ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

オーストラリア

2009年03月21日 | 映画レビュー
オーストラリア版「風と共に去りぬ」と言われている、山あり谷ありの大河ドラマ。山場をいくつも設定したために散漫になってしまった印象も。

 アボリジニの子どもたちの強制隔離政策への批判と反省が込められた映画だけに、「国民的統合」を狙った国民映画である。異文化・多文化の和解・統合がありえるのか、と問う内容であるが、それゆえ各方面に目配りが利きすぎて今一歩深め方が足りないのが不満。しかしなかなか感動的で、最後はけっこう泣けます。 

 舞台は1939年のオーストラリア奥地、砂漠のように乾いた大地の中にポツンと建つ立派な屋敷「ファラウェイ・ダウンズ」。ここにイギリス本国からやってきたのは土地の持ち主の妻であるサラ・アシュレイ。行方不明の夫を捜してやってきたサラが、夫の死と直面し、土地を守るために荒くれ牛追い人ドローヴァーと共に1500頭の牛を引き連れ、北部の町ダーウィンへと旅立つ。貴婦人サラと野人ドローヴァーは何かと反発し合うが、やがて二人は一致協力して艱難辛苦を乗り越えるうちに愛し合うようになり…

 という、アドヴェンチャー・ロマン。オープニング、船からダーウィンの町に降り立った貴婦人サラが、いきなりクローヴァーの乱暴な出迎えを受けて叫び声を上げるシーンから、続いて奥地へと砂漠の中をおんぼろジープで疾走する場面まで、漫才のような会話が続く、テンポのいい展開。つかみはコミカルで、いかにものステレオタイプの人物紹介部分は、本物のハリウッド映画の王道をいくかのような演出だ。まさに「風と共に去りぬ」。その後の展開も予想通りだが、サラとドローヴァーという生まれも育ちも正反対の二人が異文化どうしのぶつかり合いからいつしか惹かれあうようになるその過程で、アボリジニの少年ナラが大きな役割を果たす。演じるブランドン・ウォルターズは、1000人のアボリジニ少年からオーディションを通過して選ばれたというだけあって、大きな瞳が神秘的で引き込むような魅力を持っている。1974年まで、オーストラリアではアボリジニと白人の混血児を親から引き離す隔離政策がとられていたが、これへの批判と反省という大きなテーマがあるところが、バズ・ラーマン監督の気合いの入った部分だ。

 アボリジニと白人との混血であるナラは、祖父で祈祷師のキング・ジョージから不思議な力を譲り受けている。この映画では、アボリジニの神秘的な力が強調され、ファンタジー色が濃い。ちょっと信じがたいような奇跡がいくつも起きるのだが、「まあ、映画だからえっか」と思うことにする。なにしろ、映画の中で何度も言及され、音楽が引用される「オズの魔法使い」がこの物語の底流に流れているのだから、不思議なことがいくつ起きても構わないのだ。 

 1939年といえば第2次世界大戦が始まった年。映画の中でも年月が経ち、やがて真珠湾攻撃の日を迎える。日本軍はオーストラリア北部のダーウィンにも空爆を60回行ったということで、この映画の後半のハイライトはダーウィンが廃墟と化す場面である。

 映画の中で繰り返し問い返されるのは、異文化への理解の努力がともすれば同化の強要へと転化するという問題だ。貴婦人サラはアボリジニに対する偏見をもたない女性で、ナラを我が子のように愛する。しかし、それはアボリジニの文化や伝統を理解した上での話ではなく、彼女はあくまでもナラを白人世界に留め置こうとする。また、同じ白人でも、貴族のサラと牛追い人のドローヴァーとの文化の違いがまた二人の愛に亀裂を生んでしまう。異なる民族、異なる階級間での愛は可能なのか、相互理解は可能なのか、という現在の問題意識からこの映画は作られている。だから、最後にサラがとる行動は、1940年代のオーストラリアでは一般的ではなかったであろうが、現代的な視点からは<政治的に正しい>のである。

 颯爽と馬を駆る西部劇のような場面あり、ロマンあり、ファンタジーあり、戦争スペクタクルあり、という、映画的にはたいへん美味しいところを全部取り込んだ作品で、お腹いっぱいの気分を味わえる。

------------------------------------------
オーストラリ
AUSTRALIA
オーストラリア 、2008年、上映時間 165分
製作・監督・脚本: バズ・ラーマン、音楽: デヴィッド・ハーシュフェルダー
出演: ニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン、デヴィッド・ウェンハム、
ブライアン・ブラウン、ジャック・トンプソン、デヴィッド・ガルピリル、ブランドン・ウォルターズ、デヴィッド・ングームブージャラ

シリアの花嫁

2009年03月20日 | 映画レビュー
 シリアのゴラン高原をイスラエルが占拠したのは1967年。それ以来、この地に住むイスラム少数派ドゥルーズ派の人々は生活圏を国境線によって分断されてしまった。本作は、その国境<ボーダー>の周辺で起きる一組の結婚式の様子を描いて、わたしたちにボーダーの意味を問う。 

 国境線を越えれば二度と家族に会えない。そんな決意をしてまで、なぜ一度も会ったことのない花婿に嫁ぐのか? ここが理解できないと、この映画の評価がかなり変わってしまう。ドゥルーズ派の人々にとって、親戚と結婚するのは当たり前のことであり、それが最も安心安全な結婚だという。だが、彼らの居住地に武力によって国境線が引かれ、民族が分断された。家族がばらばらになって、二度と会えないという事態が起きている、これは朝鮮半島の38度線で今も続いている悲劇と同じだ。

 本作は、イスラエル側の花嫁がシリア側の花婿へと嫁ごうとするその一日を追った物語。国境の中立地帯(No man's land)をはさんで、足止めされた花嫁と花嫁を待つ花婿が互いを求めて叫び合う姿は悲しい。本当ならば花嫁は国境を越えて嫁いでいくはずだったのに、越境手続きが変わったためにそれがままならなくなった。国家の威信をかけて花嫁を通そうとしないシリア側も意固地だが、イスラエル側もまた同じ。間に立った赤十字のフランス人女性が何度も国境線を行ったり来たりするが、事態は前に進まない。わたしも見ていてイライラじりじりさせられる。

