ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『ホモ・サケル』メモ(2):第2部

2005年08月28日 | 読書
 ローマの古法に、「ホモ・サケル」(聖なる人間)についての定義がある。

 ホモ・サケルとは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことである。そのものを生け贄にすることは合法ではない(neque fas eum immolari)。だが、このものを殺害するものが殺人罪に問われることはない(sed qui occidit,parricidi non damnatur)。

 これをどう解釈するのか?

 殺害が処罰されない、犠牲が禁止されている

 19世紀以来、「聖なるものの両義性」をめぐって人類学、言語学、社会学のあいだで研究交流がなされてきた。概念というものは、相矛盾する意味の両方を担ってしまう瞬間がある。


++++++以下、p119-122より引用++++++

 ホモ・サケルの条件を定義づけるのは、ホモ・サケルに内属した聖性がもつとされる原初的両価性などではなく、むしろ、ホモ・サケルが捉えられている二重の排除のおつ特有の性格、この者が露出されてある暴力のもつ特有の性格である。この暴力――誰もが罪を犯さずにおこなうことのできる殺害――は、供犠の執行としても殺人罪としても定義づけることができない。それは、諸兄とも冒涜とも定義づけることができない。それは、人間の法や神の法といった裁可された形式を離れて、聖事の圏域でも世俗的な活動の圏域でもない人間の活動の圏域を開く。この圏域をこそ、理解しようと務めなければならない。

 ……

 我々が問うべきなのは、主権の構造と聖化の構造は何らかのしかたで結びついているのではないか、この結びつきにおいて両者は互いを照らし出すことができるのではないか、ということである。……刑法からも犠牲からも離れた本来の場へと回復されたホモ・サケルは、主権的締め出しの内に捉えられた生の原初的形象を提示するのではないか、それは政治的次元を構成した原初的排除の記憶を保存しているのではないか……

 主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に捉えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。

 ……

 主権の圏域と生なるものの圏域が近いものだということは非常にしばしば指摘され、さまざまなしかたで叙述されてきたが、この近さは、単位あらゆる政治権力がもともともっていたとされる宗教的性格の世俗化された名残であるのでもないし、単に政治権力に対して神学的な裁可の威信を保証しようとする試みにとどまるものでもない。(p122)

++++++++引用ここまで++++++++


 古代ローマ人はこういった矛盾をきちんと理解していたらしい。ローマ法によれば、父は息子に対して無制限の「生殺与奪権」をもつと考えられていた。これは単に家庭内における権力だけを指し示すのではない。

 原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。

 ローマ人は父のもつ生殺与奪権と行政官のもつ支配権との親和性を本質的なものと感じていた。

+++++++以下、p130より引用、読みやすくするため適宜改行+++

 聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。

 ……国家を基礎づけるものは社会的な結びつきではない。国家は社会的な結びつきを表現するものではない。国家を基礎づけるのは社会的な連関の「解除」であり、国家は社会的な連関を禁止するのだ。いまや我々はこのテーゼに新たな意味を与えることができる。

 解除は、既存の拘束を解除するものとして理解されるべきではない。むしろこの拘束は、もともとはそれ自体、捉えられてあるものが同時に排除されてもあり、人間の生が無条件の死の権力へと遺棄されることでのみ自らを政治化する、という形をとる解除ないし例外化なのである。

 主権的な拘束は、実定的規範や社会的協定といった拘束より原初的であるが、この拘束は実は解除にほかならない。この解除が含みこみ産み出すもの――家と都市(国家)のあいだの中立地帯に住む剥き出しの生――は、主権の観点からすると、政治の原初的要素なのである。

++++++以上、引用おわり++++++++


 第5節「主権的身体と聖なる身体」において、アガンベンはエルンスト・カントローヴィチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』に依拠して、王がもつ主権の永続的本性について考察する。王の政治的身体は、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と似通っている。

 アガンベンはさまざまな古代や中世の王の葬儀(王は決して死なない)などの例をひきつつ、ホモ・サケルとは「生き延びてしまった捧げ物の生と同じ」と述べている。例えば、戦に際してその命を神に捧げ、死ぬつもりで戦場に赴いたにもかかわらず生き延びてしまった者。彼らは神への供え物であるにもかかわらず死ななかった。

 ホモ・サケルと主権者の身体には類似性がある。ホモ・サケルを殺しても殺人罪にはならない。王を殺しても単なる殺人罪ではなく、「大逆罪」と見なされる。ホモ・サケルの殺害は殺人罪以下であり、王の殺害は殺人罪以上である。いずれの場合も殺人罪の案件に対応しないという点では同じ。


