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人はいつでも信じたいものしか信じない――ポスト・トゥルースの時代に・後編

2018-12-20 23:19:54 | 雑文
(前編からの続き)

さて、先に「ポスト・トゥルースは高度情報化によってもたらされた」という私見を述べた。しかしながら、「信じたいものだけ信じる」態度は、情報の飽和だけを原因とするものではない。現代思想に多少なりとも詳しい人ならば、「信じたいものだけ信じる」という言葉を聞いて思い出すことがあるはずである。そう、ポストモダンだ。
ポストモダンとは、国民国家の統合の理念としてあった自由主義やマルクス主義などの大きな物語が凋落し、共同体の成員が共通の価値観を信じられることができなくなり、それぞれが個別の価値観(小さな物語)を信奉するようになる、という時代のことである。それは1970年代から始まったとされる。(ポストモダンがなぜ興ったかについてはここでは詳述しない。詳細を知りたい方はジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』を読まれたし)
大きな物語が機能しなくなり、人々が各々信じられる個別の物語にタコつぼ的に逼塞するその様態は、ポスト・トゥルースとさほど変わりはない。つまり、ポスト・トゥルースは、ポストモダンが進行し始めた1970年代から、約50年の時間をかけてゆっくり準備されていた、ということになる。
また、評論家の東浩紀によると、ポストモダンと高度情報化は相関関係にあるという。


筆者のような現代思想系の研究者から整理すると、二〇世紀後半の先進国社会の変化は、大きく二つの傾向に導かれていたと言える。ひとつは「ポストモダン化」であり、もうひとつは「情報化」である。(中略)
この二つの流れは、一見独立したもののように見える。(中略)ところが実は、この両者は密接に関係している。この二つの変化は、「社会の象徴的統合から工学的統合へ」というひとつの流れの別々の側面なのだ。
(中略)多様な個人の集合をいかにして「ひとつ」にまとめるのか、その方策が人類社会の課題であることは有史以来変わらない。ただそのなかで、産業革命以降の近代社会はいささか特異な方法を採ってきたと言える。というのも、そこでは、多様な群衆を強制的に暴力によって統合するのではなく(それが近代以前の基本的な方法だった)、教育や福祉を通し、各個人に「国家」や「民族」というシンボル=象徴を植え込むことで自発的にまとまるように仕向けていく、という間接的な方法が運用されてきたからだ。これが前述の「社会の象徴的統合」である。
しかしその時代が、二〇世紀の半ばあたりに大きな曲がり角を迎える。消費社会の到来そのほか、さまざまな要因によって象徴的統合のシステムがうまく機能しなくなる。これが「ポストモダン化」である。そして、まさにその欠落の穴を埋めるように、電話、ラジオ、テレビに始まり、最終的にインターネットに行き着いた情報技術の革新運動が現れる。
情報技術によるコミュニケーションの拡大、つまり「共有情報の拡大」は、国家や民族といった象徴を介することなく、直接に群衆をまとめあげることができる。(中略)メディア論や社会学の研究ですでに明らかなように、一九六〇年代以降、マスコミを介したこのような連帯感は、凋落する一方の国家的な象徴やイデオロギーの役割をかなり肩代わりしてきた。二〇世紀末の先進諸国は、すでに、「国家」や「民族」といった理念ではなく、情報技術の力で一体性を保つ国家になっていたのである。
(中略)
筆者が「社会の象徴的統合から工学的統合へ」と呼んでいるのものは、このような変化のことである。
(東浩紀『文学環境論集 東浩紀コレクションL――essays』講談社)


