どうにも高樹のぶ子が気になって、もう一冊読んでみた。『花嵐の森ふかく』を読了後の物足りなさと同時に、この作家への期待感に我慢がならなくなったのだ。谷崎潤一郎賞受賞作の、『透光の樹』が文庫になったのをこれ幸いに、買い求めてみた。
いや、まさに期待にたがわない。『花嵐の森ふかく』から十年、作家の成長が手に取るようにわかる作品だった。まさに高樹のぶ子は今が旬、今が円熟のときなのだろう。
そもそも高樹のぶ子に興味を持ったのは、雑誌『AERA』に掲載されたインタビュー記事を読んでからだ。二年前か三年前かは忘れたが、おそらく谷崎潤一郎賞受賞後しばらくしてのインタビューではなかったか。「この人が死んだらわたしも墓の前で死ぬ」とまで思い詰め愛した夫を棄て、8歳の息子を置いて家を出た彼女は、夫の友人である弁護士の許へ走った。再婚後に作家になった彼女がどのような情念に燃える作品を書いたのか、とても興味が湧いた。
息子とは、家を出て以来会っていないという。もうとっくに成人したことだろう。その鮮烈な生き様に触れて、わたしにはとうてい真似できないという感嘆と共にまた、うらやましくもあり恐ろしくもある高樹のぶ子という女性の作品に興味を持ったのだ。わたしは、子どもを棄ててまで欲しいと思うような恋には巡りあわないだろうとずっと思ってきた。とてもそれほどの男がこの世にいるとは思えない。
世の中には、子どもを棄てて男の許へ行く女が確かにいる。多くはないだろうけれど、希有なことでもなかろう。昔住んでいた家の隣のおばちゃんは、就学前の小さな子どもを二人置いて、家出した。小学生だったわたしには「おばちゃん」だったけれど、彼女はまだ29歳だった。子どもの目から見てもかわいらしく美しい人だった。下の女の子はまだ2、3歳だったが、その娘だけは引き取りたいという申し出を夫にすげなく断られ、おばちゃんは二度と家に戻らなかった。その後、彼女がどうなったのかは知らない。こんなにかわいらしい子どもたちを置いてでも、好きな人と一緒になりたかったのか、と彼女の心の深奥に燃えたものを見てみたい衝動に駆られた。同時に、残された子どもたちが不憫で、それまで毎日のように遊んであげていたその幼い二人に、かえって距離をもってしまった。
そういう体験は、早熟な女の子だったわたしの胸に深い思い出を焼き付けて、消えない。
わたしは子棄てをする女を責める気は毛頭ない。子棄てをする男は星の数ほどいる。子の養育に責任を持たず、、妻に押しつけたまま知らぬ顔をしている夫たちの何と多いことか。女だって、子棄てをすることがあるだろう。虐待して死なせるくらいなら、子どもを棄てればいいと思う。女だけが子棄てを責められるいわれはない。映画「クレイマー、クレイマー」で、メリル・ストリープが自立宣言を発して家を出る姿の雄々しさに感動したものだ。だが結局彼女も息子の養育権を求めたわけだし、女たちは決して棄てた子どもを忘れ去るわけではなかろう。
話が随分逸れてしまった。「透光の樹」は、子棄ての話ではない。恋愛小説である。性愛小説である。物語の舞台となる石川県の美しい風景も、老いた刀工の職人魂も、鶴来(つるぎ)という町の縁起も、すべてが悲恋を盛り上げる為のお膳立てにしか過ぎない。描かれているのはただ、恋のみ。
女は山崎千桐(ちぎり)42歳。男は今井郷(ごう)47歳。25年ぶりに再会した中年男女が、互いの存在をえぐるような恋に取り憑かれた2年間の濃厚な性愛の世界を、作家は白い蛇がぬたくるような妖しく美しい文体で描いていく。『花嵐の森ふかく』のときに感じた修辞の見事さがいっそう技巧の粋を凝らして、火花を散らすような繚乱のときを迎えている。筆を入れすぎて少々描写が食傷気味になるところや、説明がくどいと感じる部分もあるのだが、恋する中年男女の心の奥深くに分け入る心理描写は作家の円熟を感じさせて感動を誘う。