 今目の前にいる一組のカップルの幸せよりも国家の威信や建前が大事という発想は、イスラエル側もシリア側も同じ。イスラム国家であろうとユダヤ国家であろうと、国家である限りは法を遵守し法権力を行使することが金科玉条となる。

 花嫁が「この結婚でいいのかしら」と迷い悩む場面は、わたしにも素直に納得できる。何しろ相手はテレビスターであり、実際には会ったことなどない男だ。親戚とはいえ、この結婚がうまくいくかどうかの保証はない。一度国境を越えてシリア国籍を持てば、もうイスラエルには戻れないのだ。結婚に失敗しても帰る家はない。そこまでして無理に結婚する必要もないだろうに、とわたしなどはつい考えてしまうのだが、そうは思わないのがドゥルーズ派の人々の伝統であり文化であり風習である。この結婚に疑義を感じるわたしの感覚が既にして西洋近代の個人主義の考えなのだ。結婚は個人と個人の合意にのみ基づいて行われるべきもの。そういう価値観を是として生きている限り、この親族婚には疑問符しかつかない。こういう作品を見ると、わたしにとっての他者はいろんなところに存在していると実感する。

 しかし、最後に花嫁がとった行動には思わず快哉を叫んでしまう。自らの意志で、自らの選択で、自分の足で一歩を踏み出す花嫁の勇気ある決然とした行動には思わず胸すく思いがする。男女に関係なく、自分の意志で未来を切り開く責任感と自立心を持った人にはわたしは共感を覚えるのだ。女が(男も)自分の意志で自らの未来を切り開こうとする姿には素直に感動するし、そうでなければならない、と思う。だからこそ、このラストシーンには希望の光が見えると同時に、一瞬先の闇にもまた思いが馳せる。花嫁の未来は果たしてあるのか?

 たった一組のカップルが結婚するというそのことが命がけになる、この事態こそが異様なのだ。このような世界をわたしたちが作ってしまったのはなぜなのだろう? 近い将来に、わたしたちは異文化への敵愾心や国家の威信よりも大事なものへ思いを馳せることができる、そんな社会を築くことができるのだろうか? 希望と絶望がないまぜになったこのラストシーンはわたしたちにさまざまなことを語りかけている。

 テーマの重苦しさ、生真面目さにも拘わらず、映画はユーモアを忘れない。したたかで浮気性の男や、小心者の役人、国境付近の愉快な人々など、息抜き的な面白さがこの映画にパワーを与えている。

---------------
シリアの花嫁
THE SYRIAN BRIDE
イスラエル/フランス/ドイツ 、2004年、上映時間 97分
監督: エラン・リクリス、製作: ベティーナ・ブロケンパーほか、脚本: スハ・アラフ、エラン・リクリス
出演: ヒアム・アッバス、マクラム・J・フーリ、クララ・フーリ、アシュラフ・バルフム、ジュリー=アンヌ・ロス、ウーリ・ガヴリエル

緊急のお願い。図書運搬ボランティア募集! 本を救え!大作戦

2009年03月18日 | 図書館
ボランティアの募集は締め切りました。多くの方々からお申し出をいただき、エル・ライブラリーのスタッフ一同は感激しています! 詳細は今後、エル・ライブラリーのブログ
http://d.hatena.ne.jp/l-library/
で報告していきますので、ぜひご注目ください。
ありがとうござました!!

-----------------

エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)よりボランティアのお願いです。

来週、3月23日(月)(場所:エル・おおさか、時間:13:00ごろ~)に本の運搬をお手伝いください。

大阪府などで構成している「国立産業技術史博物館誘致促進協議会」が20年にわたって収集保管してきた資料が、資金難を理由にすべて廃棄されようしています。

詳細は以下のサイトをご覧ください。

・博物館頓挫で産業資料2万点余廃棄へ…大阪府など決定
〔YOMIURI ONLINE(読売新聞) - 2009年3月13日〕
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090313-OYO1T00257.htm?from=top

・【再録】幻の産業技術史博物館 ~ 大阪万博公園に眠る2万点の産業遺産
〔凡才中村教授の憂鬱 - 2008年11月03日〕
http://stroller.blog.eonet.jp/stroller/2008/11/2-6b9b.html

 このことを知ったのは先週の金曜日で、財団法人大阪社会運動協会(社運協)はただちに資料廃棄を阻止すべく動き、このたび、文献資料段ボール200箱以上と小型機械・工具数点を引き取ることとなりました。

 保管場所については現在調整中ですが、とにかく急を要するため、とりあえずはいったんエル・おおさかに搬入する予定です。業者の都合で、搬出・搬入は23日(月)と決められてしまいました。それがわかったのが今朝のことですが、搬入のための人手が確保できません。

 お手伝いいただきたいのは、エル・おおさかに到着したトラックから本を搬出することです。 

 急なお願いで申し訳ありませんが、どうぞ趣旨をご理解いただきましてご協力くださいますようお願いいたします。
 

日時:3月23日(月)午後1時から(予定)

   交通費1000円までお支払いします。報酬はなしです。

場所:エル・おおさか
   大阪市中央区北浜東3-14
   地下鉄谷町線または京阪「天満橋」駅下車西へ350メートル

担当者:谷合、千本(ちもと)

連絡先:lib@shaunkyo.jp

 電話は 06-6947-7722。 電話連絡はもう明日しか日がありませんので、できるだけメールでご連絡をお願いします。

パリ、恋人たちの2日間

2009年03月17日 | 映画レビュー
 ニューヨークに住むフランス女とアメリカ男のカップルが、二日間だけ彼女の故郷パリへやってきて、彼女の家族や友人達と一緒に過ごすことにより、今まで表面化しなかった二人の間の異質なものが表出する、というお話。さて、ヒビが入った二人の関係は修復可能なのかどうか?!

