ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ぜんぶ、フィデルのせい

2008年02月28日 | 映画レビュー
 最初少しモタモタして眠気を誘うけど、主人公アンナも可愛かったし、弟くんのフランソワの可愛いことにはもうノックアウト!! 後半はどんどん面白くなりました。


 原作はイタリアの小説で、主人公の少女が12歳からの4年間を描いているが、本作では少女の年齢を9歳に下げて、さらに、物語の中では3年が過ぎているにもかかわらずその時間の流れを凝縮させて、少女の成長を垂直線では描かない。ふつうの「成長物語」とはちょっと違う、というところが新鮮。

 1970年のフランス、父は弁護士、母は雑誌『マリークレール』の記者という裕福な家庭に住む9歳のアンナは毎日幸せに暮らしていた。だがある日、父の出身国スペインから伯母と従姉妹がやって来てからアンナの生活は変わってしまった。アンナの伯父はフランコ政権によって殺され、反フランコ派の伯母たちはフランスに逃げてきたのだ。祖国スペインになにも貢献していないと忸怩たる想いの父は、どういうわけか母と一緒に遠くチリへ旅に出てしまった。帰ってきたとき、二人ともキョーサン主義者になっていたからさあたいへん。カトリックのお嬢様学校へ通っていたアンナは、両親の教育方針が変わってしまって、大好きな宗教の授業を受けられないことになる。おまけに父は弁護士をやめてしまって小さなアパートに引っ越すことに。大好きなキューバ人家政婦は反共主義者なのでクビにされた。狭苦しいアパートでは一人一部屋がもらえないから子供部屋は弟と一緒なのだ。おまけに家はわけのわからない「革命家」たちのたまり場になり、毎夜大勢の人々が出入りすることになる。好きな料理も食べさせてもらえず、小さな家で髭の革命家に囲まれストレスが溜まる一方のアンナは叫ぶ。「これって、みんな、フィデルのせいなの?!」


 フィデルとはもちろんフィデル・カストロのこと。やっと数日前に引退を表明したキューバの革命家です、もちろんわれらがチェ・ゲバラの盟友。

 この映画は徹底して子ども目線で1970年のキョーサン主義者を描く。なにしろ子どもの理解だから、なぜ両親があっという間にキョーサン主義者になったのかさっぱりわからない。なぜ家政婦が次々代わるのかもわからない。なぜ宗教の授業を受けてはいけないのかもわからない。なぜ庭付きの家に住めないのか、何もわからないのだ。解らないけれど、とにかくアンナは不機嫌。いつもいつも不機嫌で仏頂面のアンナの表情がたまらなく、いい。とっても可愛い子役を使っているのに彼女にほとんど笑顔を演じさせない。ず~~っと眉間に皺を寄せ親の世代に異議を申し立てなんでも質問して不満をぶちまけている。彼女こそが実は70年世代の申し子なのだ。

 1970年のフランスは、五月革命の余韻がまだ残り香のように漂う時代だった。母は女性雑誌の記者だったがフェミニズムに目覚め、中絶自由化の運動に立ち上がる。父はスペインでは貴族の出身だったのだが、反フランコ派になり、今やチリのアジェンデ政権支持の運動に夢中だ。アンナにとっては両親の事情なんてどうでもいいこと。無理矢理デモに連れて行かれてもいい迷惑なだけだ。いったい何を叫んでいるのか、アンナにはさっぱりわからない。

 だが、両親のやることなすことに不満タラタラのアンナもいつしか両親の「キョーサン主義」を理解するようになる。「団結」が大事なのだ。団結のためには自分の意見を曲げてでもみんなと一致せねば!!

 なんだかとっても面白くて爆笑を誘う、「団結」の場面は最高によかった。しかし、この面白い「団結」のような場面が少ししかなくて、それがとても残念。もっと笑えるコメディかと思ったのに、予想以上に真面目なお話だった。

 子ども目線の話だけに、70年世代への批判は実はそれほど鮮明ではない。ただし、子どもは鋭い。「パパたちは前は間違っていたのね? それで、考えを変えて、今は間違っていないとどうしてわかるの?」そう、なぜ自分たちが間違っていないと解るのか? こんな素朴な質問を親に向かって投げかけるアンナはなんて賢い子なのでしょう。アンナは、「思いこみ」「正義」の欺瞞をはしなくも告発しているのだ。

 富の公平な分配はなぜ必要なのか? 格差はなぜ悪いのか? 自由とは何か? アンナは学んでいく。アンナの素朴な疑問は現代のフランス社会への批判に通じる。と同時に、その社会批判をするキョーサン主義者への愛情と批判も同時に孕む。

 両親は遠いチリの左翼政権を助けることには必死だが、目の前の子どもたちの世話はほったらかし。こんなことでいいのだろうか? 彼らもまたブルジョア急進主義者に過ぎないのだ。家事は移民の家政婦に任せて社会運動にのめり込む彼らは自分たちの矛盾が見えているのだろうか?

 アンナは成長していく。父の出自に興味を持ち、スペインへと旅したいと言い出すのだ。スペインへの旅で知った父の実家は伯爵家だった。しかし、ここでやっぱり面白いことが。父が伯爵の末裔であることがアンナにとっては「勲章」にならない。むしろ、父の家では昔、拷問がおこなわれていたらしい、そのことが少女の興味をいたくそそってしまったのだ。やっぱりアンナは面白い子ども。まだまだ何にもわかっていないけど、おそらく親を超えてもっと社会のことをクールに見る目を育てていけるだろう。


 アンナ役ニナ・ケルヴェルちゃん、とっても賢そうな女の子です、そのうえ可愛い、そのうえずっと仏頂面。わたしは弟役のバンジャマン・フイエくんの天真爛漫さに魅了されました。最高よ、このバンジャマンくん。なんて可愛いのっ。ジュリー・ガヴラス監督は「戒厳令」「ミッシング」のコスタ=ガヴラスの娘で、アンナの母親役ジュリー・ドパルデューはジェラール・ドバルデューの娘。二世が活躍する映画ですね。


 「ベンセレーモス チリ人民は勝利する」を久しぶりに聴いて懐かしいやら恥ずかしいやら。


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LA FAUTE A FIDEL!
イタリア/フランス、2006年、上映時間 99分
監督: ジュリー・ガヴラス、製作: シルヴィー・ピアラ、製作総指揮: マチュー・ボンポワン、原作: ソミティッラ・カラマイ、音楽: アルマンド・アマール
出演: ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ

ヒストリー・オブ・バイオレンス

2008年02月24日 | 映画レビュー
 田舎町で小さなレストランを経営する平凡な男がある事件をきっかけに大きな暴力に巻き込まれていく。妻と二人の子どもに恵まれ、平凡に暮らしていたトム・ストールが、自分の食堂に押し入ってきた強盗2人を射殺したことから英雄扱いされ、テレビの取材攻勢を受けるようになる。やがて彼の周りには人相の悪い男達が徘徊するようになり、トムのことを「ジョーイ」と呼んで、さも昔からの知り合いのように振舞うのだが…

 巻頭、とても暑い南部の朝のモーテルが映る。「なんて暑さだ」とうんざりするように男二人がモーテルから出てきてチェックアウトするのだが、カメラはずっと長回しのまま、けだるい雰囲気を演出する。そのだらっとした朝の雰囲気のなかで、実は凄惨な殺人が行われていたことを観客はほどなくして知る。その2人組はやがて主人公トム・ストールの店に押し入ってトムに殺されてしまうのだ。禍々しい暴力から始まるこの映画は、全編に亘って銃による凄惨な殺人の場面が頻出する。

 平凡な男トムには家族にも隠していた過去があったのだ。強盗事件がきっかけになって彼の過去はやがて妻たちに知れることとなる。暴力を嫌い、暴力によっては何も解決しないと常日頃から息子に諭していたトムが、実は暴力にいろどられた過去をもつ男だったのだ。ヴィゴ・モーテンセンは精悍な顔つきがいかにも過去を秘めているような雰囲気で、役にぴったりだ。身体能力も高く、あっというまに大男たちをのしてしまう動きは見事。

 暴力から足を洗ったはずのトムなのに、身に降りかかる災難はやはり暴力を以ってしか振り払うことができないのか?

