ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「歴史哲学講義」

2003年01月30日 | 読書
 本書は訳が平明でとてもわかりやすい。ヘーゲルといったって、『大論理学』なんざお手上げだけど、こちらは中学・高校の世界史教科書並みの読みやすさ。

 これを読むと、マルクスはヘーゲルの弟子なのだとよくわかる。歴史は常に生成発展し、いっときも同じところにとどまってはいない。そして世界史とは、東洋を見下して発展し、アフリカや南北アメリカ大陸を歴史の場としては無視して発展してきたものだという史観が彼らに共通していることも確認できる。さらに、歴史はある崇高な目的に向かって発展しているというユートピア的発想も共通している。

マルクスは、人類が階級闘争の歴史を経て真の歴史(=共産主義社会)を手に入れると説いた。ヘーゲルは、理性が支配する「いま、ここ、わたし」に向かって歴史が発展してきたと説き、その究極の姿が理性によって導かれる国家(ゲルマン国家)だという。

 ポストモダニズムの時代を生きるわたしたちには、ヘーゲルがなんの迷いもなく断言し、なんの衒(てら)いもなく掲げる「理性」だの「自由」だの「道徳」だのといった言葉に薄ら寒さを覚える。
 自由ってなに? ヘーゲルの自由とサルトルの自由はどこが違うのか? 古代ローマの自由と21世紀の自由はどこが違うのか? そういった疑問をずっと胸に抱きつつ本書を読みすすめ、とうとう最後までその疑問・違和感は消えない。隔靴掻痒の感あり、とはまさにこのこと。
 人間にとって普遍の理想や普遍の真理など存在しない。そのことを強く実感したことが本書を読んで得たことだ。まさにヘーゲルがそういったものが存在するかのごとく歴史を語る、その語り口を読めば読むほど逆にそう感じる。

 ヘーゲルの度し難い東洋蔑視観がよく現れているのが、インドと中国の歴史を描いた部分である。実はここが一番おもしろかった。例えばインド人についてはこうだ。

 インド人は「歴史を書くことができない」。「ある王の支配が7万年以上もつづいた」「宇宙進化の祖ブラフマンは、200億年を生きた」、ある王の「隠遁生活は1万年」、などという、非論理的な数字を持ち出す、とな。

 で、『歴史哲学講義』にしばしば登場する有名なテーゼを紹介しておこう。

 東洋人は一人が自由だと知るだけであり、
 ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、
 ゲルマン人はすべての人間が自由だと知っている

 こういう「名言」を覚えておくと、おしゃれな会話に援用できて、goodかもしれない(笑)。(bk1投稿書評)

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歴史哲学講義 (岩波文庫)
ヘーゲル著 長谷川 宏訳
岩波書店 : 1994.8



「パレード」

2003年01月21日 | 読書
 ヤスケンさんには酷評だった「センセイの鞄」、でもわたしはいたく感動した。正直言って、あんな小学生の作文みたいな小説に感動するのは悔しいのだ。でもよかったのだからしょうがない。

 なので、ついついこんな薄っぺらい本も買ってしまったのだ。
 だって、あのセンセイとツキコさんが出てくるのだから。

 「センセイの鞄」を読んでいる読者には、二人がそうめんを調理して食べる、その冒頭の描写だけで、もう暖かく凛とした気持ちに入っていくことができる。思わずそうめんを食べたくなるようなおいしそうな描写といい、子どもの頃の不思議な物語、そしてセンセイの暖かい手、すべてがツキコという40に手の届く女性の心とからだの芯の深いところで一度鳴り響いてから、読者の胸元にすっと入ってくるのだ。
 
 小学生の作文のよう、と書いたが、川上弘美は擬態語・擬声語の表現が実にうまい。特段に目新しい表現があるわけでもないのに、どきりとする新鮮さがある。そして、身体感覚の表現が斬新だ。気まずさに冷や汗をかきそうな場面で、「指先が縮んでいくような気持ち」と表現されてしまったら、もう「参った」と言うしかない。

 この作品は、小学生の頃に誰もが一度は経験したような、切なくてほろ苦くて心が痛くて少し優しい想い出が読者を満たしてくれる、大人のための童話だ。
 センセイの手が暖かい。何度も出てくる、この手の描写が秀逸。70歳のセンセイの手は乾いて節くれだっているだろう。だけど齢の数だけきっとやさしい。握られていたいと思う、こんな手に。