 とにかくしゃべくりまくるコメディ。まるでウディ・アレンのよう。しかしジュリー・デルビーはアレンよりもむしろ80年代のスコセッシを参考にしたという。言葉の通じないところでアメリカ人をこけにするフランス人の意地の悪さったらないわ! フランス映画は会話のエスプリが小気味よく利いていて、知的なところがなんともいえず楽しい。そして本作はそれに加えて下ネタ満載なところがすさまじい。本当にこんなにあけすけに家族の中でも性的な会話を交わすのだろうか?

 ジュリー・デルビーが製作・監督・脚本・主演・編集・音楽までこなしたという驚くべき才能を見せつけた作品だけれど、彼女の本当のパパ・ママが映画でも両親の役を演じているところがとっても不思議。こんな恥ずかしい台詞を娘の脚本・監督の作品で演じられるということろがフランス人のすごさかもしれないと、自分がもしこの作品の監督ならとうてい両親に見せられないと、このあけすけなエロスの感覚の彼我の桁違いなことを知って驚天動地でございます。

 しょせん男と女は異文化、他者どうし。こんなものがなんで一緒に暮らせるのか不思議と言えば不思議だ。だから、フランス女とアメリカ男が異文化の極地で互いを異星人のように思うのは当然のこと。ただ、それをこの映画のように徹底して戯画化されるともうひたすら笑うしかない。恋多きフランス女は誰とでも寝るし、別れた恋人とも友達づきあいを続けるし、一生一人の男にだけ束縛されるなんてまっぴらだと思っている。おまけに直情径行。おまけに政治的に相容れない相手には情け容赦ない鉄槌を下す。

 フランス映画らしい、アメリカへの政治批判も忘れないし、フランス映画らしい知的なジョークも満載で観客の心をくすぐる。台詞の自然な流れといい、演出の楽しさといい、ジュリー・デルピーにはひたすら脱帽しました。これほど人を食った会話劇も珍しい。見ていてイライラさせられる、見ていて腹が立つ、見ていてバカ、と言いたくなる、見ていて「その通り」と快哉を叫びたくなる、見ていて「ええかげんいせえ!」と叫びたくなる、そんなふうに映画にのめり込めるフランス映画も珍しいのでは? とにかくこの監督の才能には脱帽です。

 いくらなんでもこんなフランス女はちょっと極端すぎるでしょ~?と思ったけれど、ュリー・デルビーのインタビューを見ていると、「典型的なフランス女とアメリカ男のラブストーリー」というから驚き。日常会話でこんなに下ネタ満載なの? ほんとにぃ~?

 まあ、とにかくフランス女には近づくまいと思った男性は一人や二人ではないでしょう。(レンタルDVD)(PG-12)

-----------------
パリ、恋人たちの2日間
2 DAYS IN PARIS
フランス/ドイツ、2007年、上映時間 101分
製作・監督・脚本・編集・音楽: ジュリー・デルピー、製作: クリストフ・マゾディエほか、製作総指揮: ニコラウス・ローマン、ティロ・サイファート
出演: ジュリー・デルピー、アダム・ゴールドバーグ、ダニエル・ブリュール、マリー・ピレ、アルベール・デルピー、アレクシア・ランドー、アダン・ホドロフスキー

フランドル

2009年03月15日 | 映画レビュー
 いい加減腹が立ってきて、そろそろ早送りしてやろうかと思った瞬間に映画が終わったのでほっとした。なんでこれがカンヌ映画祭審査員グランプリ受賞? カンヌの審査員には受けたかもしれないが、これほどすさんだ映画はわたしには耐えられない。

 戦争が若者の精神を荒廃させたのではなく、彼らは故郷フランドルの地にあってももともと砂漠の民だったのだ。彼らの心には乾いた砂が吹きすさんでいる。それは故郷も戦場も同じこと。戦場の荒廃と残虐をリアルに描いたともいえるが、むしろ荒廃は故郷フランドルに存在している。夏のフランドルの美しい風景が描かれているにも拘わらず、その印象が寒々としているのはDVDを見ている我が家が寒いからという理由からだけではあるまい?

 誰にでも身を任す少女バルブを見ていると、ふと、ロジェ・バデム監督の「花のようなエレ」を思い出した。しかし、この映画には「花のようなエレ」にあったエロスがない。乾いてなんの情緒もない性描写には、生きる喜びが感じられない。そこには生(エロス)へと向かう輝きがない。しかも、砂漠の戦場で行われる強姦といい、それへの報復といい、すべてが淡々と余りにも生々しく残虐にかつ感情を抑圧して描かれるため、この映画は人物への感情移入も物語そのものへの感応も拒んでいる。この映画に耐えられる、面白いと思える女性はほとんどいないのではないか。

 そもそも、これはなんの戦争なのだろうか? 湾岸戦争なのか、イラク戦争なのか、舞台はどうやら中東の砂漠地帯のようだがよくわからない。この映画には明確なストーリーなどなく、戦争すら寓話として描かれている。男たちが戦場で狂気に捉えられるのと軌を一にするかのように、故郷の少女バルブの精神も病んでいく。だがこの二つの場面の繋がりがまったく唐突で、いったい何が起きているのか理解に苦しんだ。

 「戦争の残酷を淡々と描いた玄人向けの映画」という評価もできるかもしれないが、わたしはこの映画を見て反戦気分にも厭戦気分にもならなかった。ただ男たちの情けない生き様(とすら言えない姿)に嫌悪を催しただけだ。(R-15)(レンタルDVD)

-----------
フランドル
FLANDRES
フランス、2005年、上映時間 91分
監督・脚本: ブリュノ・デュモン
製作: ラシッド・ブシャール、ジャン・ブレア、製作総指揮: ミュリエル・メルラン
出演: アデライード・ルルー、サミュエル・ボワダン、アンリ・クレテル、ジャン=マリー・ブルヴェール

モンパルナスの灯

2009年03月15日 | 映画レビュー
 破滅型天才の典型たる画家モディリアーニの伝記映画。

 アヌーク・エーメが素晴らしく美しいのは言うまでもないが、この映画には美女ばかりが登場する。なんという贅沢な映画なんでしょう。酒場の若い女給さんも数カットしか登場しないけれど、とても愛らしい。最初、彼女がジャンヌ役かと勘違いしたくらいだ。

