ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「キッズアーオールライト」

2002年12月19日 | 読書
良識ある大人が眉をひそめながら読むような、残虐で破天荒な物語だ。目を覆うような残酷なシーンにファンタジーのフィルターをかけて多少緩和しようとしたきらいがあるとはいえ、気持ちのいい話ではない。だが、文体に勢いがあるものだから、ついつい読んでしまう。

 破綻したストーリー、リアリティのない設定とはいえ、主人公である高校生がなんの躊躇いもなく暴力に走るそのキレ方が、現代社会の浮遊感とか、宙ぶらりん感をよく表している。


 「リレキショ」とともに第39回文藝賞を受賞した。2作同時受賞となったが、「リレキショ」は癒し系、「オールライト」はバイオレンス系、とまったく作風が異なる。しかしどちらも若者の、世界とのつながりの実感のなさを描いている点では素材は同じと言える。

 二作品とも透徹した分析的視点に欠け、感性だけで書いている点が気になるのだが(「オールライト」には多少分析的試みがある)、村上春樹ふうの軽快でメタファーに満ちた文体は、今の若者にうけそうだ。

 物語としてのおもしろさは「キッズ アー オールライト」に軍配が上がるが、爽やかさでは「リレキショ」。お好きなほうをどうぞ。あるいは二冊まとめて読み比べるっていうのもいいかもしれない。

「リレキショ」

2002年12月19日 | 読書
 第39回文藝賞受賞作。「キッズアーオールライト」と2作同時受賞となったが、「リレキショ」は癒し系、「オールライト」はバイオレンス系、とまったく作風が異なる。しかしどちらも若者の、世界とのつながりの実感のなさを描いている点では素材は同じと言える。

 主人公は19歳の半沢良。だが、彼のその名も経歴もすべてが創作。ガソリンスタンドにアルバイト応募するために書いた履歴書には、住所、氏名、生年月日、特技など、一通りのことが書かれている。だがそのすべてが彼の真実の履歴とは異なる。

 彼が選んだ経歴も名前も、実は彼の決然たる意志ではない。それは彼の「姉さん」に、「なりたいものになればいい」と言われて書いた履歴なのだ。そして履歴書どおりの自分になろうとするが、それがほんとうになりたい自分であったのかどうかはあやふやだ。やがて半沢良にはガールフレンドができて、彼女は半沢良の人物像を(名前まで)創造してしまう。でもそのことに半沢良はそれほど戸惑っているふうもない。

 ここに描かれているのは、「僕って何」と悩みも迷いもしない一人の若者。彼の人格は他者に依存している。他者が描く自己を彼は生きる。彼の真実の履歴など、誰も知りはしない。読者も、おそらく作者さえ。

 半沢良という若者は、この世界を漂っているだけの存在に見える。確からしさがない。ストーリーも、どうでもいいような日常会話がだらだらと続く退屈なものだ。
「姉さん」とその友人の会話にも、半沢良は深く立ち入ることがない。いつも心はどこかよそにある。あるいは、どこにもないのかもしれない。

 今を生きる若者が感じる「世界の実態のなさ」を、この作品は描いている。それでも、そのような不確かなつながりかたではあるけれど、確かに主人公は他者とのつながりを求め、他者の中の自己を生きようとする。
 他者が作り上げたアイデンティティを生きるとき、主人公半沢良は心優しい若者だ。しかし、彼がただいちど「本名」を名乗るとき、その美しい調和の世界が破られる。彼はいらいらし、相手のおしゃべりをさえぎり、自分の本当の名前を名乗る。彼にとって、「真実の世界」は居心地が悪いのだ(作者が意図したのかどうか、その「本名」が、在日朝鮮人がよく使う日本名である)。

 退屈でとりとめのない話なのだが、文章の巧みさで読ませてしまう。なんとなくほっとしたものが漂う読後感も悪くない。

からくりからくさ

2002年12月14日 | 読書
「からくさ」をキイワードに、日常微細な世界から読者を時間と空間の広がりの中へ連れだしてくれる佳作。

 唐草そのものが、歴史と空間の無限のつながりを象徴するものであるが、この意匠を巧みに使って、作家は読者を自在に不思議な思いの「場」へと誘い出す。

 染色や織物といった伝統工芸を学ぶ学生たちを主人公とし、彼女らの自然とのふれあいや歴史洞察、女たちの情念、さらには遠く西南アジアの地で困難に立ち向かうクルド人たちへの眼差しまで、作家の懐の広さを感じさせる作品だ。

 ただし、作家が大河ドラマを夢見て書きつづろうとしたクルド人の記述が、物語全体のバランスをくずしてしまっている。ここが実はこの物語に大きな視野をもたらす画期的な場面であるにもかかわらず、リアリティをもって迫るものがない。惜しい。