◆目次◆

第2部 ホモ・サケル
 1.ホモ・サケル
 2.聖なるものの両義性
 3.聖なる生
 4.生殺与奪権
 5.主権的身体と聖なる身体
 6.締め出しと狼
 境界線

<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

『河岸忘日抄 』

2005年08月25日 | 読書
河岸忘日抄
堀江 敏幸著

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 「いつまでもこの本と向き合っていたい」と思わせる馥郁たる香りの漂う小説だ。それは、贅を尽くした重厚で落ち着いた調度が安らぎを与えてくれるホテルのラウンジで、軽い酔いにうっとりしながら「いつまでも語り合っていたい」と思わせる心許せる人と飲む、そのような贅沢な時間と同じ。
 ストーリーなどはない、エッセイのような小説。登場する人物たちはたった数人だけれど、とてつもなく魅力的だ。
 フランスはセーヌ河上流に繋留された船に住む日本人青年が高等遊民の生活を続けていく様子が三人称で語られる。彼の思考のたゆたう先を読者もともに味わう作品だ。声高でない「イラク戦争」への批判が底を流れる。
 主人公の「彼」はほんの目の前にある対岸に渡ることを潔しとしない。すぐ近くなのに彼にとって対岸は遠い岸辺だ。それは「彼」と他者との距離でもある。
 もう一人の重要人物は、「彼」にその船を貸している年老いた大家。偶然の道行きから主人公が異国で知り合った実業家だ。大家は病院に入院したまま、死の日を待っている。まもなく死ぬというのに異様にエネルギッシュで口の減らないこの病人は、まるで映画「みなさん、さようなら」の主人公みたいだ。大家の口にのぼる処世訓は、一代で財を成した事業家の豪快さやウィットがけれん味なく発揮されて小気味よい。
 もう一人の客人は、西アフリカ出身の郵便配達人。いつのまにかすっかり知己となった郵便配達人は「彼」の数少ない友人の一人だ。いつもゆっくりとコーヒーを飲んで行く。郵便とはすなわち外界とのコンタクト。「外」を「彼」に運んでくる人が西アフリカ出身の長い足の持ち主というのも素敵だ。
 そして最後に主人公「彼」の友人、枕木という男。枕木が日本からフランスの動かない船宛にファクスをたびたび送ってくる。メールでやりとりすればいいものを、彼らはファクス通信で繋がっているのだ。その枕木さんからのファクスがまた会社勤め人間のやるせなさを感じさせてどこか切ない。
 本書にはさまざまな古い本——ミステリーであったり寓話であったり——がふんだんに引用されていて、それがまた興味をそそる。引用される物語じたいがおもしろいと同時に、何度も「彼」のなかで反芻されてこの小説の大きなモチーフの一織をなす。
 異国に暮らす孤独な「ためらいの人」の主人公は作家が生んだ、現代社会へのアンチテーゼだ。このような知性のありかたを好ましく思ういっぽう、その「踏み出せない」彼岸への一歩を「彼」はどのように運ぶのだろう、と不安を感じもする。何の起伏もなく淡々と綴られるかのような小説だけれど、きちんと起承転結、いや、起と結はある。
その「結」に一風の爽やかさを感じるのはわたしだけではあるまい。
 とぎれのない上品で知的な文体は全編アフォリズムにあふれていて、どこからでも引用可能なほど、深い人間洞察に満ちている。
 作家とともにゆったりとした思考の時間を分かち合いたいなら、この小説はお奨め。ぜひ熱い珈琲を飲みながらどうぞ。クレープも添えて。

積読本の中に埋もれていた『反=理論のアクチュアリティ』

2005年08月20日 | 読書
 積読本を入れた引き出しをあけて「そろそろちょっと整理しようかな」と何気なく何冊か手に取ってパラパラと読んでみた。読み始めるとつい引き込まれるのだが、なにせ時間がないし、今同時に3冊の本を並行して読んでいるからこれ以上読書はできないのだ。

 その中の一冊に『反=理論のアクチュアリティ』があった。これは大学の同級生馬場靖雄くんが編者になっている本だ。そういえば読んでなかったわ。彼はルーマン研究者で、彼から寄贈された大部な『社会の芸術』もまったく手付かずだ(ごめんなさいごめんなさい)。

 して、その『反=理論』の目次を見ると、馬場さんの名前の次に、先ごろからなぜか話題の北田暁大氏の名前があるではないか。「へー」と思ったので、ついでだわ、と馬場・北田両氏の論文だけ読んでみることにした。あ、フーコー論があるから、園田氏のも読もう。

