ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『黒いスイス』

2005年09月29日 | 読書
 ミケ子さんのブログでの紹介で本書を知ったわけだが、永世中立国スイスが軍隊を持っていることぐらいはわたしも知っていたけれど、この本に書かれていることは驚くべきことばかりだった。


 アルプスの山々に囲まれた平和な国、森と湖の国、という美しい観光国のイメージと裏腹に、過去にはロマ(ジプシー)の人々を国家が誘拐「矯正」していた国。中立を謳いながらナチス・ドイツに協力してユダヤ人を排斥した国。冷戦崩壊まで核武装計画を密かに進めていた国。相互監視社会の警察国家。移民を排斥し、ネオ・ナチの世界的中心地となりつつあるスイス。徹底した秘密主義を守ることで有名なスイスの銀行は脱税や横領や麻薬の金をロンダリング(資金洗浄)するのに利用されてきた。

 ここに描かれたスイスはまさに「黒いスイス」だ。
 
 が、「黒いスイス」だけではない。ヒトラーの迫害を逃れて国境を「不法」に越えようとした難民に滞在許可証を発行し続けた警官のエピソードも挿入されている。その警察官は不法行為を密告されて免職となり、刑事裁判にかけられて有罪判決を受けた。49歳で失職して82歳で亡くなるまでとうとう定職につくこともなく、窮乏生活を強いられたが、それでも自分のしたことを間違ってはいなかったといい続けたという。
 この心打たれる話があるのでずいぶん救われた気になるが、本書を読むとスイスというのは恐ろしい国だというイメージへと変っていく。

 もちろん、どんな国も天国ではありえない。いいところもあれば悪いところもあるというのは当たり前の話だ。美しいイメージしかなかったスイスの裏の顔を描いた本書は驚くべきことが暴露されていて、とても興味を惹かれるのだが、だからといってスイス人が悪い人間だという短絡も避けるべきだろう。どんなルポも一国の多面的な様相を描きつくすことなどできない。

 本書を読んで痛感することは、ネオ・ナチの台頭がグローバリズムの進展と同時に起こってきているということだ。グローバリズムと排外主義は双子のようなものなのだろう、この日本の国で起きているナショナリズム言説の台頭もグローバリズムの広がりと軌を一にしている。スイスの現状で言えば、このことがもっとも気になるところだった。 
 
<書誌情報>
 黒いスイス / 福原直樹著. -- 新潮社, 2004. -- (新潮新書 ; 059)

「時間とあいまい」…鶴見俊輔論

2005年09月26日 | 読書
 去年の今頃、鶴見俊輔さんに小熊英二さんと上野千鶴子さんがインタビューした『戦争が遺したもの』の読書会をしていた。そのとき、何人がかりかでこの素晴らしい本を読んで、ああでもないこうでもないと語りあったというのに、その誰もが気づかなかったことを原田達さんが雑誌『Becoming』16号に書かれている。

 同じ本を読んでも読みの深さが全然違う。さすがは鶴見俊輔研究者だなと感動すると同時に、原田さんがずっと鶴見俊輔を追いかけ続ける理由がやっとわかったような気がする。

 『戦争が遺したもの』において、鶴見俊輔は自分よりずっと年下の研究者である上野と小熊に「追及」されて、しばしば言いよどむ。原田さんは鶴見の「言い淀み」に注目する。

《人が言い淀むとき、時としてそこに重要なものが芽ぐんでいるものである。言語化しようとしてできないもの、もしくは言語化の前の段階に踏み込んだとき、人は言葉をうしなう。じつは鶴見俊輔は、この前言語化の領域の重要性をうまずに語りつづけた思想家だった》

 読書会でも参加者が一様に違和感を表明した、<上野千鶴子による従軍慰安所でのできごと追及問題>について、原田さんは鶴見と上野の歴史観の違いを指摘する。

 鶴見は「日付のある判断」を重要視する。歴史的出来事を今から振り返って批判するのではなく、「その人物と思想が生まれた時点にもどって理解する」のが鶴見のやりかただ。

 ここには、鶴見の時間意識が反映されているという。
《時間は遡及できるし、遡及すべきだという発想がここにはある。このような発想を鶴見が手に入れたのは、R.レッドフィールドの『小さなコミュニティー』を読んだときである。それから50年、鶴見はこの時間感覚をしつように手放さない》 