 この本を読む前に、「センセイの鞄」を読むべし。センセイのすっと伸びた背筋と凛とした声を感じながら、「パレード」をしみじみ楽しむことができる。

 こんな短い話で1000円? うーん。ま、いっか。

 ※これを書き終えて、ヤスケンさんのご逝去を知りました。
   ご冥福をお祈りします。合掌。
(bk1投稿書評)

母から母へ

2003年01月17日 | 読書
 学生時代からの友人峯陽一くんが、おつれあいのコザ・アリーンさんと共訳書を出版された。彼らは1999年から2年間南アフリカ共和国へ家族連れで留学していた。彼らの出発前に歓送会を開き、帰国したときには歓迎会を京都で開いた。2年の間に子ども達はすっかり大きくなり、バイリンガルどころかトリリンガルになって帰ってきた。京都の小学校へ編入されたお嬢ちゃん(当時小学1年)は、日本の公教育が肌になじまず、宿題のあることにとまどっていたという話を歓迎会で聞いた。それから既にまた2年が経とうとしている。

 訳者二人が一緒に出す本は初めてではないだろうか。すでに峯氏の「現代アフリカと開発経済学」については感想を書いたが、今度は小説だ。それも南アフリカ女性作家の作品である。遠い南アフリカの小説など読んだことのある日本人は少ないに違いない。もちろんわたしも読んだことはなかった。峯氏が訳しているのでなければ、読まなかっただろう。そういう意味では、南アフリカの小説をわたしに教えてくれた峯氏に大いに感謝している。このようなすぐれた作品があったとは、不覚にも今まで知らずにいたのだ。

 小説の翻訳に関しては、訳者たちはプロではないはずだ。峯氏の専門は経済学。コザさんの専門は技術翻訳。だが、この小説は訳がとてもいいのだろう、たいそう読みやすく、文体も躍動感にあふれ、少々エキセントリックな表現も、見事にその雰囲気をかもし出している。

 この作品はフィクションであるが、1993年に実際に起こった女子大生殺害事件をベースに書かれている。殺されたのはアメリカからの留学生、白人、女。殺したのは南アの黒人、若者、男。アパルトヘイトが撤廃された最初の選挙、その選挙を手伝うためにやってきた白人女性を殺してしまった黒人たち、これほどの悲劇があろうか?

 物語は、加害者の母から被害者の母へあてた手紙から始まる。
 「私の息子が、あなたの娘さんを殺しました」
 なぜ息子が白人女性を殺したのだろう? なぜ、なぜ? 加害者の母の一人称で語られるこの物語は、息子の物語ではなく、母の物語。時代を超え、国境を越えて普遍的な苦しみを背負うすべての女に共通の物語。
 家族制度のおもりを引きずり、自分の生を生きることなく、怨嗟の中で年老いていく女の物語。
 この作品を読む日本の女性も、決して他人事とは思えないその女の歴史に共鳴し、慟哭するだろう。

 教育のない女性の一人語りとは思えない知性に満ちたその語りは、力とスピード感に溢れ、読者は一気に物語世界に吸い込まれて最後まで読み進んでしまう。実はここが不思議な点だったのだ。作者のシンディウェ・マゴナはアメリカへの留学経験をもつインテリ女性だ。彼女が代弁した故郷の無学な女性の半生は、教養のない女性の語りにしては不自然だ。こういう感想を抱いたのはわたしだけではないようで、訳者あとがきにもそのような批判があることが書かれている。そしてそれに対して、訳者の反論も用意されている。
「無教育の黒人女性が洗練された英語を使ってはならないとでもいうのだろうか。……マゴナはどうやって英語を身につけたのだろう。彼女が育ったググレトゥには、本屋などなかった。しかし、彼女の「隣のおばさん」は白人家庭の召使いをしており、「奥さまの子どもたち」が読まなくなった本をもらっては、本好きのマゴナに与えてくれていたという」。

 しかし、マゴナが真に才能ある作家ならば、「無学な女性」の文体で豊かな内容と知性と知恵が感じられる小説を書けるはずだ(「無学な女性」は、無知で無教養かもしれないが、豊かな知恵と感性にあふれていないとは言えまい)。じっさい、そのようなものをわたしはアメリカ黒人女性文学の作品にあるのを知っている。
 ここにおいて感じることは、サバルタンの語りの困難性だ。サバルタンとは、従属世界の抑圧された存在を意味する。具体的には、この場合、南アフリカ共和国の貧しい黒人女性を指す。訳者あとがきによれば、マゴナは代弁者として自分を位置付けているようだ。自分自身が加害者の母になっていたかもしれないという切実さをマゴナが感じていたとしても、あくまでも彼女は代弁者に過ぎない。サバルタンは語りえないのか? サバルタン自らの言葉では何も表現できないのだろうか?
 わたしはマゴナの作品の意義が小さいなどと言いたいのではない。表現することの難しさを痛感してしまうのだ。

