ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

2007年のベスト10シネマ

2007年12月31日 | 映画ベスト10
 今年見た映画は247本、そのうち映画館で101本を見た。映画館でたくさん見られて満足した一年だったが、それだけお金がかかっているわけで、財布が苦しい一年でもあった。わたしは劇場用パンフレットも買うから、その費用もバカにならなくてこれまたピンチの一因となる。しかし、そこはそれ、いくつもの映画館の会員カードを持っているからそれなりに上手に使って安上がりを目指しているし、ほとんどレディス・デーとかレイトショーで見るようにしているから、1800円で見た映画は1本もない(自慢)。

 して、この247本のうち、まだレビューをアップできていないものが40本近くもあるので、それはまた来年ぼちぼちアップしていきたい。今年見た映画の中でベストを選ぶので、今年公開の映画ということではなく、古い映画も含まれています。

 まずは、今年いい意味で印象に残った映画は73本あるのだが、全部を書くと長くなるので、その中でも特によかったのは以下の通り。

ある結婚の風景
エルミタージュ幻想
サラバンド
善き人のためのソナタ
アズールとアスマール
あなたになら言える秘密のこと
アニー・ホール
いつも2人で
エディット・ピアフ 愛の讃歌
オリヲン座からの招待状
キサラギ
キングダム/見えざる敵
サン・ジャックへの道
パラダイス・ナウ
レッズ
愛の風景
俺たちフィギュアスケーター
河童のクゥと夏休み
亀は意外と速く泳ぐ
紙屋悦子の青春
太陽の雫
題名のない子守唄
丹下左膳餘話 百萬兩の壺
秒速5センチメートル
不都合な真実
僕のニューヨークライフ
僕の大事なコレクション
約束の旅路
ブラックブック
華麗なる恋の舞台で
ヘヴン
美しき運命の傷痕
バベル


 さて、この中からベスト10を選ぶとなるとまたまた迷います。上記全作品が素晴らしいものばかりなので(あ、一部にオバカ映画もありますが)、必見作だと言いたいのだけれど…。

 今年は年初のベルイマンに打ちのめされたので、もうあとはひたすらベルイマンの年だった。とはいえ、実は見た作品はそれほど多くない。なにしろ緊張度の高い作品ばかりだから、続けて見ることが苦痛になるぐらいの密度の濃さで、一つ見たら2ヶ月以上空けないとしんどい。むしろ、今年はもっともよく見た作品はウディ・アレンだったかもしれない。どの監督の作品を一番見たかは統計をとっていないのでわからないのだが、一度そういうのも調べてみたらおもしろいかもしれなし。

 では、無理矢理につけたような順位なんだけれど、いちおうベスト10を選んでみると…

 1位 サラバンド
 2位 ある結婚の風景
 3位 エルミタージュ幻想
 4位 善き人のためのソナタ
 5位 レッズ
 6位 愛の風景
 7位 パラダイス・ナウ
 8位 秒速5センチメートル
 9位 約束の旅路
 10位 紙屋悦子の青春

 上位5作品は不動だけれど、以下は順位をつけるのをためらう。選から漏れた作品も入れ替えても遜色ないものがいくつもある。今年見た映画のほとんどについてそれなりに満足しており、見て損したとか見なければよかったと思うような作品はほとんどない。映画を好きで見ているのだ、けなそうと思ってみているわけではないから、たいていの映画について、どんなにくだらないと思ってもそれなりにいいところを見つけては満足している。

 来年もまたたくさん映画を見たいです。そして映画好きのみなさんと映画を見る歓びを分かち合いたいと思います。ベスト10の読書編はお正月の間にアップする予定です。

 ではどちら様もよいお年をお迎えください。

パリ空港の人々

2007年12月31日 | 映画レビュー
 スピルバーグ監督の「ターミナル」の元ネタと言われている作品だけれど、随分テイストが違う。これがアメリカ映画になるとかくもアグレッシブな自助努力ものになるのか、と今更ながらに驚きを禁じ得ない。その点おフランスではのんべんだらりとしたあなた任せの無国籍状態が続くというのもなんともはや、ファンタジーめいていてなかなかよい。

 フランスとイタリアの二重国籍を持つ中年男がパリの空港に降り立ったが、居眠りしている間にパスポートも財布もおまけに靴まで盗まれたというとんでもない始末。税関で事情を訴えるも、彼が何者であるかを証明する手だてがなく、やむなく空港のトランジット域内の長椅子で寝て待つようにと指示される。ところがここで面白いことに、空港内にはどこにも行く当てのない無国籍人やら入国を拒否された者やら、年齢も性別も国籍もばらばらのいろんな人間が住んでいることがわかる。件の男はその不思議な共同体に受け入れられて一夜の寝場所と食事を分けてもらえる。彼を迎えに来た妻も空港係員にけんもほろろに追い返され、カプセルホテルみたいなところに泊まらされる羽目に陥る。さて、この中年男(ジャン・ロシュフォール)は無事にフランスに入国することができるのであろうか?

 とまあ、まるでもって「ターミナル」とよく似た話です。面白いことに、ロシュフォールは淡々としているのに、彼の妻はヒステリーを起こしてどなりまくっているということ、言葉の通じないアフリカ人をめぐってとても興味深い言語学上のやりとりがあるとか、パイロットを夢見るアフリカの少年が故国に帰らず居座っているということなど、細部での面白さはなかなかのものだ。「移民」にすらなりえない「非合法」な人々の存在が空港の中にあるという、一種のアジール状態が生み出されるのはたいへん興味深い。やはり無国籍状態というのはある種無限の自由があるということなのだ。そのかわりなんの保障もないけどね。 

 自由と逸脱と自己責任ということについて何かと考えさせられる映画。しかもそれが淡々としているところにこの監督の面白さがある。エンタメ的には「ターミナル」のほうが上だと思うけど、作品から漂うもの悲しさや可笑しさや切なさやほのぼのした味わいはこっちのほうが上だろう。(レンタルDVD)