 馬場論文は社会学理論についての論考。メタ社会理論はものの言い方がおもしろい。しばしば社会システム論は理屈ばかりに走って実証との接点を忘れていると批判されるが、馬場さんはそれに応えてこう言う。

「この本の内容はどんな現実性をもっているのか」との疑問に対しては、「あなたがこうしてこの本を読んでいること自体が、われわれの発話が現実に存在し、現実性をもっていることの証である」と答えておこう。(まえがきより)

 そして、馬場論文の結語は次のように語られる。この結論はなんだかおもしろいというか、よく「わかった」んだけど、そこに至るまでのゲーデル的脱構築だの否定神学だのという哲学概念の操作がけっこう長い。

+++++++++以下、p32より引用++++++++

 かくして社会学理論は失敗することによって、すなわち社会に関する普遍的な言説として流通・浸透し損なうことを通して、自分自身に抵抗しつつ自己を貫徹する。社会学理論が現代社会に対して「批判的」な機能を担うのは、この点においてである。つまり社会学理論は、コンスタティヴな内容においてではなくパフォーマティヴな効果において、現代社会が単一のパースペクティヴからは把握されえないことを、また特定の「価値」「規範」によっては統一されえない分裂した存在であることを、示すわけだ。したがって、もはや理論の内容に準拠して批判的な理論とそうでない理論とを弁別することはできない。社会学理論はその位置価(Stellenwert)そのものによって「批判的」たらざるえをえないのである。
 ただし正義の場合と同様に社会学理論も、失敗を目的としてはならない。あくまで普遍的に語ることをめざしつつ、結果として失敗しなければならないのである(もちろん、こう述べること自体を含めて)。したがって、二重の目隠しが必要になる。ルーマンがよく用いる言い回しをパラフレーズするなら、社会学理論は見てはならないということを見てはならないのである。

++++++以上、引用ここまで+++++++++

 馬場さんはmixiに参加されていて、つい先日友達リストへの招待が来た。「馬場靖雄」っていうコミュニティもあるんだ、初めて知ってしまった。

 この論文を読んで東浩紀『存在論的、郵便的』のことが少し理解できたのが収穫。それにしても理論社会学って難しいね。こんなの毎日やってたら眉間に皺が固まって日本海溝みたいになっちゃうよ(^^;)。


 さて、次は北田暁大論文「政治と/の哲学、そして正義」。これはアメリカのプラグマティストでありリベラリストであるリチャード・ローティに関する論文だ。そういえば北田さんは『嗤う日本の「ナショナリズム」』でも最後にローティを取り上げていたな。宮台真司がローティを持ち上げることに批判的な目を向けていた。

 北田さんのローティ批判は一言でいえば、「ローティは自国文化第一主義者であり、彼がいうところの「文化左翼」にほとんど言いがかりのような批判を加えている」というもの。

 ローティがいうところの「文化左翼」とは「カルチュラル・スタディーズ、フェミニズム、ポストコロニアリズム」を指すらしい。そういえば、ミヤダイが嫌いなのもこの三つだ。

 ローティは、文化左翼どもが哲学の世界で形而上学の理屈をこねていればいいものを、政治に口出しし、しかも哲学が政治より上等なものであるかのように言いふらすことが気に入らないらしい。

 けれど、北田さんに言わせると、ローティが指し示すところの「文化左翼」なるものがそもそも的はずれであり、文化左翼を批判する基盤たる彼自身の哲学=プラグマティズムもまた《思想なき思想》に他ならないのに、自分のプラグマティズムについてはその危険を顧みることはしない。

 「本質はない、というのが本質だ」と語る「文化左翼」は本質主義に陥っている、というローティの批判じたいは正しい。というか、傾聴に値するだろう。ローティがやり玉にあげる反本質主義者は、サルトル、ド・マン、デリダ、ラクラウ=ムフ、ラカン、リオタールなど。

 ローティは自分が信仰するラディカル・プラグマティズムだけは「反本質主義の罠」に落ちていないという根拠のない確信を抱いているらしい。それはつまり、アメリカ式立憲民主主義が最も素晴らしいとする根拠のない信仰と同じだ。


 さて、三つ目の論文「行為としてのフーコー」(園田浩之)について。
 「フーコー主義社会学」なる言葉あるとは知らなかった。言説分析である社会構築主義のことは以前本を読んだから知っているけど、そのときに「フーコー主義社会学」なんて書いてあったかしらん?