 この作品じたいは、南アフリカ黒人女性の苦しみがひしひしと伝わる見事な筆致に彩られている。しかも、その眼差しは遠い先祖の歴史時代にまで及ぶ、重層的なふくらみをもつ。それは、あくまでもマゴナという知識人が描いた世界だ。
 ただ、こういうことを書くと、それではいっさいの(ノン)フィクションが成立しないということになってしまう。自分が体験したことしか書けないし、サバルタン自身が語ったこと以外には<真実>が存在しないことになってしまう。それは違うだろう。

 スピヴァクはこう言う。「みずから知っていて語ることができ、代表しようにも代表しえないサバルタン的主体などといったものは、そもそも存在しない。……知識人のとるべき解決策は代表することから身を引くことではない」(G.C.スピヴァク著「サバルタンは語ることができるか」みすず書房、1998年、44頁)。

 今はこれ以上の論を展開できない。わたしにはまだまだわからないことが多すぎる。

 さらに不満点をつけ加えれば、母の生い立ち、その哀しみや痛みはよく伝わってくるのだが、かんじんの殺人犯である息子がほとんど描かれていないことだ。だから、この小説の冒頭に、なぜ息子が殺人を犯したのか、「あなたは、私の息子を理解しなければなりません」と書いてあるにも関らず、それが結局最後まで明らかにならない。読者は大いなる想像力を駆使してそのことに思いを馳せねばならない。単純化してしまえば、「殺害の動機は、白人入植者が圧倒的多数の黒人を抑圧し搾取してきたその歴史に対する怒りである」と言える。だが、そんなことは読まなくてもわかっている歴史的事実であり、黒人の集合意識である。わたしが知りたかったのは、個別具体的な人々の生と、社会意識と自我のはざまで揺れる心だ。この小説が母の一人語りである以上、息子の内面に深く分け入るのには限界がある。もう一つの物語として、息子の語りが必要ではなかったか。

 さて、「母から母へ」と題しながら、一方の母(被害者の母)はここには登場しない。それがもう一つの不満なのだが、それに対しても訳者はこのように言う。
「虐げられた側に架橋の努力を強制することはできない。求められているのは、むしろ壁のこちら側からの想像力ではないだろうか」

 かくのごとく、特筆すべきは訳者あとがきの充実ぶりだ。優れた小説論であるだけではなく、物語の背景となった南アフリカの歴史の簡潔な解説も本作品の理解に大いに役立つ。文献紹介もあり、この「あとがき」だけでも立派な一つの作品になっている。正直に言えば、小説本編よりもこのあとがきの方が優れていると感じた。と書けば誉めすぎだろうか。

 いろいろ厳しいことも書いたけれど、この小説が一気に読み通すことのできる力にあふれた作品であることは間違いない。遠い南アフリカの女性の嘆きが聞こえてくる。それは遠い国の遠い出来事としてではなく、読者の現前に生き生きと立ち現れる。そしてわたしは、深いため息の底から、わたしたちのなすべきことを次に考えている自分に気づく。

 読後二日経って、ますます心にずっしり響いてきた。いい作品です。皆さん、ぜひ読んでください。

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「母から母へ」
シンディウェ・マゴナ著 ; 峯陽一, コザ・アリーン訳: 現代企画室, 2002

「社会学がわかる事典」

2003年01月09日 | 読書
 とにかくわかりやすい、読みやすい、おもしろい、退屈しない。

「大学教師は社会性に欠けたパーソナリティを持ち、大学教員以外にはできる仕事がない。だから、大学がなければ彼らは直ちに失業者に堕ちる。それは何万人もの犯罪者予備軍の存在を意味する。いっぽうの犯罪者予備軍であるモラトリアム若人を大量に収容しているのも大学。大学ではこの二つの犯罪者予備軍が出会う。大学は彼らを野放しにしないというそれなりの存在意義をもっている」
 という主旨の、ドキッとすることが平然と書いてあって、読み物としてもたいそうおもしろい。

 難解な概念を、日常生活の豊富な具体例を挙げて説明してあるのですっと頭に入る。「事典」と銘打ってあるが、読み物としてのエンタメ性は極めて高い。

 「クロニクル社会学」(有斐閣)が、社会学者の評伝であったのに対し、本書は概念の解説になっていて、両書がそれぞれの欠落を埋めるよい補遺となっている。

 初学者は二冊とも買って読もう。(bk1投稿書評)