 モディリアーニの作品はここ1,2年に二度見た。そのうち一度は「モジリアーニと妻ジャンヌの物語展」(名称不正確)だった。一度見たら忘れられないあの特異な肖像画そのものよりも、モディリアーニの破滅的な人生のほうにより心惹かれるし、夫の死後2日目にアパルトメントから飛び降り自殺した22歳の美しい妻ジャンヌの悲惨な最期にも胸を突かれる。2歳の娘を遺し、お腹には9ヶ月の第2子がいたというのに自殺するとは、モディリアーニ本人にも負けないほどの破滅的で激情の持ち主だったのだろうか。

 映画では、若く美しい妻ジャンヌの一途な愛と献身が描かれ、それに対して破滅的で気まぐれ、いかにも芸術家というハンサムなモディリアーニが対照的に描かれる。映画ではモディリアーニの放蕩ぶりや女性たちへの依存(というか、ほとんどヒモ)とともに、ジャンヌに対する熱烈な愛情に焦点が絞られていて、娘の誕生は一切触れられていない。

 生前はまったく売れることなく悲嘆の中で死んでいった悲劇的な生涯は、まさに伝説の画家にふさわしい。同じく悲劇の人ゴッホに自身を投影していたかのような台詞といい、金持ちアメリカ人の前で屈辱に唇を噛む場面といい、映画は才能を持ちながら理解されなかった天才画家の悔しさと悲劇をこれでもかとばかりに畳み掛けるように描いていく。

 ゴッホといい、モディリアーニといい、売れない画家の生涯にはとても惹かれるものがある。才能がありながらほとんど誰にも理解されずに生きていくつらさや悔しさに心と身体を病んでいく芸術家というパターン化された生き様に、その<パターン>ゆえに惹かれるものがあるのだ。ゴッホには弟ヴィンセントという唯一の理解者がおり、モディリアーニには画商ズボロフスキーという唯一の支援者がいた。だから彼らは生活費をかせぐ苦労をせず(というか生活を全然稼ぐことができず)、制作に専念できたのだ。支えがあったということも芸術家には絶対に必要な条件だろう。また、不思議と才能ある芸術家には熱烈な支持者や献身的な支援者が存在する。

 正統派演出によって悲劇の人の半生を余すことなく描いた作品。モディリアーニに興味があればぜひご覧あれ。(レンタルDVD)

---------------
モンパルナスの灯
LES AMANTS DE MONTPARNASSE
フランス、1958年、上映時間 108分
監督・脚本: ジャック・ベッケル、原作: ミシェル・ジョルジュ・ミシェル、音楽: ポール・ミスラキ
出演: ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ、ジェラール・セティ

歩いても 歩いても

2009年03月14日 | 映画レビュー
 これは面白い! 是枝さんの人間観察には脱帽。テーマがあまりにもチマチマしているところがちょっとわたしの好みから外れてしまうけど、こういう鋭さはベルイマンの洞察にも近いものを感じる。

 夏の終わりに近いある一日、年老いた両親のもとに里帰りしてくる娘と息子の一家。その1日を描いただけのホームドラマだというのに、短い台詞の端々からこの一家の歴史のすべてを見通してしまう、脚本の巧みさには脱帽だ。お盆なので一家が集まっているのか、と思わせておいて、徐々にこの日がなんであるのかを観客に知らせる脚本がうまい。物語に少しずつささいな謎をばらまき、少しずつ遅れて観客にその内容を教えるという込み入った会話術は是枝さんにはお手の物。

 実はこの一家には娘と息子一人ずつではなく、15年前に亡くなった長男がいたのだ。その長男は、町医者の父にとっては跡取りと嘱望された出来のいい息子であったのに、海で溺れた少年を助けて自身は溺死してしまったのだった。今日はその長男の命日。次男は子連れの美しい未亡人と結婚して里帰りしてきたが、いまだに亡き兄へのコンプレックスから自由になれず、兄と自分を比べる父に反発している。

 娘というのがYOUが自然体で演技していて、母娘の会話がまるで漫才。樹木希林がお医者様の奥さんというよりはどこにでもいる下町のおばちゃんぽくて可笑しい。やがてこの人の良い母親が心に持つ黒い悲しみが明らかになる場面など、思わずぞくっとするほど怖かった。

 何も起こらず何も込み入ったドラマチックなことなどない一家のさりげない一日に凝縮された悲喜こもごもに、かくもすがすがしくも背筋が寒くなるほどの感動を覚えるのは、観客が何かしら「人生の真実」を知りたいという欲望を持っているからだろう。その欲望をまっすぐ突いてくる是枝の脚本には舌を巻く。わたしたちが何に感動するのかをちゃんと知っている是枝裕和という人はあらゆるタイプの人間に普遍に存在するであろう利己主義や妬みや悲しみや憎しみや、そして愛の複雑な深さを描いた。横山一家の人々は間違いなくわたしだ。そしてあなたでもある。隣の彼女でもあればうちの母でもあり父でもある。人は鏡に写った自らの姿を見たいという欲望にかられるものかもしれない。その欲望をこのドラマは見事にそそりかつ満足させてくれる。 

 ああ、それにしてもあの家庭料理の数々! 湯がいた枝豆のざるにきっぱりと投げ入れられる一振りの塩、手作りチラシ寿司、少しずつすくって揚げるとうもろこしの天ぷらが撥ねるところまで、実に美味しそうでした。

 映画が終わってこの映画は誰よりも樹木希林が演じた母親を描いたものであったのだな、と思う。あまりの好演に、その存在感に圧倒された。今頃でナンですが、これ、去年封切りの日本映画ベスト1です。(レンタルDVD)

---------------
歩いても 歩いても
日本、2007年、上映時間 114分
監督・脚本: 是枝裕和、音楽: ゴンチチ
出演: 阿部寛、夏川結衣、YOU、高橋和也、田中祥平、寺島進、加藤治子、樹木希林、原田芳雄

チェンジリング

2009年03月13日 | 映画レビュー
 2時間22分、まったく飽きさせず弛ませず、緊張感が持続し、一分の無駄もなく、大河のごとく堂々たる作品。まさにいぶし銀の映像、演出。80歳近い監督がこれだけのことをできるのだから、映画というのは魔物に違いない。と同時に、この映画に込められた主題の深さを理解するためには観客のリテラシーが問われてしまう。映画というのは実に難しいメディアだ。小説ならば何十行も何十ページも費やして描写することを映画はただ1カットで表現する。そこに込められた意味をどれだけの観客が読み取れるのだろう?