 さらに、その鶴見の時間感覚を生んだ要因に彼の鬱病があるという。

《「あとの祭り」という時間感覚にとらわれているうつ病者だからこそ、それを乗りこえる時間意識に魅惑されることがある。それは、「過去を生きることはできない、未来を生きねばならない」という言葉が鶴見にあたえた治療的衝撃のことである。………
 鶴見はうつ病を病んでいたからこそ、「ポスト・フェストゥム」な時間意識からはなれ、ありうべき未来がふくまれているものとして過去を再構成することができたのだろう》

 原田さんがここで指摘されている「時間感覚」、「日付のある判断」、「過去がいつまでも決済できないものとして現在を呪縛する」ということがらは、戦争責任・戦後補償問題を考える大きなヒントになると思う。

 原田さんは、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及する。鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという。

 個別性に注目し、「自分の問題」として社会問題を見る鶴見の立ち位置は、時として社会運動内部から批判を受ける。上野千鶴子の「慰安所に「愛」は存在するのか」という追及、「国民基金に賛成したのは間違いではないのか」という追及がそれであるが、それに対して鶴見俊輔は殴られつづける(批判される)ことを引き受けると宣言する。鶴見俊輔の位置取りは、「知的マゾヒズム」だ。しかし、それが今や受け入れられる素地は小さくなっていると原田さんはいう。

 さらに小熊英二もまた、自分(知識人)の位置はどこにあるのかよりも、他者をどう見るかが問題だと言う。「自分の問題」としてものごとを見るという鶴見の位置取りがここでは通用しないのだ。

 わたしは鶴見俊輔という哲学者の魅力がこれまでいまいちよくわからなかった。『戦争が遺したもの』を読んでやっと「鶴見さんってすごい」と思えるようになったのだが、原田論文を読むことにより、その思いはいっそう深まった。原田さんは『鶴見俊輔と希望の社会学』(2001年)よりもいっそう鶴見の思想そのものに踏み込んだ。鶴見俊輔は汲めどつきせぬ魅力を持つ人なのだろう、わたしはまだまだそのほんのとば口を覗いたにすぎない。


 『戦争が遺したもの』を読まれた方には、原田達「時間とあいまい」を併読されることを強くお奨めします。ぜひぜひ、『Becoming』16号を購入して読んでみてください。理解がいっそう深まります。

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『ホモ・サケル』メモ:第3部

2005年09月25日 | 読書
 第3部、アガンベンは収容所を分析対象とする。フーコーが晩年に研究した「生政治」の対象からはずした収容所、いっぽう、ハナ・アーレントが研究対象としながら生政治的な視点をもちこまなかった収容所。アガンベンは収容所を分析するとき、フーコーとアーレントの視点を引き継ぎ架橋しようとする。

 わたしたちは今一度「人権宣言」の意味を再確認する必要があるのではないか。
アーレントは人権と国民国家の結びつきについて、ほとんど議論を展開していないという。アガンベンは言う。

《いまや、人権宣言の数々を、立法者に永遠の倫理的原則の尊重を課すことを目的とする(実のところあまり成功を収めていない)法を超える永遠の価値を無償で布告するものとして読むことをやめるときである》(p176)

 人権宣言は「臣民」を「市民」へと変貌させた。かつて、主権をもった主体は「自覚ある自由な政治的主体としての人間」であったのだが、19世紀と20世紀の主権主体は「人間そのもの」(アガンベンの言葉では「剥き出しの生」)だ。人は生まれればそれだけで既に「人権」をもつ。

 こういう発想は実は、ナチズムと親和性がある。

《ファシズムとナチズムは何よりもまず、人間と市民のあいだの関係の再定義である。いかに逆説的に見えようと、ファシズムとナチズムは、国民主権と人権宣言によって開かれた生政治的な背景の前に置かれてはじめて十全に認識可能なものとなる》


★「難民」(p182~のまとめ)

 難民は人間と市民、出生と国籍のあいだの連続性を断つことで近代の主権の原初的虚構を危機にさらし、国民国家の秩序をおびやかす。難民はアーレントのいうように「権利の人間」なのであって、市民という仮面をつけずに「権利の人間」が出現した最初のことであり唯一のことである。しかし、だからこそまさに、難民という形象は、政治的に定義づけるのが困難だ。

 ナチスは、ユダヤ人から完全に国籍を奪った上でなければ絶滅収容所に送ることはできないという規則を守っていた。

 近年、市民権の前提としてのみ意味を持っていた人権が市民権から徐々に分離され、市民権の文脈の外で用いられるようになっている。難民が大量に発生する時代になると、「聖なる不可侵な」人権を叫んでみても問題を解決できない。国連難民高等弁務官の努力は政治的な性格をもちえず、もっぱら人道的な性格しかもちえなかった。

 難民という概念を人権概念から分離しなければならない。近代国民国家の衰退と危機は人権が使い物にならなくなっていることを含意している。
 

3節 「生きるに値しない生」

 不治の精神疾患に罹った患者を安楽死させることにヒトラーは「人道的見地」から固執した。優生学の観点からその「安楽死」は発案されたのだろうか? いや、実際に安楽死させられたのは老人と子どもであり、彼らに生殖能力はない。ではなぜヒトラーは絶滅計画の実行を欲したのか?

