ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

女性作家の作品を読む(2)

2002年09月29日 | 読書
 どうにも高樹のぶ子が気になって、もう一冊読んでみた。『花嵐の森ふかく』を読了後の物足りなさと同時に、この作家への期待感に我慢がならなくなったのだ。谷崎潤一郎賞受賞作の、『透光の樹』が文庫になったのをこれ幸いに、買い求めてみた。
 いや、まさに期待にたがわない。『花嵐の森ふかく』から十年、作家の成長が手に取るようにわかる作品だった。まさに高樹のぶ子は今が旬、今が円熟のときなのだろう。

 そもそも高樹のぶ子に興味を持ったのは、雑誌『AERA』に掲載されたインタビュー記事を読んでからだ。二年前か三年前かは忘れたが、おそらく谷崎潤一郎賞受賞後しばらくしてのインタビューではなかったか。「この人が死んだらわたしも墓の前で死ぬ」とまで思い詰め愛した夫を棄て、8歳の息子を置いて家を出た彼女は、夫の友人である弁護士の許へ走った。再婚後に作家になった彼女がどのような情念に燃える作品を書いたのか、とても興味が湧いた。
 息子とは、家を出て以来会っていないという。もうとっくに成人したことだろう。その鮮烈な生き様に触れて、わたしにはとうてい真似できないという感嘆と共にまた、うらやましくもあり恐ろしくもある高樹のぶ子という女性の作品に興味を持ったのだ。わたしは、子どもを棄ててまで欲しいと思うような恋には巡りあわないだろうとずっと思ってきた。とてもそれほどの男がこの世にいるとは思えない。
 世の中には、子どもを棄てて男の許へ行く女が確かにいる。多くはないだろうけれど、希有なことでもなかろう。昔住んでいた家の隣のおばちゃんは、就学前の小さな子どもを二人置いて、家出した。小学生だったわたしには「おばちゃん」だったけれど、彼女はまだ29歳だった。子どもの目から見てもかわいらしく美しい人だった。下の女の子はまだ2、3歳だったが、その娘だけは引き取りたいという申し出を夫にすげなく断られ、おばちゃんは二度と家に戻らなかった。その後、彼女がどうなったのかは知らない。こんなにかわいらしい子どもたちを置いてでも、好きな人と一緒になりたかったのか、と彼女の心の深奥に燃えたものを見てみたい衝動に駆られた。同時に、残された子どもたちが不憫で、それまで毎日のように遊んであげていたその幼い二人に、かえって距離をもってしまった。
 そういう体験は、早熟な女の子だったわたしの胸に深い思い出を焼き付けて、消えない。

 わたしは子棄てをする女を責める気は毛頭ない。子棄てをする男は星の数ほどいる。子の養育に責任を持たず、、妻に押しつけたまま知らぬ顔をしている夫たちの何と多いことか。女だって、子棄てをすることがあるだろう。虐待して死なせるくらいなら、子どもを棄てればいいと思う。女だけが子棄てを責められるいわれはない。映画「クレイマー、クレイマー」で、メリル・ストリープが自立宣言を発して家を出る姿の雄々しさに感動したものだ。だが結局彼女も息子の養育権を求めたわけだし、女たちは決して棄てた子どもを忘れ去るわけではなかろう。

 話が随分逸れてしまった。「透光の樹」は、子棄ての話ではない。恋愛小説である。性愛小説である。物語の舞台となる石川県の美しい風景も、老いた刀工の職人魂も、鶴来(つるぎ)という町の縁起も、すべてが悲恋を盛り上げる為のお膳立てにしか過ぎない。描かれているのはただ、恋のみ。
 女は山崎千桐(ちぎり)42歳。男は今井郷(ごう)47歳。25年ぶりに再会した中年男女が、互いの存在をえぐるような恋に取り憑かれた2年間の濃厚な性愛の世界を、作家は白い蛇がぬたくるような妖しく美しい文体で描いていく。『花嵐の森ふかく』のときに感じた修辞の見事さがいっそう技巧の粋を凝らして、火花を散らすような繚乱のときを迎えている。筆を入れすぎて少々描写が食傷気味になるところや、説明がくどいと感じる部分もあるのだが、恋する中年男女の心の奥深くに分け入る心理描写は作家の円熟を感じさせて感動を誘う。

