ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

わが教え子、ヒトラー

2008年10月26日 | 映画レビュー
 全編緊張感に満ちたコメディ映画。この笑いはとても不思議な笑いだ。ダニー・レヴィ監督の笑いはさすが、ユダヤの知性というべきか。実は、わたしは全く笑うことができなかったのだが。

 ヒトラーに演説の指南をした教師というのは実在したらしい。ただし、この映画のようなユダヤ人演劇教授ではなく、イタリア人オペラ歌手だったようだ。ヒトラーに演説指導した男がいたという実話だけを頼りに、あとはすっかりフィクションを作ってしまった監督のアイデアに脱帽。しかも、その指導者がユダヤ人という、あろうはずがない設定。

 1945年新年の演説を前に自信喪失したヒトラーの自信を回復させるために、演説の指南に抜擢されたのは収容所にいた囚人、ユダヤ人の演劇者アドルフ・グリュンバウム教授であった。この奇想天外な「教授劇」を仕組んだのは宣伝相ゲッベルスだ。いかにもゲッベルスなら思いつきそうなことなので、納得至極。

 しかし、ヒトラーの教育を引き受けたグリュンバウム教授は、家族を強制収容所から解放することを条件にしていた。そして、条件通りに教授の家族は収容所から解放される。これがまさに驚き。1944年12月末の時点で家族6人がそろうユダヤ人一家など考えにくい。しかも、一番小さな子どもはまだ5歳ぐらいだ。生きているはずがない。しかしとにかくまあ映画だからこういう設定も許すことにしよう。

 グリュンバウム教授は隙を見てヒトラーを殺そうとするが、うまく行かない。それは単にチャンスがないというだけではなく、彼が次第にヒトラーに同情心を持ち始めていたからだ。虐殺者ヒトラーがあのような男になった理由は父親による虐待があったことが理解できてくると、グリュンバウムはヒトラーが恐るべき独裁者ではなく愛に飢えた一人の男に見えてくる。ヒトラーはヒトラーで、すっかりグリュンバウムに心を許したようだ。ありえない、ヒトラーとユダヤ人の心の交流。しかも、極度の緊張感を保ったまま、この関係は数日間続く。果たして元日の演説はどのようなことになるのであろうか?!

 この映画は、作者(監督)の存在を抜きにしては語れない、テクストだけで評価することの困難な作品だ。ユダヤ人が作った映画だからこそ、これが「赦し」を描いたものという解釈の可能性が成り立つ、ヒトラーを嗤い、かつヒトラーへの同情心をそそる映画。レヴィ監督は一種の赦し、寛容ともとれる視線をヒトラーに向ける。しかし厳しい見方をすれば、父親に虐待されたという同情すべき過去があったからといって何百万人のユダヤ人を虐殺することが許されることだろうか? そんな父への憎悪を抱いた男(=ヒトラー)がユダヤ人への憎悪を募らせたからといってなぜ同じようにドイツ人たちが民族排斥へと熱狂するのか? 第一次世界大戦後のドイツの疲弊を抜きにしてはユダヤ人への憎悪も排外主義も理解できない。この映画はそういった経済的・歴史的背景を抜きにして、ヒトラーを一人の仕事に疲れた男としてその矮小さを誇張して描く。一人眠るヒトラーの寝台は下品な意匠に彩られ、エヴァ・ブラウンとのベッドインはうまく行かない。そんな惨めなヒトラーを嗤うことでユダヤ人は溜飲を下げるのか、はたまた可哀想なアドルフ!と叫ぶのか。

 最後にグリュンバウムがとった行動に、レヴィの答えが示されている。二人のアドルフは二人で一つの仕事を成し遂げた。一方は独裁者としての最後の威信をかけた演説でその断末魔ぶりを曝し、もう一人のアドルフはその演説を「英雄的」に完遂させた。

 戦後60数年を経てユダヤ人監督によってこのようなヒトラー像が描かれた、そのことに時の流れを感じる。本作は、ヒトラーをも赦そうとする寛容へと揺れ動くレヴィ監督の迷える心情がはしなくも露呈してしまった、ファシズム批判のコメディ映画である。笑えないコメディである点にわたしの心を揺さぶるものがあるというのは不思議なことだ。

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わが教え子、ヒトラー
MEIN FUHRER - DIE WIRKLICH WAHRSTE WAHRHEIT UBER ADOLF HITLER
ドイツ、2007年、上映時間 95分
監督・脚本: ダニー・レヴィ、製作: シュテファン・アルント、音楽: ニキ・ライザー
出演: ウルリッヒ・ミューエ、ヘルゲ・シュナイダー、シルヴェスター・グロート、アドリアーナ・アルタラス、シュテファン・クルト

エル・ライブラリー、開館しました

2008年10月22日 | ご挨拶
 昨日10月21日、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)が無事オープンいたしました。わたしは館長(兼レファレンス係兼貸出係兼目録係兼渉外係兼HP管理人兼掃除係その他雑用係)に就任しました。

 大阪府から委託を受けて運営していた大阪府労働情報総合プラザが橋下知事の財政再建策により、年度途中で廃止されたのが7月末。多くの方々に図書館存続のための署名活動にご協力いただき、ありがとうございました。これからもまた一層のご支援をお願いします。寄付をお願いするのは心苦しいのですが、貴重な資料を守り次世代に引き継ぐために、「官が棄てた図書館を民の力で再生させる」をスローガンに頑張っていきますので、なにとぞよろしくお願いします。

 なお、こちらに館長挨拶と設立の趣旨を書いていますのでご高覧いただければ幸いです。館長の写真付き(図書館廃止問題の対応に忙殺され痩せてやつれる前のふっくら顔(^o^))。
http://shaunkyo.jp/info.html

僕らのミライへ逆回転

2008年10月18日 | 映画レビュー
 後ろの席の複数の男性が随所で大声出して笑っていたのがうるさかった。映画館で声を上げて笑うことなどほとんどないわたしにとってはそんなに思い切り笑えることが羨ましい。声を出して笑えない自分が損しているような気分。しかし、たとえ声を上げて笑うことはなくてもわたしは十分この映画を楽しんだ。なにしろ、映画への愛に充ち満ちた映画というのは「ニュー・シネマ・パラダイス」を筆頭としてわたしの涙腺を完全に崩壊させますから。