 その説明はただ一つ。「生きられるに値しない生」は倫理的概念ではなく、政治的概念であり、そこで問題となっているのは主権権力によって基礎とされるホモ・サケルの殺害可能で犠牲化不可能な生が極端に変容したものである。近代の生政治の観点からすると、安楽死はむしろ、殺害可能な生に関して主権的に決定することと、国民の生物学的身体への配慮を引き受けること、この二つの交点に位置している。それは、生政治が必然的に死の政治へと転倒する点をしるしづけている。
 

4節 「政治、すなわち人民の生に形を与えること」

 近代の生政治の新しいところは、生物学的な所与がそのままでただちに政治的な所与であり、政治的な所与がそのままでただちに生物学的な所与である、という点にある。
 人権宣言によって主権の基礎となった生は、いまや国家の政治の主体にして対象となった。
 20世紀の全体主義は、生と政治の力動的同一性を基礎としている。これがなければ全体主義は理解できない。ナチズムがいまだに謎でありスターリン主義との親和性が説明のつかないままなのは、我々が全体主義という現象を生政治の地平における複合の内に位置づけることを怠ってきたからだ。

 6節「死を政治化する」においてアガンベンは脳死に言及する。脳死が人の死かどうかについて決定することはアガンベンの意図するところではない。と言いつつ、彼はいつの日か脳が移植できるようになれば、「死は臓器移植の単なる付属物になる」と述べることによって、脳死に疑問を呈している。

 生と死の境界は恣意的に動かされる。それは科学的境界ではなく政治的境界だから。

第7節 「近代的なもののノモスとしての収容所」

 収容所の住人はあらゆる権利を剥奪されて完全に剥き出しの生へと還元された。収容所はかつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間である。
 
 現在の旧ユーゴスラビアで起こっている出来事(民族浄化、民族紛争)は、古い政治体制の再現ではない。むしろ古いノモスが損なわれ、住民と人間の生のあいだがまったく新しい割れ目に沿って脱局在化されている。

 アガンベンの認識は、収容所が今や新たな生政治のノモスとしてわれわれの都市に確固として存在しているということだ。そして、わたしたちはそれに気づかなければならない。


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 それにしてもこれは難モノだった。同じ箇所を何度も何度も読み、日を置いてまた読み、他の本を読んでふと「あ、あれはこういう意味かも」と思ったり、とにかく難渋した。アガンベン月間はこの一冊だけで3ヶ月以上かかってしまった。毎日読んでいたわけではなく、むしろ何日も放擲しては他の本(軽い小説など)を読んでケラケラ笑ったり泣いたりしていたのである。

 1章は特に難解だ。2章もよくわからない。3章になってやっと少しはわかる日本語に出会えてほっとする(^^;)。

 アガンベンって、なんで素直にもっとわかりやすく書いてくれないのだろう。結論らしきものを後へ後へと送っていく、いったい何がテーマなのかさえわからないような書き方なんだもの。でもこういう本を読み終えた後って、なんだかずしんと胸に残るものがあるから不思議。「分からなくても何か、すごいことが書いてあるような気がする」のか、「分からないゆえに、いつまでも何かが残る」のか、どっちだろう。

 アガンベンには、ナチズムとファシズムを二度と再び許してはならないという強い
信念があるのだろう。ナチズムを解明するのにギリシャ哲学から始めるという迂遠な路は、一見、わたしのような西洋哲学の知識のないものには「なにをやっているんだか?」と映るのだが、これが最後までずっとキーワードでありつづける「ゾーエーとビオス」というものを考えるときに必須となるということがわかってくるのだ。

 そして、「9.11」を経験した(先進資本主義国側の)わたしたちには、次の「9.11」も次の「コソボ」も次の「パレスチナ」も回避するための思考のヒントになる深みがあるのだと思う。もちろん、「今のイラク」も。

