全編緊張感に満ちたコメディ映画。この笑いはとても不思議な笑いだ。ダニー・レヴィ監督の笑いはさすが、ユダヤの知性というべきか。実は、わたしは全く笑うことができなかったのだが。
ヒトラーに演説の指南をした教師というのは実在したらしい。ただし、この映画のようなユダヤ人演劇教授ではなく、イタリア人オペラ歌手だったようだ。ヒトラーに演説指導した男がいたという実話だけを頼りに、あとはすっかりフィクションを作ってしまった監督のアイデアに脱帽。しかも、その指導者がユダヤ人という、あろうはずがない設定。
1945年新年の演説を前に自信喪失したヒトラーの自信を回復させるために、演説の指南に抜擢されたのは収容所にいた囚人、ユダヤ人の演劇者アドルフ・グリュンバウム教授であった。この奇想天外な「教授劇」を仕組んだのは宣伝相ゲッベルスだ。いかにもゲッベルスなら思いつきそうなことなので、納得至極。
しかし、ヒトラーの教育を引き受けたグリュンバウム教授は、家族を強制収容所から解放することを条件にしていた。そして、条件通りに教授の家族は収容所から解放される。これがまさに驚き。1944年12月末の時点で家族6人がそろうユダヤ人一家など考えにくい。しかも、一番小さな子どもはまだ5歳ぐらいだ。生きているはずがない。しかしとにかくまあ映画だからこういう設定も許すことにしよう。
グリュンバウム教授は隙を見てヒトラーを殺そうとするが、うまく行かない。それは単にチャンスがないというだけではなく、彼が次第にヒトラーに同情心を持ち始めていたからだ。虐殺者ヒトラーがあのような男になった理由は父親による虐待があったことが理解できてくると、グリュンバウムはヒトラーが恐るべき独裁者ではなく愛に飢えた一人の男に見えてくる。ヒトラーはヒトラーで、すっかりグリュンバウムに心を許したようだ。ありえない、ヒトラーとユダヤ人の心の交流。しかも、極度の緊張感を保ったまま、この関係は数日間続く。果たして元日の演説はどのようなことになるのであろうか?!
この映画は、作者(監督)の存在を抜きにしては語れない、テクストだけで評価することの困難な作品だ。ユダヤ人が作った映画だからこそ、これが「赦し」を描いたものという解釈の可能性が成り立つ、ヒトラーを嗤い、かつヒトラーへの同情心をそそる映画。レヴィ監督は一種の赦し、寛容ともとれる視線をヒトラーに向ける。しかし厳しい見方をすれば、父親に虐待されたという同情すべき過去があったからといって何百万人のユダヤ人を虐殺することが許されることだろうか? そんな父への憎悪を抱いた男(=ヒトラー)がユダヤ人への憎悪を募らせたからといってなぜ同じようにドイツ人たちが民族排斥へと熱狂するのか? 第一次世界大戦後のドイツの疲弊を抜きにしてはユダヤ人への憎悪も排外主義も理解できない。この映画はそういった経済的・歴史的背景を抜きにして、ヒトラーを一人の仕事に疲れた男としてその矮小さを誇張して描く。一人眠るヒトラーの寝台は下品な意匠に彩られ、エヴァ・ブラウンとのベッドインはうまく行かない。そんな惨めなヒトラーを嗤うことでユダヤ人は溜飲を下げるのか、はたまた可哀想なアドルフ!と叫ぶのか。
最後にグリュンバウムがとった行動に、レヴィの答えが示されている。二人のアドルフは二人で一つの仕事を成し遂げた。一方は独裁者としての最後の威信をかけた演説でその断末魔ぶりを曝し、もう一人のアドルフはその演説を「英雄的」に完遂させた。
戦後60数年を経てユダヤ人監督によってこのようなヒトラー像が描かれた、そのことに時の流れを感じる。本作は、ヒトラーをも赦そうとする寛容へと揺れ動くレヴィ監督の迷える心情がはしなくも露呈してしまった、ファシズム批判のコメディ映画である。笑えないコメディである点にわたしの心を揺さぶるものがあるというのは不思議なことだ。
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わが教え子、ヒトラー
MEIN FUHRER - DIE WIRKLICH WAHRSTE WAHRHEIT UBER ADOLF HITLER
ドイツ、2007年、上映時間 95分
監督・脚本: ダニー・レヴィ、製作: シュテファン・アルント、音楽: ニキ・ライザー
