ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

野いちご

2009年01月25日 | 映画レビュー
 ドイツ表現主義ふうの奇怪な夢の場面があったり美しい花畑の回想シーンがあったり、幻想に満ちた世界。それは死を目前にした老人の一時の幸せなのだろうか、それとも後悔か。

 ベルイマンにはもっと緊張感に満ちた作品を期待してしまうから、この物語のように中途半端なギスギス感は不満が残る。どうせならギタギタにお互い傷つけ合えばいいのに、老人と息子の嫁は仲違いしているようで実は敬愛しあっているという複雑な関係。

 さて、1957年当時の76歳といえば今の90歳近い感覚だろうか。死を目前にした高名な医師は何を幻想し、何を夢見るのだろう。彼の白昼夢に登場する若き日の恋人や妻は彼の人生をどのように彩りどのように傷つけたのだろう…

 76歳の老医師イサークの独白で始まる物語は、彼の息子の妻とともにゆくロードムービーだ。息子の嫁は美しいマリアンヌ。彼女を助手席に乗せ、後半は彼女が運転して、イサークは50年に及ぶ医師生活を表彰されるその式典に参加すべく車で出発した。途中で若い頃に住んでいた屋敷の側を通り、3人の若者を拾い、危うく正面衝突しそうになった車の運転手夫婦を拾い…というようにロードムービーは何組かの新たな同乗者を乗せて進む。

 後期のベルイマン作品しか知らない人にとっては驚くほど明るくユーモラスな映画だ。頑固な老イサークと老家政婦との会話もボケと突っ込みが楽しい。ロードムービーの途中で出会う人々との会話も機知に富んでいて、途中で出会うのは実在の人々ばかりではなく、もう既に亡くなった妻や昔の恋人とも幻の中で出会う。

 イサークはどうやら医師として人々に尊敬されているらしく、式典への道のりの途中で立ち寄ったガソリンスタンドの若い夫婦からも「先生は恩人ですから代金はいただきません」と申し出られる。息子の嫁マリアンヌには「自分のことにしか関心のないエゴイスト」だとひどい言葉で非難されるけれど、結局のところ、マリアンヌもイサークを敬愛しているのだ。老イサークには96歳になる老母がいて、一人暮らしの邸にイサークは立ち寄ってみる。この老母もまた厳しい人で、年老いても口は減らない。

 ベルイマンらしさはなんといっても登場人物たちの辛辣な会話だろう。なぜ家族どうしでそこまで棘のある言葉を交わすのだろう、と思えるほどに人物たちは互いを批判しあう。しかし、晩年のベルイマン作品ほどにはその棘の刺し傷は深くない。そこが中途半端に思えて不満が残る。

 また、イサークが道中に見る夢が自分の棺桶だったり妻の不貞だったり、「悪夢」といえるようなものばかりで、恐怖心をそそる。一方、道中で野いちごを摘むイサークはその香りに刺激されたのか、昔の恋人の幻を見る。かつて美しかった自分の婚約者を弟にとられてしまったのだ。イサークの「回想」場面は、老イサークが恋人と弟との会話を盗み見るように展開する。つまり、過去の場面にそのまま現在のイサークが観客として登場するのである。

 この映画は物語全部が老いたイサークが死ぬ前に見たつかの間の夢だとも解釈できるし、あるいは死が近いイサークが最後に過去を懐かしみ後悔し現在の栄光を喜び「いろいろあったけれど、満足な一生だった」と安らかな思いにふけるうたかたの「マイ・ウェイ」熱唱もの、ともとれる。

 針のない時計とか、現在と過去とのシームレスな交錯とか、過去が現在を映す鏡として象徴されるとか、表象論的には面白い題材があるのだろうけれど、わたしには見ていて面白い映画とは思えなかった。でも研究会「記憶の会」でのさまざまな議論を受けて、わたしの浅い読みよりもかなり多くのテーマを含む興味深い映画であることを知り、再見したらいろんな発見があるような気がした。(DVD)

--------------
野いちご
SMULTRON-STALLET
スウェーデン、1957年、上映時間 90分
監督・脚本: イングマール・ベルイマン、音楽: エリック・ノードグレーン
出演: ヴィクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン 、グンナール・ビョルンストランド、ビビ・アンデショーン、グンネル・リンドブロム、マックス・フォン・シドー

妻の恋人に会う

2009年01月23日 | 映画レビュー
妻の愛人に会うという風采の上がらない中年男の物語。妻が浮気していると気づいた冴えない中年男が、浮気相手のタクシー運転手の車に乗り込む。言いたいことは山ほどある。なんと言ってとっちめてやろうか、天誅を下してやる、復讐だ!と暗い怨念を燃やした男だったが、いざタクシーに乗り込むと何も言えない。運転手のちょっとハンサムな若い男は長距離客に上機嫌で、すっかり客と意気投合した気になり、「お客さん」と呼ばずに「兄貴」となれなれしくなる。長距離を走るうちに車が故障したりいろんなアクシデント起こり、二人は一泊旅行をする羽目に。かくして、夫とその妻の愛人との珍道中はいかに。というコメディ。

 この愛人というのも頭の中身のない自信満々のバカだが、寝取られた夫も小心者の情けない男。要するにどうしようもなくだらしなく唾棄すべき男達二人のロードムービーなわけで、見ていてちっとも面白くない。どころか腹が立ってしょうがない。でも、見終わって思うことは、「これほど情けないバカ男たちを嗤うだけの余裕が男性中心社会の韓国にもできてきた、ということで、つまりは儒教社会もここまで変化しましたという実情をシニカルに描いたものなんだ」。そう思って考え直すと、なかなかシュールでシニカルで面白かったと言えるかも。

 夫が妻の愛人に対して燃やす対抗心や嫉妬をさりげない1ショットで見せるあたりの面白さや、気弱な中年男の情けなさを地で演じているのかと思わせるほどはまり役なパク・クァンジョンの巧さ、西瓜が道路を転がってくるシュールで鮮やかな色彩の場面のはっとさせる斬新さなど、キム・テシク監督の手腕には一目置きたいが、やっぱりわたしはあんなバカ男たちにはまったく魅力を感じない。あんな男達を好きになる女もバカです。夫も愛人もどっちもバカということは女自身がバカということですね。世の中バカだらけ、そういうわたしもこんな映画を見て笑ったりしてやっぱりバカなんだわ。

 え? R-15じゃないの? 1シーンだけだけど、けっこう濃厚なベッドシーンがありましたよ。ちなみに、上記タイトルはDVD題名です。公開時には「妻の愛人に会う」でした。(レンタルDVD)