 ただ、アガンベンの政治哲学はこのままでは使いようがない。権力の本質と変遷については深い洞察があり、とくに「人権宣言の無力」を宣言するアガンベンの指摘にはまったく首肯せざるをえないのだが、だからといって代替案がすぐに出るのかといえばそうではあるまい。

 引き続き、アガンベンの著作を読んでいきたい。

◆目次◆

第3部 近代的なものの生政治的範例としての収容所
 1.生の政治化
 2.人権と生政治
 3.生きるに値しない生
 4.「政治、すなわち人民の生に形を与えること」
 5.VP [人間モルモット]
 6.死を政治化する
 7.近代的なもののノモスとしても収容所
 境界線


<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

『小説の自由』

2005年09月17日 | 読書
 この本は、小説の書き方指南を目的としているわけではないのに、読んでいるうちに不思議と創作意欲がムラムラとわいてくるのだ。目は文字を追いながら、頭の中には小説の文章がすらすらとあふれてくる。「おお、すごいぞ、久しぶりに新作を書こうかな」と興奮していたというのに、読み終わって1日以上経つと、すっかり「新作」の中身を忘れている! あー、誰か、頭の中に浮かんだ文章を文字に起こせる機械を発明してくでぇ~(涙)

 さて、結論から言うとすごくおもしろかったこの本の中でも、わたしは特に「身体と言語、二つの異なる構造」という章に妙にシンクロしてしまった。

 小説家保坂和志は、自分が小説をどのように書いているかを一生懸命この本で述べているのだが、それは絶望的な作業なのだ。なぜなら、彼は「小説家の思考様式や小説を小説たらしめている何か」を書こうとしているのだが、それは同時に「言葉では表現できない」ものなのだそうな。いわば、小説のなかでしか起こりえない、小説を書いているときにしか起こらないなにかを別の言葉で伝えようとするものだから、どうしてもそれが書けない。それは、身体的な何か」のようだ。

 「小説家というのは、身体と言語の不一致をラカンなどの理論によって理解する人間ではなく、その不一致つまり二つの原理の違いを実感ないし体感として生きている人間のことで、だから書くものにもそれが反映する」(p188)

 保坂はこの「身体と言語」の少しあとの部分でこういうことも書いている。

「私の中にあるのは他者の言葉ばかりではあるけれど、その優劣を決めるメタレベルが私の中にはあって、私はそれに導かれる。ということは、他者の言葉の中にもメタレベルとして機能しうる言葉があるということだろうか。それとも他者の言葉に還元され尽くされない私がいるということだろうか」(p196)

 誰の言葉にも回収されず、どんな言葉もつかむことができない「私自身」というものがある。そう保坂は言う。彼は「本当の自分なんてない」と書いたすぐ後でそういうのだ。それは論理矛盾か? いやちがう、と保坂本人が述べる。「論理矛盾だ」とツッコミするような人にこの本を読んでもらいたくない、とでも言いたげだ。

 この本は小説のことを書いているのだが、それを超える何かが書かれている、と感じる。うまくいえない、その「何か」。だって保坂じしんが表現できていないんだもの。

小説を読む/楽しむことと小説を批評することは別物だ。保坂は書評というものが大嫌いみたいだ。批評するために小説を読むという行為は、小説を読んでいるときにしか味わえないものを殺してしまう、と彼は言う。それは確かにそうかもしれない。保坂はまた、ストーリーの奇抜さや謎(だけ)で読者を引っ張るような小説も嫌いなようだ。子どものころはそんな小説がおもしろいとわたしも思っていたが、大人になるほど、それは違うと思い始めた。だから、保坂の言うことはよくわかる。

 いくらストーリーのおもしろさで引っ張らなくてもいいとはいっても、やはり独特のリズムというものが自分に合うかどうかで小説の評価が変わってしまうものだ。保坂の小説でも、わたしは『カンバセーション・ピース』は好きではないし、いくつか、あまりピンとこない作品がある。作家本人は満足した出来だと思っているかもしれないが、読者はどれを好むか、人それぞれだもんね、しょうがない。

この本の内容紹介についてはオリオンさんのbk1書評と栗山光司(葉っぱ64)さんのbk1書評をぜひお読みいただきたい。お二人が書かれたことに付け加えることはなにもないのだけれど、最後に、本書から気になった部分を抜き出しておく。



 私は固有性によって私がかけがえないのではなくて、ただ私と一緒にいた時間によってかけがえのなさがもたらされたのではないか(p150)