 この映画については「小麦のシネマちゃんぷる」に素晴らしいレビューがあるので、もう何も付け加えることはありません。
http://www.comugi.cc/cgi-bin/diary/200902.html
 と書いてお仕舞いにしようかと思ったけど、それではあんまりなのでちょっと書きます。なお、小麦さんのレビューにはストーリーが最後まで書かれているので未見のかたはご注意を。

 時は1928年、この物語は事実に基づいているという。我が子が誘拐されたと思ったシングルマザーのクリスティンが、必死になって子どもを探す。五ヶ月後、子どもが見つかったと知らせてくるロス警察が差し出した子どもはまったくの別人。これはどうしたことか? そしてロス市警の腐敗堕落を糾弾する牧師がラジオ放送を通じてアジテーションする場面が映る。ここには、現代のメディアが勃興する最初期の姿が活写されている。今に至るまでその腐敗ぶりを糾弾されるロス市警の不正を今更映画で描いても面白くもなんともない。これほどあからさまに正義・不正義を描く社会派作品ならば、クリント・イーストウッドがわざわざ描くような内容でもあるまいに? と怪訝に思う前半。しかし、ここで即断してはいけない。イーストウッド監督の作品はそれほどヤワなものではない。「ミリオンダラー・ベイビー」と同じように、神と地上の人間の葛藤もまたテーマになっているのだ。イーストウッドが描いたテーマは一つではない。そのうちの一つが、<赦しと復讐>だ。子どもを殺された親たちは、犯人を赦すことができるのだろうか? 親が赦さなければ、誰が赦すのか? 神か?

 こういう作品を見てしまうと、「シークレット・サンシャイン」の点数が落ちてしまう。同じようなテーマを扱いながらも、「シークレット・サンシャイン」にあった甘さも弛緩した演出もここには見られない。それだけに、緩みがない演出は観客によっては退屈と映るかもしれない。クリスティンは降りかかる火の粉を払うのにただ必死で、ただ自分の息子が帰ってくることだけを信じ祈り、行動する。同じように息子を誘拐された若い母親シネ(「シークレット・サンシャイン」)が流されるままだったのに比べれば、同じように状況に流されているように見えてじつはクリスティンが相当に意志が強い女性であることがわかる。だから、同じような状況を描いた映画でも、わたしはシネよりはるかにクリスティンに共感する。

 本作は、わかりやすい人物造形を心がけている。腐敗した警察幹部は徹底的に悪人であり、彼らを糾弾する牧師は正義の味方だ。この牧師をジョン・マルコヴィッチが演じているものだから、てっきりどこかでどんでん返しがあるに違いないと冷や冷やしていたが、この人が最後まで正義の味方であったということが意外といえば意外。このわかりやすさも実は落とし穴かもしれない。ここで安心した/がっかりした観客は、イーストウッド監督が仕掛けてくるさらなる試練と追及につきあう気力を失うかもしれない。また、市警と市長という権力上層部が悪であるという一面的な描き方だけではなく、警官の中にもヤバラ刑事のように良心に従って行動する人間がいたことをきちんと描いたことはさすがだ。
 監督が示したテーマは、わたしたちにこの物語を物語として消費することを赦していないのだ。この物語を過去のロス市警の腐敗を追及する(80年遅れの)社会派作品だと思うなら、とんでもない間違いを犯すだろう。ましてや、死刑の場面を見て、「悪人は処罰されるのが当然」というあまりにもナイーブな感想を持ったとしたら、とんでもない読み違いを冒しているのではないか?


 この犯罪の全容が判明してからこそが、クリント・イーストウッド監督の真骨頂が露わになる。わたしたちは、憎むべき犯罪と、それを追う一人の母と、そして80年後にそれを見る観客という立場を忘れてはならない。実話を元にしているからこそ、世界大恐慌直前直後の世界といま現在の世界大不況の時代に通底する<時代の痛み>を感じ取るべきではないのだろうか。80歳の老監督はおそらく「これが最後」と思いながら一作ずつを作っていることだろう。人々にに遺言したいこと、かつての権力犯罪を単なる過去の教訓としてだけではなく、現在と未来の人々に「希望」を託して呈示しようとする心意気を買いたい。


 美術もまた素晴らしい。1930年前後のロサンゼルスの町並み、衣装、車、電車、すべてが徹底的にこだわりをもって描かれている。特に衣装に注目。クリスティンが着ている仕立ての良いおしゃれなドレスや、高級コートを見ていると、彼女がシングルマザーとはいえ相当な高給取りであったことが伺える。日本でもかつて職業婦人の憧れの職業の一つであった電話交換手の職場の様子が興味深い。

 今のところ、今年のベストは「チェンジリング」と「ベンジャミン・バトン」が1位。こうなると「グラントリノ」は絶対に見に行かねば!(PG-12)

--------------------
チェンジリング
CHANGELING
製作国 アメリカ、2008年、上映時間 142分
製作・監督・音楽: クリント・イーストウッド、脚本: J・マイケル・ストラジンスキー
出演: アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコヴィッチ、ジェフリー・ドノヴァン、コルム・フィオール、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、マイケル・ケリー

マドモワゼル

2009年03月09日 | 映画レビュー
 いかにもおフランスですね、この憎たらしいほど淡々としたラブストーリー。巻頭の薬局の場面と、即興劇団の最初の劇は面白かったけど、あとは特にどうということもなくさほど印象には残らない。ただ、ラストに漂う感傷的な雰囲気は好きだなぁ。 