 暴力は暴力を呼び、その暴力を止揚するためには新たな暴力が必要となる。この国の暴力の連鎖はとどまるところを知らないのだろうか。暴力によって愛も失おうとする男の悲劇。後味が悪くて言葉を失う。(レンタルDVD)(R-15)

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A HISTORY OF VIOLENCE
アメリカ/カナダ、2005年、上映時間 96分
監督: デヴィッド・クローネンバーグ、製作: クリス・ベンダー、デヴィッド・クローネンバーグ、原作: ジョン・ワグナー、ヴィンス・ロック、脚本: ジョシュ・オルソン、音楽: ハワード・ショア
出演: ヴィゴ・モーテンセン、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハート、アシュトン・ホームズ、ハイディ・ヘイズ

ウディ・アレンの重罪と軽罪

2008年02月24日 | 映画レビュー
 アレンの他の作品と比べてずば抜けた良さを感じない。中途半端に堅苦しく暗く、神と良心について語るセリフが上滑りになってこちらの胸に響いてこない。ウディ・アレンに期待するものがこの映画では全開していないのだ。だから不満が残る。


 持てる男は全てを得、持たざる男は全てを失う。そのような競争社会を生き抜く小心者のユダヤ人たる自身の姿をまたしても自虐的に描くアレンの作品は、ブラックすぎるユーモアに彩られつつもほとんど笑う場面のないプチ・シリアスもの。近作「マッチポイント」にも似た展開は、この手のテーマがやはりウディ・アレンにとって抜き差しならないものだからだろう。アレンは繰り返し同じテーマでしつこく映画を作る人だ。

 物語は、社会的地位を確固としたユダヤ系眼科医が愛人に離婚を迫られ、とうとう彼女の殺害に手を染めるというありがちなお話。直接手を下したわけではないけれど、良心の呵責にさいなまれ、ユダヤの神を畏れる高名な眼科医は自分の「重罪」をどのように昇華させるのだろうか? という、罪と罰もの。

 ここで、罪を罰するのはあくまでもユダヤ教の神であることが重要だ。つまりこの映画はユダヤ教徒以外にはさほど我が身にすげ替えて差し迫るものがない(殺人の覚えがある人は除く)。しかし、単にユダヤの神が云々ということを超えて、ウディ・アレンの自己像が強く反映される売れないドキュメンタリー監督の例にもあるように、もっと一般に近代に生きる者の自己実現と上昇志向の宿痾を映しだしているのだ。自己の主張は曲げたくないが、金もほしい。意に沿わない仕事をオファーされたらどうする? いやいやカメラを廻すけれど、おいそれと依頼主の言うことは聞かないぞ、というウディ・アレンの矜持の高さを示す展開だが、結局は依頼主の怒りを買ってお払い箱。これが現実。


 まだミア・ファローとすったもんだする前の作品で、彼女も意外と愛らしく美しい。ウディ・アレンの憧れの女性を演じるに相応しい気品と知性を見せている。

 劇中劇というか、劇中ドキュメンタリーの中でレヴィー教授が語るユダヤ教の教えは大変興味深いのだが、これを映画の中でインタビュー形式で語られるとどういうわけか魅力が失せる。文字で読んでこそ咀嚼できることってあるのだ。この場面を見るより『私家版ユダヤ文化論』(内田樹著)を読むほうがずっと面白い。レヴィー教授は自殺するのだが、これはプリーモ・レーヴィの自殺のことを指しているのだろうか。(レンタルDVD)

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CRIMES AND MISDEMEANORS
アメリカ、1989年、上映時間 103分
監督・脚本: ウディ・アレン、製作: ロバート・グリーンハット、撮影: スヴェン・ニクヴィスト
出演: ウディ・アレン、マーティン・ランドー、ミア・ファロー、アラン・アルダ、キャロライン・アーロン

ウィッカーマン

2008年02月24日 | 映画レビュー
 2006年ラジー賞、ワースト作品賞・ワースト主演男優賞・ワースト脚本賞・ワースト・スクリーン・カップル賞・ワースト・リメイク・盗作賞にノミネートされた輝かしき作品。

 オリジナルの1973年イギリス作品を見ていない身にとっては、それほど味噌糞に貶める作品とも思えない。まあ、カルト映画ですから、もともとこんなものでは?

 ニコラス・ケイジが今まで見たどの映画よりも素敵に見えたのは不思議。なんででしょう?

 ラストを知ってあっと驚くけれど、ネタがばれた段階でもう二度と見ようと思わない作品であることだけは確か。

 カリフォルニアに住む警官が、たまたま出くわした交通事故の現場で母子を救うことができなかったことを心の傷に抱えていたら、昔の婚約者から「娘が行方不明になったの、助けて」という手紙が届く。6年前に突然姿を消した婚約者からの便りに心が揺れる警官エドワードは、単身ワシントン州の孤島に出向いて少女失踪事件の捜査に当たる。その島は個人の所有であり、島民達は閉鎖的な社会生活を営んでいた。なにやら秘密めいたおどろどろしさのある島だが、風景は素晴らしく美しく、空も青く海も澄んでいる。やがて、行方不明の少女はどうやら島民たちにとらわれているらしいことを突き止めたエドワードだったが…

 

 冒頭の自動車事故からしてなんだかけったいで、偶然起きた事故にしては神がかり的なのだが、その後エドワードが船で渡る島が妙だ。島は独特の宗教に帰依する人々の集団が自給自足のように暮らしているようだが、平和なその風景とは裏腹に不作の年には生贄を捧げる習慣があるらしい。少女の命が危ない! と思ったエドワードは懸命に捜索するのだが…そこには驚くべき真実が隠されていた。

 おそらく、この映画はオリジナルに比べてかなりカルトっぽさが抜けているのだろう。毒が足りないのではなかろうか。これはこれでそれなりに面白かったのに、オリジナルのファンからブーイングの嵐ということは、きっとリメイク版のほうが「まとも」すぎるのだろう。ラストのサプライズだけでもたせるような映画だから、一度見てしまえばもう面白さはなくなる。(レンタルDVD)


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THE WICKER MAN
アメリカ、2006年、上映時間 101分
監督・脚本: ニール・ラビュート、製作: ニコラス・ケイジ ほか、製作総指揮: ダニー・ディムボートほか、オリジナル脚本: アンソニー・シェイファー、
音楽: アンジェロ・バダラメンティ
出演: ニコラス・ケイジ、エレン・バースティン、ケイト・ビーハン、フランセス・コンロイ、モリー・パーカー