同じく東によれば、「情報」とは、20世紀になって生まれた概念であるという(東浩紀コレクションL――journals)。近代になって誕生した国民国家。その統合の理念としてあった「大きな物語」。「情報=映像」は、やはり国民国家をまとめあげるため、大きな物語の補助具としてあった。それがポストモダン以降、大きな物語の失墜によって情報の役割が肥大し、IT技術の発展と相まって膨張し続け、現在の高度情報化社会に至る、というわけだ。そうすると、国民国家をまとめあげるために用いられていた「情報=映像」が、飽和するにしたがってポスト・トゥルースをもたらし、逆に国民国家を脅かし始めている、ということになる。
また東は、インターネットのフィルタリング機能について次のように述べている。


それは、個人の自由を狭める規制のシステムである一方で、消極的自由の領域(選択肢の数)を制約し、積極的自由(動機)が弱体化していても選択が行えるように、個人の自由を支援する装置だと捉えることもできる。
(中略)
あまりに多くの選択肢を前にし、合理的な選択が困難になってしまうと、ひとはだれかがその選択を肩代わりしてくれることを望む。その「だれか」は、かつては象徴的な「父」として社会的に供給された。それがいまや、ユーザーごとにカスタマイズされ、選択肢をあらかじめ絞り込んでくれるフィルタリングのシステムとして、技術的に供給され始めている。この現象は「自由からの逃走」の新たな形態としても捉えられる。
(同『情報環境論集 東浩紀コレクションS』講談社)


人はあまりに多くの選択肢を前にすると、選ぶことができなくなってしまう。選択肢が多いということは、通常自由度の高さの表れだと理解されている。しかし、その数が飽和してしまうと、自由度の高さ(選択肢の多さ)が自由(主体的な選択)を困難なものにしてしまう。自由度が高くなりすぎると、むしろ不自由になってしまう、という逆説があるのだ。
この図式を本論に当てはめると、ポスト・トゥルースの人々は、政治の言論にフィルタリングをかけている、と見做すことができる。傍から見ると、あまりに偏狭すぎて、言論を絞り込みすぎていると感じてしまうが、彼らは彼らなりに「選択=自由の行使=政治的決定」を行うため、フィルタリングを用いているのだろう。
ポスト・トゥルースは、その顔と目されるドナルド・トランプの影響もあり、ごく最近の社会潮流であると思われている。小生の推察するとおり、高度情報化が大きな要因であるならば、それはインターネットが一般化した2000年代以降ということになるだろう。
だが、それよりもさらに前、ポストモダンがその母体となっているのであれば、まるでトランプがもたらしたかのように観念されているポスト・トゥルースだが、2016年のアメリカ大統領選以前にポスト・トゥルースの起こり、あるいはポスト・トゥルースを希求する時代の空気は既に醸成されていた、ということだ。そして、そのポスト・トゥルースを望む人々が、自分達の願望を正当化するために、錦の御旗として都合よく担ぎ出されたのがトランプだった、もしくは、自覚的にせよ無自覚にせよ、ポスト・トゥルースの流れにうまく乗っかることでトランプは大統領になることができた――つまり、時代の流れとトランプのキャラがたまたま一致していた――ということではないか。だとすれば、トランプは結果的にポスト・トゥルースのアイコンと見做されるようになっただけで、その潮流を創り出したわけではない、ということになる。もちろんアメリカ大統領の社会的影響力は大きいし、メディアへの過度の露出によってポスト・トゥルースをより発展・強化させた、という面はあるにせよ、だが。