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TOMBES DU CIEL
フランス、1993年、上映時間 91分
監督・脚本: フィリップ・リオレ、音楽: ジェフ・コーエン
出演: ジャン・ロシュフォール、ティッキー・オルガド、マリサ・パレデス、ラウラ・デル・ソル、イスマイラ・メイテ、ソティギ・クヤテ、ジャン=ルイ・リシャール

「現代思想」8月号

2007年12月30日 | 読書
 「ゆきゆきて、神軍」を夏に見て以来、「責任」という言葉が頭の中をめぐっていた。一億総無責任といわれる日本人の心性は江戸時代からあったようで、忘年会を開く民族は世界中で日本人だけらしい。江戸の末期に武士が始めた「年忘れの無礼講」が起源ということだが、一年の総括を一切せず、困ったことやいやなことは酒を飲んで忘れようという上役にとって都合のいい、「部下をまるめこむ会」だったという。誰も責任を追及されたりしないようにあらかじめ予防線を張るための会だったということで、それがあっという間に日本中に広がる習慣になるのだから恐ろしい。(出典は『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』2007年、光文社新書)

 『現代思想』を買ったのは何年ぶりだろう、実に久しぶりのことだ。読みたかったのは磯前順一さんの論文「外部とは何か? 柄谷行人と酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」だったのだが、偶然にも東京裁判特集だったので、ここでも戦争犯罪と戦犯について考えるヒントを仕入れることができた。

 さて、磯前さんの論文は、柄谷行人と酒井直樹というポストモダニスト二人の「内部/外部」」のとらえかたの違いについて述べている。ここでいう内部/外部とは日本におけるそれを指す。柄谷にとって外部とは共同体の外部であり、他者との出会いも外部で実現する。柄谷はしばしばアメリカに滞在するようになって、「日本には外部あるいは他者と出会う空間が存在しない」と気付いた。磯前さんの問題意識は、「柄谷のいうように、日本において、本当に外部は存在しないのだろうか? そもそも外部と内部とは何か?」というものだ。ガヤトリク・スピヴァク、ホミ・バーバ、エドワード・サイードといったポストコロニアル知識人の間には戦略的差異はないのか? 彼らを参照するだけでよいのか?と、磯前氏は問う。

 磯前論文の課題は靖国神社A級戦犯問題なのだが、磯前さんの論文は戦犯問題を越えてわたしに「他者」と「外部」を問うテーゼを示してくれる。だが残念なことに、この論文は興味深い示唆に富むにもかかわらずどこか隔靴掻痒の感がぬぐえない。だが、いくつかメモしておきたい言葉があるので引用。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(p182)

 かつて、わたしはホミ・バーバに面談を求めたさいに、彼に認められようと、どれほど自分が彼の思想を的確に理解しているかを勢い込んで喋った。しばらく、黙って聞いていた彼は、こういった。「私をよく理解してくれていることはよく分かった。しかし、お前はホミ・バーバではない。おまえ自身の考えは一体何なんだ。私に無くて、お前に在るもの。それが私にとってお前と話す価値だ」。それは、まぎれもなく内部に同質化する欲望を拒絶する思考であり、柄谷言葉を借りるなら単独者として人が向き合う対話への姿勢である。すでに述べたように、柄谷にとって、日本は閉ざされた内部として否定的なかたちで存在する。そのような閉鎖性を打破するために、彼は交通の場としての外部を措定する。(p.184)>


 
 そして、書店で立ち読みした『喪失とノスタルジア』がとても面白そうだったので、読んでみたいと思っている。「現代思想」という雑誌に掲載された論文だけではこの人の思想の核の部分は読み取れないのではなかろうか。

俺たちフィギュアスケーター

2007年12月30日 | 映画レビュー
 今年最後のオバカ映画。今年は映画館で「サラバンド」を見初めして、締めはこの作品だから、その落差が激しすぎる(^o^)。宴会の後でも気楽に見られる、頭を使わない映画をと思って見にいったら、なんと劇場用パンフレットを製作していないとな。日本公開する気なかったのかもしれないね。大阪ではなんばパークス1館のみの公開だし。

 して物語は…。男子フィギュアスケート界の金メダリスト、天才2人が大会で同点金メダルとなる。その二人とは、むさ苦しいチャズと、見目麗しい(実は全然麗しくない)ジミー。エロティックな振り付けのダンスが得意な脂ぎったチャズに対して若くスマートな芸術的ジミー。二人は見た目も性格もまったく異なるが、スケートの才能においてはひけをとらない。そんな二人が金メダルを二人で分け合うことになり、表彰式の場でつかみ合いの喧嘩を始めてしまう。その結果スケート協会から下された罰は、メダルの剥奪とフィギュアスケート界からの永久追放。失意の二人は3年半後、惨めな生活に身を落としていたが、なんと、前代未聞の男子ペアカップルとして再登場することに! 二人の前には男女双子のペアチャンピオン・ウォルデンバーグ兄妹が立ちはだかる。犬猿の仲だったチャズとジミーは果たしてチャンピオンになれるのだろうか?!
 

 これはもう必見ですよ~、必見。面白かったわぁ、男子のペアなんてありえないけど、男子ペアでないとできないような荒技が出ますからね、スケートファンなら絶対見ましょう。双子チャンピオンたちがありとあらゆる汚い手を使って妨害に出てくるとか、チャズがセックス依存症で医者通いしているとか、いろいろ面白いネタが仕掛けてあって、最後まで飽きません。実在のアメリカスケート界のスターたちも本人役で登場したり、それはもう面白いこと請け合い。あ、でもむさ苦しいウィル・ファレルの芸なんて見たくないわという御仁には無理にお奨めしませんけど…。まあいっぺん騙されたと思ってご覧あれ。あ、ただし、下品な下ネタも汚らしいギャグもありますので、そういうのが苦手な人はダメかも。

 CGを多用しているだろうし、ジャンプの場面なんて吹き替えだろうけど、主役二人はかなり特訓したみたいで、それなりに華麗なスケーティングを見せてくれる。滑走場面の迫力はなかなかのものであり、凝った衣装も笑える。いちいち馬鹿馬鹿しいセリフや場面で周りの観客が笑っていたのもわたしには面白かった。とにかく真剣にオバカをやっている映画を見たい人には必見作。

