として把握されているのであって、狂っ
 て物いったり口ばしるということは、神霊や精
 霊が人に憑依して自己の意思や思考を表明して
 人に伝えている状態を指しているのである。で
 あるから、神を祈るということは、神の意志や
 思考を表明して人に伝えている状態を指してい
 るのである。であるから神を祈るということは、
 神の意志や思考を実際にその眼で見、その耳で
 聞いて確認しようとすることであって、今日わ
 れわれが神に祈って拝礼したとしても、実際に
 神の意志や思考を確かめることができず、おそ
 らくはたぶん聞き届けてくださるのだろうと自
 ら慰めるのとは、ここに大きな差違のあるのを、
 見てとらねばならぬと思うのである。

 
単に助詞「を」と「に」の一字の違いなのであるが、
神を折る」という場合には神霊の降臨を乞うとい
うこと、姿なき神霊の顕れますのをひたすらに願う
ということであるが
、「
神に祈る」の場合には対象
的・具象的に既にそこに坐ます神に祈ることになり

神とは「我に対する汝」というように人に相対して
存在する
...という考えとなり 両者のその意味内容
は大いに相違する、と森田博士はいわれるのである。
仏教渡来以降、神の社殿が営まれるようになって以
後、神はいつも社殿に鎮座されているのだと考えら
れるようになったというのであり、これは、それ以
前とは異なって、新しい考え方というべきであり、
ここに神霊と人との関係に大きな変化が生じたとい
うべきであろう。『万葉集』には「神を祈る」とは
あっても「神に折る」という例は見出せないからで
ある。

          渡辺勝義『神道と日本文化』

 

神懸りによって神霊の託宣を乞う宗数的儀礼の背景
には、《世界の実存的開示》という状況が存在する。
素人がたまたまこれに修行もなく、万が一にも不用
意に直に触れるとすれば、恐らく発狂するか死んで
しまうかもしれない
。「託宣」とは実存的世界の開
示の場面に出会うことを指しており、これは
極めて
危険なのだということを知っておいて欲しい
。従っ
て、実際は神霊は人を選んで現れるものなのであり
なによりも自らの真正なあり方を見分ける力を持つ
仲介の人(メディア)を通して、神霊の意向を伝え
ようという人に立ち顕れてくる
。その人自身はそれ
が真正のものであるかどうか判断がつきかねること
がある。それを判断する立場の人を「
審神者(さに
)」と呼ぶ。幕末から昭和期にかけて起こった民
間宗教の世界においてさえ、例えば天理教の中山み
き女や大本数(現、大本)の出ロナヲ女のように、

 

当初、己に憑依した官物が何者なのか、果たして狐
か狸か神か、神ならば正神であるのか邪神であるの
か、優れた審神者無きためにその判別に苦慮したこ
とが知られている。出ロナヲ女は自分に憑依した霊
物の正体を知ろうとして、天理教や金光教の教会な
どを訪ねている。自分の身に起こったことについて
知ろうとして、如何に真剣に悩み抜き且つ混乱状態
にあったかがわかる。常に人は良き師を求めねばな
らない。なによりも疑ってかからねばならないのは、
例えば優れた師を持たずに滝場などで修行している
うちになんらかの憑き物が憑依した時に、それが果
たして真正な神霊か、妖魅・邪霊の類か、死霊かそ
の判断もつかないのに、勝手に神仏の言葉と称して
その憑き物のことばを語ることであり、それは悲惨
な結果しかもたらさない


