ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「宗教なき時代を生きるために」

2003年08月22日 | 読書
 森岡ワールド全開ですなぁ。
読んでて恥ずかしくなるときもあるけど、この人の実直さはどこへ向かうんだろうという興味と危うさを感じさせます。

結局、愛なのよね、「愛」、森岡さんのいいたいことは。
あ、そういうふうにまとめちゃうと森岡さんに怒られるかな。

宗教といえば、マルクス主義はどういう位置づけなのかしらん。信仰は持てない。科学も人生の謎を解けない。というとき、マルクス主義はどこに入るんだろう。やっぱマルクス教か?

<<私が「ほんとうの自分」を探し続けるために必要なのは、「謎」であって「理解」ではない。ディスコミュニケーションを生きるということ。それはみずからを「謎」に向かって開くということであり、「謎」から届く「魂の声」を受け取ろうともがき苦しむことである。言い方を変えれば、それこそが「エロス」ということの意味なのだと思う。」>>(221ー222頁)
 ここはわからない。なんで「それこそがエロス」なのだろう? 説明不足ではないか?

 いつか息子たちに読ませたい本です。中年のおばさんはちょっと引いてしまうわ。

 尾崎豊の評価、疑問あり。斉藤由貴との「不倫」についてなんで書いてないのだろう。これ、けっこう見逃せないことだと思うんだけど。

 これ読んでて思ったのは、森岡さんって小説書いたらいいんじゃないかと。

 宗教なき時代を生きるために / 森岡正博著. -- 法藏館, 1996

シャヒード、100の命:パレスチナで生きて死ぬこと

2003年08月19日 | 展覧会・美術展
 それはとても不思議な展覧会だった。

 小学校の体育館をふたまわりほど小さくしたホールの3方に白いパネルが張り巡らされ、そこには10センチ四方ほどのモノクロ写真が100枚貼られている。写真の下に一行の文字が書かれたプレート、その下に30センチ四方くらいの透明プラスチックの立方体が打ち付けてある。その透明の箱の中には、きちんと折りたたんだTシャツ、片方だけの靴、結婚式の写真、携帯電話、数学のノート、灰皿、ネックレス、手紙、帽子、などなど、ごくありふれた日用品が入っている。奇妙なのは、その一つ一つの日用品がすべて撚り糸で括られていることだ。

 会場全体がとても薄暗く、入り口から全体を眺めわたしてもいったい何が展示されているのかよくわからない。ただずらっと壁面に並んで出っ張っている透明な箱が目に付くだけ。一瞬、何かのアンデパンダン展かな、と錯覚するような奇妙でなんの変哲もない展示物の羅列である。

 だが、その展覧会がパレスチナで殺された人々の遺品を集めたものだとひとたび知るや、たちまち、ありふれたオブジェに政治の磁場が宿り、一枚ずつの顔写真が意味を波打たせて見る者に迫ってくる。

 「オブジェ」は、透明のケースから取り出して集めれば単なるゴミの山にしか過ぎない。それもほとんどが燃えないゴミだ。だが、パレスチナの人々にとってはどこにでもあるような見慣れた日用品がこのように集められ遺影とともにあることにより、日用品のシニフィアン(意味するもの)は追悼というシニフィエ(意味されるもの)へと変容する。
 そこに働く磁場は見るものを息苦しくさせる。パレスチナで殺された100人、一人ずつの写真と名前と遺品を順に眺めていると、だんだん意味の過剰に疲れてきてしまう。わたしたちはそこに横溢するシニフィエを抗うことなく受け止めることを強要される。こういって差し支えなければ、これは一つの暴力だ。平和な日本に住む人々の想像力を、暴力が横行する地へとかりたてる強烈な磁力である(はしなくも、パネリストの一人、富山一郎氏がわたしと同じような感想を述べていた)。

 見る者に安逸の世界を約束しないような、展覧会。見る者の感受性を試す展覧会。そして、そこから言葉を紡ぎ、知恵をめぐらせることを求める展覧会。それが、シャヒード(証言、証人)展だった。

 この展覧会のデザインを担当したパレスチナ人美術家のサミール・サラーメさんは、「死よりも生を見つめていたい。これ以上のパレスチナ人の死には我慢ならない。と同時に、イスラエル人の死も我慢ならない」と、シンポジウムで述べた。わたしはこの言葉に救われた気持ちがする。これ以上の暴力と流血は誰にとっても我慢ならない。誰の血であっても流されてはならない。そう思う。