 今時DVDを置いてないレンタルビデオ屋って、それはなかろう? 自慢じゃないが、拙宅にはとっくの昔に再生機がなくなったので、VHSは見られません。しかし、この映画の舞台はそんな、VHSビデオしか並べていないニュージャージー州の下町のレンタルビデオ屋。ここは都市再開発の波に飲まれて市当局から立ち退きを迫られている。ところが老店長フレッチャーは、「この店は伝説のジャズピアニスト、ファッツ・ウォーラーの生家だ、由緒正しい場所である」と言い張って立ち退きに同意しない。ある日、店長の留守中に店員マイクの友人ジェリーが強烈な磁気を帯びて店にやって来たためにすべてのビデオテープの内容が消えてしまう。店を任されていたマイクは慌てふためき、あろうことか、自分たちで即席のリメイクを撮影してビデオをレンタルしようと思いつく。まずは「ゴーストバスターズ」。窮余の策のこのチープな作品がなぜか客に受けて、店は次回作を期待する客であふれかえり…

 最初から最後までお笑いネタ満載、とにかくこれはどうみてもアドリブでやってるよなぁという当意即妙の丁々発止が感じられる楽しい作品。後でパンフレットを読んだら、思ったとおり、かなりのアドリブが入っているという。ジェリー役のジャック・ブラックが自分のノリで好き放題に演じているところがまったく自然に面白可笑しい。ジェリーが発電所を爆破しようと忍び込んで感電してしまう場面からして面白すぎる。ただ、放射線ネタとか広島の被爆者ネタというのはちょっとわたしには笑えない話ではある。電磁波フォビアを嗤うというくだりは『「買ってはいけない」は買ってはいけない』の論調に近いものを感じる。こういう気になる点を除けば後は全編ひたすら可笑しい。

 旧作のリメイクというからには、その旧作が誰もが知っているヒット作でなければならず、従ってお気楽なハリウッド大作に偏ってしまう。ミシェル・ゴンドリー監督の好みで作品を選んだわけではないとか。この映画には安易なリメイクを繰り返すハリウッドへの皮肉と批判が込められているというが、むしろわたしには映画へのオマージュや愛情が感じられた。CGに頼る大作への批判というのは随所に見られるが、そういう安易なものを求める観客への批判的まなざしも十分感じ取れる。ハリウッドが映画の質を落とすのは観客自身の責任でもあるのだ。

 手作り大好きなゴンドンリー監督は、「恋愛睡眠のすすめ」でも見せてくれたクラフト感をいっそうグレードアップして、手当たり次第の材料を使って映画のセットや美術を作成してしまう。ロボコップの扮装などまさに爆笑ものです。いったいどこから拾ってきたの?という材料を身体中に貼り付けてジェリーがのし歩く姿は圧巻。できればリメイク作全部をゆっくり見てみたいと思った。

 さて、リメイク作で大当たりをとったのはいいけれど、世の中そううまくは運びません。きっちりやってきました、著作権ハンター。「ゴーストバスターズ」にも出演していたシガニー・ウィーヴァーが映画会社のエージェントとして損害賠償請求にやってくるところは皮肉が効いている。「映画の無断リメイクは映画制作者の権利を侵害し…」てなわけで、あえなくリメイクは打ち切りに。

 そこで思いついたのは、自分たちでオリジナルな映画を作ること。それも、町の人々を動員して!

 この、夢のある映画作りの場面が泣かせる。映画好きが集まって手作りで愛情あふれる映画を作る。これぞ映画の原点。こういう、愛に溢れた映画ファンのための映画にはわたくし、弱いです。

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僕らのミライへ逆回転
BE KIND REWIND
アメリカ、2008年、上映時間 101分
監督・脚本: ミシェル・ゴンドリー、製作: ジョルジュ・ベルマン、製作総指揮: トビー・エメリッヒ、ガイ・ストーデル、楽: ジャン=ミシェル・ベルナール
出演: ジャック・ブラック、モス・デフ、ダニー・グローヴァー、ミア・ファロー、メロニー・ディアス、シガーニー・ウィーヴァー

長い長い殺人

2008年10月14日 | 映画レビュー
 ストーリーがしっかりしているのと、「財布」がナレーションを担当しているという斬新さに惹かれて、最後まで面白く見ることができた。原作未読なので、財布がしゃべるという発想が映画独自のものなのかどうかわからないけれど、これはなかなか面白かった。ま、賛否両論あるかもしれませんが。

 元がテレビドラマらしいので、作品は小作りで、登場人物が多い割には大変わかりやすい。演技もテレビ的な分かりやすさ。いくつものストーリーがからまって、偶然が偶然を呼び込み、複雑に絡まった殺人事件が解決していく様はすっきりするので、後腐れなくなかなかよろしい。

 犯人像が「他者の心理につけ込んで思いのままに人を動かす頭のいい悪魔」という設定になっているあたり、かつてのテレビドラマ「沙粧妙子 最後の事件」を思い出させる。わたしはこの「沙粧妙子 最後の事件」が大好きで全巻ビデオで見たものだ。ドラマが気に入ったというよりはどっちかというと音楽が好きだった。このサントラ、欲しいと長年思い続けている。

 閑話休題。さて本作の物語は保険金殺人の謎を私立探偵と警察が解いていくというもの。いくつものストーリーが並行して描かれ、人物が複雑に絡まり合い、探偵と警察の接点はなかなか浮き上がってこないが、最後にすっきりすべてが明らかになる。しかしまあ、思いっきり怪しい男と女がそれらしく怪しい演技をするのがけっこう笑える。

 けっこう長い話だけれど退屈しないので、お仕事に疲れたときの気分転換にはいいのでは。あくまでも、「期待せずに見て、よし」という程度の作品です。(レンタルDVD)

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長い長い殺人
日本、2007年、上映時間 135分
監督:麻生学、プロデューサー: 青木泰憲、土橋覚、原作: 宮部みゆき、脚本: 友澤晃一、音楽: 遠藤浩二
出演: 長塚京三、中村トオル、谷原章介、平山あや、大森南朋、酒井美紀、窪塚俊介、伊藤裕子、西田尚美

トウキョウソナタ

2008年10月13日 | 映画レビュー
 家族の崩壊と再生を描く映画は多い。黒沢清までとうとうそんな映画を作るようになったのか、とちょっとした驚きだった。黒沢清なんだから、普通の映画ではあるまい。確かに、ちょっと普通とは違う。通常のリアリティとは別のところでリアルなものを狙っている、というのはわかる。しかし、どうせならもっと日常から飛び出たすごさを見せてくれればよかったのに、中途半端に日常と非日常の間をさまようような作品を作ったものだから、消化不良で欲求不満に陥る。

