ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

時間論二冊

2006年05月21日 | 読書
 まだまだ続くバタイユ月間。とか言いながら、実は今、カポーティの『冷血』を読んでいたりする(笑)。で、読み終わったら『ダヴィンチ・コード』を読むつもりで文庫本を積んであるのだ。

 さて、新しいバタイユ論である『歴史と瞬間』(和田康著)を読もうとして、これが時間論であることを序文で知ったからには先に時間論の予習を、などと思ったのがちょっとした運の尽きで、いまや時間を哲学することにハマってしまっているではないか。

 最初に読んだのは『時間は実在するか』。これは予想したのと違う本だった。やたら理屈っぽくて、ああでもないこうでもないと、論理学的展開をなす。こういうのは苦手だわ、わたしってやっぱり文系人間。少しでも数学的な叙述の匂いを嗅いだらもうだめ。

 本書は、マクタガートの時間論を批判的に検討し、マクタガートの結論である「時間は実在しない」に異議を唱えるものだ。そもそも、時間が実在しないなどという論がわたしの日常実感と懸け離れているのだ。どんなにへりくつをこねて「だから時間は実在しない」などと結論づけられてもそれには納得できないのだから、「実は時間は実在するのですよ」という結論を用意されてもね、そんなの当たり前やんか、としか思えない。
 
 時間にはA系列とB系列のとらえかたがあり、A系列こそが時間の本質だというのがマグタガートの論。

・<A系列> ある時点であるできごとは「現在」であったが、それはかつては「未来」であったことであり、やがては「過去」になる。つまり、2006年5月21日は現在であるが、去年の今日から見れば未来であり、来年の今日から見れば過去である。このように、ひとつの時間は同時に三つの位置(過去・現在・未来)を持つ。

・<B系列> ある出来事は別の出来事よりも前であり、それは動かない。時間は順序に従っている。たとえば、太平洋戦争のあとに原爆投下があり、その後に日本の敗戦がある。この時間の順列は確定していて動かない。

 それにしても哲学者というのはひょっとしたらものすごく不幸な人かもしれないと思った。だってね、時間が実在するのかどうかなんてそんなことを一生懸命考えているのだもの。実在するに決まってるやんか。実在するからこそ、いろんな悩みや悲哀が生まれるわけで、そこに疑問をはさむのは確かに根源的かもしれないけれど、ちょと(わたしの感覚と)違う、と思わざるをえない。違ってもいいけど、時間について根源的に考えるのもスリルがあるけれど、なんだか論理のこねくり回し方に、「こういう形而上学を唱えることがなんか意味あるわけ?」と思ってしまう。

 わたしもたいてい実学に無関係なものが好きな人間だけど、これはなんだか、日常のなかにフィードバックしてこないような気がする。論理展開としては面白いし、教養として知っておくのも悪くないと思ったが、それ以上のものを感じない。

 ただし、入不二さんの「第四の形而上学」には、いかにもポストモダン的な香りがする。三つどもえの時間論、というのがそうだ。ポストモダンというよりも、ひょっとしたら弁証法かも。どっちにしてもよくわかりません。

 bk1での書評を見ると、森岡正博さんとオリオンさんが高く評価しておられるので、哲学者には受けるのかも、と思った。わたしってやっぱり無知蒙昧か。



 
 それに対して、中島さんのこの本はずっとわたしの実感に近いものだった。時間とは過去を考えることであり、では、過去はどこへ行ったのか? 過去はもうない。未来は? 時間を線でとらえることの過ちを指摘したこの本は斬新なアイデアに満ちていた。時間を空間論と混同する過ち。では、時間をどのようにとらえるのか? 結局のところ、結論がわたしに納得できたわけではない。だが、過去をとらえること、記憶をとらえることについてはたいへん刺戟に満ちた論が展開されていた。

 この本については引用を含めてもう少し展開してみたい(続く)



<書誌情報>

「時間」を哲学する : 過去はどこへ行ったのか / 中島義道著. 講談社, 1996 (講談社現代新書)