最後の括りは重く感じて受け止める。
オウム真理教
の麻原彰晃などとダブらせて理解した。
 
さて、古典を真面目に研究した者ならば、神道にと
って「
神懸り」が如何に重要且つ不可欠のものであ
るかがわかる筈であるのに、賀茂真淵や本居宣長な
ど国学者らが古訓の解釈のみに終始して、肝腎の神
懸りに対しては手も足も出なかったのは、既に彼ら
が人間主義的合理主義に侵されていたからだと...
葦津翁は重大な指摘をされた。神道の真髄は、国学
者らのように単に理による解釈では到底わかり得ず
身自ら行法を実践して神霊に直接する道を体験・体
得する以外にないのである
。だが実は葦津翁よりも
ずっと以前に同様の指摘をしている者がいた。幕末・
明治の優れた神典学者であり、また霊学中興の祖と
して、神道行法の達人として宗教集団(大本教、三
五数ほか)や神道界はじめ、その道を志す者に今日
においても少なからず影響を及ぼしている本田親徳
翁(薩摩藩士。通称九郎。文政五年正月十三日、鹿
児島県川辺郡加世田郷武田村生まれ)その人である。
彼は、その著『難古事記』に次のように述べている。

 此の神懸りのこと本居平田を始め名だたる先生
 達も明らめ得られざりし故に、古事記伝、古史
 伝ともに其の説々皆誤れり。親徳拾ハ歳皇史を
 拝読し、此の神法の今時に廃絶したるを慨歎し、
 岩窟に求め草庵に尋ね、終に三拾五歳にして神
 懸三十六法あることを覚悟り、夫れより幽冥に
 正し現事に徴し、古事記日本紀の真奥を知り、
 古先達の説々悉く皆謬解たるを知り弁へたりき。

幽冥に正し、神霊の教えを受けなければ、『古事記』
や『日本書紀』の深奥は決してわかるものではない
...と本田親徳翁はいうのである。残念ながら 本田
翁が古典を元にして生涯賭けて苦心の末に再興した
ところの神霊と直接し神教を受けるためのすぐれた
皇法と霊学(鎮魂法・帰神術)は今日、神社界では
全く知られていないというか、無視されているとい
うのが現状
である。古神道行法を身を以て実践し、
真にその奥の堂に入るためには、すべてを投げ打っ
て徹底して神界への奉仕者たらんとする覚悟はもと
よりの事、専心何十年という長期の(生涯をかけて
の)積み重ねの修行と「霊学は浄心を以てもととな
す」といわれる如く、世俗の名利等一切に囚われな
い徹底した「浄心」の持ち主でなければならない。
神界に己が真心を捧げ且つ認めて頂くためには、こ
うしたことが必須の条件であるために、並みの者で
は到底動まらず、従って誰もが何もなし得ずに終わ
ってしまう(後略)。

          渡辺勝義『神道と日本文化』

簡潔に要約すれば、ご託宣を得る資格、厳しい修行
を経なければ無理だし、中途半端では破滅するとい
うことになるが、幽体分離の語り(「実存的不安と
託宣」P.90)など、凡庸なわたしなど理解もできな
い世界が解説されていて、少々閉口気味に消化する
こととなる(→「正木ワールドへようこそ」の「
二部 不思議な現象
」に幽体分離が紹介されている
)。きょうはこんなところで終わるとしよう。
                    




アンスリウム(Anthurium) は、サトイモ科アンスリウ
ム属の非耐寒性多年草です。作りが、造花のように
見えますが、生花です。緑色の葉はサトイモの葉に
似ています。 花色は、赤や、桃、白、緑、茶色。
これは本当は花ではなく、ぶっぽうえん(仏炎苞)と
呼ばれるもの。苞は、カラー(Calla)や、スパティフィ
ラム(Spathiphyllum)に似ている。


 播州ラーメン

数年前、開発試作品の検収で西脇に出張した折、長
谷川穂積の応援横断幕を見て興味が惹かれ、それ以
来、彼のボクシングに余り熱心ではないファンでい
た。「この男はいずれ世界一になる」と。もう、と
うに消えた情熱を呼び戻すかのように即興歌を詠む。

アンスリウム属(Anthurium)とは、サトイモ科の属
の一つ。ベニウチワ属ともいう。熱帯アメリカ原産
で六百種以上ある。葉や苞(花に見える部分)が美
しいものや、観葉植物として栽培されるものがある。
別名ベニウチワの「アンスリウム」。花言葉は「熱
情」。

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