-----------------
妻の愛人に会う
韓国、2006年、上映時間 92分
監督・脚本: キム・テシク、音楽: チョン・ヨンジン
出演: パク・クァンジョン、チョン・ボソク、チョ・ウンジ

チェ/28歳の革命

2009年01月20日 | 映画レビュー
 ソダーバーグ監督が「演じている役者よりも本人のほうがハンサムな映画はこれが初めて」というように、あの超かっこいいゲバラ役にしてはちょっと…というベニチオ・デル・トロではありますが、わたしはこの人、けっこう好きです。ベニチオの渋さがあってこそ、ゲバラのカリスマ性が描けるというもの。確かに「モーターサイクル・ダイアリーズ」のガエル君がそのままゲバラを演じるという選択肢もあったと思うけど、彼ではまだまだ甘さが残りすぎる。

 本来ならば一本の映画として上映すべきものを2本に分けて第1部、第2部として上映するとは、「レッドクリフ」と同じ手ですな。こういうの、止めてほしいわぁ。せめて2本連続見る客には2本目半額とか特典をつけてほしい。2本分の入場料と2本分のパンフレットを買わなければならないわたしにしたら大変痛い出費ですぅ~(T_T)。

 さて、第1部はゲバラがカストロと出会ってバティスタ政権を倒すまでの数年間を描く。その合間合間に後に革命政府の閣僚となったゲバラの国連総会での演説場面などがモノクロで挿入される。モノクロの場面はほとんど実写の記録映像と見間違うほど。また、「現在時間」であるところのゲリラ戦の場面もドキュメンタリータッチの映像なので、観客はゲバラとともに革命戦争を戦っている気分を味わえるというもの。しかし、そうであるだけにシエラ・マエストラの山中を行軍する場面の淡々と暗いのには参った。さすがにサンタクララの街頭戦では手に汗握る迫真の場面が続くのでここではしっかり目が覚めるが、そこに行くまでがつらいです。

 しかも、カストロがほとんど登場もしないし活躍もしないため、この革命がいったい何を主張し何を目指して戦われているのかその理念に当たる部分はまったく説明がない。これは既にゲバラについて相当の知識がある人向けの映画であって、これを見てもなぜたった82人のゲリラが政府の正規軍を破ることができたのか(しかも生き残ったのはそのうち12人!)、理解に苦しむだろう。ゲバラが土地の解放を約束して農民達を兵士に加えていったこと、捕虜は殺さなかったこと、政府軍とはいえ大部分が貧農出身の兵士であったためにゲリラに寝返る者も大勢いたこと、バティスタ政権の腐敗ぶりが度を超していたことなど、革命軍が勝利できる条件はいろいろあったのだが、それについては映画を見てもきちんとした説明はないので、予習は必須。

 一人の医師であったゲバラがいかに自らを革命家として鍛え上げていったのか、彼の内面をほとんど描かないという、ある意味伝記ものとしては致命的な映画なので、そういう部分はなくてもいい、という人にとってのみ面白い映画ということはできる。この第1部は革命が成功へと向かう高揚感に満ちているため、まだしも後半になるほど面白かったが、問題は第2部である。今度は革命が失敗する話ですからね、暗いよ~。爆睡しないように気をつけたいと思います。

----------------
チェ 28歳の革命
CHE: PART ONE
THE ARGENTINE
アメリカ/フランス/スペイン、2008年、132分
監督: スティーヴン・ソダーバーグ、製作: ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ、脚本: ピーター・バックマン、撮影: ピーター・アンドリュース(=スティーヴン・ソダーバーグ)、音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: ベニチオ・デル・トロ、デミアン・ビチル、サンティアゴ・カブレラ、エルビラ・ミンゲス、ジュリア・オーモンド、カタリーナ・サンディノ・モレノ

BOY A

2009年01月18日 | 映画レビュー
 「大いなる陰謀」でロバート・レッドフォードに見いだされたアンドリュー・ガーフィールドがナイーブな演技で光彩を放っている。しかし、これは大変重苦しい映画で、救いのなさに打ちのめされそうになる。

 BOY A、すなわち少年A。我が国にもそう呼ばれた、その名がまるで固有名詞のようだった少年がいた。神戸で、近所の子ども達を惨殺した14歳の少年。かれが少年院を出所したとき、正確にはどのような「騒ぎ」や波紋があったのか、忘れてしまった。詳細は覚えていないが、この映画の人々のように、前科を持つ少年に「世間の目」は疑惑や冷酷なものに満ちていたのではなかったか?

 犯罪を犯した少年をなぜ無関係な人々までが憎むのだろう? なんの関係があって? 誰のために? 罪を憎んで人を憎まずというけれど、罪も人もよく知りもしないでなぜ一人の少年を追い詰め迫害することを我が正義と信じることができるのだろうか。それはきっと、自分だけは無罪だと思っているからだろう。自分は残虐な犯罪とは無縁な無辜の人間だと思いこめなければそんなことは不可能ではないのか。

 主人公ジャックが少年院から仮出所してくるところから映画は始まる。彼はこれまでの名前を棄て、「ジャック」という名前で新しい人生を歩み始めるのだ。仕事もみつかった。彼が前科者であることを知って雇い主は雇ってくれた、寛大な人のようだ。幸い、いい同僚に恵まれ、恋人もできた。無口でシャイなジャックが恋人と心を通わせるようになるまでがなかなかまどろっこしいけれど、その描写がゆったりとして、よい。恋人ミシェルは決して美人ではない、むしろぽっちゃり型の女性で、同僚たちからは密かに「白鯨」と呼ばれている。ミシェルと徐々に心を通わせるようになったジャックには、いつも温かい目で彼を見つめてくれる後見人もいる。しかしそんな彼の生活がある日、暗転する…


<以下、若干ネタバレぎみ>





 映画は、ジャックの前科をなかなか明らかにしない。彼がどんな犯罪を犯したのか、フラッシュバックによって過去が描かれるが、肝要な部分は曖昧にされている。観客は徐々にジャックの過去を知り、今目の前にいるこの純朴な青年がかつてどのような犯罪を犯したのか知らされることにより、「罪」よりも先にジャックという「人」を見るよう誘導される。やがてジャックの犯罪が明らかになるけれど、その全容は伏せられたままである。もしこの犯罪が、もっと残虐なものだったらどうなのだろうか? ジャックが極悪非道な犯罪者であれば世間の非難は当然のものなのだろうか? この映画はジャックに同情心をそそるように作られているため、主張のポイントがたいへんわかりやすいものとなっている。それだけにラストは、「本当はこんなに良い子なのに」という心暖かな観客の同情心を目一杯そそる悲痛な思いに満ちている。そこが釈然としないところだ。厳しく言えば、アンフェアである。心優しい大人しく孤独な男の子が、恵まれない家庭の寂しさから非行に走り、やがて悪ガキ友人の犯罪に巻き込まれていく。悪ガキと書いたが、この子とて生育歴に問題があり、情状酌量の余地は大いにある。この「悪ガキ」をいっそ主役にしてみたら、この映画は奥の深いものになったろう。
 