 小説には意味や問いへの指向は存在しないということにはならないか。ならない。小説の外にある意味を持ち込むことや形骸化した言葉の使用法や思考の組み立てに抵抗することによって、アウグスティヌスやカフカやベケットのように世界像が産出される。カフカやベケットの場合には”世界像”というよりも、”世界に対する手触り”とか”世界像の掴みがたさ”と言った方がわかりやすいかもしれないが、それもまた世界像なのだ。(p351)

 『告白』を著した4世紀の神学者アウグスティヌスに言及しつつ、保坂は以下のように述べる。

《社会で起きていることは確かに”意味”だ。意味の塊だと言ってもいい。そして、それら社会で起きていることに心をわずらわせることは”問い”のように見えないこともない。しかし、そういう”意味”や”問い”は小説が書かれる以前にすでに存在していて、読者も書き手もそれをよく知っている。小説の中で大変な事件が書かれていれば、読者もつらくなったり「ひどいなあ」と思ったりはするが、それは日々のニュースを見ながら感じている気持ちを反復しているだけだ。
 小説は、――小説とう概念が生まれる以前の小説の機嫌としての散文であるところの――アウグスティヌスの書き方に顕著にあらわれているように、その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは小説を通じてじつげんされるのであって、小説の外から持ち込んでくるのではない。

 ………

 小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方だ。私がこの連載で繰り返してきた”現前性”ということで、アウグスティヌスの場合には思考を組み立てる手順が読むプロセスにおける現前性となって、聖書の「創世記」の最初の七日間を形而上学的に根拠づけていくという特異な展開を生じさせる。》(p345-346)

<書誌情報>

 小説の自由 / 保坂和志著. -- 新潮社, 2005

希望格差社会

2005年09月07日 | 読書
 今頃だけれど、一部で話題になった『希望格差社会』を読了。

 この本を読みながらずっと感じ続けたことをひとことで言えば、「違和感」。

 現状を分析する手際はいいのだろう。すぱすぱと切っていくその手腕は「なるほど、そうなんだろうなぁ」とは思う。

 でもね、でもね、でもね。そんなふうに「世間の標準常識」なるものばかりに拠りかかっていいのかなぁ。そんなに世の中の人はみんな「安定した生活、上昇する生活水準」を求めて生きているのだろうか?(例外もある、とは山田氏も述べているが)
 そんなものが幸せなんだろうか? わたしの友人知人で、高学歴を持ちながら「世間的には劣位に位置すると思われる職業」についている人は何人もいる。もちろん、そこにはルサンチマンは生まれない。なぜなら、自分の意志で選んだ職業だし、上昇階梯を自ら降りてしまったのだから、それは「自由意志に基づく自己責任」だと納得しているに違いなかろうから。わたしも驚異的低賃金で長らく働いてきたが、「金より時間、趣味」と割り切っていたら納得できたわけで。(山田さんはこういう「スローライフ」はまた勝ち組の一つのライフスタイルに過ぎないと言っている。まあ、そう言われればそうなんだけど)

 ルサンチマンは上昇したくてもできない人々から生まれるのだろうから、社会的にはそこが問題になるのだろう。だからこそ、山田さんも量的な格差より心理的格差のほうを問題視するわけだ。「貧富の差があったって、みんながいつかは今より豊かになれる」と思えばルサンチマンも多少は和らぐ。
 でもいまや時代は変った。グローバリゼーションの時代にはもうみんなで豊かになるなんて、できないのだ。だから、「弱者」の自己肥大した無謀な夢や希望を早く諦めさせて、適当なところで納得させなくちゃ、というのが山田さんの主張。

 貧富の格差のほうをほっておいて「希望」だけを諦めさせようなんていう発想はどこか歪んでいるとわたしは思うんだけどね。それに、受験競争もそれなりに意味があるとか、学校は将来の就職先を振り分けるためのコース選別に便利だから存在するんだとか、そんな身も蓋もないことを言ってほしくないなぁ。それじゃあ、学問する意味とか、知識や教養を得る喜びなんていうものの意味がないってことやんか。
 

 本書については猿虎さんが2005年5月から6月にかけて何度も書かれているのを、参考にされたい。わたしは猿虎さんのご意見に同感。
 「猿虎日記」

 わたしのつれあいもこの本を読んで、「暗い気持ちになった。うちの息子はきっと負け組になるし、このままだと就職先もない」と嘆いていた。とほほ


こういう本を読むと、そもそも「希望」とか「夢」ってなんなんだ?と思わずにはいられない。マイホームが夢か? 金持ちになることが夢か? 有名になること? 一番をとること? どれもわたしの夢とは違う。