では、これから先はどうなるのだろうか。自然に考えれば、高度情報化は、人類のインフラが壊滅的は被害を被るような、よっぽどのことがない限り、今後より強まりこそすれ、弱体化することはあり得ないだろう。ならばポスト・トゥルースの傾向も、それに比例して進行するばかりで、もう「トゥルースの時代」のような、客観性を信頼する社会状況は戻ってこないのではないかと思われる。よくても現状維持ではないだろうか。
だとすると、この潮流に「処方箋」はあるのか、が気になってくる。どんな出鱈目な主義主張であっても、自分達の島宇宙に逼塞し、他者と棲み分けることで共存しているならばさほど問題はないのだが、主義主張の内容によっては他者との衝突を引き起こしてしまう。アメリカにおいてトランプ派と反トランプ派の深刻な対立があるように。その手の摩擦を避けるという最低限度の目的のために、ポスト・トゥルースの解熱剤は処方されねばならない。
しかし、どうやって?
今年の8月にアメリカの新聞や週刊誌400誌以上が、報道の自由を訴える社説を一斉掲載したことがあった。有力紙ボストン・グローブの呼びかけによるもので、メディア批判を繰り返すトランプ大統領に対抗することを狙いとして行われた。その主張自体は至極正当な内容である。
たとえば、ダラス・モーニング・ニュースは「報道の信頼性を傷つけることで、権力者が民衆の監視なしにより強い決定力を得ることになるのは危険だ」と述べており、デンバー・ポストは「記者たちは真実を追求して日々過ごしている。記事に込められているのは政治的意図ではなく、伝えたいという願望だ」と述べている。(2018年8月18日付「朝日新聞」)
まとも過ぎるほどまともな言説である。しかし、「信じたいものだけ信じる」人々とは、信じたくないものには一切耳を貸さない人達のことである。耳を貸さない人達に、いくら耳を貸すよう訴えても、その訴えそのものが遮断されてしまうのだから、なんの効果も得られない。結局これらの「まともな訴え」は、ちゃんとした「聞く耳」を持った反トランプの人々の間でしか流通しない。その結果として起こるのは、報道の自由に対する理解の広がりではなく、トランプ派と反トランプ派の分断と対立の強化である。
聞く耳を持とうとしない人達に、いくら聞く耳を持つよう呼び掛けても意味がない。聞く耳を持とうとしない構造自体を突き崩す働きかけをしないと状況は変化しないのだ。だが、理屈でそうとわかっていても、現実的に実践するとなると容易ではない。それが困難であるからこそポスト・トゥルースはここまで常態化しているのだし、アメリカのメディアも無駄骨とわかっていながら、他に方法が思いつかないから退屈な正論を振りかざしているのかもしれない。
では、ポスト・トゥルースはもうどうしようもないのだろうか。

最近の日本に見受けられることのひとつに、「やたらと消臭・殺菌を気にしている」という傾向がある。テレビCMでは消臭・殺菌商品が昼夜を問わず紹介されており、社会全体の共通認識として、かすかな異臭も、わずかな雑菌も許さないと言わんばかりだ。この過剰なデオドラント社会は一体どこまで行くのだろう、と思わずにはいられない。
もちろんこれら消臭・殺菌商品は、おもに自身に対して使用されるものであり、他人に向けられるものではない。だが、自分が消臭・殺菌を励行することで、暗黙裡に他人にも歩調を合わせることを求めるものでもある。
異臭や雑菌を嫌う心理は、少しでも違和を感じる他者、波長が合わない他者と共存したくない――その思いが強くなれば排除したい――、と願う心理と通底している。
「デオドラント願望」と「排外主義」、そして「ポスト・トゥルース」は、おそらく根っこのところで繋がっている(ついでに言えば、日本人の未婚率と恋人いない率の上昇や、ハラスメントの対象の増加もこれらと相関していると思う)。ならば、排外主義とポスト・トゥルースにはこれといった対抗策が見いだせないならば、デオドラント願望を批判することでわずかながら他の二態を抑制できるのではないだろうか。
「人間なんだから多かれ少なかれ体臭があって当たり前、雑菌なんてそこらじゅうにいて当たり前」。そんな、ごくありきたりといえばありきたりな言葉を訴えかけ続けるしかないのではないだろうか。あまり効果がなさそうではあるが、少なくとも小生には他の方法は思いつかない。
あまり前向きでない結論になってしまった。でもポスト・トゥルースの隆盛はいかんともしがたい気がする。この社会傾向は動かしようのない大前提と捉え、ではそのうえでどうするのか、を考えるよりしょうがないのではないだろうか。


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