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BLADES OF GLORY
アメリカ、2007年、上映時間 93分
監督: ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン、製作総指揮: マーティ・ユーイング、原案: ジェフ・コックス、クレイグ・コックス、ビジー・フィリップス、
脚本: ジェフ・コックス、クレイグ・コックス、ジョン・オルトシュラー、デイヴ・クリンスキー
出演: ウィル・フェレル、ジョン・ヘダー、ウィル・アーネット、エイミー・ポーラー

セルロイド・クローゼット

2007年12月30日 | 映画レビュー
 日本文学をジェンダーの視点から読み直すという試みが上野千鶴子ほか著『男流文学論』だったように、これまでフェミニストによって文学テキストについては女の視点からの読み直し作業が行われている。これは、今まで何気なく読んでいた作品に底流する女性差別・女性蔑視の視点を抉り出してまったく異なる読みを提供するという画期的なものではあったが、読んでいてしまいには辟易するような仕事だった。同じようなことがエドワード・サイードの『オリエンタリズム』にも言える。

 フェミニストによるテクスト読み直しと同じく、この映画はハリウッド映画をゲイの視点から見直すというドキュメンタリーだ。これまで観客が見逃していたゲイ表現をあぶりだすという趣向。よくこれだけたくさんの「ゲイ映画」を見つけてみたものだと感動する。

 あの映画のここも実はゲイのことを言ってるんだ、ここもそういうニュアンスがある、これはこういう場面がカットされてしまった云々という証言が製作者や俳優の口から語られる。

 わたしが驚いたのは、ヒチコックの「ロープ」と「ベンハー」がゲイ映画だという指摘だ。「ロープ」の犯人達がゲイだなんて、全然気付かなかった。「ベンハー」もそうと指摘されて例示の場面を見ればなるほどと思うが、指摘されなければまったく気付かなかっただろう。というか、ベンハーは大昔に見たからそんなことに思い至るほどわたしも大人ではなかったのだ。

 観客がゲイ映画であることに気付かないのは当然で、1960年代までハリウッドには検閲がしっかり生きていて、同性愛をにおわせる場面はすべてカットされていたのだ。中にはずたずたにされてわけが分からなくなってしまった作品もあるというから、これはもう由々しき事態だ。

 自身がゲイである映画業界人やゲイ映画に出演したストレートの人々の証言は率直で驚きに満ちていて、興味深い。映画の場面場面とそれを解説する証言というパターンで繋いだ映画であり、それほど工夫があるとも思えないが、新鮮味があるため、見ていて飽きなかった。 

 ハリウッドの「自主検閲」については加藤幹郎著『映画 視線のポリティクス』を参照されたい。(レンタルDVD)

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THE CELLULOID CLOSET
アメリカ、1995年、上映時間 104分
製作・監督・脚本: ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、音楽: カーター・バーウェル、ナレーション: リリー・トムリン
出演: トム・ハンクス、ウーピー・ゴールドバーグ、トニー・カーティス、スーザン・サランドン、アントニオ・ファーガス

ゆきゆきて、神軍

2007年12月30日 | 映画レビュー
 奥崎謙三という人物は不思議な多面性を持つ。なんの予備知識もなく見たら、開いた口がふさがらないような奇矯で過激な行動に猪突猛進するこの人物のドキュメンタリーに衝撃と驚きをもつに違いない。とにかく奥崎に対して違和感や嫌悪感を強烈に抱きつつ、なのに見ている途中でほろりときたり、その一途さに打たれたり、その人物の強烈なインパクトに押しまくられて、この映画を一度見ただけでは奥崎が持つ思想をうまく掴むことができない。

 彼の思想のキーワードは二つ、「被害-加害」と「責任」だ。天皇に向けてパチンコ玉を投げ、不動産業者を殺して13年の懲役刑を受けた男奥崎謙三は、カメラの前でも平然と暴力を振るうような人間だが、彼なりの優しさをもち、彼なりの倫理観を貫徹させている。

 天皇を頂点とする戦争責任の追及が奥崎のライフワークであるが、その主張、そのやり方は万人の共感を得るようなものではない。酸鼻を極めたニューギニア戦線の生き残りである奥崎は、敗戦後23日も経って「敵前逃亡」罪で処刑された二人の兵士の仇を討つために、真相究明と称して遺族を伴い、当時の上官を訪ね歩く。アポなし突撃インタビューはマイケル・ムーアと同じだが、元上官相手に立ち回りを演じたり、カメラの前で何が起きるか予測がつかない「同時進行で進むドラマ」のスリルと、それがまさに目の前で起きているがための「いたたまれなさ」がある。

 元上官たちの戦争責任を問い詰める奥崎の舌鋒は鋭く、また他者の責任を追及・糾弾しているときの奥崎は全身が「正義の体現者」と化している。「死者を代弁するな」とはレヴィナスの言葉だが、奥崎は戦友を代弁し、彼らの無念を晴らそうとする。あげくは遺族の名まで騙る。そのような「声高な正義で他者を糾弾する」という古いタイプの社会運動特有の文法をこのような醜悪な露骨さでみせつけられると実に辟易するのだ。と同時に、「わたしは責任を負ってきた。わたしは自分の罪の責任をとる。決して逃げない」と宣言して自ら警察を呼んだりといったパフォーマンスを忘れない奥崎を見ると、自身の責任を回避しない潔い人間ではないかとぐっと評価が揺れたりしてしまう。当時の上官たちは濃度の差はあれ、「しかたがなかった」「そんな時代だったから」「あの時は生きるのに精一杯で」と、誰も自らの責任を引き受けようとはしない。上は天皇から下は下士官まで、無責任な心性をいまだに引きずっている。