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社会学がわかる事典 :読みこなし使いこなし活用自在
森下 伸也著: 日本実業出版社 : 2000.12



「夜と霧」新版

2003年01月09日 | 読書
 ナチスの強制収容所でなにが起こったか、今や多くの人が知っている。
 映画で、TV番組で、TVの戦争特集で、小説で、漫画で……。

 今更もう新しい知見などない? そうだろうか。強制収容所に暮らし、そこから奇跡的に生還した心理学者が極限の状態の中で何を見、何を感じ、何をしたか、つぶさに知ることは、単に古くおぞましい記憶を手繰り寄せ反芻すること以上の意味をもっている。

 第二次大戦後、「アンネの日記」とともにロングセラーとなって読みつがれてきたという本書を、恥ずかしながらわたしは読んだことがなかった。このたび、新版に基づく新訳が出版されたのを知って初めて目にしたわけだが、訳は平明で読みやすく、やはり評判どおりの深い示唆に富むすぐれたドキュメントだった。

 
 ユダヤ人でかつ高名な心理学者である著者が、自分をも分析対象にして、強制収容所での人々の心理状態をつぶさに著していく。いわば、「参与観察」の結果が本書の内容なのだ。ここでは、絶望の中で人はどのように生き延びるのか、あるいはその絶望ゆえにどのように命を落とすのか、心理学者の克明な描写が胸をえぐる。

 平和な時代、「極限の状況」などに陥るはずのないわたしたちですら、ここに書かれた内容が、人はいかに生きるべきかという普遍的なテーマにつながることをひしひしと感じる。ある意味で人はいつだって極限状況に陥りながら生きているのだ。希望と絶望は常にわたしたちのまわりをゆらめき、大きな重圧に、あるいはさまざまな些細なことにすら心が押しつぶされそうになる。

 心が疲れているときに読めば、きっと励ましになることが書いてある。いわば説教臭い教訓が書いてあるともいえるのだが、その言葉が空疎に響かない。ホロコーストを生き延びた人の魂の奥底から出た言葉には普遍的な力がある。

 収容所で人間の尊厳を生きのびさせる力が<知性>であったことを心に刻もう。人のよすがとなる最後の品格を支えるものは知性だ。そして知性は豊かな感性に裏打ちされる。

 わたしが教師なら、夏休みの課題図書に選定したい。若人よ、ぜひ読んでほしい!

 そして本書を読んだら、次は「カフカの恋人ミレナ」(平凡社ライブラリー)を読もう。ナチスの収容所で最後まで誇りと明るさを失わなかった知性溢れる女性の生涯が描かれている。(bk1投稿書評)

「宙返り」

2003年01月08日 | 読書
 「宙返り」とは、転向を指す。教祖が「神をこけにした」、ある新興宗教団体をめぐる物語。オウム真理教事件をヒントに書かれたらしい(オウムは実名で登場する)が、こちらの新興宗教は仏教系ではなく、キリスト教の一宗派である。

 大江健三郎は強い自己言及癖をもつ作家だ。一人称の作品が多く、またその主人公が明らかに作者本人である場合が多い。それだけではなく、小説の中で過去の自作に言及したりほのめかしたりする。明白な連作を除けば、小説とは一つ一つが完結したものであるべきだとわたしは考えるが、大江作品に関しては、過去の小説を読んでいなければ理解できない/しにくい作品が多い。今回も、毎度おなじみのネーミングをもつ様々な人々や集団が登場する。大江健三郎の卓抜で奇妙なネーミングも古くからの読者にはおなじみで、懐かしさすら漂う。

 この作品を、わたしは楽しむことができなかった。とても読みづらいのだ。長くて長くて途中で飽きてくる。なぜこんなにも細々(こまごま)と書き込む必要があるのだろう? ずっと疑問が頭から離れない。そもそも新興宗教団体の教義はなんなのだ? キリスト教の一派だということはわかる。しかし、肝心の教義がさっぱり鮮明に見えてこない。「悔い改めよ」というスローガン以外には何も伝わってこない。
 そのうえ、師匠(パトロン)と呼ばれる教祖がTV出演して自らの教団を徹底的に茶化して全否定したというその「宙返り」の具体的内容が書かれていないため、歯がゆい。なぜ科白の入った場面を書かないのだろう? 現在進行形で進む物語は極めて詳細に、それこそ微に入り細にわたり描いてあるのに。
 物語の筋道は矛盾だらけだ。登場人物はやたらに多い。一つ一つにどんな関連があるのかよく分らない。寄り道が多すぎるような気がする。小説としては不可解な点が多い。たぶん、一度読んだだけでは理解できないのだろう。