出演: ウルリッヒ・ミューエ、ヘルゲ・シュナイダー、シルヴェスター・グロート、アドリアーナ・アルタラス、シュテファン・クルト
ヒトラーに演説の指南をした教師というのは実在したらしい。ただし、この映画のようなユダヤ人演劇教授ではなく、イタリア人オペラ歌手だったようだ。ヒトラーに演説指導した男がいたという実話だけを頼りに、あとはすっかりフィクションを作ってしまった監督のアイデアに脱帽。しかも、その指導者がユダヤ人という、あろうはずがない設定。
1945年新年の演説を前に自信喪失したヒトラーの自信を回復させるために、演説の指南に抜擢されたのは収容所にいた囚人、ユダヤ人の演劇者アドルフ・グリュンバウム教授であった。この奇想天外な「教授劇」を仕組んだのは宣伝相ゲッベルスだ。いかにもゲッベルスなら思いつきそうなことなので、納得至極。
しかし、ヒトラーの教育を引き受けたグリュンバウム教授は、家族を強制収容所から解放することを条件にしていた。そして、条件通りに教授の家族は収容所から解放される。これがまさに驚き。1944年12月末の時点で家族6人がそろうユダヤ人一家など考えにくい。しかも、一番小さな子どもはまだ5歳ぐらいだ。生きているはずがない。しかしとにかくまあ映画だからこういう設定も許すことにしよう。
グリュンバウム教授は隙を見てヒトラーを殺そうとするが、うまく行かない。それは単にチャンスがないというだけではなく、彼が次第にヒトラーに同情心を持ち始めていたからだ。虐殺者ヒトラーがあのような男になった理由は父親による虐待があったことが理解できてくると、グリュンバウムはヒトラーが恐るべき独裁者ではなく愛に飢えた一人の男に見えてくる。ヒトラーはヒトラーで、すっかりグリュンバウムに心を許したようだ。ありえない、ヒトラーとユダヤ人の心の交流。しかも、極度の緊張感を保ったまま、この関係は数日間続く。果たして元日の演説はどのようなことになるのであろうか?!
この映画は、作者(監督)の存在を抜きにしては語れない、テクストだけで評価することの困難な作品だ。ユダヤ人が作った映画だからこそ、これが「赦し」を描いたものという解釈の可能性が成り立つ、ヒトラーを嗤い、かつヒトラーへの同情心をそそる映画。レヴィ監督は一種の赦し、寛容ともとれる視線をヒトラーに向ける。しかし厳しい見方をすれば、父親に虐待されたという同情すべき過去があったからといって何百万人のユダヤ人を虐殺することが許されることだろうか? そんな父への憎悪を抱いた男(=ヒトラー)がユダヤ人への憎悪を募らせたからといってなぜ同じようにドイツ人たちが民族排斥へと熱狂するのか? 第一次世界大戦後のドイツの疲弊を抜きにしてはユダヤ人への憎悪も排外主義も理解できない。この映画はそういった経済的・歴史的背景を抜きにして、ヒトラーを一人の仕事に疲れた男としてその矮小さを誇張して描く。一人眠るヒトラーの寝台は下品な意匠に彩られ、エヴァ・ブラウンとのベッドインはうまく行かない。そんな惨めなヒトラーを嗤うことでユダヤ人は溜飲を下げるのか、はたまた可哀想なアドルフ!と叫ぶのか。
最後にグリュンバウムがとった行動に、レヴィの答えが示されている。二人のアドルフは二人で一つの仕事を成し遂げた。一方は独裁者としての最後の威信をかけた演説でその断末魔ぶりを曝し、もう一人のアドルフはその演説を「英雄的」に完遂させた。
戦後60数年を経てユダヤ人監督によってこのようなヒトラー像が描かれた、そのことに時の流れを感じる。本作は、ヒトラーをも赦そうとする寛容へと揺れ動くレヴィ監督の迷える心情がはしなくも露呈してしまった、ファシズム批判のコメディ映画である。笑えないコメディである点にわたしの心を揺さぶるものがあるというのは不思議なことだ。
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わが教え子、ヒトラー
MEIN FUHRER - DIE WIRKLICH WAHRSTE WAHRHEIT UBER ADOLF HITLER
ドイツ、2007年、上映時間 95分
監督・脚本: ダニー・レヴィ、製作: シュテファン・アルント、音楽: ニキ・ライザー
出演: ウルリッヒ・ミューエ、ヘルゲ・シュナイダー、シルヴェスター・グロート、アドリアーナ・アルタラス、シュテファン・クルト