 クライマックス、主人公らの作品が展示される場面は、「中陰の花」(玄侑宗久著)のクライマックスシーンを想起させるが、「からくりからくさ」のほうが遙かに感動的で、描写も生き生きと優れている。

 市松人形「りかさん」をめぐる謎が物語を牽引し、妖しげな雰囲気を漂わせる。なおかつ地に足のついた生活のありかたが読者に魅力的に映り、最後まで引き付けずにはいない。

 梨木香歩は、「いま、ここ」という地点に立ちながら歴史や世界に<もの>を見ようとする意欲に満ちた作家だ。これからが楽しみ。(bk1書評投稿)

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からくりからくさ (新潮文庫)
梨木 香歩著 : 新潮社 : 2002.1



寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

2002年12月04日 | 読書
ほんとうに寝ながら学べるのかどうか試してみたけど、それはさすがに無理なようだ。しかし、充分、通勤電車の中で立ち読みに堪える本だ。

 ここまでコンパクトにまとめてもらえると、すっかりわかった気になるから不思議。「おもしろい!」と思いながらすいすい読んでいくと、知らないうちに読了しているから、かえって要注意。わかった気になって実は何にも頭に残っていなかったりする。

 確かに入門書としての「とっかかり」は与えてくれる。問題はその先。原典にきちんとあたって四苦八苦せねば自分の血となり肉とはならないようだ。

 この本を読んで事足れりとする読者は成長しない。そういうことを言外に滲ませているのではないか、内田樹氏は。だとしたら、おちおち寝てはいられまい。

 初学者には手ごろな本。お奨め。しっかり起きて読もう。(bk1書評投稿)

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寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹著 : 文芸春秋 : 2002.6



生命観を問いなおす

2002年12月03日 | 読書
森岡氏は生命倫理学の研究者なのだが、この生命倫理学という言葉から連想するような倫理学者とはちょっと違うようだ。彼は「生命学」という学問を提唱していて、「脳死は人の死かどうか」「臓器移植は是か非か」という問題を、単なる技術論や死生観を超えた文明論にまで発展させて論じている。

 本書では、生命倫理学と環境倫理学という学問を概観した後、エコロジー思想を紹介しつつ、その根幹にある「ロマン主義」を批判し、ディープエコロジーや生命主義が自然に還れと叫ぶのは本質を見誤っていると指摘する。「自然」や「生命」こそが悪の根源であり、「生命として生きていくということは、他の生命を抑圧し、それに暴力をふるい、それを支配しながら生きていくことなのだ。生命を抑圧する原理は、生命の内部にこそ巣食っている」と喝破する。

 この論にわたしは大いに賛同する。しかし、一方、ご本人はロマン主義に反対すると言いつつ、そのロマン主義に陥ってはいないかと危惧する。生命を抑圧する権力装置は人間の外側(社会システム)にあるのではなく、人の内部にあると言い切ったときから、<気持ちのもちようで環境問題や生命倫理の問題はクリアできる>と言ったことにならないか。社会システムは人の外部にあると同時に人の内部にある。世界は自己の内部に存在する。

 問題は、その内部でもあり外部でもある社会システムをいかように変革するかということではないのかと、わたしは単純に考えてしまうのだが。森岡氏が提唱されていること、追究せねばならないという「生命学」の思想が教えることは魅力的で示唆に富むのだが、ついつい処方箋を求めてしまうわたしは、
「で、そんでどうなるの? どうすればいいの?」と政策論を迫ってしまう。
が、これは今はひとまず禁欲すべきことがらなのだろう。

 本書の後半部分で、脳死をめぐって森岡氏は当時の上司であった梅原猛を批判している。梅原猛の反脳死論がデカルトの二元論に端を発する近代哲学批判にまで論及されていることを大いに評価しながら、そのデカルト批判の中途半端さを指摘し、『「臓器移植が、臓器をもらう人間のエゴイズムをサポートするシステムである」ということに対するまなざしが、希薄だ』と批判する。臓器を移植してでも生きようとする人間のエゴイズムを見つめる必要がある、その「生」への執着をこそ問題にすべきだというのが森岡氏の主張である。いわく、環境破壊は生命を忘れた近代哲学が生み出したのではなく、生命の欲望そのものがもたらしたのだと。

 おそらく近著『生命学に何ができるか』ではそのあたりが全面展開されていることと思うので、次は大いにこれに期待したいと思う。(bk1書評)

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生命観を問いなおす (ちくま新書)
エコロジーから脳死まで
森岡 正博著 : 筑摩書房 : 1994.10