ロシアン・ドールズ スパニッシュ・アパートメント2

2008年02月24日 | 映画レビュー
 めまぐるしく画面を分割させてみたり早送りしたり、その楽しい映像感覚は映画の雰囲気にあってとてもいいと思ったが、ふらふらする30歳男の、いわば永遠のモラトリアム男の不定型なだらしなさが映画そのものを引っ張ってしまい、最後までテンションが持たなかったのが残念。

 映像テクニックは前作「スパニッシュ・アパートメント」とほぼ同じで、雰囲気はとても似ているが、前作のテーマが異文化の中でもまれて成長する青春の混沌と希望だったのに対して、本作はその5年後、とうとう30歳になるというのにいまだにモラトリアム人生のような暮らしをしているグザヴィエの困惑と停滞とまたまた希望、というように微妙に暗くなっている。だから、前半、前作と同じように疾走してくれる演出ぶりが楽しくてワクワクしたのだが、だんだん尻すぼみになり、結局散漫なまま終わってしまう。

 5年の間にはいろんなことがあり、グザヴィエは恋人マルティーヌと別れているけれど、いまだに友達づきあいは続いている。そのマルティーヌはシングルマザーになって男の子を育てていて、子守をグザヴィエに頼んだり、どうやらグザヴィエはキープ男というかアッシーというか、マルティーヌにとっては便利な男のようだ。グザヴィエは脚本家になってテレビの脚本を書いたりしているが、まだそれほど売れているわけではない。

 で、本作はそのグザヴィエが書く物語として進行する。グザヴィエという男は相変わらず恋愛のターゲットが定まらず、ふらふらといろんな女性とつきあう生活を続けている。そんなとき、スペイン時代のハウスメイトでイギリス人のウェンディと再会し、同じく脚本家になってる彼女と一緒に仕事をすることになる。このウェンディ、前作のときのほうがふっくらして可愛らしかった。西洋人って老けるのが早いね。

 で、舞台は前作のバルセロナから本作はパリ、ロンドン、ペテルスブルク、とヨーロッパを股に掛ける。それぞれの街並みをもう少し見せてくれてもよかったのだが、堪能できたのはパリかな。で、グザヴィエくんは相変わらずふらふら男の頼りなさぶりを発揮してくれて、この男、絶対こんなやつ、わたしなら結婚しないね、と思わせる情けないモラトリアムぶり。恋愛もはっきりしない、仕事も意に沿わない、30歳になってもまだそれかよ。な~んて厳しいことを言いたいけれど、実は30歳なんてそんなものなのだろう。

 20代前半のモラトリアムや坩堝状混沌って見ていてもどこか眩しいものがあったけど、本作のように年齢が上がってしまってまだ同じことをやっているとなると、だんだん見ているのがしんどくなってくる。なので、ラストに近づくに従って白けてしまう。本作も悪くはないけれど、どこかに綺麗な着地を見せてほしいというこちらの期待があったのものだから、こういう決着でいいのかなぁ、そんなもん? という疑問が残って消化不良だった。

 それに、気づいてしまったんだけど、わたし、ロマン・デュリスの顔が嫌いなんだわ! あの顔をずーっと見続けているとだんだんイライラしてくる。あの顎、あれが嫌い。(レンタルDVD)(R-15)

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LES POUPEES RUSSES
フランス/イギリス、2005年、上映時間 130分
監督・脚本: セドリック・クラピッシュ、製作: マシュー・ジャスティス、ブリュノ・レヴィ
出演: ロマン・デュリス、ケリー・ライリー、オドレイ・トトゥ、セシル・ドゥ・フランス、ケヴィン・ビショップ、アイサ・マイガ、エフゲニィヤ・オブラツォーヴァ、ルーシー・ゴードン

ラスト、コーション

2008年02月19日 | 映画レビュー
 暗殺のターゲットを愛してしまったらどうする? その愛には命を懸ける重さがあるのか? いや、その「大義」には愛も命も捨てる重さがあるのだろうか?

 ちょっと期待度が高すぎたからか、予想とは少し違う映画だったこともあってわたしの評価はそれほど高くないけど、これを視線の心理劇として見ればたいへん優れた作品といえるだろう。158分の長さもまったく感じさせない緊張感ある演出はさすがの感。アン・リー監督は危険な恋愛の機微や人間の猜疑心を描かせたら実に巧い。

 時は1942年の上海。若く美しいマイ夫人は上流階級のマダムばかりが集まって開く麻雀に今日も勤しむ。主催者イー夫人はマイ夫人よりかなり年上だけれど、すっかり彼女がお気に入り。互いの腹を探り合う麻雀というゲームに没入する女4人の視線が絡まる。その視線はときに火花を散らしときにすれ違い時に疑いの色を濃くする。その場に親日派政府高官のイー(トニー・レオン)が入ってくる。女ばかりの麻雀宅を意味ありげに一瞥すると、ふとマイ夫人に視線を送る。この4人はいったい誰なのだろう? 互いに疑り深い視線を送るのはなぜなのか? と、その後、イー宅を出たマイ夫人の不可解な行動が観客の興味をそそると、場面は5年前にさかのぼる。中国の田舎道を避難する難民の中に、化粧っ気のまったくない「マイ夫人」がいた。その素朴で愛らしい少女は5年後、美しく着飾って麻雀卓を囲んでいる「マイ夫人」になっているのだ。5年の間に彼女にはいったい何があったのだろう……


 巻頭の麻雀シーンは女たちの視線が痛いほど交錯する危機感溢れる場面だ。そして5年前にさかのぼり、マイ夫人、本名ワン・チアチーが抗日運動のためにスパイ活動に立ち上がるまでが回想される。最初は香港の学生たちの児戯にも等しい暗殺計画だった。親日派の大物を殺す。ターゲットはイーという名の冷酷な男。色仕掛けで彼を落とし、隙を狙って暗殺しようという計画だった。そのために差し出される「餌」が愛らしいワン・チアチーというわけだ。自ら覚悟を決めてイーの愛人になるため、処女を捨ててセックスの練習に励むチアチー。だが彼女の犠牲も無駄になってしまった。いよいよというときにイーは出世して急遽上海に移ってしまったのだった。そして2年が過ぎた。チアチーは再び学生に戻り、上海に住んでいた。かつての仲間が接触してきて、今度は国民党の抗日スパイとして本格的な暗殺計画を実施するという。チアチーも仲間になるよう誘われる…。

 これは激動の時代のスパイもの、という歴史的限定劇ではなく、いつの時代も存在するであろう愛についての疑惑を描いているからこそ、観客の心をつかむ。この愛は真実だろうか? ほんとうに愛されているのか? この愛を信じてもいいのか? 私たちは深く愛すれば愛するほど相手を信じられない。愛は常に猜疑心と手を取り合っている。人は愛の始まりに互いの心の奥を覗き込み恋の駆け引きにうつつをぬかす。ある人はそれを楽しみ、ある人はそれに翻弄されて絶望に胸をかきむしる。だが、ひとたび愛の深みにはまれば、もう互いへの欲望と疑いとは絡まりあい昂じあう。