 この作品に登場する家族は、働き盛りの父と専業主婦の母、大学生の長男と小学6年生の次男という、ありふれた一家。いちおう一戸建てに住んではいるが、その家は小さく、線路沿いの窮屈な敷地に建つ。どうみても慎ましくも無理して建てた一戸建てという雰囲気が漂ってくる。そんな一家にある日、嵐のような出来事が次々と襲いかかる。父はリストラされて失業。しかし、そのことを家族に告げることができずに出勤するふりをして毎日ハローワークに通う。母はそんな夫のことを知ってか知らずか、閉塞した日常生活に嫌気がさしている様子だが、さりとて彼女にはどこにもここより他の行き場はないのだ。大学生の長男は夜中のバイトに精を出す毎日だが、ある日突然アメリカの軍隊に入ると言い出す。次男は近所のピアノ教室から流れてくる音楽を耳に留め、ピアノを習いたくてたまらず、とうとう親に内緒で給食費を月謝につぎ込む。

 といった、波乱含みの佐々木さん一家。映画の調子はあくまでシリアスにリアルに。しかし、どこか破調のユーモアが漂う。そのユーモアがいい。ところが、役所広司扮する泥棒が現れたところからほとんど荒唐無稽な話へとなだれ込み始める。そもそも長男がアメリカの軍隊に入るだのイラクへ派遣されるだという設定もかなり驚きだが、まあ許すとして、しかし、そんなところでいきなり強盗っていうのはないだろう~? しかも強盗と一緒に逃避行ってか? なんでそんなところで離婚話が。なんでそこで交通事故が。なんでそこで警察だの留置場だのが…などなど、たった一つとっても普通の家庭にはそうそう起こりそうもない(しかし、一つ一つは別に珍しくもない)事件が一晩のうちに起きる。

 家族を再生させるという物語のためにはそこまで非日常的な事件をいくつも重ねる必要があったのだろうか? そんな極端な設定がなければ家族はやり直せないのか? いっそ、筒井康隆ふうの荒唐無稽な話を雪だるま式に転がしていくようなホームドラマだったら納得できたのに、中途半端にリアルなものを狙っているから、<一夜の嵐>に唖然としてしまう。

 とはいえ、実はラスト間近のクライマックスシーンでは思わず知らず涙が出てしまった。人はそれぞれの欲望に正直に生き、それぞれの身の丈にあった生活を慎ましく生きていれば、きっと何かいいことがある。それにしてもピアノの天才児などというのはそうそう存在しないものだから、これはやっぱり夢物語。この映画でいちばんリアリティがあったのは夕餉だ。ごく普通の家庭料理が並ぶ夕食は実に美味しそうで、家族が食べる料理がきちんと作られている場面を見るとほっとする。家族が一つの食卓を囲んで食べる場面は家族再生のもっとも象徴的な場面である。

 それにしても、もはや父の権威など地に落ちた今、父はその権威の座から降りて正直に一人の家族として懸命に生きる姿を家族にさらすほうが幸せなのだ、とこの映画は語っている。今、家族を再生させるものは父の権威ではなかろう。さりとて、家族原理を何に求めるのか、その答えは判然としない。この映画はそれをただひとつ、「一家で囲む夕食」という単純な結論へと導いた。さて、この結論をこのまま素直に受け止めるべきか、それとも黒沢清一流のアイロニーと受けとめるべきか…。

 この映画の中ではいくつかの権威が失墜し、造反が行われる。それは教師の権威であったり父親の権威であったり上司の権威であったり。そういった諸々の権威の失墜の後に音楽の才能という、本人の努力に関係のない(こともないけど)生まれながらの能力が一家に新しい幸せをもたらすというのはいかがなものか。せっかく失墜させた権威なのだから、これからは権威に頼らず皆で心を合わせてささやかな努力をすべきではなかろうか。権威の次は天才。夢があっていいと言うべきか、そのようなほとんどの人々にとって可能性のないものにすがることは新たな悲喜劇を生む素であると見るべきか…。ま、わたしも思わず感動してしまったから黒沢監督の術中に嵌ったと告白すべきか(^_^;)。


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トウキョウソナタ
日本/オランダ/香港、2008年、上映時間 119分
監督: 黒沢清、プロデューサー: 木藤幸江、ヴァウター・バレンドレクト、エグゼクティブプロデューサー: 小谷靖、マイケル・J・ワーナー 、脚本: マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子、音楽: 橋本和昌
出演: 香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、井川遥、津田寛治、児嶋一哉、
役所広司

イントゥ・ザ・ワイルド

2008年10月12日 | 映画レビュー
 上映前の予告編で「P.S.アイ・ラブ・ユー」がかかっていた。思わず泣いてしまいました。「泣ける予告編」その1。絶対見よう~っと。「泣ける予告編」特集でもやってみたら面白いかも。で、思い出してみたら、予告編で泣いたのは「戦場のアリア」。他には何があったかな? そのうち予告編特集やってみます。

 して、本作の予告編を見たときには、てっきり引きこもり青年が世をはかなんでアラスカまで行き、生きる気力をなくして餓死した話だと思っていたのだが、さにあらず、本作はむしろ、知り合う誰からも愛される礼儀正しく知性あふれる青年が、アラスカへと冒険旅行に出て、当然にも帰還するはずであったものが自然の罠にはまってかなわぬこととなったというノンフィクションであった(考えてみれば、引きこもり青年がアラスカへ行くはずもなく…。「幸せの1ページ」じゃあるまいし)。

 などと書いてしまうともうすっかり映画のすべてを語ったような気になるが、本作の豊かなディテールと美しい映像には映画ならではの力があふれていて、とても言葉では尽くせない。

 青年の名はクリストファー・マッカンドレス。彼はハーバードのロースクールに入学可能なほど優秀な成績で大学を卒業したにもかかわらず、エリートコースに乗ることを拒否し、文明を否定して放浪の旅に出る。彼が求めたものは究極の自由だった。しかし、究極の自由は究極の孤独であることを彼は死を目前にして知ることとなる。いや、結末を急がずに彼の旅の跡をたどってみよう。

 この映画の原作はジャーナリストのジョン・クラカワーが書いたベストセラーノンフィクション『荒野へ』だ。クリス青年がアラスカの山中にうち捨てられた廃車バスの中で餓死していた事件を徹底的に調べたクラカワーがクリスの2年の放浪の旅について書いた本を読んだショーン・ペンがいたく感動し、映画化権を買い取って10年がかりで撮り上げたという。ショーン・ペンの並々ならぬ力が入った作品で、長さを感じさせない見応えたっぷりの作品となった。撮影監督に「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエリック・ゴーティエを起用したのが大正解。アメリカ大陸各地の雄大な風景、人物の接写、その切り返しの見事さには舌を巻く。