 映画作品としてみると、奥崎謙三の毒ばかりが眼につくようでいて、実はその彼の姿を執拗に追うカメラ=原一男のすごさにも驚嘆する。目の前で奥崎が病人を殴っているのに止めようともせずカメラを回し続ける執拗さは尋常ではない。カメラマンはいったい何をしているのだ?!と観客が思わずにはいられないような緊張感に溢れる作品というのも空前絶後ではなかろうか。かといって、重苦しい映画かというと実はそうではなく、映画の後半を一緒に見ていた息子達が思わず笑い転げていたように、奥崎謙三の生真面目な行動は時に笑いを誘ってしまうのだ。奥崎はカメラを意識してその前で自然に演技のできる稀有な役者なのかもしれない。

 天皇に騙された、天皇のせいで酷い目にあった、という徹底した被害者意識から始まり復讐のためには暴力を辞さない奥崎の執念におそれいりながらも、この執拗さがなければ元上官たちは口を開かなかったのだろうと思うと複雑な気持ちがする。中には最後まで「おれは言わないよ、言わないほうがいいことだってあるんだ。遺族には言えないような死に方をしてるんだよ、みんな」と頑として奥崎に抗った人物もいたが。

 ただ、この作品は87年に公開されているのに、実際に奥崎が写っているのはそのかなり前までだ。空白の数年間に原一男と奥崎の間に何があったのだろう?(レンタルDVD)


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日本、1987年、上映時間 122分
監督: 原一男、製作: 小林佐智子、企画: 今村昌平
出演: 奥崎謙三

レディ・チャタレー

2007年12月30日 | 映画レビュー
 イギリス軍人がフランス語をしゃべるからのっけから驚いてしまったが、これはフランス映画だったのだ。ロレンスの作品をおフランス映画にするとこんな感じになりました。フランス語の響きが美しくて、庭園の光が明るく柔らかい。イギリスの暗い空やくすんだ空気感のない美しい作品になっている。  

 映画を見ながらずっと「こんな話だったっけ? 原作はこうだったかしら?」とそれがやたらと気になってしまった。この映画はD.H.ロレンスが小説の中でいわんとした精髄を伝えきれているのだろうか? わたしは原作も読んだしシルヴィア・クリステル主演の映画(1982年)も見たけれどちっとも気にいらなかったのに、またしてもチャタレイを見てしまったのは、本作がセザール賞を5部門受賞の秀作だと知ってついつい興味がわいたから。

 チャタレイ夫人と森の猟番とのふれあいが丁寧に描かれているところは好感が持てたが、主役二人があまり美しくないので恋愛映画としては苦しい。物語の主眼は、チャタレイ夫人コンスタンスが肉体の歓びに目覚めていくのにしたがって自分自身を解放していくその豊かな感性の高まりにあるはずだが、この映画を見ていても彼女がどう変化したのかよくわからない。

 肉体労働に生きる猟番の「からだに惹かれたの」という彼女自身は炭鉱主の妻として男爵夫人として裕福に暮らす身を顧みることはない。炭鉱夫のストライキも彼女には興味を惹く事件とは思えないようだ。煤で真っ黒になった顔を光らせながら炭坑から出てくる労働者たちを何か奇妙なものでも見るかのように見つめる彼女の内面はこの映画からは推し量れない。

 中年の森の猟番とその若き女主人という不釣合いなカップルが惹かれあい身体を重ねるようになるまでの描写が丁寧で、小鳥のさえずりや二人を包む森の空気まで感じ取ることができるような映像は心地よい。

 初めて二人が小屋の中で抱き合う場面では、女は黙っているのに男が大きな声を出しているのが可笑しくて笑いそうになった。そんなぎこちない二人がだんだんお互いに馴染むようになり、コンスタンスが歓びを覚えていく過程がゆっくりと描かれる。

 二人の不倫の恋はどうなるのだろう? 男の体に惹かれたというコンスタンスだが、二人はやがて真実の愛へと至るのだろうか?

 映像は綺麗だけれど、残念ながらこの映画からはメッセージを受け取ることができなかった。まあ、受け手の問題なんでしょう。やっぱり「チャタレイ夫人」とは相性が悪い。(R-18)

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LADY CHATTERLEY
フランス/ベルギー/イギリス、2006年、上映時間 135分
監督・脚本: パスカル・フェラン、製作: ジル・サンドーズ、撮影: ジュリアン・ハーシュ、音楽: ベアトリス・ティリエ
出演: マリナ・ハンズ、ジャン=ルイ・クロック、イポリット・ジラルド、エレーヌ・アレクサンドリディス、エレーヌ・フィリエール

愛より強く

2007年12月30日 | 映画レビュー
 家父長制の軛から逃れるために結婚するというのはありがちだし、よくわかる心理だ。しかし、結婚は父母という支配者から夫という支配者へとご主人様を替えるだけのことにすぎないとやがて多くの女性が気づくだろう。結局、自由はどこにもない。しかし、この映画の主人公シベルのように偽装結婚ならどうだろう? 彼女は夫という軛に繋がれることはない。自由奔放勝手気ままに遊び惚けて自由を満喫し、どんどん綺麗になっていく。しかし、その代償は?

 ドイツでトルコ移民が「社会問題」となったのはいつの頃だろうか。ネオナチの若者が移民排斥の運動を展開し、移民たちへの暴力的な排除を行うようになって久しい。一時は増える一方だった移民も今は減少傾向にあるはず。移民もすでに2世3世の時代になりつつある今、この映画のシベルのようにイスラムの教えとトルコの伝統を守ろうとする一世とは価値観の違う若い世代が育つ。ましてや移民は本国よりも古い習慣を意固地に守り続ける傾向もあり、一層軋轢は増す。 

 だから、シベルが自殺未遂を図って運び込まれた病院で、同じく自殺未遂患者のジャイトを偶然見かけていきなり「結婚して」と迫るという無謀な話もあながちリアリティがないとも言えない。自分よりかなり年上の、みすぼらしくくたびれた中年男に「とにかく結婚して」と迫って断られるや、いきなり手首切り。こんなぶち切れ女をほっておけないジャイトって優しい男なんだな、ほんとは。で、仕方なくジャイトはシベルの家に求婚に行く。この場面がケッサク。この映画は初めのうちこそどこかユーモラスな雰囲気が漂っていたのだが、だんだんひたすら暗い話になっていく。手持ちカメラが映し出すほの暗い映像や、ジャイトのすさんだ生活には、荒れた中年の侘しさが色濃い。やがてシベルと一緒に暮らすようになってジャイトの部屋は一変する。けれど、偽装結婚の二人はベッドを共にすることはなく、それぞれがセックスフレンドを別に持っているのだ。