 チアチーの自己犠牲を思うとき、かつての日本共産党のハウスキーパー問題にも通底する、女が革命のために「性」を投げ出して犠牲になったのと同じ構造がここにあることに気づく。チアチーは自己責任で、自分の決断で自分の身体を犠牲にした。しかしそれは仲間からの暗黙の圧力があってのこと。自ら主体的に自分の運命を決めたチアチーの壮絶な選択は、逃げ道のない圧力のもとで最後は自分の意志で皇位継承者との結婚を決めた女性の悲劇にも通じる。人はほんとうに自らの意志で自由な選択を行っているのだろうか? そのように思えるのは幻想ではないのか? どんなに自由で豊かな社会になってもそこには真に自由な選択などありはしない。

 アン・リーには政治は描けない。本作を見終わってつくづく思う、この映画がいかに日中戦争の動乱を背景としようとも、結局のところアン・リーが描いたものは<政治と民衆>でもなければ<大義と犠牲>でもない。生身の男と女の欲望のぶつかりあいであり、肉体への愛着を通して築かれた絆の刹那の深さだ。カンヌ映画祭で物議を醸したという激しいセックスシーンは、必要があって挿入された場面であることがよくわかる。セックスの練習はしてもセックスによって歓びをえることがなかったチアチーにとって標的イーこそが本当の初めての男だった。そして、その男は直感的に彼女に素朴で従順な天性をかぎとった。いかに美しく着飾り濃い化粧をしても、艶かしい視線で男を誘っても、ひとたびその皮をむけばそこには学生時代のままの愛らしいチアチーがいたのだ。姦計と疑惑と謀略と陰謀の中に生きる男は、チアチーの中にある手付かずの美しい玉に気づいた。初めての密会で強姦同然にマイ夫人=チアチーと関係を持ったイーは(この場面は気分のいいものではない)、やがて彼女と激しく密度の濃い関係を結ぶようになる。それは互いに短い愛の運命を知っているかのような燃え方だったのだ。

 こう書くと、いかにもなにやらありきたりの官能物語が展開されていそうだが、アン・リーのゆるぎない演出とトニー・レオンの迫力ある体当たり演技が映画をぐいぐいと引っ張り、見ごたえある二時間半を堪能できた。トニー・レオンは「冷酷な売国奴」というキャラクターにしてはやさしすぎると思うが、それゆえにこそマイ夫人に心を許した「隙」を作ったことが納得できる配役だ。


 本作はポール・ヴァーホーヴェンの「ブラック・ブック」にも似ているが、それよりは遙かに上品で情熱的。アン・リーにはヴァーホーヴェンのような露悪趣味やグロテスクさはない。(R-18)

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LUST, CAUTION 色・戒
中国/アメリカ 、2007年、上映時間 158分
監督: アン・リー、製作: ビル・コンほか、原作: チャン・アイリン、脚本: ワン・フイリン、ジェームズ・シェイマス、音楽: アレクサンドル・デスプラ
出演: トニー・レオン、タン・ウェイ、ワン・リーホン、ジョアン・チェン、トゥオ・ツォンホァ

マリア・カラス 最後の恋

2008年02月17日 | 映画レビュー
 カラスの伝記映画としては「永遠のマリア・カラス」に遙かに劣る。だいいち、これひょっとしてテレビ作品?? 画質が悪くてなんだか見ていられない。演出も実に凡庸で、テレビドラマを見ているみたいだ。「永遠のマリア・カラス」のような躍動感もメリハリもない。おまけにアメリカ人もギリシャ人イギリス人もみーんなイタリア語でしゃべるって、そんなけったいな! ハリウッド映画ではよく外国人にまで英語をしゃべらせることがあるけど、あれと同じ違和感がある。マリア・カラスの歌だけはさすがに素晴らしく、美しい響きでクリアなので、「うちにあるカラスの歌曲集よりずっと声にハリがあって音質もいいなぁ、デジタルリマスターかな」と思っていたのだが、劇場用パンフレットを見てびっくり、これはアンナリーザ・ラスパリョージという歌手が吹き替えていたのだった。


 原題が「カラスとオナシス」。あまりにも有名な超セレブ同士のW不倫物語。プリマドンナの全盛時代にあったマリア・カラスを海運王オナシスが自身の豪華ヨットクルーザーに招待したことから二人の恋は始まった。同じギリシャ出身で、同じく貧しい子ども時代を過ごし、ゼロから苦労して成功した二人は惹かれあい、熱烈な恋に落ちた。すったもんだのあげくにオナシスが離婚しても、「自由でいたい」と言い張ってマリアとは結婚しなかった。いつまでたっても「愛人」に過ぎないことに苛立ちを募らせるマリア・カラス。金がすべて、と豪語するオナシスにとってはマリア・カラスは勲章の一つに過ぎなかったのだろう。成金趣味のオナシスは商売のためならなんでも利用し、なんでも自分の勲章にする。ジャクリーン・ケネディに近づいたのも、そもそもはアメリカでの利権がほしくてジャクリーンの妹に近づいたのがきっかけだったのだ。

 二人の長い愛人関係はオナシスがジャクリーンとの婚約を発表することで終わった。だが、マリア・カラスは最後までオナシスを愛していたと言われている。

 

 キャリアの絶頂にあったマリア・カラスが、自分のキャリアを捨てても愛に生きたいと願ったその愛の深みをこの映画は描き足りない。歌と愛の狭間で葛藤するわけでもなく、歌に対する熱意や悩みを吐露するわけでもない、マリアの内面が伝わってこない。オナシスとの関係も嫉妬が渦巻くドロドロ劇だから見ていて爽快感に欠けるのがいけないのか、とにかくなんだかうんざりするばかりで緊張感にも欠ける。

 唯一よかったのは、主役のルイーザ・ラニエリが美しかったこと。彼女をずっと見ているだけで幸せな気分だったから、なんとか救いがありました。しかしこれ、わざわざ劇場で見るようなもんではありません。

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CALLAS E ONASSIS
イタリア、2005年、上映時間 117分
監督: ジョルジオ・カピターニ、脚本: マウラ・ヌッチェテッリ、ラウラ・イッポリッティ、レア・タフリ
出演: ルイーザ・ラニエリ、ジェラール・ダルモン、アウグスト・ズッキ、ロベルト・アルバレス

歓喜の歌

2008年02月17日 | 映画レビュー
 原作が落語だけあってテンポも小気味よく、ラストに向かってうまく盛り上げていく磐石の演出ぶりもメリハリが効いて、たいへん好感が持てる映画。2時間弱を楽しみました。楽しんだのはわたしだけじゃなくて劇場内の客はだいぶ喜んでいたみたいで、隣席の女性はいちいち手を叩いて笑うものだからうるさくてちょっと…と思ったけど、観客のそういう反応を見るのも映画館で映画を見る楽しみの一つだからま、えっか。

 平成無責任男の優柔不断さ事なかれ主義はどこまで変われるのか?! 一地方公務員のぐうたらした仕事ぶりがたった一日でめきめきと変わって行く感動の物語。なんだか黒澤明の「生きる」みたいですね。「生きる」の役人は死を前にして生まれ変わるのだが、みたま市民会館の主任は大晦日の前日のたった一日のドタバタの中で変わって行くというありえないお話。でもまあ、面白いから許す。

 みたま市民会館の主任(小林薫、その投げやりな雰囲気、いいねぇ)はスナックのロシア人ホステスに入れあげて家庭崩壊寸前、そのあげくに本庁から市民会館へと飛ばされた男だ。明日は大晦日という日に、翌日の女声コーラスコンサートをダブルブッキングしていることが判明する。方や中上流階級の奥様たちのベテラン合唱団「みたまレディース」、方や下町のパート主婦たちで結成した創立1年の「みたまガールズ」。よく似た名前のコーラスグループの区別がつかずに予約をダブルブッキングしてしまった主任、今頃気づいても遅いって! なんとか双方に折れてもらおうとしたけれど、どちらも譲らない。奥様たちの「レディース」には市長夫人もメンバーに入っているのだ。ランチュウという高級金魚に入れあげている市長からは主任に圧力をかける電話もかかってくる。さあ、コンサートは明日、大晦日の夜。いったいどうする?!