 偶然が重なって24時間を一緒に過ごすことになった家庭持ちの男女が、一夜の情事を交わして去っていく、それだけの映画。それだけのことが淡々と描かれるのだが、フランス映画らしいところは小道具に凝っていたり、会話がしゃれていたり、挿入される小話の含蓄が深かったり、という、サイドメニューの面白さにある。ストーリーは淡々というよりむしろ退屈。それなのに最後まで惹かれて見てしまうのは、85分という短さのテンポのよさかもしれないし、主人公たちの雰囲気の良さかもしれない。

 こういう恋愛映画を作られてしまうのが、フランス映画のにくいところ。どうと
いうこともない恋愛映画だけれど、妙に心に残る。(レンタルDVD)

------------
マドモワゼル
MADEMOISELLE
フランス、2001年、上映時間 85分
監督・脚本: フィリップ・リオレ、製作: パトリック・ゴドー、音楽: フィリップ・サルド
出演: サンドリーヌ・ボネール、ジャック・ガンブラン、イザベル・カンディエ、
ジヌディーヌ・スアレム、ジャック・ブーデ

ぼくの大切なともだち

2009年03月08日 | 映画レビュー
 自分の誕生日祝いに集まってくれた友人たちから「君の葬式には誰も参列しないよ」などと言われてしまったらショックのあまり自殺するかもしれないと思うけど、そもそもフランス人はそんな辛辣なことを本人の前で平気でいうのだろうか?

 言われたほうもめげずに「そんなことはない、僕にはちゃんと親友がいるんだ」と抗弁するところがなかなかタフだ。それどころか、あと10日で親友をみんなの前に連れてきて見せる、という賭けまでしてみせる。それがこの映画の主人公である美術商のフランソワだ。立派な店と大きなアパルトマンに住む成功した中年男だが、離婚して娘と二人暮し。その娘は反抗的で親にため口をたたく。共同経営者の女性は同性愛者で、フランソワとの賭けに彼がオークションで落札したエジプトの壷を賭ける。その壷は、亡くなった親友のために流す涙を受けるために持ち主が作らせたものだというのが皮肉ではないか。

 して、仕事一筋に生きてきたフランソワはふと気づくと友人というものがいない。必死になって親友のリストを作り、一人ずつ訪ねていくのだが、「お前なんか友達じゃない」と言われてばかり。とうとう窮した彼は、偶然その親友探しにつきあってくれることになったタクシー運転手ブリュノを親友だということにしてしまう。運転手は抜群の読書量と記憶力を誇るのだが上がり症なためクイズ番組に出ることができない。彼は隠れたクイズ王なのだ。人のいいブリュノはフランソワのためにあれこれと親切に働いてくれるのだが…

 パトリス・ルコントの作品の中ではもっとも軽妙なタッチでとても楽しくまたほのぼのさせる映画だ。君には友達なんていないよ、と友達のはずの人々から面と向かって言われる、なんていうシビアな設定を思いつくところはルコントらしいのかもしれないが、その後のどたばたぶりが適度に上品で楽しい。金で人の歓心を買おうとする金持ちのわがままで自己中心的な性癖をこれでもかとばかりに批判する脚本も小気味よい。

 緩急のメリハリもあり、クライマックスシーンもけっこう手に汗握り、意外な落ちもちゃんと用意されている、なかなかの佳作。仕事人間の中年男性たちはぎくっとする映画かもね。「ぼくには本当に親友なんているんだろうか…」と不安になる人が何人もいそうだ。(レンタルDVD)

--------------------
ぼくの大切なともだち
MON MEILLEUR AMI
フランス、2006年、上映時間 96分
監督・脚本: パトリス・ルコント、製作: オリヴィエ・デルボス、原案: オリヴィエ・ダザ、音楽: グザヴィエ・ドゥメルリアック
出演: ダニエル・オートゥイユ、ダニー・ブーン、ジュリー・ガイエ、ジュリー・デュラン、ジャック・マトゥー

ロックンローラ

2009年03月07日 | 映画レビュー
 これは面白い! わたしはもともとヤクザ映画は好きではないのだが、なぜか食指が動いてしまったので見た映画。で、これは最初から最後まで実にテンポのいいスタイリッシュなヤクザ映画だ。なんといってもオープニングのおしゃれなこと! これはかっこいいです、タイトルバックのデザインもだけれど、ツカミの部分の小気味よさったらないわ。

 「ワールド・オブ・ライズ」で伊達男を演じたマーク・ストロングの独白によって幕を開ける、ロンドンマフィアのお話し。マーク・ストロングはアーチーという名の忠犬ハチ公だ。親分レニーに忠義を尽くしているが、そのレニーというのは老ボスであり、いくつになっても自分がロンドンを牛耳っていると信じている。そこに出張ってくるのが台頭めざましいロシアンマフィア。不動産投機によって美味い汁を吸おうというあくどい連中が跋扈する物語。この映画の登場人物は全員が欲の皮の突っ張った者ばかりで、正義の味方なんて一人もいやしない。主人公はいちおうワンツーという名のチンピラ、これをジェラルド・バトラーが演じている。バトラーはいろんな役を器用にこなすねぇ。この映画でも情けないチンピラヤクザをほんとに情けなく演じていて笑えた。

 物語をテンポよく回すガジェットが、一枚の絵だ。これがいったい何の絵なのか、最後までわからないのに登場人物の間をぐるぐると回るところが大変面白い。この、中身が空虚なものを巡って群像たちの欲望が渦巻くあたり、ヒチコックのマクガフィンなのだが、マクガフィンの癖に妙に気になる存在で、実は映画の最後になって「おお」と思わせるネタが仕込んである。このあたりもお見事。

 暴力、麻薬、セックス、金、というダーティな物語であるのに、暴力シーンも作り事めいているため(不死身のロシアヤクザとか)、あまり気にならない。レニーの息子がドラッグ漬けのロックンローラであるのだが、この映画では冒頭に「ロックンローラ」の定義づけが行われる。いわく、金も名誉もセックスも、すべてを欲しがる者のことだ、と。その定義通り、この映画には欲まみれの人間達が互いの欲を食い合うように登場し、彼らがそれと知らずにお互いの弱みを握り合っている、というところが面白い。

