ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『死霊』を読む前に

2005年04月23日 | 読書
艱難辛苦を乗り越えて読了した『死霊』、こんなにいい解説書があるなら、こっちを先に読んでおくべきだった。鶴見俊輔は何度も埴谷雄高に言及していたというのに、まったく無関心というか無知というか、なんで今まで読まなかったのだろうと蒙昧を恥じる。

 わたしは『死霊』をヨーロッパの味わいのある小説だと思っていたのだが、鶴見に言わせると埴谷の作品は日本文学の伝統を引きつぐものであるという。このことを最初に看破したのは武田泰淳だそうだ。


 鶴見の『死霊』読解はわたしが気づきもしなかったこと、あるいは無知ゆえに見えなかったことを明るく照らし出してくれる。鶴見さんはほんとに優れた読者だ。まあ、しかし『死霊』を読む前に鶴見さんの読解を読んでしまうとそこから自由になれない嫌いもあるので、苦労しても自分の力で読むほうがいいだろうな。その上でつたない感想や的外れの批評を恥ずかしげもなく書いてbk1に投稿するなんていう恥をかいたほうがいいかもしれない。


 本書は鶴見俊輔が繰り返し埴谷雄高について述べた論考を年代を追って編んである。対談も挿入されていて、バラエティ豊かだ。内容的には重複もたびたび見受けられるが、それは必ずといっていいほど埴谷雄高の出自に関する部分を含む。

 埴谷といい鶴見といい、「もうろく」が共通のキーワードのようになっているじいさんたちが、とても好ましく思える。こういう耄碌ならなりたいものだ。耄碌して肩肘張らず、若い頃に言えなかったことも正直にしゃべってしまう。いいね。

 本書の魅力は埴谷雄高に源泉があるのか、それとも鶴見俊輔の魅力か。いっけんぜんぜん違う個性のように思えて、この二人はとてもいいコラボレーションを残してくれたものだと思う。一読者として感慨深い。


<書誌情報>

 埴谷雄高 / 鶴見俊輔著. -- 講談社, 2005

メモ:『性の歴史』第1巻「知への意志」

2005年04月17日 | 読書
 まずは簡単に書誌来歴を

 本書は『性の歴史』全5巻の第1巻として1976年11月にガリマール社から上梓された。フーコーのもくろみでは、『性の歴史』は全5巻となるはずであったが、途中で構想が変わり、じっさいには3巻までだけが刊行された。

 当初の予定では
 1巻 肉体と身体
 2巻 少年十字軍
 3巻 女と母とヒステリー患者
 4巻 倒錯者たち
 5巻 人口と種族

 ところがじっさいにはかなり変更されたかたちで全3巻が刊行された。第1巻は全体の序論ともいうべき位置づけだが、この「序論」がじつにおもしろい。第2巻は少々だるくて退屈だ。


 さて、フーコーは『知への意志』において、性(セクシャリティ)にまつわる言説の歴史をたどることにより、権力と抑圧の本質へ向かおうとする。

 性は語りを禁じられる。性は夫婦の寝室に閉じこめられる。慎ましく、語ることを禁じられる。……だが、誰によって? 権力が禁じる? どんな権力が?

 たとえば子どもには性がないものとされ、性を禁止され、注意深い沈黙が適用される。
 
 「これが抑圧というものの特性のはずであり、つまり抑圧を、単に刑罰の方が支えている禁止事項と区別するものなのだ。抑圧は、確かに消滅すべしという断罪として機能するが、しかし同時に沈黙の強要、存在しないことの確認、従って、そういうことすべてについては何も言うことはないし、何も見ることはなく、知るべきこともないということの証明でもある。このように、跛行的な論理をひきずって、我らのブルジョワ社会は進行しているはずなのだ」
 (p11)

 性は抑圧されているから、性について語ることは禁じられているから、それなれば性について語ればそれが革命的なことか? Non、とフーコーは言う。



 西洋科学文明は性愛の技術を持たない社会だ。そのかわりに性の科学を持つ唯一の文明。西洋文明では中世以来、「告白」が主要な儀式となって、性を<知である権力>へと結びつけた。「真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきた」(p76)


 西洋近代は「死の権力」から「生権力」へと向かった。「性」は「抑圧」と同義ではなく、性は言説化されるようになる。

 (この項、続く)
 

<目次>

第1章 我らヴィクトリア朝の人間

第2章 抑圧の仮説
  1 言説の煽動
  2 倒錯の確立

第3章 性の科学

第4章 性的欲望の装置
  1 目的
  2 方法
  3 領域
  4 時代区分

第5章 死に対する権利と生に対する権力

 訳者あとがき

ほんとに「読んではいけない」本か?

2005年04月08日 | 読書
 『週刊金曜日』誌上で井家上隆幸に「読んではいけない」と酷評された本だが、それほどひどいとは思えなかった。

 むしろ、今までよくわかっていなかったタリバンとアルカイダの違いや関係もよくわかって、わたしには大変よい本だった。
 そもそもなんでアルカイダがアフガニスタンにいるのかすらわかっていないというお粗末な状況認識だったわたしに、この本はそういう事情をよく知らせてくれるよい本だ。

 もちろん、アルカイダを率いるオサマ・ビンラディンのことは原理主義に凝り固まったテロリストという著者の基本認識があり、パレスチナでのイスラエルの蛮行について触れないという偏った立場だが、そのことじたいがそれほど非難されるべきことでもなかろう。パレスチナ問題についてはどちらかの立場に明確に立ちえない人々はいくらでもいるし、とりあえずそのことに蓋をしたとしても、しょうがいない。なにしろ著者はNHKの職員なんだし。

 バーミヤンの大仏という世界遺産の破壊は国際社会の無関心が一因だとちゃんと著者高木氏は述べている。「ビンラディンの策略とタリバンの無知」で国際社会の無関心を免罪などしていない。本書はそれほど単純な結論を導いてはいない。ここは評者井家上氏の誤読だ。

井家上氏の酷評よりも、太田昌国さんの書評のほうがはるかにわたしの読後感に近い。
太田さんの書評はこちら

 ところで、今日は昼休みに敢然として大川の桜並木を歩いた。いや、そんな蛮勇を奮ったわけじゃないけど、なにしろ花粉が怖いので…(^^ゞ ばっちりマスクをして汗ばむ陽気のもと、桜を眺めた。満開ぢゃぁ~。気持ちよかった。

 今夜は夜桜宴会のまたとないチャンスだ。大川沿いの桜の下はほとんど空き場所ばないぐらいに場所取り合戦が繰り広げられていた。昼間から場所取りのためにシートの上で寝転んでいるのは総務部宴会係長か、はたまた退職者嘱託組か。背広の上着を脱いで場所取りのための昼寝を決め込んでいるサラリーマンやら、するめとお茶で時間をつぶす初老のサラリーマン二人組とか、まあこんなところで番をさせられる人は閑職にいるには違いない。

 一面に場所取りブルーシートが引かれているど真ん中の一番いい場所を陣取って昼間から宴会やっているのは中年主婦グループ。いいねぇ、おばさんたちはのんびりできて。

 ケータイを持って出れば写真を撮れたのにおしいことをした。来週まだ桜が残っていれば、カメラを持ってもう一度花見をするとしよう。でも花粉は怖い。今日も職場に戻ってからが大変だった。マスクをはずして仕事を再開、15分ほど経つと、くしゃみ・鼻水・咳の連発。やむなくマスクをかけて仕事に就く。あー、やだやだ。しまいには頭も痛くなったし。ゆーうつ。

<書誌情報>

 大仏破壊 : バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか
   高木徹著. 文藝春秋, 2004