<書誌情報>

 希望格差社会 : 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
    山田昌弘著. 筑摩書房, 2004

コンパクトにまとまった『日本とドイツ 二つの戦後思想』

2005年09月03日 | 読書
 この本は梶ピエールさんのブログに「お奨め」とあったのでそそられて読んだ本。やっぱり、おもしろかった。ついでにうちのつれあいにも薦めたら、彼も面白がって、ただいま読書中である。この本は「はじめに」を読むとついつい「これは面白そう」と思わせるものがある。だいたいが仲正さんの本は前書きがものすごく面白いのだ。

 何が面白いかというと、内容ももちろんだけど、文体かな。真面目くさった顔をしてぺろっと面白いことを言って周りを笑わせる人っているよね、そんな感じ。ご本人はすごく真面目に固い内容を取り上げているのに、へろっと面白いことをズケズケっと書いてしまう。技なのか天然なのか知らないけど、面白い。エスカレートすれば単なる罵詈雑言になりそうなところがそうなっていないのがいい、上品な辛口のまとめ方なのだ。たとえばこんなふう。

「私はしばしば、(元)マルクス主義学者と一緒に仕事をすることがあるが、彼らはよく、「日本のマルクス主義は、実践面では全然ダメだったけど、アカデミックな研究の蓄積では世界で最高水準だ」という言い方をする――マルクス主義者がそんなことを自慢してはダメだと思うのだが。」(p138)

 吉本隆明の「啓蒙主義批判」について触れた部分では、

「”吉本主義者”の中には、「大衆の共同幻想」の根深さを理由にして、現状肯定へと傾いてしまった者が少ないない。今頃になって、「吉本は、実際にはただのマイホーム主義ではなかったのか」と、かつのカリスマを非難している元新左翼あるいは左翼シンパはかなり多い――そういうのは、吉本のせいではなくて、自己責任だと私は思う」(p178)

 浅田彰が登場したときに左派からの反応が鈍かった理由について述べている部分。

「彼の文体があまりにも”おフランス系”――言い換えれば、軽い――の文芸批評風であったため、伝統的な左翼にとっては当初、正面から対決しなければならない”敵”とは思えなかったようである。単に、不真面目でノンポリな若者の代表として嫌っていただけと言うべきかもしれない」(p214)


 戦後日本の思想史を語る本はいくらでもあるだろうし、敗戦直後の思想史を世代論的言説分析というかたちで示してみせた労作『<民主>と<愛国>』(小熊英二)という大部な本もあるけれど、本書ほどコンパクトに手際よくやった仕事はないんじゃなかろうか。

 難を言えば、前半の「戦争責任」論をもう少しつきつめてほしかった。後半はポストモダンの現状(この20年の思想状況)を非常に手際よくまとめてあってそれはそれでおもしろかったのだが、「戦争責任論」を読みたい人には前半の記述は薄く、さらに後半には興味をそそられにくいだろう。

 いずれにしても日本の思想史をドイツと比べると見えてくることがいろいろあるものだ。やはり相対化というのはものごとをすっきりみせてくれる。これ、ドイツではなく別の国と比較するとまた別の位相が見えてくるのだろうな。

 コンパクトにまとめてある本書をさらにコンパクトにここに説明してしまうとそのおもしろみが半減するような気がするが、わたしがそそられた/印象に残った部分を列挙すると……

 日本の護憲派の限界がどこにあるのか、ハーバマスの「憲法愛国主義」との関連での分析。
 日本におけるマルクス主義受容のいいかげんさ、あるいは「なんでもマルクス」で押し通す愚直さの実態。
 そして、最後に、ポスト・ポストモダンの現状にふれて、「知識人の死」宣言を下す部分。動物化しきったアニメ・オタクたちは、浅田彰や東浩紀が書いた本をわざわざ読まなくても「シラケつつノリ、ノリつつシラケル」生き方を自然と実践している。動物化した世界には啓蒙は不要だ。

 ところで、本書をめぐって「評論誌カルチャー・レビューBlog版」で論争が繰り広げられているので、参考までに。ちょっと論点が噛み合っていないように見えるのだが、けっこうおもしろかった。特に黒猫房主さんのエントリー記事は、戦争責任論を考える上で勉強になった。

<書誌情報>

 日本とドイツ二つの戦後思想 / 仲正昌樹著. 光文社, 2005.(光文社新書)