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九鬼周造『偶然と驚きの哲学』(途中)

2014-12-23 07:00:36 | Note
「偶然と運命」

《物理的必然の裏になお論理的または形而上学的偶然が潜んでいるのであります。……》

〈遇わなければならないという必然性が間へ入らないで可能が可能のままで出逢うのが偶然であります。……〉

《偶然は“必然”の方へは背中を向け、“不可能”の方へ顔を向けていると云ってもいいのであります。》


「偶然の諸相」

《必然性が同一者の様相的言表であったに反して、偶然性とは一者に対する他者の二元性の様相的言表にほかならない。必然性は「我は我である」という主張に基いている。「我」に対して「汝」が措定されるところに偶然性があるのである。必然性に終始する者は予め無宇宙論へ到着することを覚悟していなければならない。それに反して偶然性を原理として容認する者は「我」と「汝」による社会性の構成によって具体的現実の把握を可能にする地盤を踏みしめているのである。》

“「我」と「汝」のあるところに具体的現実もあり社会もあるのである。”


〈定言的偶然は概念の普遍的同一性の包摂機能にあずからないところに生ずるものである。〉

〈「ま」は「間」である。空間的および時間的の間隔である。やがてまた間隔を置いてより存在せぬものを意味する。従って「まれ」なものを意味する。「まれ」とは「間有れ」の約である。「ま」は稀れにより存在せぬものであるから「ま」はまた偶然を意味する。〉


☆31-32定言的偶然


《定言的偶然は論理学上の概念性の次元に於てのみ成立しているものである。我々はこの洞察に基いて定言的偶然から仮説的偶然へ移って行くのである。》


《偶然性の核心的意味は甲と乙との遭遇である。「我」と「汝」との邂逅である。我々は偶然を定義して「独立なる二元の邂逅」ということも出来るだろう。……》

《我々は経験の領域にあって全面的に必然の支配を仮定しながら理念としてのXを「無窮」に追うたわけである。然しながら我々が「無限」の彼方に理念を据え得たとき、その理念は「原始偶然」であることを知らなければならない。かくて問題は仮説的偶然の経験的領域から、離接的偶然の形而上学的領域へ移されるのである。》


〈確率の先験性、経験性のいずれに拘らず、蓋然法則は謂わゆる巨視的地平に於て成立するので、微視的地平において各々の場合にどの目がでるかという偶然的可変性は依然として厳存しているのである。しかし偶然の偶然たる所以はまさに微視的なる細目の動きに存している。その点に、偶然性の問題は哲学的提出に対する確率論の根源的無力があるのである。〉


「驚きの情と偶然性」

〈要するに、同一性という性質が、様相の上では必然性である。〉

〈同一性、従って必然性は、どういう特殊な形を取ってあらわれて来るかというに、先ず概念は、その本質的徴表との同一性に於て成立している。次に“理由と帰結”とか、“原因と結果”とか、“目的と手段”とかいうような系列は、或る意味でやはり同一性を保っている。次にまた“全体”というものは、各部分の総和と同一性を示している。同一性、従って必然性は、およそそういう三つの形を取ってあらわれる。〉


〈何等恐れる必要はないが、しかし思いがけないもの、すなわち自己同一性に対して偶然的なものが、驚きの情を起させるのである。自己の環境として自己同一性の中に属してしまっている事柄に関しては驚かない。〉

《ともかくも、驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。偶然的なものとは同一性から離れているものである。同一性の圏内に在るものに対しては、あたり前のものとして、驚きを感じない。同一性から離れているものに対して、それはあたり前でないから驚くのである。》


《なお、驚きは偶然性に関する知的情緒と見ることもできると言ったが、それき対して不安は可能性に関する意志的情緒と言うこともできるであろう。可能ではあるが、実現が不確かなものとして対して、意志を基礎として不安の情が起るのである。また、喜びや悲しみのような快、不快の情緒は必然性に伴うと考え得ると言ったが、それは情緒のうちでも知的要素や意志的要素の交り気の少ない特に情的な情緒である。》