 パレスチナの地では、自分達で決めた合意すら守らず国連の決議も無視してイスラエルの爆撃が続く。パレスチナ人を強制的に排除して植民を進める暴力国家イスラエル。追い詰められたパレスチナ人達はインティファーダとよばれる蜂起を決行し、中には自爆による攻撃をも辞さない若者達が後を絶たない。

 鵜飼哲氏が、「日本でよく自爆テロと報道されるが、あれは間違いである」と指摘された言葉が強く印象に残る。「テロとは、武力行使をする意志のない民間人に対する暴力である。武装していない民間人を攻撃することをテロと呼ぶ。そういう意味では、テロはアメリカがイラクでやったことだ。パレスチナ人がイスラエル兵相手に行う自爆は、テロではなく、自爆攻撃である。自爆という方法が問題なのであって、あれはテロとは呼ばない」

 自爆であろうが、銃による攻撃であろうが、もう互いを殺しあうことはやめるべきではないのか。平和への願いを込めて、なおかつ物事の一面的な報道への警鐘を鳴らす意味で、鵜飼氏はこのことを指摘されたと思う。

 京都でのシンポジウムは2時に始まり、終わったのは7時半。わたしが少し遅刻して会場に到着したときには椅子が足りないほどの盛会だった。延々5時間半もの長丁場だったが、聴衆はほとんど減ることなく、熱心に最後まで聞き入っていた。わたしも最後まで退屈せず議論に集中して聞き入ることができた。こういうシンポジウムも珍しい。

 京都シンポジウムの詳細は以下のとおり(シャヒード展のHPより)

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 「証言とその奥行き/モノと人間のはざまで言葉は…」
日時: 8月17日 午後2時~6時30分
会場:立命館大学国際平和ミュージアム
出席者:サミール・サラーメ、鵜飼哲(一橋大学)、冨山一郎(大阪大学)、 井上明彦(京都市芸術大学)、細見和之(大阪府立大学)、岡真理(京都大学)、崎山政毅(立命館大学)、西成彦(立命館大学)
入場無料
主催:「シャヒード、100の命」展実行委員会
共催:立命館大学国際平和ミュージアム、立命館大学国際言語文化研究所
協力:「シャヒード展」京都準備会


趣旨:
この追悼展は、2000年9月29日に始まった民衆蜂起アル・アクサ・インティファーダの戦没者を記念するために考案されました。その目的は、わたしたちを取り巻いている「死」に光をあて、日々の死者数という無味乾燥で個性のない表現を打破し、喪失感とその不当性に耐えていかねばならない遺族の方々に敬意を表することにあります。シャヒードに人間らしい敬意を払う方法は、この人たちの人生を、愛情と尊厳を込めて世に知らしめることではないかと思われました。この人たちを人間として─ひとりの少年として、ティーンエジャーとして、若者として、父親として、祖父として、祖母として─とらえようとすること。この人たちの人生の広がりを感じとるため、逸話や玩具や写真などを通じて、その現実や夢を理解しようとすること。それぞれのオブジェの平凡さが、現実そのままの人生を回想することの助けになります。語源的には、シャヒードとは「誠実な証人」 "faithful witness"という意味です。それゆえ、この100の人生の記録のひとつひとつが証言であり、それらは全体として単純な合計よりも大きなものを示していると言えるでしょう。パレスチナ人であることの意味、それぞれの人生に引きつがれ、その軌跡を決定することになった条件を、雄弁に語るものです。シャヒードたちは年齢や素性や出身地にかかわらず、占領によって手枷足枷をはめられた生活という現実を共有していました。このような状況のもとをたどれば、ナクバ[1948年のイスラエル建国に伴う祖国喪失]によって一族全体が住んでいた土地を追われ、すべてを失ったということに行きつきます。それ以降も、よりよい生活をめざす機会は拒まれ、難民としての惨めな生活が続きました。権利の喪失、隷属、中断された子供時代、「オデュッセイア」風の異境放浪、住居破壊、殺害、傷害、投獄などの物語がとめどなく繰り返されました。占領のくびきを逃れたかのように見えた人々も、最終的にはその影響に屈して困窮の中で早世していきました。それでも、これらの人生は、押さえつけることのできない人間の自由への憧れと不屈の闘争心を表現しています。いつの日か、わたしたちも、死者を弔うばかりでなく、彼らに許されるべきであった《自由に生きる》ということが、できるようになることを願ってやみません。