 どんな恋物語も時代を映し出すし、恋人達は社会の構成員であるのだから、その社会背景を背負った存在であるはずなのだが、高樹のぶ子の手にかかると、時代も社会背景も悲恋のためだけに存在するかのようだ。男と女が東京と鶴来に離れていることも、男に妻子がいることも、女に病気の父がいて子どもがいることも、すべてはただ二人の恋を燃え立たせるためのお膳立てなのだ。
 互いの気持ちを探り合い読み合い、傷つくことを恐れながらもどうしようもなく惹かれ合う、その恋のプロトコルを、作家は、これでもかとばかりに渾身の筆で描き尽くす。とりわけ二人の情交場面は読者に恥じらいをもたらすほどの迫力だ。

 不思議なほどに現実味のない不倫の恋。女は男の妻に嫉妬も抱かないし、男に妻と別れてほしいと泣きついたりだだをこねたりなど、一切しない。男にも妻の陰が見えない。ほとんど逢えないにもかかわらず、女も男もその状況にじっと耐える。「愛している」という陳腐な言葉は決して口にしない男。その代りのものなら、幾万も女に与える。それは二人の肉の交わりが、あらゆる言葉を超えて達した高みの感情だ。

 こんな恋は小説の中にしか存在しないだろう。純愛物語だ。そして、深い悲しみはその深さの分だけ、男がいなくなった後の女の体に幸福を刻み込む。物語のエピローグで語られる千桐の恍惚のときは、読者に深いカタルシスを与える。

 四十代女性にお薦めの一冊。ラストだけは決して電車の中で読まないように。一人で部屋に閉じこもって思い切り泣いてください。こんな恋ができれば、こんな風に愛されたら、死んでもいいと思うかどうかは人それぞれですが。

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「透光の樹」高樹のぶ子著 2002、文藝春秋(文春文庫)

女性作家の作品を読む

2002年09月25日 | 読書
高樹のぶ子『花嵐の森ふかく』(文芸春秋,1990.(文春文庫))
林真理子『初夜』(文藝春秋,2002.)
山本文緒『恋愛中毒』(角川書店,2002.(角川文庫))
川上弘美『センセイの鞄』(平凡社,2001) 

 わたしは女性作家の小説をほとんど読んだことがない。せいぜい、倉橋由美子と三浦綾子、それに宮部みゆき、高村薫ぐらいだ。吉本ばななは2冊ほど読んで、「時間の無駄」と思ったので、それっきりやめた。
 なぜ女性作家の小説を読まないのか。なぜと訊かれても答えようがない。自分でもよくわからない。そもそも、20歳のころはともかく、最近は小説そのものをほとんど読んでいない。
 女性作家の作品には恋愛小説が多いのではないかという偏見があったのかもしれない。わたしは映画でも小説でもラブストーリーはあまり好きではなかった。好いた惚れたとああでもないこうでもないと言い合う男女の会話がまどろっこしく、二人きりの世界に浸りきって「社会」を見ない作品にはうんざりした。わたしの趣味は明らかに不条理文学であり、歴史文学であり、社会派文学だったのだ。そして、娯楽作なら推理小説かブラックユーモア。

 が、しかし、だがだが、思うところあって、立て続けに現代女性作家の小説を読んでみた。それも恋愛小説ばかり。して、思うに、「恋愛小説もええやんかぁ」。
 たぶん、若い頃は、恋愛は読むものではなくするものだったのだ。並みの小説よりずっと起伏に富んだ恋愛生活を生きていたのだろうか。わざわざフィクションの世界に仮託しなくても、わたしのラブストーリーはいつもそこにあった。いくつもの短編小説が織り成され、決して長編作になることなく、適度な長さで物語にエンドマークがついて、次回作をまた読みふける。

 けれど、それがいつしかたった一本の長編が綴られていくこととなり、どうやら朝の連続ドラマのように退屈で善意に満ちた筋立てであることがわかってきた。小さな悪意は登場人物の一人一人が心の中にそっと抱えて顔には出さず、大して複雑でもない人間関係の中を、ヒロインは日々生起する小さなトラブルに驚いたり嘆息したりしながらうまく乗り切る。青春時代の一こまには壁際の花のように添えられていたロマンスも色あせ、ヒロインの夢は、好きな人のお嫁さんになることから、その人とお店を切り盛りしたり、子ども達の成長を楽しみにドタバタと多忙な日々を過ごすことへと収斂していく。