 物語は、アラスカの山野に廃屋のごとく見捨てられたバスをふとした偶然で見つけたクリスが、「魔法のバス」と名付けてそこに住み着く<現在>と、その3年近く前、放浪の旅に出る直前の<過去>の二つの時制を行き来する。その物語を繋ぎ、クリスの生い立ちを語るのが彼の妹カリーンの独白。クリスとカリーンは仲の良い兄妹だったが、そのカリーンにすら何も連絡することなくクリスは放浪の旅に出る。クリスが人並み外れて知性高く、それゆえか、繊細な感性を持ち、高い倫理観に自他を縛って世捨て人のようになったその要因は両親の不仲にあったようだ。

 クリスは貯金を全額救貧事業に寄付し、クレジットカードを切り刻み有り金をすべて焼き払い、リュックサック一つを抱えて旅に出る。後はアウトドア青年の放浪の旅よろしく、彼はアメリカ大陸を東へ西へ南へとヒッチハイクし、最後は北へと向かう。その途中で彼は様々な魅力的な生き方をす実践する自由人たちと出会う。ある時は農場でアルバイトをし、ある時は町に出てハンバーガーショップで働き、ある時はカヤックを漕いで激流を下り、ある時はメキシコへと国境を越える。カメラは、あらゆるところに出没するクリスの姿をゆったりと捉え、真面目で誠実なクリスの人柄を追い、彼を愛してくれる通りすがりの人々をも魅力的に映し出す。

 クリスは本名を棄て、アレクザンダー・スーパートランプと名乗って旅を続ける。出会う人々に「アレックス」と愛称されるクリスは、最後の目的地アラスカへと到達した。ここで格好の住処、朽ち果てて錆だらけになったバスを見つけたクリスは、狩猟と植物採集で飢えをしのぎ、2ヶ月以上を過ごすが、やがて山を下りることにした。しかしそれは思わぬ障壁に出会ってかなわぬこととなる…。最期の時を迎えつつあるクリスが思ったことは何か。彼が最期に書き残した言葉は…



 晴耕雨読ではないけれど、クリスは常に本を持ち歩き、暇があれば本を読んでいた。彼の愛読書はトルストイ、W・モリス…。いかにもロハスなインテリが好みそうな本を抱えて、いかにもアウトドア青年がやりそうな放浪の旅に出て、いかにも自由人が出会いそうなヒッピーのカップルと知り合って、いかにもありがちな都会人の罠に嵌って最後はアラスカの大自然に厳しく見放される。こう書いてしまうと、無謀な計画の果てにあたら若い命を散らせた浅はかな青年の冒険譚のように聞こえるが、この映画はそうではない。クリスは本当に愛らしく魅力的な青年であり、ショーン・ペンはそんな彼に限りない愛情を注いで描くため、わたしたちは彼の足跡をたどるうちに、愛すべきクリスと比べて自らの立ち位置について内省を迫られてくる。わたしは彼のように真剣に生きてきただろうか? 彼のようにすべてを投げ打って何かに賭けるほどの若さがかつてあっただろうか? もはやそのような若さをすっかり失った今、彼のような自由と孤独をわたしは羨むだろうか?

 人は、前向きに生き、懸命に努力してもなお、ほんのささいなことで躓き、命さえ失ってしまうことがある。クリスの生と死にはそのような悲哀と皮肉がある。これは、アラスカを甘く見た軽率な一青年が生還に失敗したお話として教訓化しましょう、という映画ではない。画面いっぱいに映し出された最期のクリスの瞳に、懸命に前を向いて生きた充実感と挫折感があふれ、わたしたちは、「生きる」とはそのようなことであると知る。

 心にしみるカントリー音楽が全編を貫くこの映画を見終わり、クリスとともに2時間半を生きたわたしは、彼の人生の意味をかみしめて劇場を出た。しみじみと、もう一度見直してみたくなる作品。ぜひ映画館で見て欲しいです。

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イントゥ・ザ・ワイルド
INTO THE WILD
アメリカ、2007年、上映時間 148分
製作・監督・脚本: ショーン・ペン、製作総指揮: ジョン・J・ケリーほか、原作: ジョン・クラカワー『荒野へ』、撮影: エリック・ゴーティエ、音楽: マイケル・ブルック、カーキ・キング、エディ・ヴェダー
出演: エミール・ハーシュ、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ウィリアム・ハート、ジェナ・マローン、キャサリン・キーナー、ヴィンス・ヴォーン、クリステン・スチュワート、ハル・ホルブルック

北辰斜にさすところ

2008年10月11日 | 映画レビュー
 旧制七高(現鹿児島大学)と五高(現熊本大学)野球部の100周年決戦をクライマックスに、古き良き時代の旧制高校生の生態を懐かしむ映画。反戦映画の気も入ってます。

 旧制高校ナンバースクールと言えば、旧帝大7つにそれぞれ付属高校のように存在していた七つの高校(と思っていたが、そうではなくて、帝大と旧制高校はそのままリンクしない)。この映画をみて、今更ながらに全部言えるか? と自問自答。

 1高 東大
 2高 東北大
 3高 京大
 4高 ?
 5高 熊本大
 6高 ?
 7校 鹿児島大

 4と6がわからないが、どちらかに金沢が入るはず。で、調べてみたら、4高が金沢で6高が岡山、8高まであってこれが名古屋大学。帝大の付属ではなく、戦後の大学改革によってそれぞれの旧制高校が各大学の教養部などになったのであった。というわけで、教育史のちょっとしたお勉強になりました。

 という以外には評価するところもないような映画だったのは困ったもんで。旧制高校の蛮カラぶりを描いているのはいいけれど、あまりたいしたことがない。というか、なんだか絵空事のように見えてしまう。この映画の登場人物のうちキーになるのは緒形直人が演じた草野先輩だ。彼がもっとカリスマ的な蛮カラで剛毅な人間でなければならないのに、その迫力が感じられない。彼にもっと奇人変人偉人的な魅力があれば、戦後何十年も主人公上田(三国連太郎)が草野先輩を戦地で亡くしたことの慚愧の念に囚われ続けたその傷がリアリティをもって見る者の胸に迫るのに、そこが浅いため、物語全体が薄っぺらく見える。特に、戦場のシーンなんていっそない方がよかったのに。あまりにもちゃちなので紙芝居みたいだ。

 役者はみななかなかのメンバーなので「ほぉ」と思ってしまうが、老人になった彼らがいまだに「五高の名誉のために」とかいう愛校心があまりにも意気軒昂なので「ほんまかいな」と思える。「北辰斜めにさすところ」というのは七高の寮歌の一節である。やたら寮歌を歌いたがる伝統というのはわたしの学生時代の京都にもまだあって、一回生の頃は同級生の男子学生たちが吉田山に登っては三高の寮歌「逍遙の歌」を放歌していたものだ。そういえば、この映画の寮の雰囲気が京大吉田寮に似ているのでとても懐かしかった。 