白河法皇 (NHKブックス)

2003年08月16日 | 読書
白河法皇 (NHKブックス): 中世をひらいた帝王
美川 圭著 : 日本放送出版協会 : 2003.6


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わたしの中世史に関する知識なんて高校教科書程度のもの。
 そんなわたしにもわかるように、この本は様ざまな工夫を凝らしてある。読みにくい漢字にはルビを振り、重要な事項は繰り返し何度も説明してくれるし、写真や図も豊富で、現在の京都の街並に親しみのある人なら容易に当時の風景にも想像をめぐらせることができる。

 白河法皇といえば、「我が意のままにならぬのは賀茂川の水と双六の賽、そして山法師」と言ったとかいう逸話が残っている人物で、その三つ以外のものは何でもほしいままにできた専制君主のように思われているが、本書は「希代の専制君主」の実像に迫り、法皇も実は時代の流れに翻弄された一人に過ぎないことを明らかにしている。

 「時代の大きなうねりのなか、彼の行為が、その意志とはべつのかたちで、時代を前へ前へと進めていくように作用しはじめる」(「はじめに」より)

 意図と結果の乖離が歴史を動かしてきたという史観に基づく叙述により、読者は白河法皇という強烈な個性の持ち主の伝記を読みながらいつしか、古都平安京が中世都市へと変貌していく歴史模様を、歴史と個人のかかわりというダイナミズムの中で堪能することができるだろう。

 本書巻末「あとがき」に少し触れられただけだが、白河法皇の性癖や不倫の話題など艶話もなかなか楽しい。特に、これをテレビドラマ化してヒロインは誰それに演じてもらい…というくだりでは著者のうれしそうな表情が目に浮かぶ。

 本書に飽き足らない人は『院政の研究』をどうぞ。ただし、そっちは専門書だし大部だし高いし、チャレンジ精神が旺盛でないと読めないでしょう。
 え? もちろんわたしには無理(汗)(bk1)




ヘルタースケルター

2003年08月05日 | 読書
ヘルタースケルター
岡崎 京子著 : 祥伝社 : 2003.4

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 いま流行りのプチ整形なんてもんじゃない、全身整形でサイボーグのように作り上げられたタレント・りりこ。彼女の崩れていくからだ・美への執着とあせりが見事に描かれた傑作。

 欲望の増大が消費をあおり資本を拡大再生産させる末期的資本主義社会の病理を、力と勢いのあるクロッキー画調で描いていく岡崎京子は、ただものではない。

 この作品に溢れる、生きるエネルギーへと向かわない退廃的エロスと倦怠の香りは、映画「スワロウテイル」や田口ランディの小説に通底するものを感じる。それは混沌であり、漠然とした不平不満であり、未来への不安であり、アイデンティティの喪失であり、なによりも孤独である。

 ここには、身体論・消費文化論・社会意識論・アイデンティティ論を縦横に駆使する現代社会の呈示がある。岡崎京子のような才能ある漫画家が描くと、その独特の世界が学者の幾百代言よりも饒舌に現代社会の暗部をつまびらかにできる。

 もしこの物語に麻田という若き検事が登場しなければ、皮相をなでただけの浅薄な作品しか生まれなかったに違いない。りりこの双子の兄のごとく象徴的に存在する麻田、彼こそが現代消費文化の一翼をりりこと共に担う権力の側の象徴だ。りりこを追いつめ断罪し、なおかつもっとも深い共感をよせる人間が、警察官ではなく検察官であるところがミソ。現場の捜査にあたるノンエリート刑事ではなく、検事というエリートがりりこの鏡像として登場するところが、岡崎京子の深い思想を表している。

 なんといっても、りりこが消費文化の単なる被害者ではないところがいい。彼女のしたたかさや強さは、消費され尽くしたタレント・りりこの再生によって新たな展開=転回をみる。そのゾクゾクする端緒が見えたラストシーン、これには総毛立ったね。一筋縄ではいかないよ、りりこは。

 欲望の翼で軽々と飛翔する消費社会の申し子・りりこのアクロバティックなリベンジを見たい。岡崎氏には早く社会復帰されて続編を描いてもらえるよう、切に願う。

 小理屈をああだこうだとこねるより、この作品の圧倒的なパワーと毒の前にひれ伏すことにしよう。おもしろいっ。