 そして40代も半ばにさしかかったヒロインは、今更のように恋愛小説を読みふける。もはや、身の回りのどこにもラブストーリーはない。フィクションの中にしかそれは見出せない。だから恋愛映画を見て笑い泣き、恋愛小説を読んで心のざわめきを思い出す。それなりにいろんな人生経験を積んだからこそ、フィクションに描かれた虚構の人々の機微が理解できるし、表面の筋を追うことしかできなかった若い頃とは違った読みが可能となり、本代の代価に見合う満足を得ることもできる。

 さて、たまたま4作続けて読んだ上記作品だが、これらを選んだ特別な意図はない。彼女達の作品は初めて読んだ。だから、この一作ずつで作家論など書けないのは当然のこと。書評だって無理。しょせんは読書感想文の域を出ないのだが、それでも4作すべてがおもしろかったとだけは述べておきたい。

 高樹のぶ子『花嵐の森ふかく』(文庫版)には、「星夜に帆あげて」とその続編「花嵐の森ふかく」の2編が収めらている。主人公は短大を卒業したばかりのさつきという女性。彼女が入社した出版社での出来事を通して人間的に成長し、一歩一歩大人になっていく様子が描かれる。「星夜に帆あげて」は、学歴もない、さして美人でもないごく普通の女性であるさつきが、入ったばかりの出版社での労働組合づくりに巻き込まれ、心ならずも幹部に就任し、やがて裏切りや挫折を経験していくという成長物語なのだが、あまり印象に残る作品ではない。むしろ、続編の「花嵐の森ふかく」の方が秀逸だ。
 おそらく高樹のぶ子という作家は、労働争議とそれにまつわる悲喜こもごも、駆け引きと謀略、オルグと篭絡、思想的な葛藤、といったものを描くのは不得意なのだろう。作家本人がそういったところでぎりぎりの魂のやりとりを経験していないのではないか。ヒロインさつきが挫折感を味わうといっても、生きるか死ぬかというほどの葛藤を経ているとは思えないし、彼女がショックを受けたり大人になったような気がする、といったくだりもリアリティをもって迫るものがない。
 なにより、続編になると、正編で大きなテーマだった労働組合の活動がまったく描かれない。あれはいったいさつきにとってなんだったのか、という拍子抜けを読者に与えてしまう。続編はさつきの恋愛物語へとシフトしていく。そして、恋愛を阻むものが、恋人の出生の秘密であり、母と息子の対立だ。そこに編集者さつきのプロとしての葛藤もからむ。さつきが恋する青年がなぜかリアリティを持たず、なぜ彼らがほとんど一目ぼれのような事態に陥るのか不可解だ。青年のキャラクターが具体性を持って立ち上がってこないので、いまいち感情移入がスムーズにいかない。
 高樹のぶ子の文体は美しく、ところどころにはっとするような隠喩があり、捨てがたい魅力を放ってはいる。が、この作品に関して言えば、作家の才能はまだ全開していないと感じさせる。
      
  林真理子『初夜』は、短編集。短編ゆえに、細部の豊かさよりも、筋立てのおもしろさで読ませる作品ばかりだ。林真理子はフェミニズムの敵だと思っていたから、これまでなにも読んでこなかった。だが、なかなかどうして、林真理子あなどるまじ。この短編集のヒロインたちはいずれも中年女性。その多くが不倫の話なのだが、必ず一つは中年女性の琴線に触れる物語があるはず。人間の暗部を短い言葉で的確に剔抉し、剥き出しの虚栄心、嫉妬、情念、猜疑、欲望、羞恥、をずらりと並べてみせる。夜店の叩き売りのように、女と男の醜さを山と積み上げ売りさばくようなその筆致にはうならされる。林真理子が描く女性達は誰も彼も既成の価値観に毒され、現実を変革しようなどという前向きの姿勢はどこにも見られない。確かにフェミニズムの敵だ。しかし、フェミニストが描いたって、現実は確かにこの通りではないのか。読者はおそらく作家が描く登場人物たちと自分との距離を測り、その近さ/遠さを認識して安心するのだろう。例えば「メッセージ」では、自分勝手な優越感にひたる鼻持ちならない主婦が、不倫相手の男にこれからはめられていくであろう罠を予感させるそのラストシーンに慄然としながらも、読者は「ざまあみろ」という気持ちをくすぐられて溜飲を下げる。この短編集に登場する主婦達がいとも簡単に不倫に走るのをみた女性読者は、自らの不倫願望をかきたてられつつ、ヒロインたちの恋がしっぺ返しを食うのを見てほくそえむ。読者の悪意に訴えるおそろしい作品だといえよう。
   