 だがシベルの明るさに惹かれていくようになったジャイトはやがて彼女に本気で恋をするようになる。決定打はシベルが作った手づくり料理だ。これが実に美味しそうな肉詰めピーマンなのでうちでも作ってみようかと思った。男って「家庭の味」に心が動かされるものなのかね、単純。でもこれは女も同じかもしれない。美味しい手作り料理を心をこめて作ってくれる、その行為には無垢な好意が感じられるものだ。

 いつの間にかお互いに惹かれあっていった二人だけれど、思いがけない事件を引き起こしてしまい、離れ離れになってしまう……。

 結局のところ、彼らには帰る「故郷」があるということだろうか。移民にとっては、何世代経ってもHOMEは出身地なのだろうか。この物語のバックグラウンドとなる移民の生き難さ、と同時に帰るところのある「安らぎ」というものを強く感じる。この物語は悲劇には違いないのだが、根無し草として生きる都市の民よりも彼らのほうが幸せに見えるのはなぜだろう? アイデンティティという幻想が人を結局は前に向かって生きさせているのかもしれないと思う作品だった。うがった見方をすれば、「移民は故郷へ帰れ」というメッセージともとれる映画ですね。(R-18)(レンタルDVD)


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GEGEN DIE WAND
ドイツ/トルコ、2004年、上映時間 121分
監督・脚本: ファティ・アキン、製作: ラルフ・シュヴィンゲル、シュテファン・シューバート
出演: ビロル・ユーネル、シベル・ケキリ、カトリン・シュトリーベック、グヴェン・キラック、メルテム・クンブル

生きる

2007年12月30日 | 映画レビュー
 1952年の市役所というのがこれほど怠惰で文字通りの「お役所仕事」に満ちていたとは正直言って思いがたいものがある。いや、もしこれが当時の役所の実情をかなりリアルに再現していたとして、隔世の感があるのだ。今のお役所は過労死する公務員がいるほどよく働く人々が多い。もちろん、昔ながらの職場もあるだろうし、民間はもっと厳しいのだという叱声も飛んでくるかも知れないが、今の公務員にはこの映画で描かれているように「何もしないのがわれわれの仕事なんだ」などと嘯く人間はいないはずだ。

 黒澤明の30作品の中でももっとも評価が高いものの一つがこの「生きる」だろう。うちの父は当然公開時に見ていると思うが、先頃DVDを見て「これはええぞぉ、泣けるぞ、もう、最後はたまらん」としみじみ感慨にふけっていたから、高度成長期を支えた70代の男性には胸に迫るものがあるに違いない。いや、わたしが見たってもちろん、最後のやるせなさや切なさは感無量のものがあるのだが、しかし、なぜかわたしはこの映画を見ても泣けない。

 末期癌であることを知ってしまった公僕は、30年間無欠勤だった役所を突然休み、遊び惚ける。早くに妻を亡くして一人息子を育て上げてきた。ただひたすら息子のためだけに役所勤めを全うしてきたのだ。定年まであとわずかというときに、自分は死ぬ。これまで自分は生きてきたのだろうか? 生きてきたと言えるのだろうか? いや、これからその気になれば、生きることができる。そう決意した男は、これまで官僚主義に首まで浸かって事なかれ主義を通してきた仕事のやりかたを変え、役所を動かし、住民から陳情の出ていた公園を作ってしまう。そして彼はその公園のブランコに座って死んだ…

 物語の前半、市民課長渡辺が自分の余命を悟って夜遊びしまくるところは退屈だ。志村喬が腑抜けたような顔と力のない声で弱々しくしゃべるものだから、音声も聞き取れなくて、とうとう日本語字幕をONにしたぐらいの脱力ぶり。渡辺課長と一緒に遊ぶ小説家がまるで死に神のようなのもちょっと狙いすぎという感じがして演出が鼻についてしまう。この場面が延々一時間以上続くとだれてしまった。

 ところが、渡辺課長が一念発起するところからいきなり通夜の場面に飛んでからはもう白眉の演出だ。渡辺が死を目前にして「生き直し」をする場面を時間軸通りに描かず、通夜の席で同僚たちが酔っぱらいながら思い出話をする展開にしたのは見事だった。これは「羅生門」で同じ事件について様々な証言が輻輳する構成と同じだが、「羅生門」よりずっと証言のアンサンブルが素晴らしい。一つの結論に向かって皆の意見がまとまっていく会話の畳みかけ方がよく練られている。

 同僚達が証言する渡辺課長の豹変ぶりが痛々しくも胸を打つ。渡辺はこれまで自分で何かを積極的に行うという前向きの姿勢で仕事をしたことがなかった。そんな男が粘り腰で、動かない役所を動かす。しかしその彼の踏ん張りがとてももの悲しい。未来に向かって明るくエネルギッシュに仕事に打ち込むという姿ではないのだ。相変わらず声には張りがなく弁舌も爽やかではない。しかし、そんな彼にでも命を懸ければ出来ることはあるのだ。

 この映画に描かれた官僚主義への批判、渡辺が生きることの意味を仕事の中に見いだそうとする姿勢に、わたしはおそらく百%の共感が持てないのだろう。だから、この映画で泣けないのだと思う。それは、死を目前にしなければ仕事に打ち込めないような、そんな生き方しかしてこなかった男に共感できないからだろう。決して会社人間になれと言いたいわけではない。しかし、なぜ30年間、自分の仕事をないがしろにしてきたのだろう? なぜ職場をもっと「生きる」ことのできるものに変えようとしなかったのか? そのことに歯がゆさを感じるから、渡辺課長に同情することができないのだろうと思う。わたしは努力を怠る人間に共感も同情もすることができない。と同時に、巨大な官僚機構の中間管理職になど所詮できることは限られているという同情もまた湧いてくる。結局のところ、意気に燃える人々のその意志も打ち砕かれてしまう、そんな場所でしかないのだ。そのような諦念と皮肉がラストシーンにこめられていた。