 二つのコーラスグループの色分けがあまりにも鮮明で笑える。お金持ち奥様対パート主婦、しかしこの映画ではこのパート主婦たちの驚くべき才能が描かれる。ふだんは似合わないミニスカートをはいてウェイトレスしている中年主婦が、帰宅するやニートの息子に説教を垂れながらあっという間に焼きそばを2人前作ってしまう。そのあまりの手際のよさにあっけにとられた。この場面はワンカットで撮っているから、役者が本当に特訓して見事にその手練れを見せてくれているのだろう。あとは、とってもよく通る声で魚を売りさばくスーパーの店員が、いざコーラスの場面では素晴らしいソロの歌声を聞かせる。これもなかなかのもの。普段、魚売りで鍛えた喉をこういうところで発揮するのですね、芸は何事も一朝一夕には成らず。

 無責任男の主任だけれど、懸命に働きながら時間を捻出しては練習を重ねてきた女性達の熱意を知って自分も一肌脱ごうという気持ちになる、そのきっかけが餃子。昨今何かと話題の餃子ですが、これは下町の小さなお店のママさん手作りの餃子ですから、農薬は入っていません。この店の女主人の肝っ玉母さんぶりも泣かせる。


 ま、たかがコーラス、されどコーラス。人の生き死にがかかっているわけではない、所詮は趣味にすぎない女声コーラスのコンサートのために首をかけて頑張る主任もエライよ、ほんと。大きな大義のなくなった時代に小さな親切のために懸命になる姿は「ちょっと変かも」と思わせてでもやっぱり感動的です。

 原作落語におそらく人物のキャラクターが丁寧に書き込まれているのだろう、登場人物は多いけれどそれぞれの造形は鮮明でわかりやすく、また「いるいる、こんな人」と思わせて笑わせてくれる。特に安田成美演じる下町のコーラスグループ「ガールズ」の指揮者のキャラが最高にいい。元小学校の人気音楽教師、今は介護福祉士(?たぶん)をしている主婦で、永遠の夢追い人みたいな頼りない夫に文句も言わず飄々と接する不思議なキャラクターだ。彼女の包容力や柔軟さが今の時代には求められるのだろうな、と思わせる。「レディース」のリーダーは由紀さおりで、これまたイヤミなおばさんかと思えばさにあらず。このリーダーもなかなかのものです。


 最後はもちろんベートーベン第九の「歓喜の歌」で盛り上げるけど、ピアノ伴奏で女声だけのコーラスでは本来の味がでないのはしょうがない。とか思っていたら、いつのまにかフルオーケストラをバックに男声まで聞こえてくるものすごい盛り上げかた。思わず苦笑したけど、これも映画的な嘘なので許す。


 大難問の解決策は意外と早く提起され、もちろんその方法しかないわけだから結論もそうなるわけで、それは観客にも割と早くからわかるからここに書いてもネタバレにならないと思うけど、いちおう伏せておきます。結末まですっきり見通せてなおかつ楽しめる、上質のコメディ。楽しいよ、お奨め。「母べえ」より気に入ったわ。

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日本、2008年、上映時間112分
監督: 松岡錠司、製作:李鳳宇ほか、原作: 立川志の輔、脚本: 松岡錠司、真辺克彦、音楽: 岩代太郎
出演: 小林薫、安田成美、伊藤淳史、由紀さおり、浅田美代子、田中哲司、藤田弓子、根岸季衣、光石研、筒井道隆、笹野高史、塩見三省、渡辺美佐子、斎藤洋介、片桐はいり、立川志の輔、立川談志、リリー・フランキー

ブラインドサイト ~小さな登山者たち~

2008年02月17日 | 映画レビュー
 チベットに住む盲目の子どもたちがヒマラヤ山脈7000メートルのラクパリ山頂を目指す。ちょっと考えられないくらいハードな挑戦を追ったドキュメンタリー。

 チベットではいまだに因果応報という考え方が根強いらしく、障害は前世の悪行の祟りだということにされてしまう。盲目の子どもたちは道行く人々に「このアホがっ」などと露骨に汚い言葉を吐かれるのだ。障害者の人権などという概念は存在していない彼(か)の国で、目の見えない子どもは親からも見捨てられてしまう。そんな盲目の子どもたちを集めて学校を作った若い女性がいた。彼女の名はサブリエ・テンバーケン。自身も12歳で失明したサブリエはドイツ人だが、チベットに渡って盲学校を建てた。彼女の社会事業の功績に対して、2005年ノーベル平和賞候補という名誉が与えられ、さらに2006年8月にはマザーテレサ賞を受賞した(サブリナについての情報は映画公式サイトによる)。

 

 盲人登山家として初めてエベレスト登頂に成功したエリック・ヴァイエンマイヤーとサブリナが出会うことによって、今回のプロジェクトは始まった。ドキュメンタリーはサブリナのナレーションを中心にして語られていく。子どもたちが訓練を経ていざラクパリを登り始める状況を追うシーンの合間合間に、子どもたちやサブリナ、エリックたちの生い立ちを語る古い映像やインタビューが挿入される。それによって、子どもたちの抱える苦難が浮き彫りにされていく。

 また、大人たちが登山の目的や方法をめぐって真摯に議論し、ときに激高して衝突する様子もカメラは赤裸々に映し出す。それは登山家と教育者の考え方の違いであったり、西洋人と東洋人の世界観の違いであったり、カメラの前に映る彼らは互いの中に差異を見いだし、戸惑いやいらだちを隠せない。

 本作は大人が一致団結して子どもたちを7000メートルの山に連れて行く感動物語という単純なものではなく、チベット社会(なかんずく中国社会)の矛盾をあぶり出し、登頂隊一行の中にある矛盾もまた活写して緊迫感のあるドキュメンタリーになっている。また、目の見えない子どもたちが岩登りをしたり石ころだらけの道を歩いたりする姿にハラハラしたり感動したりその能力に驚嘆したり、画面から目が離せない。