 山本文緒『恋愛中毒』は、吉川英治文学新人賞を受賞した作品。初版は1998年、今年の6月に文庫本化されたので、手軽に読めるようになった。 これは確かに恋愛小説の傑作の一つだろう。心理描写が巧みで、登場人物の造形が際立っているので、あっという間に物語に吸い込まれていく。貪るように読了してしまった。主人公の女性はわたしとはまったく違う性格なのに、彼女の心理が痛いほどよく理解できる。何よりも、彼女が恋する熟年のタレント作家が魅力に満ちている。天衣無縫で女たらしの無頼漢である彼の存在感が圧倒的だ。ヒロインの心理に読者が感情移入できるさまざまな細部の書き込みは、短編では表現不能だろう。やはり、この長さ(415ページ)が必要だったと思う。しかし、決して長さを感じさせない作品だ。女性向けの恋愛小説の成功の可否は、ヒロインが恋する男が魅力的かどうかにかかっている、と見た。 
       
 川上弘美『センセイの鞄』は、小学生の作文のような文章が連なるのに、なぜかそこはかとなく切なく楽しく、つつっと物語世界に吸い込まれていく不思議な恋愛小説だ。やはりこれもヒロインが恋するセンセイに大きな魅力があるからなのだ。ヒロインのツキコは30代の終わり。センセイは70歳。二人の歳の差は30歳と少しある。そんな老人に誰が恋するものかと思うなかれ。センセイはいつも背筋をピンと伸ばして昔の教え子に堅苦しい丁寧語で話しかける。いかにも先生なのだ。先生以外のなにものでもない、この老人の背筋がピンと伸びているところが、若々しさよりもかえって老人らしさを感じさせる。ただし、矍鑠(かくしゃく)たる、という形容をつけて。こんな年寄りになら、きっと恋をするだろう。そう素直に感じさせる不思議な魅力にあふれるセンセイだ。
 ぶつぶつと短く途切れた文、情景描写もうまいとは言いがたく、ムードもない淡々とした文体だ。だが、40間近の都会の女性のうっすらとした寂しさを巧みに表現して秀逸。ここには恋のすべてがある。恋の切なさ、楽しさ、迷い、嫉妬、諦め、猜疑、不安、ことごとく静かに沁みて、ヒロインとともに笑い、泣く。
 最後の1ページを通勤バスの中で読み終わったわたしは、他の乗客に涙を見られまいと懸命に堪えた。すぐに、誰もわたしのことなんか見ちゃいないと気づいたけれど、夕闇の車窓に浮かぶ自分の顔に涙が光っているのを見つけて、恥ずかしかった。谷崎潤一郎賞受賞作。


「あの日から世界が変わった (コスモブックス)」

2002年09月22日 | 読書
著者はその日、たまたまニューヨークに居合わせた日本人だった。
 だが、それは「たまたま」ではなかった。日本脱出以来18年、アメリカをこよなく愛し、それゆえにアメリカを愛しきれない男が、あの日、WTCのすぐ近くに居合わせたのは天の配剤だったのだろう。
 フリーランスのガイドをしていた著者は仕事がなくなったが、そのかわり、毎日デジカメを持って街へ出た。何枚もの写真を撮り、人々に問いかけ、9.11の意味を考える。偏狭な国家主義へと走るアメリカ合衆国政府とアメリカン達に警鐘をならしつつ、なおもその中で生きざるをえない人々の声を拾い上げ、ニューヨークへの限りない愛を告げる。
「NYよ、バカ野郎だけどありがとうよ」。

 誤植の多さがなければ満点をつけたのだが、惜しい。写真も数多く掲載されており、この一年で70冊も出たテロリズム関連図書の中でも必読の一冊といえる。
 テンポのよい文体、歯切れよい辛口批評の数々は拝聴に値する。アメリカ人も日本人も愛を込めてバカだと言われているのだ。心しよう。(bk1書評投稿)

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あの日から世界が変わった (コスモブックス)
ニューヨークGood Bye物語
たけちよ著
出版 : アートブック本の森: 2002.8