 なになに、ラカン派からのフーコー批判とそれへの反批判? ふーむ、「郵便的」ねぇ、また出てくる、「否定神学」。とまあ、ちょっとそそられる内容ではあるのだが、時間がない。これはかなり理屈っぽい話で、わたしが読みたいと思っているフーコーとは違うみたいなので、今回はとりあえずパス。すんません、また今度。

 ※本書の収録論文を挙げておく。

◆二つの批判、二つの「社会」 馬場 靖雄著
◆政治と・の哲学、そして正義 北田 暁大著
◆規範のユークリッド幾何学 竹中 均著
◆社会的世界の内部観測と精神疾患 花野 裕康著
◆行為としてのフーコー 園田 浩之著
◆社会における「理解可能性」と「理解不可能性」との循環 表 弘一郎著


 近いうちに積読本のリストを作ってみよう。いっとき100冊を超えていたのだが、ちょっと減ってきたし、これからは積読本は50冊以内に抑えるように心がける。とゆーか、皆無にしたいもんやわ。最近はとんと本を買わなくなって、ほとんど図書館で借りるようにしているんだけど、それでもジワジワ増える。ときどき在庫一掃やって、古本屋に売り飛ばしたり捨てたりうちの図書館に寄付したりしているんだけど。やれやれ。

<書誌情報>
 
 反=理論のアクチュアリティー / 馬場靖雄編. -- ナカニシヤ出版, 2001

『ホモ・サケル』とは聖なる人間 : 読書メモ(1)序章と第1部

2005年08月14日 | 読書
 ギリシャ人の2つの「生」

 ひとつは「ゾーエー」zoe ……人にも動物にも共通の「単に生きている」という事実を指す。
 ひとつは「ヴィオス」vios ……個体や集団に特有の生きる形式、生き方を指す。

 「人は善く生きるために存在する」(アリストテレス)

 アリストテレスは人間を政治的な生き物と定義している。

 フーコーは『知への意志』(『性の歴史』第1巻)の中で次のように述べている。

「人間は数千年のあいだ、アリストテレスにとっての人間のままだった。つまり、生ける動物に政治的な実存の能力を加えたもの、である。近代の人間はというと、政治において、生ける存在としての自分の生が問いただされる動物なのである」

 アガンベンは序章において、自らがフーコーの後継者であることを宣言する。フーコーが『監獄の誕生』においてふれなかった、あるいはふれることができなかったのは「収容所」の問題である。

 本書の狙いは三つ。(監訳者あとがきより)
1.主権権力はもともと例外状態を維持しようとするものだということ
2.例外とされ排除される聖なるもの(ホモ・サケル)は宗教にではなく政治にかかわるものだということ
3.政治の領域が拡大されるにつれてその例外はいたるところに姿を現すようになるということ

第1部「主権の論理」
 カール・シュミット『政治神学』(原著1922年、日本語訳1971年未来社)からの引用が続く。

「主権者は、法的秩序の外と内に同時にある」

 「一般」を説明するためには「例外」を説明するのがよい。例外は実定法を超越する一つの要素である。

 例外化とは一種の排除である。

 ノモスとピュシス

 ノモスの定義がよくわからない。
 ノモスとは「世俗的秩序」とか「法・習慣」と訳されるようだ。アガンベンはしかし、そこにもっと多義的な意味をもたせている。

 ピュシスは「自然で本性的な秩序」とか「聖なる秩序」と訳されるケースがある(ネットでの検索の結果)が、やはりアガンベンはプラトンその他を引用しつつ、この語に多くの意味を含ませている。
 
 プラトンの関心はピュシスとノモスの対立ではなかった。

 主権者とは、暴力と法権利のあいだが不分明になる点であり、暴力が法権利へ、法権利が暴力へと移行する境界線だ(p50)

 アガンベンは「逆接」を強調する。それは意図と結果の乖離という言葉を思い出すように、社会学の出発点たるヴェーバーの視点と同じだ。
 

 4.1 
 
 アガンベンはカフカの説話「法の前」を引用する。法の門は開かれているのに、農民はそこへ入ることができない、という例のあれだ。大澤真幸さんが『文明の内なる衝突』で引用していた(たぶん。『自由を考える』だったかな?)。