 いずれにしても、簡単には救いの余地のない映画であり、ここに描かれた「社会への告発」を、わたしたちは身を引くことなく受けとめることが可能なのだろうか、と思う。この映画を見にわざわざ劇場まで足を運ぶ人々はこの映画の主張をきちんと受け止めることができるのだろう。こんな映画が商業的にはヒットしないことがこの国の不幸であり、ヒットしたらしたでかえって不気味に思うし、この映画を見る人口の少なさに「自己満足」を感じてしまう映画ファンの存在こそがむしろ問題かもしれない(と、自虐的に思うこの頃…)。

-----------------------
BOY A
上映時間 107分
製作国 イギリス、2007年、上映時間107分
監督: ジョン・クローリー、製作: リン・ホースフォード、原作: ジョナサン・トリゲル、脚本: マーク・オロウ、音楽: パディ・カニーン
出演: アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン、ケイティ・ライオンズ、ショーン・エヴァンス

ペルセポリス

2009年01月17日 | 映画レビュー
 知っていそうで全然知らないイラン現代史がよくわかるアニメーション。

 監督マルジャン・サトラピの自伝をそのまま映画にしたという作品。イラン革命に翻弄される少女の成長物語がロックミュージックとともに描かれる。王政による言論弾圧、1978年のイラン革命、その後のイラクとの戦争、イスラム原理主義による支配、などイランの政治的弾圧により、祖父と叔父が処刑されているマルジの将来を案じた両親により、彼女はウィーンへと留学させられる。この映画は、ヨーロッパを放浪するマルジの異文化との出会いと葛藤の物語。

 波瀾万丈の主人公の半生には感嘆するやら同情するやら、しかし彼女が精一杯その時々を生きている様子には共感する。失恋しては落ち込み、異文化の無理解に憤っては野宿生活。けれどマルジはめげない、あくまでも立ち直る。つらさを思い切り経験したら、「イランに帰ってもいい?」と両親の胸に飛び込むのだ。彼女には帰る故郷があり、暖かく迎えてくれる家族がいる。このことがどれほどありがたいか、今、帰る家をなくして派遣村で正月を迎えねばならない派遣切りされた労働者たちのことを思うと、なんという彼我の違いだろうと思う。

 おばあちゃんが毎朝ジャスミンの花を摘んでブラジャーの中に偲ばせているというエピソードが印象的。わたしも真似してみようと思った(けどジャスミンがない)。このおばあちゃんが大変魅力的。自由闊達でしっかり者、厳しくも優しい祖母の言葉がいつもマルジを支えていた。「人は公正に生きなければならない」とマルジを叱咤激励する。そんな言葉に支えられるマルジは反骨精神を培い、宗教原理主義がはびこるイランの新しい政治・社会・教育に反発する。 

 この映画は、予告編を劇場で見たときにその単調で素朴な絵柄が気に入らなくて(何しろ描き込みすぎの日本アニメに慣れているもので)スルーしてしまった作品だけれど、思ったよりはかなり面白かった。寓意性が高い単純な線と色が様々に変化して、意外にも表情豊かであることに気づかされる。

 そして何よりも、この物語が今もなお生きて日々葛藤を繰り返しているマルジャン・サラトピ監督そのものを描いているだけに、なにかのオチがあるわけではなく、「そして人生は続く」ところが印象深いラストだ。マルジの視点が西洋的であり、その視線は日本人にはなじみ深いだけにすんなりと理解できるのだが、イスラム教徒の目から見るとまた違う見方になるのだろう。だからこそこの映画がイラン国内ではなくフランスでフランス語によって製作されたという意味を考えざるをえない。今なおサトラピ監督は異邦人でありディアスポラであり続けるのだろうか。

 革命、処刑、戦争、性差別、言論弾圧、といった重いテーマを扱いながらも、マルジの明るく元気なキャラクターによってたいへんテンポのよい作品になっている。マルジの一家は元王族であり、裕福である。貧しいイランの女性にはこのように西洋世界へと飛び出す機会もない。豊かさがマルジに自由を教えたとも言える。貧しければ自由もない。

 声優が豪華であったことに後から気づいたのだが、カトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニが母娘出演していたとは!(レンタルDVD)
 
---------------
ペルセポリス
PERSEPOLIS
フランス、2007年、上映時間 95分
監督・脚本: マルジャン・サトラピ、ヴァンサン・パロノー、製作: マルク=アントワーヌ・ロベール、ザヴィエ・リゴ、音楽: オリヴィエ・ベルネ
声の出演: キアラ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ダニエル・ダリュー、シモン・アブカリアン、ガブリエル・ロペス

永遠のこどもたち

2009年01月13日 | 映画レビュー
 母子愛の感動物語と思って見に行ったらなんとホラーであったとは! 先入観なしに見たものだから、もう~、怖くて怖くて。途中で「早く終わってほしいよ~」と思うほどだった。舞台が大きな古びた屋敷ということもあって雰囲気は「アザーズ」に似ている。母子の愛情を描いた点でも似ているのだが、あの手のどんでん返しはない。至るところ伏線だらけで、ちょっとしたシーンがすべて最後に生きてくるところは見事な脚本である。ただし、謎をまき散らし過ぎたために、すべてが解明されたわけではなく、特にラストシーンの解釈や受け止め方は人によってまちまちであろう。

 ストーリーは全編ネタバレみたいなものなので詳しくは書かない。

 37歳のラウラは、自分がかつて幼い頃を過ごした海辺の孤児院を買い取り、障害を持つ子どもたちのホームを運営しようとしていた。海辺にぽつんと一軒だけ建つその大きな屋敷には悲しい過去が眠っていたのだけれど、ラウラはそれを知らない。ラウラには医者の夫と7歳の息子シモンがいるのだが、そのシモンは養子であり、不治の病を患って余命いくばくもない命だった。長らく閉鎖されていた孤児院を買い取ったラウラ一家はその家に引っ越してきた。息子シモンは遊び友達のいない寂しい日々を紛らわすためか、空想の友達たちと遊び始める。シモンは「6人の子ども達がこの家に住んでいる」と言い張り、日ごと、彼らとの遊びに熱中し始める。そんな様子を気にするラウラだが、孤児院をオープンすればシモンの友達もできて寂しさも紛れるだろうと考えている。ようやくオープニングパーティにこぎつけたその日、シモンが忽然と失踪する。ラウラや警察の懸命の捜査にも拘わらず、シモン失踪から半年が無為に過ぎた……

 古い孤児院には子どもたちの霊が住み着いているのだろうか? もしそうだとしたらなぜ? ラウラの前に現れた正体不明の老女は息子シモンの失踪に関係があるのだろうか。シモンの絵に描かれた6人の子ども達はいったい誰なのか? 息子が生きていると信じて疑わないラウラはどうしてもシモンを見つけ出そうとあらゆる手だてを考え、ある日、霊媒師を呼んでくる。霊媒師の口から語られた驚愕の出来事とは?!

