ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「抵抗する都市」

2001年07月11日 | 読書
 著者謹呈の本を今までつんどくほっとく状態のままにして、ごめんなさい。m(_ _)m

 前作『都市を飼い慣らす』(河出書房新社,1996年)がおもしろい読み物だったのに対して,こちらは理論編。
 実は前作を楽しく読み終えたあと,なにかしら物足りなさを感じた。ケニアの首都ナイロビでフィールドワークをしている,観察者松田素二はどこに居るのか? スラムの人々の日常をつぶさに見ながら本人は何をしているのか? という素朴な疑問が残った。で,その疑問を本人にぶつけてみたら,「おお,pipiはなかなかええとこに気が付いたな」と誉められたのでうれしかった(*^_^*)。
 本書は,そういった素朴な疑問に答えてくれる書である。しかし,内容は全く素朴とはほど遠い,読み応えのある逸品となっている。特に第2章と結章が大変印象に残る。人類学の未来を構築する理論を,著者はこの20年,あえぎながら模索していたのだろう。いや,実は楽しんでいたのかも知れない。どこにそんなに惹きつけられるのか,いつもアフリカを夢見る松田氏は,「夢」がもつ反動性と抑圧性を誰よりもよく実感していたし,それを超克する理論を求め続けてきた。それは,<周縁>諸国の人々だけではなく、現代の民族紛争とエスニシティ軋轢に生きるわたしたちにも大きな影響をもたらす理論である。
 民族アイデンティティは近代支配装置であり幻想だと松田氏は言う。しかし一方、その言葉が,民族戦争被害者の遺族には説得力のない言説だと自覚している。実在と虚構のはざまでどちらに寄り添う理論をうち立て,現実を変革するのか。いや、著者はそういった人間分節の類化のマジックに惑わされてはならないと説く。抵抗の民族アイデンティティも、実は抑圧の民族アイデンティティとコインの裏表だと力説している。そして、「日常の生活者の創意工夫に目を向け」、「日常微細な実践こそが、近代のアイデンティティ支配に対」する力となると主張する。
 しかし、この立場は危うい。著者自らが「はじめに」で述べたように、「日常微細な生活実践…の抵抗力をバラ色に描」くことは「思いこみ以外の何の根拠もない」し、「なんでも「抵抗」と見なされ評価される傾向が出てくる」。もちろん、そうならないように著者は周到にその論を展開している。
 だが、「pipiは誤読している」と叱られるかもしれないが、前著にも登場した、ナイロビの人々の「都市を飼い慣らす」やり方が、<抵抗>とはどうも思えないのだ。わたしは頭が古いのかしらん。
 しかし、結章に、「ポストモダンの構築主義とモダンな本質主義のジレンマを、暫定的な本質論者になることによって乗り越えようという戦術的リアリズム路線は、追いつめられた末の苦心の選択とはいえ、現在考えられる最良の実践だろう」とある結論は首肯したい。なんといっても結語がよい。「これからの人類学は、社会に対して積極的に関与し参加するものになる。…フィールドは、日常性の共有を通して、自分(たち)を支配しようとする強力で巨大な力と向き合う術を学ぶ場なのである」。
 興味のある方はぜひ、『都市を飼い慣らす』を先に読んでほしい。続いて、本書を読まれることを強くすすめる。時間がなければ、第2章と結章だけでも読んでほしい。(あ、こういう読み方を勧めたら、松田さん、怒る?)
 アフリカのことを話すときの松田氏の嬉しそうな顔を思い出しながら読了。

「抵抗する都市-ナイロビ移民の世界から-」
松田素二著. 岩波書店, 1999. (現代人類学の射程)