 この映画を見て喜ぶのは旧制五高と七高の関係者だけではなかろうか? この作品に普遍性を感じることができないのは、映画の制作者たちがこの時代の雰囲気を的確につかんでいないからだろう。だいたいが、旧制高校の歴史を三國連太郎に語らせる冒頭の導入部からして歴史教科書を読むようで味気ない。そして、三国連太郎演じるかつての野球部のエース上田投手が、戦後、頑として同窓会に出席を拒み続け、郷里にも帰らなかったその理由が戦場での心の傷にあることが明らかになるところはこの映画の山場なのに、南方戦線の兵士達が餓死寸前にも見えないふくよかな顔をしているのは具合が悪かろう。

 見終わって、旧制高校時代が懐かしいけど(といっても実際に体験したわけではない共同幻想である)、「で?」と思ってしまう残念な出来。この作品を今製作することの意義がどこにあるのかわからない。公式サイトによると、この映画は現在のシステム化された教育に疑問をもち旧制高校の教育に着目した弁護士の発意で製作が始まったという。今の教育に疑問を持ったからといって旧制高校ねぇ。それでは発想が古すぎるだろう? 自由闊達でよく遊びよく学んだ伝統といっても、それは寮にエリート男子だけを詰め込んで女を排除したところで厳格な先輩・後輩の統制のもとに展開した、隔離されたパラダイスのお話。今それをやったら戸塚ヨットスクールとか、最近では入所者に暴行したどこかのフリースクールのようになるのではなかろうか。(レンタルDVD)

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北辰斜にさすところ
日本、2007年、上映時間 111分
製作・監督: 神山征二郎、原作: 室積光『記念試合』、脚本: 室積光、音楽: 和田薫
ナレーション: 山本圭
出演: 三國連太郎
   緒形直人
   林隆三
   佐々木愛
   和田光司
   林征生
   神山繁
   北村和夫
   織本順吉
   犬塚弘
   滝田裕介
   高橋長英
   斉藤とも子
   河原崎建三
   坂上二郎
   永島敏行

アイアンマン

2008年10月10日 | 映画レビュー
 アメリカ最大の軍需産業のCEOかつ天才発明家がある日過酷な捕虜生活を送った末に改心し、「今日から兵器を作るのを止める」と宣言して正義と平和の味方「アイアンマン」になる、というお話。なぁ~んだ、単純やんか。いや~、シンプル・イズ・ベスト。発明家がその才能を生かしてメカニックを独力で生み出すという過程が興味深く、メカ好きにはたまらないシーンが続出。男の子の映画ですね、これは。

 天才技術者で発明家、そして大金持ちの社長トニー・スタークは女好きでも勇名を馳せている。そんな彼が新兵器のデモンストレーションのために親友で軍人のローディと一緒にアフガニスタンにやって来るところから物語は始まる。ここでいきなりテロリストに拉致されたトニーは、新兵器を洞窟の中で作るよう強要される。ここから脱出する過程がスリリングで大変よろしい。テロリストに監禁されたトニーは、自分が作った兵器が罪なき人々を大勢殺していること、自国兵士をも殺戮している事実に衝撃を受ける。3ヶ月に亘る過酷な監禁生活の末に「アイアンマン」第1号を製作したトニーは傷つきながらも無事帰国する。彼を待っていたのは優秀な女性秘書のペッパー・ポッツと、トニーの父亡き後父代わりに会社を統帥しトニーの後見となってくれたオバディア・ステイン。

 とまあ、役者がそろったところで、物語はトニーがアイアンマンたるロボット装置に改良を加えデザインを洗練させていく過程が目を見張る。生身の人間がほんとうにマッハのスピードに耐えられれるのか不思議だったけれど、とにかくものすごいスピードで空中を駆けめぐり、戦闘機ともやり合う。秘書のペッパーとはいい仲になりそうでならないところが微妙な配置で、これはシリーズ化を最初から狙っているからね。アメコミが原作なだけにやっぱりそういうお子様テイストが抜けない部分があるけれど、主役が中年男である分、けっこう渋めの設定が効いている。ロバート・ダウニーJr.がかっこいい。制作者が本気でやっているということは、豪華な配役を見ても一目瞭然。セレブな実業家という貫禄を体現できる役者を起用しているところが狙い通り。

 でも、本物の軍需産業のCEOがそう簡単に改心したりはしないと思うよ。

 アラブのテロリストも悪者だけどアメリカの軍需会社も負けず劣らず悪者というあたりは、世界の2大悪は今やイスラム原理主義者とアメリカ軍国主義であるという図式ができているということか。

 最後はタカラのガンダムロボ・シリーズみたいなお子様ランチになってしまったけど、なかなか楽しめた一作です。シリーズ化するそうで、2010年の第2作公開が既に決まっている。

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アイアンマン
IRON MAN
アメリカ、2008年、上映時間 125分
監督: ジョン・ファヴロー、製作: アヴィ・アラッド、ケヴィン・フェイグ、
製作総指揮: ジョン・ファヴローほか、脚本: マーク・ファーガス、ホーク・オストビー 、アート・マーカム、マット・ハロウェイ、音楽: ラミン・ジャヴァディ
出演: ロバート・ダウニー・Jr、ジェフ・ブリッジス、テレンス・ハワード、グウィネス・パルトロー、ショーン・トーブ

アキレスと亀

2008年10月06日 | 映画レビュー
 アキレスと亀、あるいはゼノンのパラドクスと呼ばれるこの哲学上の難問が学生時代の数学のテストに出たことがあって(このテストではアキレスと亀ではなく「飛んでいる矢は止まっている」という命題だった)、わたしは答えられなかったのに延々と長文で答を書いた覚えがある。今から考えたら、よくぞ何もわからないのにやたら長々と書くことができたものだとわれながら感心/寒心する。何を書いたか忘れたけれど、無から有を生むことあるいは舌先三寸の口からでまかせは昔から得意だったようで。この映画では冒頭にこのパラドクスがアニメで説明される。俊足アキレスは亀に永遠に追いつけないのだというゼノンの言葉が観客に投げつけられるのだ。この永劫の苦悩をわたしたちはどう解くのか、終わりのない挑戦を続ける芸術家の性(さが)はどのように昇華するのか……

 この映画は、創作者北野武の諦観と矜持と韜晦と開き直りの自伝的作品。映画の中ではやたら大勢の人が死ぬが、その死すら北野は笑い飛ばす。所詮人の命はこのように軽くばかばかしいものだといわんばかり。ご本人も昔交通事故で死にかけたし、彼独特の死の哲学があるのだろう。