 全編に亘って効果的な音楽の使い方といい、ドアの軋む音や古い廊下に響く靴音、といった古典的な音の効果で人を怖がらせる才に長けた映画である。広い屋敷というのはそれだけで怖いものであり、ましてや幽霊が住み着いているとなったらもういてもたってもいられません。普通はそんな怖いところからはさっさと退散するものだけれど、子ども達の幽霊にシモンを連れ去られたと信じるラウラは決して屋敷を出たりしない。むしろ、積極的に亡霊達と会話しようとするし、なんとかしてシモンの行方を知りたいとそれはもう必死になる。その鬼気迫る姿は母の愛と執念の権化であり、あまりの恐ろしさに身もすくむ。血しぶきが舞うわけでもなく残忍な殺戮の場面が出てくるわけでもないのにこの怖さは一級品だ。ところどころ、思わず声を上げそうな驚愕の場面もあって、それはそれは恐ろしいのでこれから見る人は覚悟が要ります。

 映画を見ているあいだはただ恐ろしく、そして宝探しの謎解きがスリリングで息をもつかせぬ展開だったが、最後にあまりの悲しさと切なさに思わず落涙してしまった。「永遠のこどもたち」とは、大人になれなかった子ども達の物語。ピーターパンの住むネバーランドは、大人になりたくないのではなく大人になれなかった子ども達の住む世界ではないのか? そこは死者の怨霊が住みつく場所かもしれないし、永遠のこどもたちの楽園かもしれない。

 映画を見終わって3日が経つと、また違う感慨が蘇る。そもそもラウラは短い命の養子をなぜもらったのか? 自分より先に死ぬとわかっている子どもを育てながら、その子が死んだかもしれない事実をなぜ受け入れられないのだろうか。その子育てはひょっとしたら究極の<女のわがまま>かもしれないではないか。あるいは、孤児院で起きた悲劇にラウラは本当に無罪なのだろうか? この映画は、いろんな解釈を可能にする謎を随所に散りばめ、観客に母の愛の深さと恐ろしさを問いかける深い作品だ。

 見終わった後、さまざまに語り合いたくなる映画です。

--------------------
永遠のこどもたち
EL ORFANATO
スペイン/メキシコ、2007年、上映時間 108分
監督: J・A・バヨナ、製作: マル・タルガローナほか、製作総指揮: ギレルモ・デル・トロ、脚本: セルヒオ・G・サンチェス、撮影: オスカル・ファウラ、音楽: フェルナンド・ベラスケス
出演: ベレン・ルエダ、フェルナンド・カヨ、ロジェール・プリンセプ、ジェラルディン・チャップリン、マベル・リベラ、モンセラート・カルーヤ

アフタースクール

2009年01月12日 | 映画レビュー
 観客を騙すことばかり考えて、ドラマが限りなく透明に近い薄さになりました。これではいかんやろ~。

 前作「運命じゃない人」がかなり面白かったので期待したのだけれど、これはとにかく観客を騙すことに力こぶを入れすぎて、それ以外の部分にはまったく目配り気配りがなかったところが致命的。確かに謎解きは面白かったし、騙されたとわかったら、もう一度最初から思わず見直してしまったし、そういう「力」のある作品には違いないけれど、「だからなんなの?」と、その薄さに脱力してしまう。

 この手の映画は、騙されて喜ぶ観客と怒る観客の二種類に分かれそうだ。わたしは騙されて喜ぶほうだけれど、トリック以外にもちょっとした台詞やカットで含蓄の深さを見せてほしかったのに、作家としての浅さを露呈してしまった。

 ストーリーはネタバレさせずに書くのが難しいのでさらっとだけ流しておこう。

 中学時代の同級生だと名乗る怪しげな探偵に、同級生の木村を捜してくれと強引に頼み込まれた中学教師の神野。探偵は同級生を名乗っているが実は別人であり、借金返済をヤクザに迫られてやばい仕事に手を出していたのだった。そんな事情も知らずに同級生木村捜索にいやいやながらもかり出された神野は、同じく同級生で木村の妻の出産に立ち会う。木村はどうやら浮気をしていて、愛人と逃げたらしいのだが…

 会社の不正を握っているらしい木村が失踪。しかも若い女と一緒のようだ。ヤクザの親分は借金返済を迫る。探偵は今日中に木村を捜さねば身の危険にさらされる。気の良い木村がまさか浮気を? 神野は教師らしくない教師で、優柔不断だが根が優しいのでつい木村探しにつきあって…。

 さて、いったい誰が誰に騙されているのか? 話は面白いし、脚本は確かによく練ってある。が、その練り方が単なるシチュエーションの面白さだけだったとしたら、この手の話で最後まで引っ張るのは難しい。なぜ同じような前作が面白くてこれがダメなのか、自分でもよくわからないのだが、前作を見直してみたら判明するかも。

 堺雅人の笑顔、相変わらずこの人はいつもニコニコ(にやにや)笑っているんですねぇ。で、この魅力的な笑顔にも騙されるからね。(レンタルDVD)

-------------------
アフタースクール
日本、2008年、上映時間 102分
監督・脚本: 内田けんじ、製作: 酒匂暢彦ほか、エグゼクティブプロデューサー: 藤本款、音楽: 羽岡佳
出演: 大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人、常盤貴子、田畑智子、伊武雅刀


散歩する惑星

2009年01月12日 | 映画レビュー
 変な映画だという評判なので、どれほど変なのかと覚悟して楽しみにしてみたら、思ったほど変ではない。これならD.リンチの「インランド・エンパイア」のほうがよほど理解に苦しむ。