+++++以下、p76より引用++++++

 カフカの説話は法の純粋な形式を露出していると言える。その形式をとることで法は、もはや何も命ずることがないということで――すなわち純粋な締め出しとして――最大の力で自らを肯定する。農夫は法の潜精力へと引き渡されるが、それは法が、農夫からは何も求めず、法自体が開かれてあるべしということ以外の何も厳命してはいないからだ。主権的例外化の図式にしたがえば、法は農夫に対し、自らを適用から外すことで自らを適用し、法の外に農夫を遺棄することで、彼を法からの締め出しの内に保つ、と言える。開かれた門は農夫だけに向けられたものだが、この門は農夫を排除することで包含し、包含することで排除する。これこそがあらゆる法の最高の頂点であり、第一の根源である。『審判』で司祭が法廷の本質を「法廷はおまえからは何も欲していない。法廷はおまえが来るときは迎え入れ、おまえが立ち去るときには行くにまかせる」と要約するとき、彼が言い表しているのは、ノモスの本来の構造である。

++++++++引用ここまで++++++++

 アガンベンの「法の門」解釈はおもしろい。農民は法の門からついに閉め出されるのだが、それはひょっとしたら彼の複雑な戦略ではなかろうかというのだ。つまり、結果的に法の門は閉まってしまうわけで、門の効力を断ち切る結果をもたらしたのだと考えられるではないか。門は彼のためだけに開いていた。そして農夫は門前でのたれ死ぬことによって門を永久に閉めさせた。彼は法の力から自由になったのだ。
 「あまりに開けているがゆえに入ることを許さない門に適した唯一の戦略である」(p86)。

 国家の終わりと歴史の終わりとを、一方を他方に抗して動員することで同時に思考できる思考だけが、今日、思考の務めにふさわしいものだろう。(p92)

 第1部章末「境界線」という節で、アガンベンはベンヤミンの『暴力批判』に言及する。

 法権利と暴力の結びつきを保持するもの、それが「剥き出しの生」である(@ベンヤミン)。

 ここまできてやっとアガンベンは本書の主題らしきことを言う。もう100頁近いよ(T_T)。

+++++++以下、p99-100より引用++++++

 生の聖なる性格という原則は我々にはまったく馴染みのものとなっており、我々は次のことを忘れてしまっているようだ。すなわち、我々が倫理的-政治的概念の大部分を負っている古代ギリシャにはこの原則は知られていなかったばかりか、我々が「生」というただ一つの語で差し示している意味上の圏域を、その複雑さをもたせたままで表現する語も古代ギリシャにはなかった、ということである。ゾーエーとビオスの対立、生きることと善く生きることの対立(つまり、生一般と、人間特有の生の様式との対立)は、たしかに西洋の政治の起源にとっては決定的である。

 ………
 人間の生はいつどのようにして、最初に、それ自体聖なるものと見なされるようになったのか? …… 主権において例外かされ補われているのは何なのか? 主権的締め出しの保持者とは誰なのか? ベンヤミンもシュミットも、やりかたは互いに異なるが、生(ベンヤミンのいう「剥き出しの生」、シュミットのいう「反復するうちに錆びついてしまった機構の外皮を破る…実効的な生」)を、例外において主権と最も密接な関係をもつ要素として指し示している。この関係をこそ、いまや明らかにしなければならない。

++++++以上、引用++++++++

 はぁぁ~、やっと本論です。疲れたので続きはまた今度。次はいよいよ第2部「ホモ・サケル」。ここまで読むのにどんだけ苦労したか(大汗)。


◆目次◆

第1部 主権の論理
 1.主権の逆説
 2.主権者たるノモス
 3.潜勢力と法権利
 4.法の形式
 境界線


<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

山田詠美にはまる

2005年08月13日 | 読書
 ああぁ~、またまたとみきちさんにそそのかされてしまった!
 この人のお奨め上手にはいつも完敗でございまする。もうあなたのいいなりよっ、てな感じ。



 ぼくは勉強ができない。と宣言して周りの好意的笑いを受けてしまう、とってもナイスな高校生が主人公。秀美とうい名のハンサムボーイはシングル・マザーの美人ママと好色なおじいちゃんと3人で暮らしている。この3人が3人とも浮世離れしていて、こんな人たちが一つ屋根で暮らしていたらほんとうに楽しいだろうなと思わせる。

 およそありえそうもない人々のおしゃれで洞察力鋭い会話には脱帽。リアリズムなんてまったく感じられない小説なのに、描かれていることは「人生の真実」だ。秀美は高校生らしからぬ老成した観察力をもって自分の周りの人間を見ている。

 「とみきち読書日記」で最初にそそられたのはこの本のほう。「A2Z(エイ・トゥ・ズィー)」

 「とみきち読書日記」のコメント欄で

とみきち「恋愛中に読むと、とっても良い、と友達が言ってました」
ピピ「わっかりましたぁ! 早速恋します。」
とみきち「んも~~~っ、言うことなしのベストなリアクション!」