〈西洋の哲学がキリスト教の影響の下に立っている限りは、純粋な偶然論、純粋な驚きの形而上学は出来て来ないのである。〉

〈梵は自在性と無執着性とを性格としていて、何等の必然性に強要されるところがないから、偶然の遊戯をするのである。〉

〈なお、支那では王充の「遇不遇は時なり」という思想も偶然性の哲学である。〉


78それならば、偶然性の度合とは何のことかというに、

79それはふたつの違った因果系列が偶然「出逢った」ための


「哲学私見」

“普通に存在という場合には必然的存在、可能的存在、不可能的存在、偶然的存在の四つの様相が理解されている。他方にあって、現実、非現実、実在、虚無の四つの形態が考えられる。この八つの存在相が如何に関係するかを見極めところに存在一般の根源的会得の基礎があると思う。”

“可能存在は発展の概念を蔵している。そして発展の極限が必然存在と考えられている。必然存在とは可能存在の発展の極限である。必然とは超可能にほかならない。”

“哲学は偶然的存在にあって現実性の尖端を体験し、存在一般の体系に於て偶然的存在に位置を与えることによって存在一般の会得を投企する。可能性を指導原理とする哲学は一種の実践哲学に限局されることを常とする。必然性を手引とする哲学はともすれば自然界哲学に終始する危険を伴う。偶然性を出発点とする哲学が初めて真の歴史上哲学を展開することができる。”


〈実存者は有限性と時間性とに纏われている。実存者の哲学は存在一般を時間的地平に齎らすことによって真の意味で存在を会得することができるのである。〉

〈必然性が過去を時間的地平とし、可能性が未来を時間的地平とすることは明かな存在論的事実に属すると信ずる。〉

95?

《要するに必然性は過去よりの存続を仮定している。可能性は未来への動向を表わしている。偶然性は現在に於ける瞬間的存在を意味している。そして必然性と可能性との時間的地平の開明は存在一般の実存的会得の深化にほかならない。》


「人間学とは何か」

《情緒論は自然的人間の人間学の主要な問題である。情緒とは肉体と心との合一としての人間が、物の存在の仕方に対する有機的な反応であると考えられる。物の存在の仕方は、人間の主体に対する様相の上では、偶然的か、必然的か、可能的かである。従って情緒を大別すれば、偶然的存在に対応する情緒、必然的存在に対応する情緒、可能的存在に対応する情緒の三種類となる。》

〈……スピノザが驚きを情緒の一つとして認めなかったのは、必然論の立場にあって、一切の偶然の存在を拒否したことに基づいている。人間として偶然の存在を認める以上は、驚きは情緒の中で最も顕著な形態を備えたものであることも認めなければならない。驚きにあっては随意筋は一時麻痺し、鼓動は急激となり、抹消血管は収縮するなど、驚きは興奮としての情緒の典型である。〉118-119

〈謂わゆる怪しみの情も、驚異である限りは、驚きの情の一種に過ぎない。〉


・快感としての主要な情緒は「嬉しい」という情緒であり、不快感としての主要な情緒は「悲しい」という情緒である。

・「嬉しさ」は興奮的な情緒であるから、おのずから「喜び」へ展開しようとし、「悲しみ」は抑鬱的な情緒であるから、必ずしも「歎き」への展開を求めない。従って「喜び」への方向を含まない「嬉しさ」は殆ど無いが、「歎き」の方向へ開かずに自己内に閉じている「悲しみ」は多く見られる。

・それのみならず、情緒の対立関係は「嬉しさ」と「悲しみ」との対立や、「喜び」と「歎き」との対立よりも、むしろ「喜び」の遠心的能動性と「悲しみ」の求心的受動性との対立に顕著に現われる。

・なお「嬉しさ」が肉体との近接状態にあるのは「楽しみ」であり、「悲しみ」が肉体との近接状態にあるのは「苦しみ」である。

・なお、「嬉しさ」と「悲しみ」とが「楽しみ」と「苦しみ」とに対する関係は、発生的には、肉体的な後者の方が、精神的な前者よりもむしろ始めに起こったものと考え得る。このことは、ジェームス・ランゲの情緒末梢起原説とも深い関聯を有(も)っている。

・以上は純主観的な快、不快の情緒であったが、対象への志向性を内容とする意味での客観的な快、不快の情緒もある。「嬉しさ」を起させる対象には「愛」を感じ、「悲しみ」を起させる対象には「憎」を感じる。