 後半の構成が「羅生門」に似ていると書いたが、案の定、脚本には「羅生門」の橋本忍が参加している。橋本は黒澤明に見出されて「羅生門」でデビューしている脚本家だが、なんと最新作「私は貝になりたい」の脚本も担当している。もう90歳になるというのに!(DVD)

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日本、1952年、上映時間 143分
監督・脚本: 黒澤明、製作: 本木荘二郎ほか、脚本: 橋本忍、小国英雄、音楽: 早坂文雄
出演: 志村喬、日守新一、田中春男、千秋実、小田切みき、左卜全、藤原釜足、小堀誠、金子信雄、伊藤雄之助

ダック・シーズン

2007年12月30日 | 映画レビュー
 う~ん、ジャームッシュ節! と思ったらメキシコ映画でした。しかし全編モノクロ映像といい、舞台がアパートの一室だけという安普請といい、脱力系のお笑いぶりといい、まるでジャームッシュ。

 ママが留守の家では14歳の少年二人がお留守番。宅配ピザを頼んだけれど、約束の30分を11秒超過していたために「金は払わないぞ」と言い張るボクチャンたちに腹を立てた配達人は、そのままアパートに居座ってしまう。この少年二人がとてもよく似ていて、二人とも可愛らしい。こういう息子がいたらスリスリと頬ずりしたくなる。で、その可愛い少年達とテレビゲームで勝負して代金を払ってもらおうと思いついた配達人のおじさん(まだ若いらしいが、おじさんにしか見えない)、ピザの配達そっちのけでゲームにハマって大はしゃぎ。そこへ近所の少女がオーブンを貸してくれとやってきてずうずうしくも居座ってケーキを作り始める。

 なんだか妙なことになってきたな、この二人のよそ者はなぜか居座ってしまって帰りそうにない。だんだん物語は一種の不条理劇の様相を帯びてくる…

 とにかく散漫な展開に居眠りしそうになる映画。でもなんだか可笑しい。こういうのがラテン系の国で受けるというのが不思議な気がするのだが、リズム的にはレゲエのノリとでも言えようか。ボクちゃんたちが可愛いので、わたくし的には○の映画。両親が離婚間際という設定がちょっと泣かせる。(レンタルDVD)

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TEMPORADA DE PATOS
メキシコ、2004年、上映時間 90分
監督・脚本: フェルナンド・エインビッケ、製作総指揮: クリスティアン・バルデリエーブレ、アルフォンソ・キュアロン
出演: エンリケ・アレオーラ、ディエゴ・カターニョ・エリソンド、ダニエル・ミランダ、ダニー・ペレア

ガンジー

2007年12月30日 | 映画レビュー
 小学生のときに『マハトマ・ガンジー』(誰が書いたものだったのだろう? ひょっとして自伝かも)を読んで素直に感動したものだ。印象に強く残っているのは、ガンジーが大金持ちの子弟であり、壮大な結婚式を挙げたこと、彼が徹底した菜食主義者であったことだ。とにかく偉大な人だという印象が強く残っているが、その後、学生時代にはガンジーの「非暴力」という抵抗主義は「生ぬるい」と感じていた。だが、この映画を観るとやはり彼は「非暴力」を訴えてはいるが、「不服従だ、抵抗せよ」と強調している。決して無抵抗を主張したわけではないのだ。そのことがとても魅力的だ。 

 この映画の魅力はなんといってもベン・キングズレーにある。映画のロケ中にガンジーを知るおばあさんから「ガンジーさん」と声をかけられたとかいう逸話も読んだことがあるぐらい、そっくりです。キングズレーの品のある熱演が見所で、映画的にはさして特別な手腕を感じない。もちろん3時間もある長尺を飽きさせずに演出したアッテンボローはさすがだと思うが、ガンジーの人生とインド独立運動じたいが波乱万丈の大河ドラマなのだから、これは演出力の賜物なのかどうかよくわからない。ただし、ガンジーの人柄を表すエピソードを過不足なく配置した脚本は万全だ。腕の冴えを感じるというよりは奇をてらわず手堅く作ったという印象の強い映画。(レンタルDVD)

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GANDHI
イギリス/インド、1982年、上映時間 188分
製作・監督: リチャード・アッテンボロー、脚本: ジョン・ブライリー、音楽: ラヴィ・シャンカール、ジョージ・フェントン
出演: ベン・キングズレー、キャンディス・バーゲン、ジョン・ギールグッド、マーティン・シーン、エドワード・フォックス

地下鉄(メトロ)に乗って

2007年12月30日 | 映画レビュー
 原作者浅田次郎も登場します。どこで出てくるか当てましょう。

 愛人と妻という三角関係の話のとき、観客はどっちの立場に立つか微妙だが、この映画の場合、間違いなく愛人側だ。物語もそのように誘導してある。楚々として美しく、控え目でどこか陰があり儚げで自己犠牲の精神に溢れているみち子(岡本綾)を見ていると、誰もが彼女に惹かれてしまうだろう。だからこそ、みち子がとった行動には納得がいかない。そういう方法で愛を示すかなぁ? そんなことって愛なんだろうか? これが原作通りなのなら、浅田次郎はいったい何が言いたかったんだろう? 『罪と罰』が明示的に引用されているが、まさかこれが不倫の「罰」だといいたいのだろうか?
 