 というようなやりとりがあって図書館で借りた。とみきちさんからは「では早速恋したんですね」というレスがあったが、……その件についてはコメントを差し控えさせていただきます(笑)。そんなおいしいことがあればここに書くってばっ(~o~)。

 この小説を読む前に『ぼくは勉強ができない』を先に読んだほうがいい。同じ人物が登場するからね。そう、ぼく=秀美くんのいかす母親、仁子が出てくるのである。この物語は仁子の同僚の恋物語。

 35歳という微妙な年齢の女性編集者とその夫、どちらも婚外恋愛中。夫婦は別々の出版社に勤務し、二人が同じ作家を担当することもあるというライバル同士。そんな夫一浩には一年前から若い女がいた。妻夏美に恋人の存在を告げて家を出て行く一浩。しかしこの二人、なぜか全然深刻にならない。夏美は夫の浮気を知って泣くけれど、どこか醒めている。おまけに自分まで10歳年下の恋人を作ってしまう。

 さて、この夫婦のダブル不倫はどうなるのでしょう。AからZまで、26文字で人生のすべては描ける。その26文字を使ってそれぞれを頭文字に26の単語を紡いで夏美の気持ちを描いていく。山田詠美、すごいです。こんなに軽快でわたしにフィットする文体は久しぶりだ。物語は少しずつ時間を飛ばして先に進む。そしてほんのちょっと時間を戻る。この往還がまったく断絶なしにすっと挿入されるあたり、とっても映画的な小説だ。

 「不倫」だなんて、だれが倫理を決めたの? 不倫だなんていいたくない、これは恋なの。彼はわたしの恋人。そう言う夏美は、まるで十代の女の子のようにはじけた恋をする。あまりにもあっけらかんと明るく楽しく胸を焦がす恋には、ちょっと恥ずかしくなってしまう。さすがにわたしぐらいおばさんになってしまうと、こういう恋は感情移入が難しい。むしろ、夫婦の絆とはなんだろうと考えさせる部分のほうがずっと感情同化がたやすい。

 山田詠美はけっこう説教臭かったり哲学臭かったりするのだけれど、それを日常レベルの言葉で深く考え、感覚を鋭くえぐっていくから、読者にはぐさぐさくる。恋に恋するような有頂天の恋。その最中であってさえどこか醒めている夏美という知的で美しい女性のまなざしが眩しい。

 そして、作家が編集者の言葉を借りて読者に語りかける小説への愛。ここにも胸が熱くなるものがある。

 こんなに素敵な小説を薦めてくださったとみきさんに感謝!
 小説の内容詳細はとみきちさんのブログをお読みください。心に響くセリフが引用されていて、しみじみします。

<書誌情報>

 
ぼくは勉強ができない / 山田詠美著. -- 新潮社, 1996. -- (新潮文庫 ; や-
34-6)

A2Z / 山田詠美「著]. -- 講談社, 2003. -- (講談社文庫)