・なお、「愛」と「憎」とは未来性によって様相化を受ける。愛する対象を未来の地平に置くときには「恋しい」という情緒を生じ、憎む対象を未来の地平に置くときには「恐れ」という情緒を生ずる。「恐れ」とは事物及び事象の未来に於ける生起に対する憎しみの情である。「恐れ」が未来性を棄てると共に、防衛的消極性から攻撃的積極性へ移ったものが「怒り」である。「恋しさ」が未来性を有(も)っているのは、対象の欠如を未来に於て填充しようとする志向を内包しているからである。「恋う」と「乞う」に通じて、未来に求めている。

・恋の迫力が、肉体を離れれば離れるほど、強さを増すのは事実であるが、それは恋が、肉体の背景なしに成立つことを表示するものではない。

・「愛」と「憎」との未来性による様相化は、おのずから第三種の情緒として、可能的存在によって生ずる情緒へ導いて行く。可能的存在に対応する情緒が、快、不快の調を稀薄にして、緊張性に於て不確実的性格を自覚する場合に「不安」の情を生ずる。ハイデッガーの哲学が、可能性の実存論であると共に不安の解釈学であるのは、人間学的事実に深い根拠を有(も)っていると云わなければならない。不安は不快であるとは限らない。希望も心配も疑いもみな不安の一種にほかならぬ。そして、不安の主体的基礎は人間の衝動的「欲」が対象を未来に於て展望することに根ざしている。


・可能的存在に対応する情緒としての不安は、自由を本質とする歴史的人間の自然的情緒であったのである。一か他かの可能性に基づく緊張感が、一を選ぶか他を選ぶかの危機的情緒が不安だったのである。

・不安をもってなされた選択が、誤っていたことが明かになった場合には、後悔の情が起る。

・キルケゴールによれば、実存は情熱を伴わない場合はない。実存にあっては、一か他かということが情熱をもって決定されるのである。


〈時間性の特色が脱自的、未来優位的、有限的の三点に存するという時間解釈が、歴史的人間に基づいてなされた解釈であることは、今更言うまでもない。〉

“歴史的人間は、孤立した唯一の存在と考えることはできない。既に自然的人間の肉体的機構に於ても、相互填補性は他者へ環顧していたのであるが、特に歴史的人間は他の歴史的人間と共に社会を造ってのみ存在し得るものである。”

《……ハイデッガーにとっても人間の在り方としての「世界内存在」は「共同的世界内存在」にほかならない。世界への内在は他者との共同存在であり、現存在は共同相互存在 (Miteinandersein) の在り方を有(も)っているのである。……》130


〈この意味の神学上の人間学は、絶対者が人間化されることに於て成立するものであるが、なお逆に、人間が絶対者に接触する在り方も人間学の考察の対象となる。形而上学的人間の人間学とはまさしくそういうものである。〉

139☆形而上学的人間とは、~
歴史の起始は原始事件としての原始偶然である。

《ただ一つ確かなことは、人間はショーペンハウエルの言ったように見出し amimal metaphysicum(形而上学的動物)である。人間は神のような獣である。》



「(附録)偶然と驚き」

《永遠な問題は必ずしも最高音で語られるとは限らないのであります。》

“驚きとは、必然的でないもの、すなわち偶然的なものに対して怒る情であります。”

“或る一つの事柄が、偶然という性格を有(も)っている時に、それが驚きの原因となるのでありまして、また驚きの原因が複雑な知的事象である場合が多いために、驚きは特に知的情緒と言われることもあるのであります。”

149-150☆二つの違った

《ライプニッツのほかには、シェリングも世界の偶然性に対する感覚を有(も)って居りまして、世界の始まりを原始偶然によるとしたものであります。歴史の始まりは、原始的な偶然であると考えたのであります。そして、意志にとっては、そういう原始偶然は、運命として課せられているので、意志はそれを見て驚くのであります。》


「(附録)『偶然性の問題』抄」

《しかし「真の存在(オントス・オン)」は「非存在(メ・オン)」との関係に於てのみ原本的に問題を形成するのである。形而上学の問題とする存在は、非存在すなわち無に包まれた存在である。》

“偶然を偶然としてその本来の面目において問題となし得るものは形而上学としての哲学を措いてほかにない。”

《偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現実である。単なる現実として戯れの如く現在の瞬間に現象する。……》

174☆個物の起源は一者に対する他者の二元的
~潜んでいるのである。

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