 なんで「散歩する惑星」かというと、この物語の舞台がどこかの惑星の話ということらしい。しかしそんなこと、説明あったかしら? とにかく、少しずついろんな場面を切断しつつ繋ぎつつ、脈絡がないようで実はなんとなく辻褄が合っていて、いや、そうではなくてやっぱりぶつ切りの蛸を酢味噌であえてみました、ではなくて蛸はやっぱり唐揚げでしょう。という、不条理映画です。ちなみに、蛸は出てきません。

 監督が広告フィルムメーカーということなので、短時間でインパクトのある、四コマ漫画ふうシークエンスを次々つないでいく作風。わたしは昔のテレビ番組「ゲバゲバ90分」を思い出してしまった。今にも「ゲバゲバ、ピーッ!」と聞こえそうで笑えました。

 いちおう、リストラだの、保険金詐欺だの、放火だの、異議申し立てのデモ行進だの、といった社会風刺風の場面があるのだけれど、中年肥満夫婦の不気味なベッドシーンとか、夫が妻のお尻をなで回すとお尻が真っ黒に汚れてしまうという妙なシーンとか、笑えるけれどいったい何を言いたいのかわからない意味不明の場面が延々と続く。面白いのは、人々が無目的にただひたすら同じ方向に車を走らせるために大渋滞が起きるとか、前の列の人を鞭で打ちながら歩むけったいなデモ行進とか、付和雷同の大衆を冷笑するような場面。監督は一応これを社会批判のつもりで作ったのかもしれないが、それを観客に理解させるのはかなり難しそう。

 というわけで、誰にもお奨めしないケッタイな映画。

 ところで、「散歩する霊柩車」っていう映画があるんですね、初めて知りました。(レンタルDVD)

------------------
散歩する惑星
SANGER FRAN ANDRA VANINGEN
スウェーデン/フランス、2000年、上映時間 98分
監督・脚本: ロイ・アンダーソン、製作: フィリップ・ボベール、音楽: ベニー・アンダーソン
出演: ラース・ノルド、シュテファン・ラーソン、ルチオ・ヴチーナ、ハッセ・ソーデルホルム、トルビョーン・ファルトロム

未来を写した子どもたち

2009年01月08日 | 映画レビュー
 インドの売春窟に住む子どもたちにカメラを持たせて写真を撮影させ、彼らに生きる喜びを与えて売春窟から抜け出させようと奮闘した女性写真家と子どもたちのドキュメンタリー。いい作品だけれど、地味。 

 このドキュメンタリーの面白いところは、もともとが女性写真家が監督となって子ども達を写していたフィルムに、後から監督自身が被写体となって写される立場に立ったということ。売春窟の女性達の写真を撮るためにインドに渡ったイギリス人写真家ザナ・ブリスキが売春窟に生きる子どもたちに魅せられ、彼らの姿を写真だけではなくフィルムに収めるようになり、友人のロス・カウフマンがさらに撮影に加わるようになって、子ども達のために奔走するザナ・ブリスキ自身がドキュメンタリーの対象となっていく。

 ザナは、自分の持つカメラの周りに群がる子どもたちが飽くなき好奇心をむき出しにすることに興味をそそられ、インスタントカメラを彼らに与えてみた。すると子どもたちは驚異的な才能を発揮して写真を撮り始めたのだ。中にはプロ顔負けの才能を発揮する少年まで現れた。ザナは、子ども達に写真撮影を通して歓びを与え、さらには学校に通わせ、売春窟から彼らを救い出そうとする。

 この映画はドキュメンタリーではあるけれど、監督たる写真家が被写体に働きかけ現状を変えようと奮闘することによって彼女自身が状況に参加する者として被写体になっていく過程を追った、一つの物語として描かれる。まさにサルトルが言うところの「アンガージュマン」を生きる女性である。「飢えて死ぬ子の前で哲学は意味があるのか」とかつてサルトルは問うたが、ザナは一枚の写真が世界を変えるという信念を貫く前に行動を起こした。実はこの映画を撮影していた2年間、ザナは写真家としての仕事を一切していない。彼女は写真家という実存を犠牲にしても子ども達を救うことに奔走したのだった。子ども達を寄宿舎のある学校へ入れるためにさまざまな煩雑な手続きをいとわず、一日18時間活動したという。

 ザナの努力は果たして実ったのか? 映画が撮影されていたのは今からもう10年近くも前のことだ。その後、子ども達の中には才能を買われてアメリカに渡って大学に通う子もいれば、行方不明になった少女もいる。結婚した子もいる。

 売春窟に住み着いて自らを犠牲にし、写真家としての本来の仕事も放擲して子ども達を救うことに全身全霊を傾けた女性の努力を、わたしたちはどのように賞賛してもし足りない。しかし、彼女の努力はそれを記録していた同僚がいたからこそ世界に知られることができたわけであり、世の中には似たようなことにいくら力を注いでも人知れず効果を生むこともなく埋もれていく人々もいることだろう。ザナの献身と子ども達の未来には大いなる拍手を送りたいが、一方で光を見ることもなかったどれほど膨大な人々の営みがあるのだろうと思いを馳せるとき、わたしは思わず天を仰いでしまう。

 たいそう地味でとてもヒットするとは思えない作品ですが、ぜひご覧あれ。(PG-12)

----------------------
未来を写した子どもたち
BORN INTO BROTHELS: CALCUTTA'S RED LIGHT KIDS
アメリカ、2004年、上映時間 85分
製作・監督・撮影: ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ、製作総指揮: ジェラリン・ホワイト・ドレイファウス、音楽: ジョン・マクダウェル

モンテーニュ通りのカフェ

2009年01月07日 | 映画レビュー
 パリはモンテーニュ通に実在するというセレブ達の集まるカフェを舞台にした群像劇。花のパリに憧れて田舎から出てきた若きジェシカは、男しか雇わないカフェになんとか雇ってもらえることになった。というのも、このカフェはもうすぐ超多忙な日を迎えるというのに給仕が休んでしまったからなのだった。


 女優、実業家、ピアニスト、劇場管理人、などなどが人生の転機をかけてカフェの周りに集う。アメリカ人有名監督のオファーを狙う舞台女優は「どうせいい役はアジャーニかビノシュがもらうのよ」と吐き捨てる。女優や監督の名前が実名でぽんぽん飛び出すのが面白い。先頃亡くなったシドニー・ポラックがこのアメリカ人監督役で登場しているのが印象深い。ポラックは監督としても良い仕事をしているが、もともと役者なのでやっぱり演技もうまい。

 「地上5センチの恋心」で主人公に恋される作家役を演じていたアルベール・デュポンテルが今度はピアニスト役で登場。今作のほうがよっぽど素敵な役をもらったね。ピアノもかなり弾けるのではなかろうか?