どんな恋物語も時代を映し出すし、恋人達は社会の構成員であるのだから、その社会背景を背負った存在であるはずなのだが、高樹のぶ子の手にかかると、時代も社会背景も悲恋のためだけに存在するかのようだ。男と女が東京と鶴来に離れていることも、男に妻子がいることも、女に病気の父がいて子どもがいることも、すべてはただ二人の恋を燃え立たせるためのお膳立てなのだ。
互いの気持ちを探り合い読み合い、傷つくことを恐れながらもどうしようもなく惹かれ合う、その恋のプロトコルを、作家は、これでもかとばかりに渾身の筆で描き尽くす。とりわけ二人の情交場面は読者に恥じらいをもたらすほどの迫力だ。
不思議なほどに現実味のない不倫の恋。女は男の妻に嫉妬も抱かないし、男に妻と別れてほしいと泣きついたりだだをこねたりなど、一切しない。男にも妻の陰が見えない。ほとんど逢えないにもかかわらず、女も男もその状況にじっと耐える。「愛している」という陳腐な言葉は決して口にしない男。その代りのものなら、幾万も女に与える。それは二人の肉の交わりが、あらゆる言葉を超えて達した高みの感情だ。
こんな恋は小説の中にしか存在しないだろう。純愛物語だ。そして、深い悲しみはその深さの分だけ、男がいなくなった後の女の体に幸福を刻み込む。物語のエピローグで語られる千桐の恍惚のときは、読者に深いカタルシスを与える。
四十代女性にお薦めの一冊。ラストだけは決して電車の中で読まないように。一人で部屋に閉じこもって思い切り泣いてください。こんな恋ができれば、こんな風に愛されたら、死んでもいいと思うかどうかは人それぞれですが。
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「透光の樹」高樹のぶ子著 2002、文藝春秋(文春文庫)
いや、まさに期待にたがわない。『花嵐の森ふかく』から十年、作家の成長が手に取るようにわかる作品だった。まさに高樹のぶ子は今が旬、今が円熟のときなのだろう。
そもそも高樹のぶ子に興味を持ったのは、雑誌『AERA』に掲載されたインタビュー記事を読んでからだ。二年前か三年前かは忘れたが、おそらく谷崎潤一郎賞受賞後しばらくしてのインタビューではなかったか。「この人が死んだらわたしも墓の前で死ぬ」とまで思い詰め愛した夫を棄て、8歳の息子を置いて家を出た彼女は、夫の友人である弁護士の許へ走った。再婚後に作家になった彼女がどのような情念に燃える作品を書いたのか、とても興味が湧いた。
息子とは、家を出て以来会っていないという。もうとっくに成人したことだろう。その鮮烈な生き様に触れて、わたしにはとうてい真似できないという感嘆と共にまた、うらやましくもあり恐ろしくもある高樹のぶ子という女性の作品に興味を持ったのだ。わたしは、子どもを棄ててまで欲しいと思うような恋には巡りあわないだろうとずっと思ってきた。とてもそれほどの男がこの世にいるとは思えない。
世の中には、子どもを棄てて男の許へ行く女が確かにいる。多くはないだろうけれど、希有なことでもなかろう。昔住んでいた家の隣のおばちゃんは、就学前の小さな子どもを二人置いて、家出した。小学生だったわたしには「おばちゃん」だったけれど、彼女はまだ29歳だった。子どもの目から見てもかわいらしく美しい人だった。下の女の子はまだ2、3歳だったが、その娘だけは引き取りたいという申し出を夫にすげなく断られ、おばちゃんは二度と家に戻らなかった。その後、彼女がどうなったのかは知らない。こんなにかわいらしい子どもたちを置いてでも、好きな人と一緒になりたかったのか、と彼女の心の深奥に燃えたものを見てみたい衝動に駆られた。同時に、残された子どもたちが不憫で、それまで毎日のように遊んであげていたその幼い二人に、かえって距離をもってしまった。