 何度も同じ叙述が繰り返され、物語は遅々として進まず、肝心の部分はぼやけてよく見えず、という状態がずっと続く。ところが、この小説をとてもおもしろく読んだとかいう感想や書評をよく目にするのだ。どうやらわたしの読解力と忍耐力のほうに問題があるらしい。長編を読むだけの体力がないのだろうか。そもそも読み方に問題があるのだ。それはわかっている。15分とか20分とかの細切れの時間で本を読んだりするからいけないのだろう。いや、はなはだしいときは5分刻みにページを閉じてほかのことをしている。その上、この小説のあいまに田口ランディの小説を4冊と、ノンフィクションやら専門書やらを数冊読んでしまった。そんなこんなで「宙返り」を読了するのに一ヶ月もかかったではないか。

 大江健三郎は、転向を主題に既に小説を書いている。「遅れてきた青年」(1962年)がそれだ。「遅れてきた青年」を転向小説だと言うのは間違っているのかもしれないが、国家ごと転向した日本という国の無節操さと、人々の根無し草の無責任さを描いていたと思う(不確かな記憶をもとに書いているのでほかの作品とごっちゃになっていたらごめんなさい)。そして、その「転向」に責任をとらない人々への抗議を。
 一億総転向ともいうべき時代に乗り遅れた青年の怨嗟が描かれた「遅れてきた青年」、それから40年も経って、大江は宗教を題材に一人の原理主義者の転向を描いている。

 なぜいま宗教なのか? 既に政治的転向については描くことがないから? 人々の寄る辺となるものはもはや政治思想ではなく、宗教だとでもいうのだろうか。宗教集団内のセクト争いや査問など、容易に日本の左翼運動を想起させる叙述が頻出するこの小説を読みながらわたしが思い出していたのは、高橋和巳「邪宗門」だ。高橋の「邪宗門」は上質のエンターテインメント作品だった。その長さにもかかわらず最後まで読者を飽きさせない、血湧き肉踊るスペクタクルに仕上がっている。「邪宗門」も新興宗教団体を題材にしながら、左翼反権力闘争の夢と現実を描いていた。わたしは「邪宗門」と「宙返り」に共通するものを感じながらも、やはり時代の隔たりを痛感せざるを得ない。絶望的なのは「邪宗門」の方だが(そもそも、高橋和巳の小説で絶望的でないものなどない!)、それでもその宗教団体にとっての明確なビジョンや目的といったものが見えていたと思う。一方、「宙返り」ではそういう単純な構造にはなっていないのだ。物語は教祖(師匠)と信者たちを描きながら、全然宗教の匂いがしない。もはや、未来へ向けたビジョンなど語りえない時代だというのだろうか。

 だらだらと退屈な作品だと書いたが、終章へ到るカタストロフィは感動的な盛り上がりだった。結局最後の一行に嘆息してしまった。これだから大江健三郎ファンをやめることができない。感動してしまったじゃないか。

 信仰心を持たない画家を主人公にしたところがこの小説の最大のキイだ。信者ではない初老の画家を、生まれ変わった教団の最重要ポストにつけてしまう師匠(パトロン)の思惑など、どうにも物語の道行き上、不可解なことが多いのだが、終章まで読み着いて、すべてが腑に落ちた。この物語は、教義なき教団を描いているのだ。この物語にとって教義などどうでもよかったのではないか。われわれは宗教なき時代に生きている。神なくして生きる方途を求める人々は、どのように生きるべきなのか、そしてどのように死ぬべきなのか? 末期癌を患う画家が死を目前にしてとるさまざまな行動や思考を読者は共にたどりながら、その答を得ようとしている自分に気づく。
 答はない。答は示されていない。ただ、われわれはこれからも、いやまさにこれからこそ、<「魂のこと」をする>必要があるという強烈なメッセージを得る。

 「場所が持つ力」を大江は繰り返し述べる。四国の山深い森の「場」がもつ力。それをわたしは「小説という場が持つ力」と読み替えた。文学は死んでいない。死なせてはならない。わたしは大江健三郎からそういう声を聞いた。そういう作品だった。

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「宙返り」
大江健三郎著 講談社(講談社文庫) 2002年