 生涯をかけて集めた美術品をオークションにかけてすべて売り払う覚悟を固めた実業家はブランクーシの「接吻」も売るという。これ、いいわぁ。「接吻」にはシリーズがあっていくつか作品があるようだが、こういうのを一つ持っているのもいいと思う。その実業家には若い愛人ができたのだ。ところがこの愛人、実は息子の元恋人で…。

 カフェにやってくる客達のそれぞれが抱える苦悩、嘆息、満足、後悔、懺悔、欲望が入り乱れる。ジェシカは自身も失恋したばかりだが、カフェに集まるセレブたちの訳ありの会話を小耳に挟み、それがいつのまにか新しい恋への導きとなる。

 女優やピアニストといった芸人たちの悩みがとてもリアルでまたしゃれている。そのうえ笑える。ピアニストのジャンには美しい妻兼マネージャがついていて、彼女自身も音楽家であるのだが、ジャンとは意見の食い違いが目立って夫婦の危機すら迎えている。この夫婦の話がいちばん感動的で、最後は思わず涙。 

 なんといっても笑えるのは女優の話。アメリカ人監督の最新作は、サルトルとボーヴォワールの伝記映画らしい。「シモーヌ役に」という監督の大抜擢に驚喜する昼メロ女優。このあたりがいかにもフランスなんだけれど、哲学者の名前やピアニスト・彫刻家といった芸術家の名前がなんの説明もなく次々登場して、ちゃんとそれで観客がついてこられるというのだからかの国の文化レベルの高さを感じる。サルトル役のオーディション場面なんて抱腹ものの1カットであるが、今時の日本の若者にはまったく理解できないお笑いネタだろう。

 全編に亘ってエスプリの利いた、いかにもおフランスなおしゃれな映画です。パリを舞台にした群像劇やオムニバスには面白いものが多いというのは気のせい? じゃないよね。(レンタルDVD)

-----------------
モンテーニュ通りのカフェ
FAUTEUILS D'ORCHESTRE
フランス、2006年、上映時間 106分
監督: ダニエル・トンプソン、製作: クリスティーヌ・ゴズラン、脚本: ダニエル・トンプソン、クリストファー・トンプソン、音楽: ニコラ・ピオヴァーニ
出演: セシル・ドゥ・フランス、ヴァレリー・ルメルシェ、アルベール・デュポンテル、クロード・ブラッスール、クリストファー・トンプソン、シドニー・ポラック

狼たちの午後

2009年01月06日 | 映画レビュー
 もう30年以上も前の映画。それだからこそ、アル・パチーノが若くてハンサム。それなのに、ちっとも古びていない銀行強盗の物語。この映画の面白さは、一種オバカと思えるほどの牧歌的な強盗と人質のやりとり、そして強盗と警察のやりとりにある。シドニー・ルメットの演出は、人を食ったようなこの事件をシニカルにとらえて秀逸。

 1972年、あるうだるように暑い夏の日、ブルックリンにある銀行に3人組の強盗が入った。犯人は自身も銀行員のソニーとベトナム帰還兵のサル。そしてもう一人の仲間は銀行に押し入った瞬間に怖じ気づいて逃げてしまう。やむなく二人組となったソニーとサルだったが、なんと銀行にはほとんど現金がなかった。この事態に頭を抱えるソニー。意外なことにあっという間に犯行が外部に漏れて銀行は大勢の警官に包囲されてしまう。しかたなく銀行員を人質にとったソニーだったが、彼はクリスチャンであり、人質に危害を加える気が全くないということがわかって人質たちもすっかり脱力・安心。やがて銀行を取り巻いた野次馬たちが警察への敵意を露わにソニーたちを英雄視し始め、人質たちも妙にソニーたちと仲良くなってしまう…

 という、実話を元にしたお話。これがなんとも言えず間の抜けた銀行強盗と人質と警察の三すくみの状態で、思わずはらはらするやら笑うやら。銀行がブルックリンにあるという地理的条件もあるのか、野次馬がやたら犯人に同情的なのが可笑しい。その上、テレビ取材が入ると野次馬まですっかり有頂天。人質と犯人に食糧を配達しに来た宅配ピザの兄ちゃんなんて大喜びでテレビに映る始末。

 思えば劇場型犯罪のこの「型」は、35年経っても同じ構造を見せている。後期資本主義社会に生きるわたしたちの基本的心性は既にこのころには形成されていたと見るべきなのだろう。人質になった銀行の支店長も沽券に関わると意地を張って解放を拒否するなど、妙に一人一人が役割演技に熱中している様も興味深い。そのうえ、ソニーの愛人というか二重婚の妻というか、ま、要するにそういう人物が説得にやってくる場面で驚きの展開もあり、結末は分かっているのに先が読めない妙な展開で、ルメットの演出もたるみがなく、身体は小さいのに存在感抜群のアル・パチーノの熱演もあって、実に見所の多い犯罪映画である。

 ベトナム帰還兵のサルが危険な香りを漂わせながら始終ショットガンを離さない底知れぬ怖さとか、当時の時代状況もかいま見せている。人質になった銀行員の女性たちの中に外見からユダヤ系と思える人物が二人いて、黒人の行員がいなくて、犯人のソニーがイタリア系で、と、ニューヨーク下町の銀行の人種構造を反映している点も興味深かった。

 人質にしても犯人にしても警官にしてもそれぞれのキャラクターの書き込みに気配りが行き届いていて飽きさせない。色あせていない作品です。(レンタルDVD)

---------------
狼たちの午後
DOG DAY AFTERNOON
アメリカ、1975年上映時間 125分
監督: シドニー・ルメット、製作: マーティン・ブレグマン、マーティン・エルファンド、原作: P・F・クルージ、トマス・ムーア、脚本: フランク・ピアソン
出演: アル・パチーノ、ジョン・カザール、チャールズ・ダーニング、ジェームズ・ブロデリック、クリス・サランドン、ペニー・アレン

イン・マイ・カントリー

2009年01月06日 | 映画レビュー
  記憶と忘却は、どちらが求められるのだろう? 人が耐え難い苦難を経験したとき、忘却こそを求めるのではなかろうか。あるいは、その耐え難い苦難を二度と経験しないためには記憶こそが大切、ともいえるだろう。



