ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

少年犯罪の深層心理

2001年11月22日 | 読書
 矢幡洋氏の本を読むのはこれで4冊目だ。今まで読んだ本もけっこうおもしろかったし、今回のも相変わらず、人の心の闇を照らし、内面を深く深くえぐっていく筆致は見事だなと思いつつ読み進めていた。いつもつきまとう疑問を頭の後ろに感じながら。
 そう、心理学への根本的な疑問だ。心性をえぐり、犯罪の心理を暴き出し、呈示する。原因をどこまでも追い求めていって、やがてある結論に至るのだが、それがすべて個々人の心の持ちように収斂され、幼い頃からの家族との葛藤や抑圧が原因であると結論づけられる。それで? と思ってしまう。人の心の奥底をのぞき込み、分析する。それで満足してしまう。次はどうするのだ? 心理サスペンス劇を見るのは確かに息を飲むような迫力がある。だけど、それでは先が見えないのだ。
 とか思っていたら、なんと、今回、彼はこれまでの自分の主張を覆すようなことを巻末に述べているではないか。本書の3章まで書き進めてきたことを、4章で全否定とも言うべき論述によって転倒させている。162~163頁に書かれていることを、わたしは大いなる共感を持って受け止めた。感動的ですらあった。
 矢幡氏は廣松渉やミードを引用して、「人間の行動を決定しているのは内部要因ではなく、他者の視線なのである。……人間の行動を「他者とのあいだの象徴交換というゲーム」のプレーヤーとして考えるべきだ」と述べている。彼は動機を人間個体の奥深くに求める心理主義に叛旗を翻している。「私は、「心」を行動や他者との関係性よりも重要なものだとは考えていない」。自らのよって立つ臨床心理学に深い疑問を呈し、彼は犯罪者の心理原因の探索と暗い過去の捜索よりも、明るい未来を見ようとしている。犯罪者の自己肯定を助け、プラスの資質を評価しようとしている。

 矢幡さん、あなたはそこに立ち至ったのですね。沖縄の精神病院に入院していた元恋人を自分の力で救い出し、一生を彼女のために捧げると決めたあなたの、今の地平を、感慨深く私は見ています。妻の久美子さんを心から愛するとともに、病者にも限りない愛を注ぐあなたのすさまじいばかりの激情を、息を詰めて見つめていました。
 これからもあなたのお仕事には注目していきます。小説も書いておられるのかしら? 読ませていただきたいです、ぜひ。

-------------------------

「少年犯罪の深層心理」
矢幡洋著 青弓社 2001




「二十五時」

2001年11月06日 | 読書
最後の一行を読み終わって、全身に鳥肌が立った。こんな感動と絶望を与えてくれる長編小説に、久しぶりに出会えたことに感謝している。
 
 主人公ヨハン・モリッツが翻弄される収容所人生は、カフカの「城」や「審判」を彷彿させる世界。
 ルーマニア人であるモリッツはユダヤ人として収容所キャンプに送られ、やがてハンガリア人としてルーマニア人キャンプに、続いてハンガリア人キャンプにドイツ人として送り込まれる。最後はドイツの戦犯としてアメリカのキャンプに送られる。その間に彼はユダヤ人として蔑まれ、ハンガリーのスパイとして過酷な拷問を受け、またある時突然ゲルマンの英雄として祭り上げられる。13年に及ぶ彼の拘禁人生の中で、モリッツは常にヨハン・モリッツだった。彼は彼以外ではあり得なかったのにもかかわらず、時に別の名前で呼ばれ、さまざまな服を着せられ、心を通わせた友であろうとなかろうと、その国籍によって彼らの味方となったり敵となることを強要された。
 ものの見事にアイデンティティを奪われ、押し付けられ、人間であることを否定されて数万枚の紙切れの一枚へと還元されるモリッツの数奇な運命と艱難辛苦が、読者を作家の絶望の世界へと導く。
 この小説は、第二次大戦もその後の冷戦も結局は西欧近代の産業社会がもたらした害悪であることを、人間性の総否定であることを、痛切に教えてくれる。資本主義も社会主義も人間性の否定、人間の機械化を結果するものでしかないことを、作家トライアン・コルガというもう一人の主人公の言葉を通して、読者の胸と頭に強烈にアジテーションしてくるのだ。近代にからめとられている限り、わたしたちに解放はないということを思い知らせるのだ。と同時に、近代に生きるしかない人々の慟哭を、無知で無垢なモリッツという不屈の男の存在を通して描いていることに、作者は何かの希望を託しているとも思える。現代を慨嘆し絶望するインテリである作家トライアン・コルガが結局は自死するしかなかったのに対し、モリッツは生き延びる。このことの意味を考えてみたいとまたもや腕組みしてしまうpipiであった・・・。
 
 ところで、ゲオルギウがユダヤ人かどうかという問題について、わたしの直感が正しければ、ゲオルギウはユダヤ人ではない。ルーマニア人であるモリッツがユダヤ人に間違われて逮捕されるくだり、その彼を救おうと神父が憲兵にかけあうくだりは、読者に、「ユダヤ人でない者がユダヤ人扱いされてかわいそう」という同情心をそそるように描かれている。つまり、本当のユダヤ人ならしょうがないけど、彼は違うのに、という思いがよぎってしまうのだ。そして、モリッツの母を殺すのがユダヤ人であることを考えると、作者はユダヤ人に距離をおいた描写をしていると感じてしまう。トライアンの妻がユダヤ人であり、彼女がトライアンの遺志を受け継いで近代産業社会を批判する知識人として立ち現れる場面はとても重要なのだが、それでも作者がユダヤ人であることの証左とまでは感じることができない。なにより、ゲオルギウの分身ともいうべきトライアンがユダヤ人でないのだから。 逆に、もしゲオルギウがユダヤ人であるなら、彼は自らのアイデンティティも客観視することのできる優れた作家だと言えるだろう。

 カフカの世界よりずっと具象的で解かりやすく、登場人物の配置がうまくバランスされているため、感情移入もたやすい。かつ理屈っぽいところも左翼好みだったりする。
 モリッツの素直さや愚直さが読者に大いなる同情をそそる。モリッツは、あらゆる苦しみをまるで他人事のように受け流し、やがて長い虐待の果てに苦しみに耐えぬく術を得て、なおもまだいつ果てることのない受容と諦念との中で生き抜くしかない。このあまりに過酷な運命が彼一人のものでないことを知って読者は慄然とするのである。
 システムの中の一員でしかないわたしたち。いつでも誰とでも交換可能な我が身が恨めしい。たった一人の人間でしかない、ただ一度きり生きることを余儀なくされ、そこで呻く人間の苦悩も魂も全てが無と帰すると宣言されることの空しさ。人間とは何か? この根源的な問いの答えはない。「あなたはただ一人しかいない。あなただけが大切だ、他の何物にも誰とも代えられない」と自他共に確認できるなにかが欲しい。
 「貴方は奥さんを別個の人間として見ていなかったにちがいありません。貴方は奥さんを女として、貴方の子供の母として、主婦として見ていたにちがいなく、決して綜合体的に見ていなかったにちがいありません。しかも奥さんは綜合体としてしか存在しないのです」
 料理を作るのも私、掃除をするのも私、通勤電車に揺られるのも私、泣くのも笑うのも私、恋をするのも悩むのも私、子どもに頬ずりするのも私。全てがわたし。

 それにしても古い文庫本って、文字が小さいんだなあ。読みにくいよぉ。

------------------------------

「二十五時」
ゲオルギウ著 ; 河盛好蔵訳 角川書店, 1967(角川文庫)