 なぜ山に登るのか? そこに山があるから、と答えたのは誰だったか。実はこの映画を見てもなぜ子ども達がラクパリ目指すのかわからない。そこに自己実現だの成長物語だといった「意味」を読み取ることはできない。観客は自分達の見慣れた「意味」を見つけあぐねて困ってしまうだろう。チベットの子どもたちが流暢に英語をしゃべる「意味」もまたなにか複雑な思いを喚起する。チベットにやってきた西洋人が社会事業を起こして親から見捨てられた目の見えない子どもたちを山へ導く。そこには様々な視線が交錯する。西洋から東洋を見る「オリエンタリズム」の視線、それに反発する視線、同情する視線…。このドキュメンタリーの製作者の眼差しと観客の視線は異なるかもしれない。また、観客にとってもこの映画から受けとめるメッセージは一様ではなかろう。多義的な読みや思考を喚起する、優れたドキュメンタリーだ。ぜひご覧いただきたい。
 

 以下は余談ですが…、

 少年の一人から「チョモランマ」という音声が発せられたとき、字幕は「エベレスト」と訳していたけれど、それがとても懐かしい響きとして聞こえた。と同時に大学の同級生だった宗森行生さんのことを思い出した。日中合同登山隊の一員としてヒマラヤ梅里雪山で遭難、帰らぬ人となった彼のいかにも山男然とした無精髭と純朴そうだった笑顔を思い出す。1991年、32歳で逝去。(レンタルDVD)

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BLINDSIGHT
イギリス、2006年、上映時間 104分
監督: ルーシー・ウォーカー、製作: シビル・ロブソン・オアー、製作総指揮: スティーヴン・ハフト、音楽: ニティン・ソーニー

迷子の警察音楽隊

2008年02月17日 | 映画レビュー
 時代は1990年代の初め。エジプトの警察音楽隊がイスラエルに演奏旅行にやってきて迷子になってしまうというお話。題材的にはものすごく興味があるのだが、これ、当時のイスラエルとエジプトの関係、そして現在の両国の関係が解っていないと何が面白いのかさっぱりわからない映画だ。単なる異文化遭遇ものというだけではなく、対立する二つの民族二つの宗教に架橋するという物語なのだから、背後にある歴史と政治が理解できていることが前提になる。ところがまったくこの映画にはそのあたりの説明がない。だからきっと好き者しか見に来ない映画だろうと思っていたら、意外に混んでいたのでびっくり。東京国際映画祭でサクラグランプリを獲ったことが宣伝になったみたいね。

 劇場用パンフレットにも書いてあるように、ジャームッシュかカウリスマキか、というテイストの映画だ。つまり、独特のオフビートなテンポの映画なので、思いっきり退屈するか心地よく乗れるか、観客の好みはまったく分かれそう。わたしの隣席のおじさんは途中で大きな鼾をかき始めてすっかり爆睡していたくせに、可笑しい場面で突然笑いだしたのでびっくりしてしまった。寝てたんちゃうのん?!! 寝てても面白い場面は本能的にわかるのだろうか(^_^;)。

 さて、イスラエルで迷子になったアレクサンドリアの警察音楽隊の一行7人は揃いの水色の制服に身を固めて颯爽たるいでたち。しかし、行き先を間違えてとんでもない田舎町にたどり着いてしまう。もう今日はバスがないということがわかって、しかもホテルもない町。やむなく食堂のマダムの好意にすがって一夜の宿を借りることとなった。彼らの共通言語は英語。お互い訛りのきつい英語を喋っているけど、よく解るもんだなぁと感心。

 この映画は音楽隊の宿泊先を三カ所に分けたことがうまい設定だ。三カ所それぞれでいろんな悲喜こもごもが起きるわけで、気詰まりな食卓だのうち解けるデートだの、いろんな場面がそれぞれに味わえる。対立を続けてきた民族どうしが同じテーブルを囲み、それでなくても言葉がうまく通じないから会話は弾まず、相手に聞かれたくないことは自国語で喋ったりという身の置き所のないとっても陰険な雰囲気になったケースでは、互いに共通するお気に入り音楽の話で突然うち解け始める。しかし皮肉なことは、彼らの溝を架橋するものがアメリカのポップスだということだ。これは、パレスチナとイスラエルを「和解」させることができるのは西洋の力だといわんばかり。

 警察音楽隊の隊長のキャラがとてもいい。頑固で生真面目一徹。融通がきかないおじさんなのに、最後に食堂のマダムに内心をポロリと語る場面では思わずこちらも涙をそそられた。このマダムがまた過剰に色っぽい女で、隊長をデートに誘い出すのがなんだか可笑しい。しかも誘われた隊長のノリが悪いのがなお可笑しい。

 もう一人、重要人物は隊長にことある事に逆らっている女好きな若者カーレドだ。彼の軽佻浮薄な雰囲気がまた笑わせる。この映画で笑いをとる場面は、爆笑するようなものではなく、くすっと微笑んでしまうような静かな笑いだ。この彼が、イスラエルの初な若者のデートに無理矢理ついていって、うまく手取り足取り(文字通り)で女性との接近遭遇を成功に導いてやる場面は出色でした。

 この映画の見所は、ふつうなら困ったときの大使館頼みになるはずのケースが、音楽隊一行が一民間人の、それも単なる通りすがりの小さな食堂のマダムの好意にすがったという民間の自助努力ぶりだろう。役所も大使館も当てにならず、つまるところ、人々の助け合いは草の根から。平和と相互理解はこんな小さな出来事から始まる。後味のすごくいい映画ですが、ちょっと退屈すぎるのが難点。

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THE BAND'S VISIT
イスラエル/フランス、2007年、上映時間 87分
監督・脚本: エラン・コリリン、音楽: ハビブ・シェハーデ・ハンナ
出演: サッソン・ガーベイ、ロニ・エルカベッツ、サーレフ・バクリ

革命の夜、いつもの朝

2008年02月14日 | 映画レビュー
 1968年、フランスの五月革命のドキュメンタリー。

 たとえば全共闘運動の記録映画「怒りをうたえ」を見ると血沸き肉踊る興奮が味わえるのに、このドキュメンタリーにはそういう面白みがない。映画を観ながら、「しまった、わたしって五月革命のことなんてほとんど知らんやんか」と気付いてしまったのだ。だいだいが、フランスの学生たちはヘルメットをかぶったりしないから日本と違って党派の見分けがつかない。ゲバ棒も振るわないし、アクションの派手さがないのだ。なにしろ日本では「丸太抱えて防衛庁」なんていうシーンもあるんだからね。 

 学生や労働者たちが議論している場面が出てくるが、そもそも何について口角泡を飛ばしているのかさっぱりわからない。このドキュメンタリーは極めて不親切で、説明がほとんどなく、当時の記録をただつないであるだけなのだ。

 これではフランス史によっぽど詳しいか当時の体験者でなければ、見ても何もわからない。

 そうそう、「インターナショナル」が国によってメロディが微妙に違うことを知ったのは面白かった。日本で聞きなれている旋律と違う部分って聞いていてなんだか気持ち悪い(笑)。

 五月革命のことは何も知らないとはいえ、フランス労働総同盟(CGT)とかルノーの労働争議とかシネマテーク・フランセーズの解雇事件とか、断片的に知っていることが出てくると、ああ、なるほどと思うが、それらの事件についても映像ではまったく断片的な取り扱いしかないので、理解が深まるということがない。

 それより、わたしがDVDを見ている側を通りかかった高校生の息子が、若者が暴れている場面やデモのシュプレヒコールを聞いて発した質問や感想が面白かった。

 いわく、「なんで『自由を』って言うてんの? フランスって独裁国家なんか? 言論の自由がなかったん? なんであんな暴れてるん、周りの自動車が壊されてるやんか、ええ迷惑やで。あんな人に迷惑かけてええのか? え? 労働者が搾取されてる? そんなことぐらいであんなに暴れるんか」(レンタルDVD)