 『語りえぬ真実』(プリシラ・B・ヘイナー著、平凡社、2006年)の第1章にはこのような言葉がある。

<<「記憶することと忘れること、どちらを望んでいるのですか」。私がルワンダ政府の役人に尋ねたのは1995年の暮れのことだった。50万人が虐殺されたジェノサイドからちょうど1年が経過していた。
 その役人は、100日間の虐殺で17人の親族を失った。虐殺が始まったとき、彼はたまたま国外におり、家族の中で一人生き残った。当時の出来事を語り始めた彼は、分かりきったことのように言った。「私たちは毎日、もっと多くのことを忘れることができる」。
 そこで私は尋ねたのだ。「記憶することと忘れること、どちらを望んでいるのですか」と。
 彼は答えをためらった。「同じことが再び起こらないように記憶しておかねばならない」。そしてゆっくりと口にした。「でも、当時の気分や感情は忘れなければならない。そうしてやっと、この先のことが始められるんです」。>>

 アパルトヘイト政策が終わった南アフリカ共和国では、1994年にネルソン・マンデラが大統領になってから、過去の白人たちの迫害・罪を白日の下に曝す「真実和解委員会」が本格的に設置されることとなった。委員会設置の議論で紛糾したのは加害者への特赦が下りるのかどうかだったという。1996年4月以降、公聴会と調査が始まる。公聴会の様子は連日、日刊紙が掲載し、ラジオ・テレビも頻繁にニュースを放送した(以上、『語りえぬ真実』p65-66)。 

 この映画は、真実和解委員会の公聴会の模様を報道するためにアメリカからやってきたワシントン・ポスト紙の黒人記者と、南アフリカに住む白人女性ジャーナリストの物語。主人公二人が共に「故郷喪失者」であることが特徴的だ。既にアフリカから遠く離れたアフリカ系アメリカ人と、アフリカこそが我が故郷だという白人女性。彼らにとってふるさとは今自分たちが生きているその土地なのだ。

 ワシントンポストの記者ラングストンは「白人はすべて加害者だ」と言い張る。一方、アナは加害を恥じている白人もいるし、すべての白人が差別者ではないと主張する。「わたしは黒人に親切にしなさいと言われて育てられ、そのようにしてきた」と訴える。この二人のぶつかりあいは黒人と白人の立場の違いを鮮明にしつつも、リベラルな二人こそが和解できなければとうてい被害者は加害者を許すことなどできないだろうと思わせる。アナの認識はナイーブに過ぎるという気がするし、ラングストンの主張も一方的過ぎるという気がする。脚本はこの二人に白人と黒人の意見を代表させつつ、この二人にロマンスをしかけて<和解>へと導こうとする。が、このロマンスは余計だった。

 真実和解委員会では、過去の加害を正直に告白すれば特赦が与えられたため、白人警官たちは積極的に罪を語った。あまりにもあっけらかんと「仕事だから。上司の命令だから」と平然と残虐行為を告白する者にはナチスのアイヒマンを思い出させられてわたしはぞっとした。上司の命令、上官の命令、それですべてが片付くなら一人ずつの人間の責任はどこにあるのか? 拷問に積極的に手を出し、快感すら覚えながら黒人達をいたぶった白人警官が上官の命令だからという理由で赦されていいのか?

 しかし、赦しがたいものを赦すことことが真の赦しである(@デリダ)ならば、まことにこの映画の中では<赦し>の感動的な場面がある。と同時に、いつまでも赦すことのできない憎しみの存在がまた最後に一つの虐殺を生む。この映画が持つ虚無感に胸を打たれ、深い悲しみが尾を引く。

 白人女性でありジャーナリストであるアナは、過去の加害のあまりのすさまじさを知って冷静さを失う。そして彼女は「こんなことが行われていたとは知らなかった」と言う。「知らなかった」という言葉を吐くとは、ジャーナリスト失格である。その無知が彼女の無邪気さをもたらしている。無知ゆえに明るく無邪気で差別意識も持たないリベラルで優しい白人女性。だが、そんな彼女こそがある意味、かの国の不幸を今も引きずるのだろう。おそらくアナは永遠に被害者には寄り添えない。彼女はどんなに黒人と仲良くなろうとも彼らの気持ちを理解することはできないし、黒人にはなれないのだ。だからこそ彼女はこれからも苦悩を抱えて生きていく。

 何度か黒人達がゴスペルを歌う場面が見られ、これがなかなか聞き応えがある。本作が劇場未公開とは残念だ。このような社会派作品は当たらないと配給会社が二の足を踏んだのだろうか? この映画を見て「遠い夜明け」を再見したくなった。(レンタルDVD)

---------------
イン・マイ・カントリー
IN MY COUNTRY
製作国 イギリス/アイルランド/南アフリカ、2004年、上映時間 104分
製作・監督: ジョン・ブアマン、製作総指揮: クリス・オーティほか、原作: アンジー・クロッグ、脚本: アン・ピーコック、音楽: マーレイ・アンダーソン
出演: サミュエル・L・ジャクソン、ジュリエット・ビノシュ、ブレンダン・グリーソン、メンジ・“イグブス”・ングバネ

私の秘密の花

2009年01月05日 | 映画レビュー
 相変らずアルモドバル監督の鮮やかな色彩コントラストに眩暈がするような映像だ。女性たちの服装も、3人のうち2人が緑を着ていたら真ん中のひとりはその補色である赤を着せる(逆だったかな?)というように、常に画面の中に映っている色にこだわって設計した画面作りを堪能できる。ヒロイン役マリサ・バレデスはかなりのお歳のはずだがスタイルもよく、おしゃれな衣装を次々着替えて登場してくるのも見所か。しかし、中年になっても色香のある美しい妻なのに、夫はとっくに愛が冷めて妻の熱烈な求愛も鬱陶しいだけというのはあんまりなこと。

 ロマンス作家のレオが、世間に隠れてペンネームを使って書いている恋愛小説の数々はそれなりに売れているというのに、彼女は自分がほんとうに書きたいものは別にあると思っている。現実はいつもハッピーエンドじゃないし、もっと暗くて問題が多いものなのだ。レオが自分の小説とエッセイを持ち込んだ新聞社の編集者はあんまりぱっとしない中年男だけれど、誠実そうなアンヘルという男だった。レオにもレオの作品にも一目ぼれしたアンヘルは、レオの作品を新聞に掲載するという。喜ぶレオは、海外赴任中の軍人である夫に電話したが…

 レオが「出版する気はないの」と言いながら書いている小説のストーリーは「ボルベール 帰郷」とそっくり。アルモドバル監督はかなり以前からこのストーリーを温めていたということですな。

 感情の起伏が激しいレオの怒りや苛立ちや愛情は、中年女性なら理解しやすいのではなかろうか。愛されることへの飢餓的ともいえる欲求、そしてそれが満たされないときの悲憤。年老いた母の世話を見てくれる妹への気遣いも、その母と妹との諍いも、とてもリアルで、それがまた裕福に暮らすレオには心の負担となりつつも、どこか責任逃れができてほっとしているような心理も読めてしまう。

 レオの周りで起きる愛憎劇の数々はありがちなことばかりで、また結末もしっとりと微笑ましい。とはいえ、この作品が中年女性の生き直しへのエールとなるかどうかはちょっとわからない。というのも、レオは経済的に恵まれ文才のある美しい女性だ。そのいずれもに欠けるふつうの女たちはどうすればいいのだろう? あんなふうに爽やかに微笑んでいられるのだろうか?