 そして、欲が欲を呼び、悪逆の限りを尽くした者への天罰は下るのか? いや、地上の罪には地上の人間の手で鉄槌を下そう。

 なかなか楽しい娯楽作。息抜きにどうぞ。(PG-12)

---------------------------
ロックンローラ
ROCKNROLLA
イギリス、2008年、上映時間 114分
監督・脚本: ガイ・リッチー、製作: ジョエル・シルヴァー他、音楽: スティーヴ・アイルズ
出演: ジェラルド・バトラー、トム・ウィルキンソン、タンディ・ニュートン、マーク・ストロング、イドリス・エルバ、トム・ハーディ、トビー・ケベル、ジェレミー・ピヴェン、クリス・ブリッジス、ジェマ・アータートン、ドラガン・ミカノ

ホルテンさんのはじめての冒険

2009年03月03日 | 映画レビュー
余りにも淡々と静かな映画なので途中で寝てしまいました(^_^;)

 前半はまさに「キッチン・ストーリー」を彷彿させるようなほんわかと楽しい物語。真面目一徹で働き続けたホルテン運転士は、今日が最後の出勤日というのに思わぬアクシデントで遅刻してしまう。そこからがホルテンさんの「逸脱」の始まりだった。

 ホルテンが最後の最後に遅刻する羽目になるいきさつというのが可笑しくてたまらない。ネタバレになるので詳しくは書かないけれど、この場面は思わず声を出して笑いそうになるほど面白かった。とはいえ、爆笑するようなおかしさではなく、ホルテンという一人の初老の男の誠実さや優しさがにじみ出た可笑しさである。

 全編を通して静かで、台詞も少ない。おまけにホルテンという老人が主人公であるから、特別変わったことも起きないのだが…。といいつつ、実はけったいなことはいろいろと起きる。ほんとだったら大騒ぎしそうなけったいなことでもホルテンは淡々と受け止め、映画も淡々と進み、わたしはついついスヤスヤ…ああ、いかん、今年は「映画館で寝ないこと」という大きな目標があるのに! 既に何作も寝てしまっているではないか(^_^;) 

40年間長距離列車の運転士として生きてきたホルテンがこれまで出会ったこともない人々との出会いがあり、そこでホルテンは人生のはかなさを知る(たぶん)。なにぶんにもホルテンさんが何を考えているのかさっぱりわからないため、それにホルテンさんの家庭の事情とか、定宿の女主人との関係とか、まったく説明がないので観客は想像するしかない。それだけに、この映画には多くの想像の余地があり、観客が自らの人生経験をそこに投影することが可能な作品だ。「キッチンストーリー」にあったコミュニケーションの面白さが少ない分、ぴりりと辛いところが少なかったので、わたしにとってはやや退屈な作品となってしまった。巻頭のエピソードの面白さが続いてくれればずっと笑っていられたのになぁ… 

 とはいえ、ところどろこにシュールな場面があります。「ぎょっ」とする場面が3カ所はあるので、お楽しみに。しかしこの「ぎょっ」すら淡々と描かれている不思議な映画です。

---------------------------
ホルテンさんのはじめての冒険
O' HORTEN
ノルウェー、2007年、上映時間 90分
製作・監督・脚本: ベント・ハーメル、音楽: コーダ
出演: ボード・オーヴェ、ギタ・ナービュ、ビョルン・フローバルグ、エスペン・ションバルグ

英国王給仕人に乾杯!

2009年03月02日 | 映画レビュー
 やたら若い女の全裸が出てくる映画だったので、予想と少し違ったけれど、チェコ現代史と重ね合わせて見れば、一人の男のささやかな野望やヒューマニズムもすべて政治が飲み込んでしまったといえる、これもまた歴史と人間の関わりを描いた作品。ほんとうは暗い内容なのに、軽快なコメディ。

 給仕人といえども一つの職業のプロフェッショナルになれば、その矜恃たるや生半可なものではない。ナチスにだって抵抗してしまうのだ。原題は「私は英国王の給仕人だった」だが、不思議なことにこの映画の主人公がイギリス国王の給仕人だったわけではない。彼が尊敬する給仕人が「英国王の給仕人だった」と語っただけ、ということ。しかもそれはおそらくジョークであって、スラブ人がイギリス国王の給仕人になったりはしないのである。短躯の主人公が尊敬する、一流ホテルの給仕長は「英国王の給仕すらしたことがある」というまことしやかな噂が流れるほど優れた技能を持ち、何カ国語も自由に操り、堂々とした体躯で、しかも気骨がある。この脇役をあえてタイトルロールにしたところがこの映画(というか原作)のミソである。 

 ナチスの支配下にあったチェコで、ナチスに逆らわず、それどころかドイツ人を妻に迎えて世渡りをするわが主人公ヤンは、頭の良い青年だった。彼の夢は金持ちになること、一流のホテルを持つこと。彼の夢は叶ったのだろうか、それとも…? 物語は、初老になったヤンが刑務所から15年の刑を終えて出所してくる場面から始まる。その姿はとてもじゃないが「幸せな人生だった」とは言い難いものだ。そして彼の若い頃の回想場面へと転回し、映画は彼の給仕人としての立身出世の物語と、ドイツとの国境地帯で寂しく暮らす現在とを往還する。

 ヤンが給仕人として目撃する、大勢の金持ちたちの贅沢・退廃の数々には思わず眉をひそめるが、彼らもまた新しい支配者ナチスを迎えて有為転変が激しい人生を送るのだ。背の低い給仕人というヤンは、文字通り社会の低い位置から様々なことを目撃する。金持ちや軍人がいかに馬鹿馬鹿しいことに浪費生活を送るのか、そして本当に気骨のある人間は誰なのか、しかし圧政に密かな抵抗を試みる人間はそれだけで悲劇へとひた走る。ヤンに金持ちの幸せを教えてくれたのはユダヤ人たちだった。しかし彼らはやがて強制収容所へと向かう列車に乗せられてしまう。ヤンの目を通して知る、チェコの現代史はまさに波瀾万丈であり、小国ゆえの悲しさがつきまとう。