 主人公は倉持真知寿(くらもち・まちす)という売れない画家。10歳ぐらいの少年時代、青年時代、中年時代の3部仕立てでそれぞれ違う役者が演じる。少年時代がえらく時代がかっているものだから昭和戦前期かと勘違いしたくらい、ここに描かれている時代はレトロの香りぷんぷん。大金持ちのお坊ちゃま倉持真知寿は絵がうまいと誉めそやされて周りから特別視され、絵を描くこと以外には何も考えない子どもへと純粋培養されている。しかし父親の会社が倒産し(このあたりの描写も世界大恐慌かとわたしは勘違いした)、真知寿は叔父に引き取られ不遇な少年時代を送ることになる。

 青年になった真知寿は相変わらず絵ばかり描いているが、いっこうに芽が出る気配がない。画廊へ持っていってもけんもほろろの扱いを受け、しかし「ちゃんと勉強しないとだめだ」といわれると働きながら美術学校へ通うようになる。真知寿は絵を描く以外のことには一向に興味を示さないが、不思議なことにそんな彼に惹かれる女性もいて、ちゃんと結婚してしまうから世の中捨てたもんではありません。素直な真知寿が画廊の辛らつな批判やアドバイスを真剣に受け入れて次々と努力を重ねるところは最後には感動してしまう。これほど学び向上することに熱心で素直なら普通はもっと才能が開花しそうなものだがそうならないところが真知寿の悲しさ。

 中年になって娘が大きくなってもやっぱり絵は売れない。そして真知寿の絵はどんどん狂気じみてくる。彼は西洋絵画史を完璧にトレースしたような絵を次々と生み出す。ちょっとした美術好きなら、彼が模倣している画家が誰なのかすぐわかる。これまた噴飯ものであり、このあたりの北野武のお笑いのセンスには悲哀さえ漂う可笑しさ。誰が見てもすぐに分かる模倣作品ばかりをアートする真知寿の素直さについてくる妻・幸子もかなり狂っている。二人のアートはどんどん度を越し始め、とうとう命がけで作品を生み出すところまで自分を追い詰めていく真知寿だった……

 青年時代を演じた柳憂怜が老けすぎていてちっとも青年に見えないところが苦しかったし、真知寿を演じた3人の役者がまったく似ていないというのも作品の完成度を下げる一因だ。しかし、北野はそんなことに頓着していない。主人公が涙ぐましい努力も水泡に帰するという艱難辛苦を経験しつつ、その困難を北野監督はシニカルに哂う。まさに芸術家の自嘲だ。

 正気のまま段々おかしくなっていく真知寿の売れない人生になぜかわたしはのめりこむように惹かれた。主人公は決して笑わず、それどころかほとんど台詞もなく、だた黙々と絵を描いているだけなのに、ペーソス溢れるブラックな笑いに北野監督が持つダブルスタンダードな人生観がにじみ出ているようで、そこに弾かれていく。真知寿は売れないからといって荒れたりすさんだり暴力を振るったりしない。ひたすら努力を重ねていくのである。その姿は崇高ですらある。しかも家族が自分の犠牲になることすらいとわない。いったいこの売れない画家はどうなることやらと思っていたら、最後はほろりと泣かされた。宣伝惹句には夫婦愛が謳われていたが、狂気をも共有しようという妻の懐の深さは古典的な浪花節。能無しの夫に献身する妻なんていう、いまどき流行らない自己犠牲物語は、女性から見たら腹立たしいことこの上ない。とうとう献身妻も切れてしまう日が来るのだ。あったりまえよね。

 映画の中に登場する多くの絵をいったい誰が描いたのだろうと思っていたのだが、クレジットを見てびっくり。すべて北野武の作品なのだ。なかなかの才能である(笑)。

 北野武の、「これからもわがままを通すぞ」宣言みたいな映画でした。しかし、こういう究極の自己中はどこか憎めないから困ってしまう。

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アキレスと亀
日本、2008年、上映時間 119分
監督・脚本: 北野武、プロデューサー: 森昌行ほか、音楽: 梶浦由記
出演: ビートたけし、樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子、中尾彬、伊武雅刀、大杉漣、筒井真理子、吉岡澪皇、円城寺あや、徳永えり、大森南朋

崖の上のポニョ

2008年10月05日 | 映画レビュー
 会議の後の飲み会の後の映画。やはりおそれていた通り、半分以上寝てました、すみません。レビューの資格なし。そのかわり、続けて見た「アキレスと亀」のほうは一睡もせずに全部見ましたので、そちらのレビューでご勘弁を(て代わりになるかしらん?)。

 とはいえ、ちょっとぐらいは断片的な感想を。

 これまでさんざん見てきた日本的細密画アニメの数々から一変してこのシンプルな作風がかえって新鮮だと玄人受けしているらしいが、やはりちょっと苦しいものがあります。巻頭、わたしはなぜかこのアニメが手塚治虫作品のように思えて思わず目をこすった。海中でなにやらマッドサイエンティスト(?)が操っているものはいったい何? この「博士」(と勝手に命名)が『火の鳥』の登場人物のように思えてならなかった。後はほとんど寝ていたので博士の正体は不明です(ぽりぽり)。わたしが本作から手塚を一瞬想起したように、このアニメは日本アニメの歴史への大いなるオマージュではなかろうか。先祖返りしたような作風は原点回帰を思わせる。

 主役の男の子とポニョがとてもかわいくて、うちの息子達の赤ん坊のころを思い出して懐かしかった。あの頃のあのかわいらしさは今いずこ…。

 ここまで書いてからパンフレットを読んで少し追記。


 パンフを読んで、登場人物がたくさんいたことを知り、いっそう絶句。これはもう半分どころかほとんど全編寝ていたようです…とほほ。記憶にあるのは生き物のように波が追いかけてきたこと、そのシンプルな絵に「手抜きと違うん? 狙ってやってるって? う~ん」と思いながらまたもや睡魔のもとにひれ伏したこと…。DVDが出たら顔洗って見直します。


ゼロ時間の謎

2008年10月04日 | 映画レビュー
 謎解き以外の部分が全然面白くないというのが最大の欠点。

 メルヴィルくん、ちょっとイメージが変わりましたね。「ぼくを葬る」のときのほうがよかったわ。

 アガサ・クリスティ原作なのになぜかフランス映画。そこが違和感のあるところだけれど、この映画はフランス映画というよりイギリスの雰囲気がぷんぷんする。そう考えるとやはりイギリスもの。 