 脳死問題やNATO軍のコソボ空爆などもエピソードに交えているのはアルモドバルらしい。「オール・アバウト・マイ・マザー」でも主人公は脳死コーディネーターだったし、このあたりは心臓移植大国スペインらしい背景を措いているが、脳死問題が本編に直接からむことはない。(レンタルDVD)

-------------
私の秘密の花
LA FLOR DE MI SECRETO
製作国 スペイン/フランス、1995年、上映時間 108分
監督・脚本: ペドロ・アルモドバル、製作: エステル・ガルシア、製作総指揮: アグスティン・アルモドバル、音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: マリサ・パレデス、フアン・エチャノヴェ、ロッシ・デ・パルマ、チュス・ランプレアベ、ホアキン・コルテス

ゴヤ

2009年01月04日 | 映画レビュー
 撮影は素晴らしいけど内容はいまいちという、評価がしにくい作品。撮影監督ヴィットリオ・ストラーロがヨーロッパ映画賞を受賞している。ヴィットリオ・ストラーロはベルトルッチの「暗殺の森」、「1900年」、「ラストエンペラー」、ウォーレン・ビーティの「レッズ」、F.コッポラの「地獄の黙示録」などで軒並み映画賞受賞の名撮影監督だ。

 晩年の病床にあるゴヤが自身の後半生を振り返って娘(といっても孫ぐらいに歳の離れた少女)に語って聞かせるという趣向。ゴヤは亡命先のフランスで死期を迎えていた。「わたしの人生は45歳からが華だった」と語るゴヤは、中年を過ぎて宮廷画家として台頭する。王侯貴族の注文でいくらでも肖像画を描くが、本当に描きたいものは政治社会状況を反映したようなもっと暗く陰惨な絵であった。彼は夜中に蝋燭を頭にめぐらせて鬼気迫る絵を描く。夜の光でこそ絵の本当の値打ちがわかるのだというのが彼の信念だった。

 この映画にはなじみの俳優が登場しないため、人物の顔が見分けにくく、最初のうち、中年時代の場面では誰がゴヤなのかわからなかった。さらに、ゴヤの運命の女たる「裸のマヤ」のモデルの侯爵夫人がちっとも美しくないのでいっそう興醒め。

 場面の構成には大いに工夫があり、晩年のゴヤと中年のゴヤが同じカットの中に登場し、しかもその時代の隔たりを、赤い壁をスクリーンのように半透明に映し出すことによって幻想的に演出する。この撮影が素晴らしい。ゴヤの回想も夢の中の世界のように虚ろでシュールであり、また彼の絵のように暗くて残酷だ。自由主義者であったゴヤは王党派の弾圧を避けてフランスに亡命していたが、そこで描くのは人生の醜さと残酷さを抉るようなものばかり。あんな絵を部屋に飾りたいとは全然思わないけれど、大塚国際美術館で見た「ゴヤの部屋」を思い出し、あの数々の暗い絵がゴヤのアトリエ一面を飾っている壮観なさまには息を呑んだ。

 脚本がまずいため、この映画を見てもゴヤの語る彼の人生にはさして興味を惹かれない。ただひたすら撮影がよかった。(レンタルDVD)

-------------------------
ゴヤ
GOYA IN BORDEAUX
製作国 イタリア/スペイン、1999年、上映時間 100分
監督・脚本: カルロス・サウラ、製作: アンドレス・ヴィセンテ・ゴメス、撮影:ヴィットリオ・ストラーロ、音楽: ロケ・バニョス
出演: フランシスコ・ラバル、マリベル・ベルドゥ、エウラリア・ラモン、ダフネ・フェルナンデス、ラ・フラ・デルス・バウス

赤い文化住宅の初子

2009年01月04日 | 映画レビュー
 父は蒸発、母は過労死、兄と二人、文化住宅の2階の小さな部屋で暮らす中学3年生の初子は貧乏なために高校へも進学できない。一生懸命勉強して成績も上がり、広島県内でも有名な進学校へ合格できそうというのに、高校へ行くこともままならい初子。暗い生活の中で唯一の灯りは同級生のミシマくんだ。彼は初子の初恋の相手。大人になったら初子と結婚するんだとミシマくんはいじらくしくも誓ってくれる。ああ、でもでも… 

 とまあ、恥ずかしくなるぐらいの薄幸の美少女物語。不幸の雪だるまのヒロイン初子はけなげで初々しく、懸命に生きている。いまどきこんな「おしん」みたいな話が…などと思ってはいけない。バブルがはじけて以来、おそらくこんな話はいくらでもあるんだろう。「ホームレス中学生」みたいなケースもあることだし。

 十代の子どもだけで生活している姿は「誰も知らない」を彷彿させるが、本作のほうが子どもたちの年齢が高い分、悲惨度は低い。とはいえ、家には電話もなく、電気すら止められてしまう生活はやっぱりどうしようもない困窮ぶりがにじみ出て目を覆うものがある。教師も助けてくれない。通りすがりに親切にしてくれたおばさんも実は下心があったし、おまけに最後にはさらなる不幸が待ちかまえている。

 初子は健気だけれど、表情は暗い。ラストシーンも希望があるのかないのかよくわからない。このラストシーンに希望を見いだせる人はまだまだ夢見る初々しさ・若さを自分の中に持っていると言えるだろう。わたしのような中高年には厳しい現実が見えてしまう。そういうふうに醒めた目で見てしまう自分が悲しい。わたしもすっかりおばさんだわ…。

 派遣切りの世知辛い世の中、貧しさが身にしみる人々のなんと多いことか。映画の物語として消費できない厳しさをひしひしと感じる。(レンタルDVD)

------------------

赤い文化住宅の初子
日本、2007年、上映時間 100分
監督・脚本: タナダユキ、プロデューサー: 小林智浩ほか、エグゼクティブプロデューサー: 片岡正博ほか、原作: 松田洋子、音楽: 豊田道倫
出演: 東亜優、塩谷瞬、佐野和真、坂井真紀、桐谷美玲、鈴木慶一、浅田美代子、
大杉漣