時間は実在するか / 入不二基義著. 講談社, 2002.(講談社現代新書)

『若者が働くとき』bk1投稿書評

2006年05月01日 | 読書
 近年、若年労働者問題について書かれた本が目白押しだが、どうやったら若者を定職に就かせることができるのかという視点でしか語られてこなかった。これに対して熊沢氏は、以下のように異議を申し立てる。

《就職後の就労継続をむつかしくしている職場の状況——労働内容、労働条件、人間関係をふくむ労働環境などが、もっときびしい検証にさらされるべきであろう。政策論についていえば、こうして職場の状況をさておいてともかく正規雇用に就職させればよいというものではない》(p9)
 本書は、たとえば本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』が持つ、「労働市場の問題を等閑視して若者の就労問題を若者の「自己責任」に転嫁するな」という問題意識を共有している。若者バッシングの言説分析である『「ニート」…』とは違って、熊沢氏は若者の労働現場の過酷な実態について、労働統計の分析と当事者たちの聞き取りを通じて明らかにする。
 働きたくてもそもそもパイが限られている、さらにせっかく就職しても過酷な労働に擦り切れてしまい、早々に離職し、やがてニートになってしまうその実態を、ファミリーレストランを一例に検証する。
 ファミレスは非正規社員の比率の高い職場だ。非正規社員は勤務時間を選べるが、少数の正社員は勤務体制がきっちり組み込まれ、統括責任を負わされ、店長になると厳しい査定にさらされる。定時に退勤できないことなどはザラであり、過酷な労働に疲れ果てて離職する若者が後を絶たない。その様子を見ているフリーターたちもまた、「ここの正社員になどなりたくない」と思ってしまう。
 このように正規従業員が早々と辞めてしまう理由としては、以下の3つが挙げられるという。
1)企業が長期的スパンで人材を育成する力を無くしてしまい、即戦力、即座の業績を求めている。
2)その結果、労働時間が長くなる。過酷なノルマの存在。
3)職場の人間関係の緊張が高い。「上司が怖い」。
 ところが、不本意な職場、過酷な労働条件であっても若者たちは総じて自分の職場や上司に対して肯定的であるという。彼らは自分たちの職場を自らの力で変えていこうという気概に欠ける。そんな面倒なことをするぐらいならさっさと辞めてしまうのだ。
 現代の若者は忍耐力において旧世代より劣るかもしれないが、若者の離職率の高さの責任は、「勝ち組、負け組」の分化を公認する政策思想や、今や「なんでもあり」の観を呈する労務管理のほうにある(p54)。
 若者の労働問題についての処方箋としては、経営側に向かっては労務管理のあり方への反省を促し、学校に対しては職業教育の重視を提言している。そして熊沢氏らしい主張は、労働組合への期待と叱咤だ。さらに若者自身には、過酷な労働条件に対して団結して闘えと訴える。
 最終章の若者たちのパネルディスカッションが興味深い。彼らは、労働条件に対する不満はそれほど持っていない。むしろ、ときには正社員以上に「仕事が楽しい」「やりがいがある」と、自分の労働に肯定的な評価を下している。彼らは雇用形態にこだわりがない。そういう価値観に熊沢氏は複雑な思いを抱くという。
 本書の大部分を割いて若者が置かれた困難な状況を描いてきた著者だが、一方で若者に対して、その認識の甘さや 「社会に出会う」ことを忌避する態度に苦言を呈してもいる。そして、「木を伐り水を汲む」地味な仕事にも人々に喜んでもらえる労働の喜びがあることを訴え、社会に出会うことなく「自分探し」を続ける倦んだ若者に、そのことの空しさに気づくよう呼びかけている。実際、旧世代はいつも若者たちにうるさがられるものだ。けれど、このことは言い続けねばならない。私もそう思う。
 著者が若者に向けた言葉には限りない愛情と激励が込められている。使い捨てられるな、燃え尽きるな、と。彼らにその言葉が届くことを切に祈る。

<書誌情報>
若者が働くとき : 「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず
 熊沢誠著. ミネルヴァ書房, 2006