『奇跡を起こした村のはなし 』

2005年08月12日 | 読書
奇跡を起こした村のはなし ちくまプリマー新書
吉岡 忍著 : 筑摩書房

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 過疎に悩むどこの村落にとっても夢のような奇跡を起こし、村づくりに成功した新潟県黒川村の半世紀の歴史。
 2度の大水害、毎年の雪害に苦しめられた寒村がどのようにして村営畜産場や村営ホテルを4軒も持つ村へと発展したのか。どのようにして農業と観光で「立国」していったのか、ルポライター吉岡忍は村長を始めとした村の人々へ丹念にインタビューしていく。
 かつて農閑期には出稼ぎで男がいなくなった黒川村は、今では誰も出稼ぎに出たりしない。村営ビール園や村営畜産団地、村営ホテル、村営そば屋、村営スキー場、それらで働く村職員たちが大勢いるからだ。
 なにもかも村営でやってしまった「社会主義村」のリーダーは31歳で村長になって以来48年間この村をひっぱり続けた伊藤孝二郎。人跡未踏の荒野を沃野へと切り開く進取の気性に富んだバイタリティあふれる伊藤は、長生きして永遠に黒川村のリーダーであり続けると思われていたが、2003年癌に倒れ、今は銅像となって村営ホテルの前に立っている。
 村長になるやただちに若者たちに村営住宅を与え、集団農場を経営させた伊藤はまるで社会主義者ではないか(伊藤は左翼嫌いだが)。そのカリスマ的な存在感が他を圧倒したのは、単なる意気込みのせいだけではない。徹底的に情報を集め、政府の助成金・補助金をあらゆる方途で引っ張り出し、コネは大事にし、調査研究を怠らず、若者は次々に海外へ研修に送り出すという、大胆にして緻密な計画立案実行能力があったゆえんだ。
 黒川村の物語は成功譚だが、疑問もいつくか残る。山を削ってスキー場を作ったり次々と開発の手を休めることなく進めていったのは環境破壊につながるのではないのか? 植樹祭などは、天皇制に反対する人たちからいつも批判されているが、今生えている樹を伐採して土地を切り拓き道路を作りさんざん自然を破壊しておいて、そこに天皇が植樹するというまったくナンセンスな行事だ。
 じっさい、ダム建設計画には県内のNGOから批判が出たということが本書にも少し触れてある。だが、本書のトーンは全体として伊藤村政がバラ色だったように読みとれるのだ。一方でその紙背には、常に新規事業を開拓し続けてきた伊藤村政の自転車操業のような危なっかしさが隠されている。
 伊藤村長は「高度経済成長」という魔物を相手に村を疲弊から救うべく戦ってきたというけれど、実際にはその高度経済成長に助けられた面もずいぶんある。一村社会主義はまわりを帝国主義陣営に取り囲まれ孤軍奮闘したが同時に高度経済成長というもののおかげで黒川村は観光客を呼び込み繁栄したのだから。
一代目はしゃにむに努力して苦労する。その成果があがればそれでよし。問題は2代目3代目だ。伊藤村長亡き後、黒川村はどうなるのだろう。
あと、本書にはまったく書かれていないが、この村役場には労働組合はないのだろうか。ここの職員たちはみな異様によく働く。あきらかに労働基準法違反だ。いくら仕事が楽しいからといっても、これではちょっと問題があるのではなかろうか。伊藤村長以下、粉骨砕身して努力している姿には頭が下がるが、それを真似できない人だっているだろうに、と思ってしまう。
 この本を読むと猛然と黒川村(あ、もう市町村合併で胎内市になってしまった)に行きたくなる。いつかきっと行こう。と思う。


書評について

2005年08月05日 | 読書
 葉っぱ64さんのブログ「千人印の歩行器」を起点として「双風亭日乗」(双風舎の社長兼編集長のブログ)で「書評」をめぐって熱い書き込みが続いた。双風亭さんの真摯なご意見はまことに傾聴に値するものであり、そこにはわたしも書き込みをしたので、ここでもとりあげたい。
1回目http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050801/1122847467

2回目http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050802/1122925627

これは北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』に対する批評がいかにあるべきかということをめぐって双風亭ことleleleさんが書かれたコメントだ。

「書評とは、本来は「作品には作品を」で批評し合うべきものを、それが物理的に困難な場合に、評者の側が「作品を書く」という行為をショートカットして、「作品」の代わりに提示するものなのだと思うわけです」
「評する側は、いつも安全地帯にいて、何でも書ける神様の視点を持っています。たとえば、誰かが北田さんの出自を「想定」して書くこともできる。北田さんの世代がどうだからと、一般化して書くこともできる。それが事実であろうとなかろうと、何でも書けてしまうのです。「作品」の範囲に踏みとどまらずに、神様の視点で書きたいことが書かれたものを、ここではカッコつきの「書評」としておきましょう。」

 これは、わたしや梶ピエール(kaikaji)さんの北田評への批判であるわけだが、全文は直接leleleさんのコメントとそれへのわたしや梶ピエール(kaikaji)さんのレスを読んでいただきたい。leleleさんは意を尽くして長文を書いておられるのに部分的に引用すると誤解を生むので、できるだけ全文を読んでいただきたいが、これは編集者としての著者への愛があふれたほほえましいものであると同時に、かなり厳しい「書評者への注文」でもある。

 わたしには本を評論するだけの力量が自分にはないとわかっているので、自分の書くものが書評だとは思っていない。単なる読書感想文だ。bk1に投稿するものもほんとうは読後感想文なんだけれど、bk1が「書評」だと称するからこちらもやむなく「書評」と呼ぶが、あれは本来の意味での書評ではない。

 どうせ素人が書くものだからと高をくくってブログに気楽に書き飛ばしているわけだが、それに対してleleleさんは苦言を呈しておられる。葉っぱ64さんが素人書評について「あくまで自分語りに終始して著者のレスを期待しない閉ざされた空間」だとおっしゃる定義にわたしも与するが、leleleさんは