 この物語の本筋は父と息子の和解だ。父を憎んでいる息子が、タイムスリップして父の若い頃と出会うことにより、父と和解するというお話。ところがこのタイムスリップが問題で、起点(現在)がわからないため、登場人物がいったい何歳なのかと映画を観ているあいだじゅうずっと心の中で計算し続けていた(同じ感想を「映画瓦版」の服部さんも書いている)。登場人物の年齢なんてどうでもいいことかも知れないが、これは人間把握のためには必須の要件の一つだとわたしは思っている。心安らかに映画を観るために、自分で勝手に「現在」を1990年ごろだと仮定することにしてようやく気持ちが落ち着いた。観客にこういう無駄な神経を使わせることのないようにしてもらいたい。

 で、この物語の場合、なぜタイムスリップするのかの説明はない。それはどうでもいいことで、父と子の和解のためには父の過去を知る必要があったという物語上の整合性のために設定されているだけだ。過去への入り口を示すトリックスターが「先生」なのだ。地下鉄で偶然何十年ぶりかで再会した眼光鋭い老人は主人公長谷部真次(堤真一)の恩師らしいのだが、正体は観客には明かされない。どうやら過去へのスリップはこの先生が鍵を握っているように思えるが、それも映画の中では明らかにされない。ついでにいうと、なぜこの物語がタイムスリップものなのかは理解に苦しむところがある。わざわざそういうファンタジーにする必然性があったのだろうか。おそらく、最後のみち子の究極の自己犠牲を設定するために必要だったのだろうが、なにか釈然としない。

 長谷部真次は現在から1964年の東京オリンピックに沸いている時代へと遡り、次は敗戦直後の闇市へ、さらには戦時中へと次々に時代を遡っていく。あるときはそのタイムスリップに愛人みち子がなぜか巻き込まれている。兄が事故死した1964年のある日にタイムスリップした真次は、兄の死を回避できるかもしれないと手を打つ。だが過去は変えられなかった。ここでまず、「過去は変えられない」というメッセージを観客に送っておいて、最後の「どんでん返し」に持って行くという物語の構成はなかなかたくみだ。

 この映画で描かれる過去が、「ALWAYS 三丁目の夕日」ほどには懐かしく映らないのはなぜだろう。どういうわけかリアリティが感じられないのだ。薄っぺらな過去がそこには再現されているように思える。そして、真次が父の過去を知るにつれ父に感情同化していくさまにもそれほどリアリティが感じられない。出征していく若き日の父に向かっていまどきの人間が「万歳」と言うだろうか? 感動すべき場面のはずだけれど、リアリティが感じられないため、わたしはかえって白けてしまった。

 父と息子の和解というのは美しいテーマには違いないが、恋愛というテーマに限っていえば、まったく納得できない。こういうのを美しい自己犠牲だとは思えないのだ。後味が悪い。(レンタルDVD)


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日本、2006年、上映時間 121分
監督: 篠原哲雄、原作: 浅田次郎『地下鉄に乗って』、脚本: 石黒尚美、音楽: 小林武史
出演: 堤真一、岡本綾、常盤貴子、大沢たかお、田中泯、笹野高史、吉行和子

その名にちなんで

2007年12月29日 | 映画レビュー
 小説を先に読み終えてから映画を鑑賞。映画は原作にほぼ忠実に作られていた。

 小説を読みながら感じていたことは、「これは短編向けの文体じゃないの。これで長編は苦しいなぁ。ラヒリはやはり『停電の夜に』がよかった」。

 映画を見ながら思っていたことは「こんなに話をすっとばして原作読んでいない人は解らないんじゃない? 深みに欠けるなぁ」。

 つまり、小説にも映画にも不満を抱きながら見ていたのだ。ところが、見終わってみると、小説と映画の両方を味わうことによってやっとこの物語のテーマが浮き上がってきたという思いがする。

 インドからアメリカに移住してきた若いカップルが、生まれた息子に「ゴーゴリ」という名をつける。そう、あの『外套』のロシア作家ニコライ・ゴーゴリである。なぜこんな変わった名前を息子につけたのだろう? ゴーゴリは成長して自分の名前を嫌い、「ニキル」と変えてしまう。だがやがて父がなぜこの名を自分に与えたかを知って驚く。父が死んだ後、彼は父の愛の深さと移民としての望郷の思いに触れる。

 インド移民2世代の物語を2時間の尺に収めるという無理をしているために、原作の数多いエピソードを省略してしまっているのはやはり原作を読んだ人間には寂しい。また、異文化(=他者)との衝突と融和という大きなテーマに必須のエピソード(ゴーゴリの最初の恋人の両親のライフスタイル)も省かれてしまっているのは残念だ。

 原作はゴーゴリを中心としながらも複数の登場人物の視点で描かれている。映画も同じく誰が主人公なのかよくわからない。中心人物はゴーゴリよりもむしろその母アシマのように思える。アシマを演じた女優があまりにも美しくて、一方、原作ではかなりの美男美女だったはずのゴーゴリとその妻がたいしたことがないというのはイメージが逆なので不満に感じた。ゴーゴリは白人の恋人と別れたあと、ベンガル人2世と結婚するのだが、この妻となる女性が自分自身に外見も似ているというところが重要なファクターだが、映画ではそのあたりが判然としない。

 インド移民はアメリカにやって来ても本国の風習を変えないばかりか、ベンガル人とばかり付き合う。小説ではこの様子が繰り返し描かれ、個人どうしの趣味や性格の相性よりも同胞であるかどうかで付き合う相手が決まってしまう親の交友関係に違和感を抱くゴーゴリの苛立ちがよく理解できる。しかも、ゴーゴリは、親の世代の文化に馴染めないだけではなく、アメリカ文化にも慣れ親しむことができない部分があることに気づいて愕然とする。彼は、インドに対峙するときはアメリカを懐かしみ、アメリカに対峙するときはインドが好ましい。2人のアメリカ人女性との恋愛に破れ、結婚した相手はもっとも自分の気持ちをわかってくれるはずのベンガル人2世だったというのに、最初好ましかった彼女の中にだんだん自分と相容れないものを感じるようになってくる。ゴーゴリが出会うものはすべからく「他者」なのだ。

 二重の文化規範のなかでそのどちらにも完全に帰属することのできないゴーゴリという存在の不確かさが小説のなかでは丁寧に描かれている。その淡々とした描写ゆえに読んでいる途中ではなかなか胸に迫るものがなかったのだけれど、この小説は二度読んで感動を味わうものではなかろうか。だからこそ、映画を見終わって初めて小説のエッセンスに触れた思いがしたのだ。