そういう体験は、早熟な女の子だったわたしの胸に深い思い出を焼き付けて、消えない。
わたしは子棄てをする女を責める気は毛頭ない。子棄てをする男は星の数ほどいる。子の養育に責任を持たず、、妻に押しつけたまま知らぬ顔をしている夫たちの何と多いことか。女だって、子棄てをすることがあるだろう。虐待して死なせるくらいなら、子どもを棄てればいいと思う。女だけが子棄てを責められるいわれはない。映画「クレイマー、クレイマー」で、メリル・ストリープが自立宣言を発して家を出る姿の雄々しさに感動したものだ。だが結局彼女も息子の養育権を求めたわけだし、女たちは決して棄てた子どもを忘れ去るわけではなかろう。
話が随分逸れてしまった。「透光の樹」は、子棄ての話ではない。恋愛小説である。性愛小説である。物語の舞台となる石川県の美しい風景も、老いた刀工の職人魂も、鶴来(つるぎ)という町の縁起も、すべてが悲恋を盛り上げる為のお膳立てにしか過ぎない。描かれているのはただ、恋のみ。
女は山崎千桐(ちぎり)42歳。男は今井郷(ごう)47歳。25年ぶりに再会した中年男女が、互いの存在をえぐるような恋に取り憑かれた2年間の濃厚な性愛の世界を、作家は白い蛇がぬたくるような妖しく美しい文体で描いていく。『花嵐の森ふかく』のときに感じた修辞の見事さがいっそう技巧の粋を凝らして、火花を散らすような繚乱のときを迎えている。筆を入れすぎて少々描写が食傷気味になるところや、説明がくどいと感じる部分もあるのだが、恋する中年男女の心の奥深くに分け入る心理描写は作家の円熟を感じさせて感動を誘う。
どんな恋物語も時代を映し出すし、恋人達は社会の構成員であるのだから、その社会背景を背負った存在であるはずなのだが、高樹のぶ子の手にかかると、時代も社会背景も悲恋のためだけに存在するかのようだ。男と女が東京と鶴来に離れていることも、男に妻子がいることも、女に病気の父がいて子どもがいることも、すべてはただ二人の恋を燃え立たせるためのお膳立てなのだ。
互いの気持ちを探り合い読み合い、傷つくことを恐れながらもどうしようもなく惹かれ合う、その恋のプロトコルを、作家は、これでもかとばかりに渾身の筆で描き尽くす。とりわけ二人の情交場面は読者に恥じらいをもたらすほどの迫力だ。
不思議なほどに現実味のない不倫の恋。女は男の妻に嫉妬も抱かないし、男に妻と別れてほしいと泣きついたりだだをこねたりなど、一切しない。男にも妻の陰が見えない。ほとんど逢えないにもかかわらず、女も男もその状況にじっと耐える。「愛している」という陳腐な言葉は決して口にしない男。その代りのものなら、幾万も女に与える。それは二人の肉の交わりが、あらゆる言葉を超えて達した高みの感情だ。
こんな恋は小説の中にしか存在しないだろう。純愛物語だ。そして、深い悲しみはその深さの分だけ、男がいなくなった後の女の体に幸福を刻み込む。物語のエピローグで語られる千桐の恍惚のときは、読者に深いカタルシスを与える。
四十代女性にお薦めの一冊。ラストだけは決して電車の中で読まないように。一人で部屋に閉じこもって思い切り泣いてください。こんな恋ができれば、こんな風に愛されたら、死んでもいいと思うかどうかは人それぞれですが。
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「透光の樹」高樹のぶ子著 2002、文藝春秋(文春文庫)