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GRANDS SOIRS ET PETITS MATINS
フランス/カナダ、1968年、上映時間 120分
監督: ウィリアム・クライン、撮影: ウィリアム・クライン

ジェシー・ジェームズの暗殺

2008年02月13日 | 映画レビュー
 わたしの後ろの席のおばさん二人、上映開始15分過ぎたぐらいのときにごそごそし始めて「面白くないなぁ」「帰ろか」と退席してしまいました。ひえー、こういう人は久しぶりに見ましたよ。アホですねぇ、後になるほど緊迫感が高まって面白くなるというのに…。


 アメリカでは知らない人はいないといわれているほどの有名人らしいが、わたしはちっとも知らなかった「ジェシー・ジェームズ」という強盗殺人犯は、義賊として祭り上げられることもある実在の人物だ。34歳で仲間に暗殺されてしまったのだが、死後もなお人気は衰えることなく、いまだに語り継がれていて、何度も映画化されている。

 主人公はジェシー・ジェームズなのか、キャストのクレジットはタイトルロールを演じたブラピがトップだけれど、これはジェシーの物語ではなく彼を暗殺した20歳の若者ロバート・フォードの物語だ。演じたケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)はこれで今年のオスカー候補になっている(結果はもうすぐわかります)。

 幼い頃からジェシーのことを描いた三文小説を読みまくって憧れを募らせたロバートは、いざジェシーの仲間になって側に侍るようになると、いつしかジェシーに失望を抱くようになる。愛が憎しみに変わるのはそれほど時間がかからない。愛すれば愛するほど憧れれば憧れるほど、気難しいジェシーに近づけない苛立ち。仲間をも信じられないジェシーは、かつての仲間を殺していく。

 この映画は、ジェシーとその仲間たちとの、見ていて背中が痛くなるほどの心理戦を描いたサスペンスだ。西部劇とはいえ派手なアクションはまったくなく、それよりも人間ジェシーの底知れない恐怖――それは彼自身が抱く恐怖であり、彼が周囲の人間に与える恐怖でもある――を静かな緊迫感の中に描いた。ブラッド・ピットが怖い。ひたすら怖い。彼がかつて見せていた甘さはこの映画ではみじんもなく、猜疑心と癇癪持ちの男ジェシーになりきって、その瞼ひとつの動かし方で観客をも怖がらせる見事な演技を見せてくれる。


 特筆すべきは撮影監督ロジャー・ディーキンスの手になる雄大な風景描写。矮小な人間存在の感情の機微などひと飲みにしてしまいそうな雲の動き、荒涼たる冬の山並み、寂しい牧場、それらの一つ一つが、登場人物たちの荒んだ気持ちや孤独を表す。この風景は大スクリーンで見てこその醍醐味だ。


 本作は、ジェシー暗殺の場面では終わらない。ジェシーを暗殺してからのロバートの行く末がまた興味深い。憧憬の的だったジェシーをロバートにとっての「父」と仮象すれば、この物語は父殺しの物語でもある。父(のような存在)に憧れ、父になろうとし、父を殺すことによって父を乗り越える。しかし、乗り越えたと思った父の偉大さにはしょせんは勝てないのだ。父殺しロバートはその責めを負わねばならない。乗り越えたはずの「父」の亡霊に取り憑かれたように父殺しの場面を芝居に仕立てて繰り返し演じるロバートの姿は大切なものを永遠に失った悲哀に満ちていた。
 

 冬の寒風に吹きさらされているような寂しくつらい後味の残る渋い西部劇。ほんとの大人だけ、必見。(PG-12)

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THE ASSASSINATION OF JESSE JAMES BY THE COWARD ROBERT FORD
アメリカ、2007年、上映時間 160分
監督・脚本: アンドリュー・ドミニク、製作: ブラッド・ピットほか、原作: ロン・ハンセン、撮影: ロジャー・ディーキンス
音楽: ニック・ケイヴ、ウォーレン・エリス
ナレーション: ヒュー・ロス
出演: ブラッド・ピット、ケイシー・アフレック、サム・シェパード、メアリー=ルイーズ・パーカー、ジェレミー・レナー、ポール・シュナイダー

母べえ

2008年02月11日 | 映画レビュー
 善くも悪しくも吉永小百合の映画だ。実に端正、上品、慎ましく、儚げでいてくじけない。吉永小百合の映画ということは、観客の年齢層が高いということであり、劇場は老人でほぼ満席。とかく老人と子どもの多い映画はやかましい。なんであんなにしゃべりながら見るのだろう? しかもストーリーを先に先にしゃべるのだ。電報が届くシーンでは、「あ、お父さんが死んだんやね」というひそひそ声があちこちから聞こえ、美しいチャコ(久子)おばさんが広島へ帰るという場面では、「あ、あの人、きっと原爆で死ぬね」云々…。ここはあんたの居間じゃないんだよ、と言いたいわ、ほんま。黙って見られへんのか、黙って!! でも、最後はみんなが一斉に泣き始めてあちこちからすすり上げる音が聞こえてくるというのもなかなかいいものかもしれない。


 して、物語は。時代は1940年2月。長引く日中戦争の暗い時代だ。家族が互いを母べえ(かあべえ)、父べえ(とうべえ)、照べえ、初べえと呼び合う一家があった。父べえは優秀なドイツ文学者だが、書くものが次々検閲にひっかかり出版させてもらえず、家賃を3ヶ月溜める貧乏所帯。母べえは佳代という名の美しく質素で賢い女性。娘たちは12歳の多感な初子、9歳のおしゃまで元気いっぱいの照代という可愛い二人。2月の寒い早朝、父は土足で踏み込んで来た特高警察に逮捕状無しで検束され、そのまま治安維持法違反容疑で留置所と拘置所を転々とすることになる。突然大黒柱を失った一家にあって、健気な母べえは代用教員として働きづめに働くようになる。いつか必ず夫は帰ってくると信じて…。


 本作の役者はみな万全の演技をしていて、安心して見ていられる。子役二人も最高に愛らしくまた巧い。あえて言えば吉永小百合、この人がやっぱり小さな子どもの母親というのがちょっと…。たたずまいが落ち着きすぎているのが難点か。キャラクターでとてもいいのが、父べえの元教え子で今は出版社に勤務している山崎、愛称山ちゃんだ。浅野忠信がこれまでにない純情で滑稽なキャラクターを好演している。あとは、強烈に印象に残るのが、笑福亭鶴瓶が演じた仙吉おじさん。軍国主義の時代に、「金や、金がすべてや、なんで軍隊のためにわしの大事な金を供出せなあかんねん、してたまるかっ」と言い放つアウトローな個人主義者。倹ましい一家の中にあってこの人だけが異彩を放ち、物語に魅力を添えている。

