ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「海辺のカフカ」

2002年11月13日 | 読書
 随分昔に村上春樹の短編を読んだような気がする。「けっ」とそのとき思ったかどうかは覚えていないが、わたしの心になにも残さない、(わたしにとっては)くだらない小説だったのだろう。それ以来、一冊も読んでこなかったが、今回、大江健三郎との対比コメントを大江健三郎ファンクラブの掲示板で見つけて以来、無性に読みたくなった。

 村上春樹なんてきっとくだらないに違いないという偏見と先入観をもって読み始めたもんだから(そう思うならやめときゃいいのに)、最後の1ページを読み終わって感動している自分を発見して悔しかった。

 でも、最初から感動していたわけではない。100頁以上読み進んでも、いったい何の話なのか皆目見当がつかなかった。上巻を読了しても、まだおぼろげにしか見えてこない。作者自身が小説の中で言及しているように、夏目漱石『坑夫』ばりの「なにを言いたいのかわからない」作品ではないか。いったい村上春樹は読者をどこへ連れて行くつもりなんだろう。全編がメタファーに満ちている。細部はすべてメタファー、そして物語全体がメタファー。数多くの引用と、文学作品への批評。のらりくらりと饒舌なおしゃべりが続く。だが、下巻に入ると、そろそろ全体が見えてくる。結末も読めてくる。不思議なことにそうなるとますますおもしろくなる。メタファーだらけの細部もメタファーそのものを楽しめるようになってくる。
 頭のよくないナカタさんとつきあううちに元不良青年星野くんがめざましく生まれ変わっていくなんていう、俗っぽい浪花節を聴かされているような物語にまで、不思議にさわやかさを感じてちょっと感動していたりする。

 多くの引出しをもつこの作品は、読者によって幾とおりにでもその引出しの出し入れが可能だ。どこから読むか、どこをつついてみるか、どの登場人物にシンクロするか、お楽しみは尽きない。ちなみにわたしが一番気に入ったのは、主人公田村少年が住むのが図書館、というところだ。小さくて、家庭的な温かい私設図書館。あれば行ってみたいが、これは架空の図書館。残念だ。本好きにはたまらない設定だね。
 反対に、気に入らないのは教条的フェミニストを馬鹿にするところ。これ、必要ないんじゃない? あんなフェミニストがほんまにいるのかね、と気分が悪くなる。

 ストーリーは巧みだ。「謎」がもつ力が、長編を最後まで飽きさせずに読者を引っ張る。プロットの大枠はギリシア神話「オイディプス」だから、実にシンプルでありきたりなのだが、不可解で非現実的なファンタジーが、それでもひとつひとつの場面の説明はくっきりしているために、違和感なく読めてしまう。カフカの作品のように人を迷路にはめ込んで不安に陥れることはない。むしろ、作家は読者を明るいほうへ明るい方へ、赦され、解き放たれ、生きる方へ、といざなう。死はいくつも描かれている。けれど、それらの死はすべて主人公である15歳の少年田村カフカを生かせるための犠牲といえる。ただ、ここには一つの疑問が残る。「死」がこんなにも必要だったのか? と。「死」と引き換えることなしに、少年の「生」はなかったのか? と。
 さらに、少年をめぐる暴力の止揚について。暴力を暴力で封じることの意味がわたしには捉えきれなかった。父殺し、猫殺し。少年をめぐる「愛の欠乏」を埋めるためには流血が必要なのか? 物語の深層のテーマである「暴力の超克」、この肝心の部分の処理がまだわたしには腑に落ちない。

 ところで、たまたま、ここのところ「新世紀エヴァンゲリオン」のDVDを見ていて、第19話まで見終わったのと並行して「海辺のカフカ」を読んだからか、この2作品があまりにも似ているので驚いた。主人公はどちらも中学生で、無口で内向的で父との葛藤を抱える少年。母と姉を求めて彷徨う。およそ少年らしいはじけた明るさがなく、老成した哲学者の風情だ。そして彼らが降りかかってくる困難から逃げようとしながらも結局最後はそれらをかかえこみ、前向きに生きていこうとする成長物語。もっとも、エヴァのほうは全部見ていないから決めつけられないが。

 村上春樹風隠喩・直喩のオンパレードって、いまの若い作家はやりたがるんじゃないかなと思う。ちょっと真似してみたくなる部分ではある。そして、大江健三郎とのアナロジーだが、共通点は「四国の深い森」だ。確かにイメージは似ている。森がもつ死と再生の不思議な力を少年が体験し、森で生まれ変わっていく。このあたりは、日本的情緒というよりは、ドイツの深く黒い森を思わせる。実際、作品の中でも「ヘンゼルとグレーテル」が引用されるし、森のイメージはひどく西洋的だ。

 さて、なぜ最後にわたしは感動したのだろう。それは村上春樹がうまいからだ。実にうまい。最後まで読者を引っ張るし、ペダンチックなおもしろさはあるし、若者から団塊世代までをくまなく楽しませる寓話と寓意に満ちているし、読者へのサービス精神は溢れているし……。これは売れる小説だ。村上春樹は商売人だ。そう思って感動した。村上春樹をばかにしてはいけない。
 ただし、無理があると思ったのは、村上春樹はもう53歳、15歳の少年の物語など書けはしない。主人公田村少年が全然15歳に感じられない。むしろ中年男性が少年時代を振り返って書いているようにしか読めない。青春物語ならば、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』があるではないか。

村上春樹の究極の目標は『カラマーゾフの兄弟』だそうだ。小説といえばドストエフスキーと思っているわたしと同類やんか! だが、ドストエフスキーのような小説なら、既にドストエフスキーが書いている。村上春樹の野望は永遠に無謀ではないか。ふとそう思う。文学が不毛の時代にこれから何が生み出せるだろう。希望は捨てたくないが。 

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「海辺のカフカ」
村上春樹著 新潮社 2002年