 大金持ちの遺産狙いの殺人事件、というからにはその遺産をめぐる人物たちのドロドロ造形が面白くなくては意味がない。しかし、この作品ではその人物たちのキャラクターになんの魅力もない。悪人も善人もまったくキャラが立っていないし、若く美しい新妻というのがまったく美しくもなければ品もなく、また捨てられた前妻というのも謎めいた美女のはずのキャラクターにいまいち説得力がない。

 よって、唯一の興味は謎解きのみ。これがまあ、だまされたと思うかどうかは人それぞれだけれど、謎じたいはそれなりに面白いかもしれないが、解いていく過程にスリルがない。探偵役の影が薄いというのも問題だろう。

 何よりもわたしにとって最大の不満はメルヴィルくんがあんまり魅力的でなかったこと。というわけで、二度見る気は起こらないけど、そこそこ悪くはない作品。(レンタルDVD)

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ゼロ時間の謎
'HEURE ZERO
フランス、2007年、上映時間 108分
監督: パスカル・トマ、製作: ユベール・ワトリネ、ベルナデット・ザンク 、原作: アガサ・クリスティ『ゼロ時間へ』、脚本: フランソワ・カヴィリオーリほか、音楽: ラインハルト・ワーグナー
出演: メルヴィル・プポー、キアラ・マストロヤンニ、ローラ・スメット、ダニエル・ダリュー、カミーラ・トレシリアン、アレサンドラ・マルティネス、フランソワ・モレル

Mr.ビーン/カンヌで大迷惑?!

2008年10月03日 | 映画レビュー
 カンヌ国際映画祭をこきおろす作品? それとも、カンヌの観光プロモーション映画?

 映画版よりはテレビ版のほうがよほど面白い「ミスター・ビーン」シリーズ。相変わらずこの人は身体が柔らかくてそこが売りなんだけれど、今回は特別にブラックな笑いが満載というわけではなかった。物語の非日常性が二次関数的に増大していく面白さにもいまいち欠けたし。

 たまたま籤でカンヌの高級ホテル行きのチケットを手に入れたミスター・ビーンが、単身イギリスからフランスはカンヌへと向かうが、途中で親とはぐれた(はぐれた責任はビーンにあるんだけど)少年を拾って二人で珍道中。さらにカンヌ映画祭に向かう若い女優に拾われて…というお話。面白いのは、グルメの国フランスの手長エビとか生牡蠣といった料理を食べられない悲しいイギリス人ビーンの姿。なんでドーバー海峡を隔てただけでこんなに食生活が違うのかねぇ。

 フランス語のできないミスター・ビーンがあれこれとパントマイムでどうにかごまかし、しかし、途中で財布もパスポートもなくして往生しつつ、なぜかちゃんとカンヌまで到着してしまうところが可笑しい。自力自闘で大道芸人を演じてしまうミスター・ビーンのアリア「私のお父さん」が見物です(笑)。

 途中で一緒になった愛らしい女優がどこかで見たことあると思ったら、「潜水服と蝶」や「恋愛睡眠のすすめ」に出演していたエマ・ドゥ・コーヌであったとは。それにしてもこの映画、ちょい役のゲスト出演者が豪華です。

 カンヌ映画祭でオープニング上映されたりパルムドールを獲る作品は芸術性が高く難解なものが多くて(近年必ずしもそうとは言えなくなっている)一般受けしにくいが、そのことを皮肉ったのが最後の映画上映シーン。まあ、こういう笑いは正直言うとあまり好きではない。芸術的な高さをあざ笑うというのはいかにも大衆受けを狙った下品な戦略のように思えてわたしは好まない。やたら高尚な内容の作品というのは確かに自己満足的に充足しているものが多くて批判すべき点はあると思うが、それだけでおちょくられるというのはいかがなものか。とはいえ、このシーンが確かに一番面白かったことは認めよう(^_^;)。

 総じて、ブラックな笑いのレベルが低く、中途半端に観光映画にしてしまったところもいただけない。映画版になると予算が増えてロケもふんだんに取り入れられるし、奥行きやスケールのある画面を作れるから監督には嬉しいだろうと思うのに、やってるネタがどうしてもテレビのままだからこういう中途半端な作品になります。(レンタルDVD)

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Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!
MR. BEAN'S HOLIDAY
イギリス、2007年、上映時間 89分
監督: スティーヴ・ベンデラック、製作: ピーター・ベネット=ジョーンズほか、脚本: ロビン・ドリスコル、ハーミッシュ・マッコール、音楽: ハワード・グッドール
出演: ローワン・アトキンソン、エマ・ドゥ・コーヌ、ウィレム・デフォー、カレル・ローデン

二人日和

2008年10月02日 | 映画レビュー
 栗塚旭といえば新撰組の土方歳三。これはもう何十年経とうと土方歳三。あのダンディ渋いかっこいい土方さんは空前絶後でありました。その栗塚旭もすっかりはげ上がって好々爺として登場したのにはびっくり。

 レビューを書こうと思ったのに、すでにほとんど細部を忘れている!(^_^;)

 とにかく端正につくられた映画で、あまりにもお行儀よくきちっと作られているため、なんだか窮屈な感じもする。京都に住む老夫婦の45年の日々がもうすぐ終わろうとしているそのときを淡々と描いた作品で、中高年なら身につまされるようなお話です。子もなく二人きりの生活で妻に先立たれる夫、その悲哀を寡黙な男の後ろ姿で表現した栗塚旭が偉い。

 徐々に全身の筋力が衰えていく難病に罹った妻をせっせと介護する夫がいじらしい。夫は神祇調度司という職についている老職人。徒弟を何人か雇っていて、厳しい親方は無口で無愛想な職人気質の人。神祇調度司は神社の神官や巫女の装束を作る仕事を司る。この手際がまた興味深いのだが、映画ではあまりその物造りの現場が映らなかったのが不満だ。この職人がいったい自分の仕事のどこにどうこだわっているのか、もう少し丁寧に描いてくれればさらに映画の感動や細部の豊かさがアップしたというのに。せっかく京都の町屋、京都らしい職人仕事を映していながらその魅力を存分に描いていないのは惜しまれる。いや、この映画のコンセプトはこの「慎ましさ」にあるのかもしれない。ほれみよこれみよとばかりに職人芸を映して見せたり感動的に話を盛り上げたりすることを野村恵一監督は嫌ったのかもしれない。