 映画には映像の力と音楽の力があり、小説には映画で描けない細かい描写がある。見てから読むか読んでから見るか、よく迷うところだけれど、この映画に関しては読んでから見ることをお奨めします。この作品のように、原作と映画の両方を見ることによって欠落を補いあい、感動が深まっていくのは珍しい。

 小説からはインド(カルカッタの町)の香りが漂うことがなかったが、映画ではインドロケの場面が素晴らしく、これは映画ならではの力を見せつけられる部分だ。灼熱のインド大陸というよりもすすけた古い歴史の町というイメージが色濃く漂う色調の落ち着いた画像にナーイル監督の渋い腕前を見た。ラストシーンも映画のほうが遙かに感動的。


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THE NAMESAKE
アメリカ、インド、2006年、上映時間 122分
監督: ミーラー・ナーイル、製作総指揮: 小谷靖、孫泰蔵、ロニー・スクリューワーラー、原作: ジュンパ・ラヒリ 『その名にちなんで』、脚本: スーニー・ターラープルワーラー、撮影: フレデリック・エルムズ、音楽: ニティン・ソーニー
出演: カル・ペン、タブー、イルファン・カーン、ジャシンダ・バレット、ズレイカ・ロビンソン

ゴスフォード・パーク

2007年12月29日 | 映画レビュー
アルトマン監督お得意の群像劇。とはいえ、やたら登場人物が多くて、名前と顔を一致させるのが大変だ。物語がかなり先まで進んでもまだ誰が誰だかわからなかったりする。だが、最後には全員のキャラクターがちゃんと見分けがつくようになっていたから、これはやはり優れた脚本の賜物だろう。それに豪華なキャストがそれぞれ演技上手なため、ちっとも飽きない。

 時代は1930年代、場所はイギリスの郊外の大邸宅「ゴスフォード・パーク」。屋敷に招かれた客たちとその召使の群像劇だだ。イギリス貴族社会を使用人の視線で眺めたという珍しい作品で、上流階級のさまざまなしきたりが興味深い。物語には殺人事件が起きるという波乱もあるけれど、ミステリーはほんの香り付け程度のもので、何よりもこの人々のそれぞれの小さなドラマが面白い。そのドラマをシニカルに見るアルトマンの視線が優れている。

 屋敷の中の、階上には上流階級の人々が集い、階下には使用人たちの世界がある。だがその使用人たちの中にも順位があって、その序列は彼らの主人の位をそのまま反映する。貴族の生活を使用人の視線で批判的に眺めるというだけではなく、アメリカ人をここに投入して観察者としての位置をとらせることにより、いっそうイギリス貴族を相対化することに成功している。そのアメリカ人がハリウッドのプロデューサーであるという設定がまた面白い。イギリス上流階級の世界を描く映画を作るために実際の貴族社会を見学に来たという彼の存在が、イギリス人とアメリカ人の文化的差異を際立たせている。この映画は、イギリスの社会の階級間差異と同時に英米の文化的差異をもファクターに取り入れて興味深いつくりになっている。

 結局、舞台のすべてを見ていたのは最も若い新参のメイドであったという点も面白いオチだ。その社会にどっぷり浸かっている人間には反省も何もないが、新参者にはあらゆることが物珍しく新鮮に映り、そして真実を透徹することができるのだろう。反省も何もない貴族の典型として存在するのが年老いたトレンサム伯爵夫人だ。彼女の嫌みなことったらこの世に二人と以いないというぐらい。マギー・スミスがいやらしい婆さんを実にそれらしく演じるものだから感動してしまった。(レンタルDVD)

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GOSFORD PARK
アメリカ,2001,上映時間 137分
製作・監督: ロバート・アルトマン、脚本: ジュリアン・フェロウズ、音楽: パトリック・ドイル
出演: マギー・スミス、マイケル・ガンボン、クリスティン・スコット・トーマス、ボブ・バラバン、カミーラ・ラザフォード、チャールズ・ダンス、ヘレン・ミレン、エミリー・ワトソン、アラン・ベイツ

ボーイズ・オン・ザ・サイド

2007年12月29日 | 映画レビュー
 楽しげでお気楽なロード・ムービーかと思えば、さにありなん。女3人、それぞれが困難や大問題や不治の病を抱えて生きているのだ。偶然にも3人で西海岸を目指すことになった3人だったけれど、ロードムービーのはずが途中下車して定住してしまう。そ、つまりこの映画はやっぱりお気楽なロードムービーではなく、困難を抱えながらも前向きに生きていく女の一生懸命な姿を描く真面目な作品だったのだ。

 ゲイの黒人女性ウーピー・ゴールドバーグと殺人犯の可愛いドリュー・バリモア、不治の病に罹っているメアリー=ルイーズ・パーカー、とそれぞれが非常に個性的。途中までは全然先の見えない展開で、あれよあれよという間に過ぎていった。 

 女3人といえば最も友情が成立しにくい組み合わせだが、この映画では3人の友情が成り立つのは彼女達の個性が際立って強いからかもしれない。その個性はぶつかりあって諍いも起こるのだが、結局は愛し合う気持ちのほうが勝つ。諍いの原因が決して悪気ではなく互いへの気遣いのすれ違いだったり些細な軽率さだったりするところはとてもリアルだ。こういうことはまさに「あるある」と納得してしまう。こういうリアルな描写とともに、とても「あるある」とは思えないような面白可笑しいドリュー・バリモアとマシュー・マコノヒーのカップルが描かれるので、映画全体が暗くなりすぎもせず軽く飛び跳ねすぎもしない。

 最後は切なくて悲しいけれど、こうして人はすれ違い傷つけあいそれでもやっぱり愛し合って生き死んでいくのだとしみじみする。(レンタルDVD)

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BOYS ON THE SIDE
アメリカ、1995年、上映時間 117分
監督: ハーバート・ロス、製作: アーノン・ミルチャンほか、脚本: ドン・ルース、音楽: デヴィッド・ニューマン
出演: ウーピー・ゴールドバーグ、メアリー=ルイーズ・パーカー、ドリュー・バリモア、ビリー・ワース、マシュー・マコノヒー