 困窮した佳代の一家にあっては、いつの間にか彼女たちを助けてくれる人々が集まってくるのだ。夫の妹であるチャコ(久子)がしょっちゅうやって来ては食事の世話など焼いてくれる。夫の教え子だった山崎はほとんど家族のように日参してきて「山ちゃん」と呼ばれて一家全員に頼りにされる。佳代の叔父の仙吉もいつのまにか居候し、また近所の隣組の組長もなにかと親切にしてくれる。これはきっと母べえの懸命に生きる姿が自然と人を呼び寄せるからだろう。国は助けてくれないどころか、敵なのだ。夫を拘束し劣悪な環境の獄に閉じこめたまま返さない国家に対して、家族と地域のネットワークは強く確実にここでは機能している。もちろん戦時中のことであるから、隣組は相互監視制度として存在するのだが、監視を超えた厚意や好意もまた確かにある。

 恩師の美しい妻に憧れ、秘めた愛を胸に出征していく山ちゃんのいじらしい気持ちがほんとうに切ない。この頃の人たちはつつましく、決して想いをストレートに口に出したりはしない。久子にしても山ちゃんに恋をしているのだが、その気持ちを告げることはない。


 何しろ山田洋次ですから、お話は極めてわかりやすく、笑うところと泣くところのメリハリもはっきりし、もちろん最後は「さあ泣け!」とばかりに号泣場面を用意する。そのわかりやすさが多くの人の胸に「反戦平和」という静かなメッセージを伝えるのだろう、大ヒットもむべなるかな。

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日本、2007年、上映時間 132分
監督: 山田洋次、プロデューサー: 深澤宏、矢島孝、原作: 野上照代 『母べえ』(『父へのレクイエム』改題)、脚本: 山田洋次、平松恵美子、撮影: 長沼六男、美術: 出川三男、音楽:冨田勲
出演: 吉永小百合、浅野忠信、檀れい、志田未来、佐藤未来、坂東三津五郎、中村梅之助、笹野高史、笑福亭鶴瓶

サッド・ムービー

2008年02月10日 | 映画レビュー
 四つの話が並行して語られる。「悲しい映画」なのだから結末はどれも悲しいに決まっているのだが、とりわけ病気の母を思う男の子の話には泣かされた。ほかの失恋話にはぐっとくるものが少なかったが、これだけはダメだ。母親の目で見てしまうからだろう、こういう話には弱い。やはり一途に母を思うのは男の子なのだろうか。母恋の少年という図は物語となるのか――

 四つの愛の終わりは、消防士とその恋人、消防士の恋人の妹とその片想いの青年、無職の若者と彼に愛想をつかす綺麗な恋人、母と小学生の息子、の四組の物語。消防士が「私の頭の中の消しゴム」のイケメン、チョン・ウソンなんだけれど、ちょっと太ってしまってキレがない。優柔不断でなかなかプロポーズできない気弱な感じが出ているかも。
 

 定職のない若者(『猟奇的な彼女』のチャ・テヒョン、情けない感じがとてもいい)がひょんなことから思いついた仕事が「別れさせ屋」(韓国語で「離別代理」と名刺に刷ってある)。別れたくてもなかなか相手にいいだせない人の代わりに別れ言葉を言いに行くという仕事で、これが意外なヒット。仕事もうまくいって彼女ともヨリを戻せると思ったんだけれど…。いやこれは面白いエピソードです。別れさせ屋とはよく考えたものだ。このエピソードのコミカルぶりはよかった。しかしそれ以外のエピソードはひねりがなさすぎたんじゃないかな。耳の聞こえない少女としがない似顔絵描きとの淡い恋なんて、ハッピーエンドにしたほうがすっきりする話なのに。

 というわけで、男の子が「オンマ、オンマ」(ママ、ママ)と泣く話だけは泣けたけど後はダメでした。わざわざ四つの物語を用意しながらそれらが有機的につながる醍醐味がなかったね。(レンタルDVD)

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韓国、2005年、上映時間 109分
監督: クォン・ジョングァン、脚本: ファン・ソング、音楽: チョ・ドンイク
出演: チョン・ウソン、チャ・テヒョン、イム・スジョン、ヨム・ジョンア、シン・ミナ、イ・ギウ、ソン・テヨン、ヨ・ジング

アラバマ物語

2008年02月10日 | 映画レビュー
 物語の舞台は1930年代、一人の女性が少女時代を回想するという形式で進む。アラバマの暑いひと夏、子ども達が父の姿を見ることによって成長していく姿が瑞々しい。何よりも主役を演じた女の子がいい。お転婆で好奇心旺盛、そのくせ甘えん坊。

 弁護士アティカス・フィンチが冤罪事件を担当する社会派作品かと思いきや、その事件そのものが物語の中心に据えられるまで1時間近くが経過する。前半は子ども達の物語だ。もちろん全編に亘ってスカウトという当時6歳の少女だった女性の独白が入るので、当然にも映画の視線は子どもの立場にあるのだが、実は映画には子ども目線と大人目線の二つが存在する。で、この映画は断然子ども目線のときがいい。近所に住む知的障害のある「ブー」という青年をめぐる冒険のハラハラ感がよく描けているし、この場面がラストに生きてくる。父を「パパ」と呼ばずに「アティカス」と呼ぶ兄妹たち、この時代にあり得ないぐらいリベラルな一家であることがよくわかる。

 本作が大人の視点に変わるのは裁判シーンなのだが、ここは詰めが甘いと感じざるをえない。「それでもボクはやってない」のような白熱の裁判映画を見た記憶がまだ鮮明なので、それに比べればこの裁判の場面はリアリティが薄く、偽証を曝いていく弁護士アティカスの熱弁ももっと理詰めでぎゅうぎゅう言わせればいいのに、という不満が残る。だが、だからこそこの裁判の結果が「正義は勝つ」にならなかったわけで、社会の不正を描く映画のテーマとしてはこういう展開へと引っ張る必要があったのだろう。

 裁判シーンでのグレゴリー・ペックの熱弁長広舌は、『JFK』でのケヴィン・コスナーのそれを思い出させた。というより、ケヴィン・コスナーがペックを意識して演技したのだろうな。

 人種差別に苦しめられる黒人の苦悩を演じたブロック・ピータースといい、生き生きとした子役といい、演技陣がとてもいい。G.ペックは本作でアカデミー賞を獲った。貫禄の演技で信頼感溢れる父親を演じている。ただ、あまりにも「正義の人」すぎて近寄りがたいものがあるかも。

 原題の『ものまね鳥を殺すには』の意味がこの映画ではそれほど生きていないのでは? 木の洞に物を隠してある場面が描かれるが、それが伏線として生きてくるのかと思ったがそうでもない。思わせぶりなわりにはちょっと肩すかしだった。わたしはトムの冤罪の証拠になるものかと思ったんだけどね。ここはブーと子ども達のからみとなる伏線だったわけだ。

 セル盤には特典がないが、レンタルには1時間半もついているらしい。ちょっと見たい気もする。兄妹の友達が面白いキャラクターで笑えるのだが、この少年は原作者ハーバー・リーの幼馴染みトルーマン・カポーティがモデルだそうな。(DVD)

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TO KILL A MOCKINGBIRD
アメリカ、1962年、上映時間 129分
監督: ロバート・マリガン、製作: アラン・J・パクラ、原作: ハーパー・リー、脚本: ホートン・フート、音楽: エルマー・バーンスタイン
出演: グレゴリー・ペック、メアリー・バダム、フィリップ・アルフォード、ジョン・メグナ、ブロック・ピータース、ロバート・デュヴァル