 様々にファンタジーめいた演出を施し、その場面の美しさや弾け方はなかなかのもの。社会批判の毒を持った作品であるのにどこかしらもの悲しく切ないところもまたなんともいえない後味を残している。社会批判の刃を持った作品の主人公が実はそのような批判精神を持っていなかったということが作品そのもののアイロニーだ。それでも/そして、人生は続く。美味いビールがあればわたしたちは今日も又この生きにくい世を生きていくことができるのだ。美味しい生ビールが飲みたくなります! 音楽も軽快でよし。

 映画のパンフレットにはイシュトヴァン・サボー監督も特別出演していると書いてあった。へぇ~。

--------------------------
英国王 給仕人に乾杯!
OBSLUHOVAL JSEM ANGLICKEHO KRALE
チェコ/スロヴァキア,
2006年、上映時間 120分
監督・脚本: イジー・メンツェル、製作: ルドルフ・ビエルマン、原作: ボフミル・フラバル、音楽: アレシュ・ブジェジナ、出演: イヴァン・バルネフ、オルドジフ・カイゼル、ユリア・イェンチ、マルチン・フバ、マリアン・ラブダ、ヨゼフ・アブルハム

ディファイアンス

2009年03月01日 | 映画レビュー
 ダニエル・クレイグ主演でエドワード・ズウィックが監督する、ナチスに抵抗して戦うユダヤ人の話、となればこれはもう見ないわけにはいきません。して、期待値が高すぎた割にはふつうの映画だったけれど、さすがにズウィックだけのことはあって丁寧でかっちりした作り方。観客を飽きさせず、かつ過度にドラマティックにも情緒にも流れることがなかった点はさすが。戦闘シーンには「グローリー」や「ラストサムライ」ほどの迫力はなかったとはいえ、ズウィックらしいカメラワークを堪能できた。

 常々疑問だったのは、なぜユダヤ人は何百万人も無抵抗に殺されたのだろう、ということ。「戦場のピアニスト」なんて見ている段にはまるでもうユダヤ人はひたすら逃げているだけだし、抵抗する気力もなさそうだ。実際にはワルシャワ・ゲットー蜂起もあったわけだし、わずかに歴史に残る抵抗運動はあったはずなのだ。

 して、本作はそのような既成のホロコースト観を覆すような「ユダヤ人による、ユダヤ人のための、ユダヤ人救出作戦」である。テーマ的にはこういうのはとても惹かれる。ユダヤ人が黙ってナチスの犠牲になったという図はとても歯がゆく「情けない」とも思える。しかし一方で、だからといって戦後のユダヤ人たちがパレスチナで行っているアラブ人虐殺を許そうという気にもならない。要するに、抑圧に抗して自らが立ち上がるという図にはわたしも拍手喝采で賞賛したいと思うのに、そうではなくひとたび自らが権力者となった場合の暴力には我慢ならないというわけだ。しかしまた、平和な日本で、なにもせずにのうのうと中東情勢を見ているだけ、というわたしのような人間が何を言ってもなんの説得力もなく、ただ映画の物語を消費しているに過ぎない。

 上記のような物言いは実は高見に立った人間のそれであるということが後から思えば猛省とともに思えることだ。あの戦時下、あの暴虐のもとで、果たして自分が生きていたとしてどんな抵抗があり得ただろうか? ひょっとしてあるいはまた自らはナチスの官僚だったかもしれないではないか! そんな自分に何ができただろうか? そんなことを思うとき、このような現代史を描く映画には「観客」という位置が許されるのだろうか、と常々思う。 

 大戦中のベラルーシで実際にあったユダヤ人救出劇――というよりは、ユダヤ人隠れ家コミュニティの出現は、たいへん示唆に富む「物語」である。いつの間にか逃亡ユダヤ人たちのリーダーになったトゥヴィア・ビエルスキは、リーダーシップを発揮するけれど、一方でその指導には冷酷な粛清もまた付随した。彼もチェ・ゲバラのような高潔な人間であったにもかかわらず/であるからこそ、裏切り者やルール違反には厳しかったという。トゥビアによって救われたユダヤ人は1200人に達するけれど、一方で彼に殺された仲間も少なくはない。非常事態下にあって指導者はなにをなすべきなのか? 温情をかければ仲間の数千人の命が危ないときにリーダーは何をすべきなのか? そう考えれば、今日、経済危機下にあって、多くの労働者を救うために少数の解雇者を出すことはやむを得ないのだろうか? さまざまなことを考えさせられる映画だ。

 この映画は単なる消費を通り超して、ズウィック監督らしい人間観察を表出しているところが素晴らしい。ユダヤ人を救った英雄を、勇猛果敢な人とだけは描いていないのだ。英雄トゥビアが揺らぎ迷う場面もまた挿入されているし、逃亡ユダヤ人コミュニティが民主主義によって運営されていたのではなく、いわば彼の独裁下に統制が保たれていたこともわかる。

 トゥヴィアもまたイタリア人ペルラスカ(「戦火の奇跡」)も自らの英雄的行為を他者に語らなかった点は同じだ。彼らはともに戦後、長い時間を沈黙で通した。彼らが自らの英雄的行為を語らなかったのは、「語れなかった」のではないかとも思える。英雄的行為の裏には犠牲になった多くの人々もまた存在するし、救えなかった多くの人々もいただろう。言葉に尽くせない酸鼻を経験した人々はとかく沈黙するものだ。

 このような映画を、戦後も60年以上経って、今のわたしたちが「物語」として消費できるのだろうか、とつくづく思う。確かに過去の出来事には違いないけれど、ここに呈示された戦争と犠牲、リーダーシップと統制、といった問題はまさに今問われていることではなかろうか。

---------------
ディファイアンス
DEFIANCE
アメリカ、2008年、上映時間 136分
製作・監督: エドワード・ズウィック、製作総指揮: マーシャル・ハースコヴィッツ、原作: ネハマ・テク、脚本: クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック、音楽: ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演: ダニエル・クレイグ、リーヴ・シュレイバー、ジェイミー・ベル、アレクサ・ダヴァロス、アラン・コーデュナー