 妻が徐々に衰えていくという悲惨な生活にもかかわらず、妻を介護する夫にはそれほど悲壮感がない。夫婦の会話もきわめて物静かで何気ない。そこにはもう、長い間の夫婦生活がもたらした<安心>が二人のあいだに腰を据えているのだ。妻を慰めようと、夫はいつも水を汲みに行く神社の境内で通りすがった学生手品師を雇うことにした。プロ顔負けのいい腕をしたマジシャンは実は医学生。病気の妻のもとにせっせと通ってきて手品を教えてくれるうち、彼ら三人の間には暖かな気持ちが流れるようになる。

 枯れた老夫婦にもその昔駆け落ちだの心中未遂だのといった情熱的な過去があった。そのことは夫婦の姪(池坊美佳)の口から語られる。夫婦の若かりし頃の回想は幻想的なダンスシーンで描かれる。しかしこの回想場面は決して実際に彼らの過去がそのようであったということではなさそうだ。これは象徴的に挿入されたタンゴのダンスシーンのようにわたしには思えた。

 妻が亡くなってそれでお仕舞いかと思ったけれど、ドラマはまだ続く。そりゃそうだ、妻が死んでも世界は続くのだから。一人残された夫の寂しさわびしさが静かに胸に迫る。そして一方で、若い医学生の恋が対比され、一組の夫婦は一方が死んでその物語を閉じ、一組の恋人たちはこれから漠たる未来へと向かう。この対比はちょっと図式的すぎたかもしれない。あと、不満点はゲスト出演した素人二人の演技があまりにもひどい。きたやまおさむと池坊美佳は京都らしい人材ということで抜擢されたのかもしれないが、雰囲気ぶち壊しである。

 とにかくわたしは昔から好きだった栗塚旭がいっそう渋いおじいさんになっていたことにひたすら感動した。もうこれだけでこの映画を見たかいがあったというもの。(レンタルDVD)

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二人日和
Turn over 天使は自転車に乗って(旧題)
日本、2004年、上映時間 115分
監督: 野村恵一、プロデューサー: 山田哲夫、脚本: 野村恵一ほか、音楽: 門奈紀生
出演: 藤村志保、栗塚旭、賀集利樹、山内明日、藤沢薫、池坊美佳、きたやまおさむ、

マスク

2008年10月01日 | 映画レビュー
 難病の息子と母親との愛情物語。とくれば思い出すのは「ロレンツォのオイル」。しかし、両作品はかなり雰囲気が違う。何より母親の愛情の注ぎかたと生き方が違う。本作の母親シェールは若く美しくファンキーで、ドラッグに耽り、家事もおろそか。一方、「ロレンツォのオイル」の母親は難病の息子の看病を必死に行い生活のすべてを息子のために費やし、すさまじい努力で新薬発見のための勉強を行った。マイペースで息子を放任する母親と、息子にかかりきりの母親。どっちがいいかとかいう問題ではないが、どうしてもドラッグ漬けのいいかげんな母親よりは勉学に励む母親のほうに好意を感じてしまう。

 シェール演じる母は息子ロッキーを信頼し、彼を突き放して、構わない。むしろロッキーのほうが母親の保護者のように振る舞う。ロッキーは4歳の時に顔の骨が変形する難病、通称「ライオン病」に冒された。16歳になったロッキーは頭脳優秀で心優しく明るい少年にすくすくと育っている。シングルマザーである母親に育てられているが、その母親はロッキーを一切特別視せず、同情もせず、普通の子どもと同じように扱い、自分はバイク仲間たちと毎晩のように遊び歩いている。ロッキーはその外観から、「マスクをとれよ」とか「マスクをかぶっているのか?!」と初対面の人からは異様な眼で見られたり苛めに遭ったりする。

 だが、ロッキー自身はいつも明るく前向きで、その上成績優秀なため、いつの間にかすっかり人気者となるのだ。とはいえ、年頃のロッキーにとって、憧れの少女はいつも遠くから眺めるだけ。そんなロッキーに恋人ができるときが来る。夏の間、視覚障害者のキャンプにボランティアとして参加したロッキーは一人の美しい少女に恋する。その少女を演じるのががローラ・ダーン。彼女が若い頃はこんなに愛らしく美しかったとは知らなかった。生まれたときから目の見えないローラ・ダーンにロッキーが「色」を教える場面など、生き生きとして感動的だ。

 ふつうの「難病もの」とは破格なこの映画、息子の難病を「障害」ととらえないファンキーな母親と、母親以上にしっかりした息子との一種逆転的な母子関係が興味深い。そして、初恋の少女との間を裂かれるロッキーの悲しさがまた胸を打つ。異形の少年と目の見えない少女との恋は、観客にとまどいをもたらす場面であると同時に観客の偏見を試す場面でもある。正直言うと、わたしはロッキーの顔面に対する違和感が最後まで消えなかった(特殊メイクの稚拙さも一因)。そしてなおかつロッキーの豊かな感性と優れた知性に対する畏敬の念もまた同時にわき起こってくるのだ。

この映画は、見終わった後、何日もわたしの心のなかに澱を残し、何度も反芻することを余儀なくした。それはいま、わたしの息子がアトピー性皮膚炎を患い、親の目にも言葉に詰まるほどのひどい症状を呈していることが母としてのわたしの胸に棘となってぐさぐさと突き刺さることとは無縁ではない。健康に生んでやれなかったことを親は悔いるし、子どもに申し訳ないという気持ちもわき起こる。と同時に、病気の子どもに手を焼き世話に疲れ困惑する日々を送るうち、我が子ではあってもやはり一人の他者にすぎないという厳然たる事実の前に呆然とする自分自身をももて余す。

 病気と闘い向き合う本人が一番苦しい。その苦しみを我が事として同じく苦しむことができないことを心苦しく思いながら、やはりどこかで冷めた部分を持ってしまう親というものの業を、疲労とともに味わう日々。しかしこの映画の母はそんな「業」など一切持たないかのように毎日ドラッグ漬けでラリっている。彼女もほんとうは苦しかったのだろう。しっかり者の息子を持ち、その息子の余命が幾ばくもないと医師から告げられてもなお希望をまったく失わないかのように見える母であっても、胸の内は誰にもわからないものだ。

 泣き、喚き、自由に生き、そして息子を精一杯愛した、そんな母と、精一杯短い命を生きた少年の物語。少年をとりまく人々は母だけではなく、母のバイク仲間という、血縁を越えた魂の共同体があった。明るく楽しく悲しい、そんな物語。(レンタルDVD)

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マスク
MASK
アメリカ、1984年、上映時間 120分
監督: ピーター・ボグダノヴィッチ、製作: マーティン・スターガー、脚本: アンナ・ハミルトン=フェラン、音楽: デニス・リコッタ
出演: シェール、エリック・ストルツ、サム・エリオット、ローラ・ダーン、ローレンス・モノソン、エステル・ゲティ