「いくら自分で「閉じている」と信じていても、勝手に開くこともあり得ます。
 したがって、「無垢性」や「閉じている」ということを、いくら共通の前提にしようとしても、それらが無視されたかたちで、ネットに書いた文章は流通していくことになろうかと思います。
 なかでもやっかいなのが、「無垢性」です。書評で稼いでいないからとか、限られた人しか読まないから、自分たちは間違っていない(たとえ間違っていても免責される)、と信じてしまうことです。自分が正義だと思い込んだ人ほど、いいことをしていると思っていながら、他人への思いやりが欠けてしまったりするのが世の常。」

と書かれている。これはなるほど、と思った。確かにわたしのブログなんて読んでいるひとは限られているだろうし、どうせ著者も読んでないよ、と思っているが、それでも書いたことが一人歩きする可能性はゼロではない。もちろん自分では品位と節度をもって書いているつもりだが、つい筆がすべることもあるだろう。
 そういうときには、leleleさんの言葉を戒めにしたいと思う。

 褒めるのは簡単なのだが、けなすのはむずかしい。けなすだけならともかく、「批判」しようと思うと意を尽くすためには長文を書かねばならなくなる。それをするということは逆にいえばそれだけその作品に「愛」を感じているからだ。まったく一顧だにする必要もないようなもののことはそもそも取り上げて書いたりしないものだ。

 leleleさんにもコメントしたが、素人評者(ブロガー)にあまり厳しいことを要求するとかえって萎縮してしまう。そこは批判されている著者のほうも雅量をもって読んでね、と思う。もちろん書き手に自制心や節度を求めるのも当然だが。悪罵だけの文章は読んでいて気分が悪くなる、確かに。

 「神の視点で書かない」というリテラシーをleleleさんに教えられた。批判というのは難しい。著者が渾身を込めたものを批判するならこちらもそれだけの覚悟がいるのだろう。映画評もしかり。しかし、映画のときはけっこうボロクソに書いてるな、わたし。

80年代論、90年代論(2)

2005年08月01日 | 読書
 本書はエロ漫画編集者であった大塚英志の徹底的に個人的な回想録なのだが、自分のことだけを語りながら80年代という時代を浮かび上がらせていく手腕は見事だ。

 内容詳細はbk1の書評に詳しい紹介があるのでそちらに譲るとして、感想を手短かに。

 漫画家や漫画のタイトルなど固有名詞が頻出するので、それらの作品に通じていなければ読むのが苦痛になる部分があり、そのため本書を読むのは時間がかかった。

 だが、彼は時代を見通す鋭い目をもっている。昭和天皇危篤のおりに、平癒祈願の記帳に並んだ若者をどう評価するのか? その中の一人であった彼自身の語る言葉には説得力がある。いわく、あのとき記帳にいった若者達はじつは天皇について語る言葉も持たず、その語り方すら知らなかった。だからこそいま、巷に溢れるナショナリズムは天皇抜きなのだ、と。

 若者達は昭和天皇に他者性を喪失した親近感を抱いていた。天皇は「やさしいおじいさん」なのだ。

 実は本書を読了して既にかなりの時間が経ってしまった。もはや内容詳細は覚えていない、情けないことに。ただ、今後この本は折に触れて斜め読みしたり拾い読みしたりして再読するだろうと思う。

 本書より、北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズム』のほうがスマートで読みやすい。どっちが優れているかといった比較はできないのだが、ないものねだりの我が儘な読者としては、大塚英志と北田暁大を足して二で割ったような本が読みたいと思う。

 しかしやっぱり思うこと。大塚英志氏とわたしは同い年だ。だから同世代として語られてしまうのだろうけれど、違和感が大きい。わたしはいつも世代論には不満なのだ。それはわたしの個人的なルサンチマンに過ぎないが、「わたしの入る余地がない」と感じるからだろう。同世代の人々と違って新人類でもオタクでもないわたしをどう「分析」してくれるのか? どの世代にも入らないわたしのような少数派はどうすればいいのか? アイデンティティの揺らぎと疎外感に苛まれた青春時代の苦い思いがいまだに尾を引いている。

 わたしは大塚さんの「戦後民主主義を信じる」あるいは「戦後民主主義を奉じていくべき」という態度に頑固な好ましさを感じる。戦後民主主義は幻想だ。幻想だけれど、その幻想が役に立つことだってある。幻想であることを宣言しつつ、その幻想を使っていくべきではなかろうか。最近、なんとなくそんな気持ちになっている。


<書誌情報>

「おたく」の精神史 : 一九八〇年代論
  大塚英志著. 講談社, 2004.(講談社現代新書 ; 1703)