ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

フーコー入門書読み比べ(1)

2005年02月26日 | 読書
 『フーコー入門』は簡にして要を得た優れものの入門書だ。
 フーコーの伝記にはほとんど触れず、著作を刊行年順に追うクロニクル形式で、かつそれぞれの内容紹介や解釈もわかりやすい。
 フーコーの思想が変化していく様をよくつかんで描いてあると同時に、フーコーが生涯変わらず追い求めた「権力からの解放、自由」というテーマが浮き上がるようになっている。このひとの文章は読みやすいので、フーコーの著作と同時並行して読むと理解の助けとなる。

<書誌情報>

フーコー入門 / 中山元著. -- 筑摩書房, 1996. -- (ちくま新書 ; 071)



次に、最近出た本。こちらはフーコーの伝記から始まる。わたしは思想家の(だけじゃないけど)伝記には興味があるので、こちらの方が気に入っている。文体も「ですます」体で親しみやすい。

 第1章を読むと、フーコーの伝記を映画にしたらおもしろいんじゃないかと空想がかけめぐる。主演は誰かな、とか脚本はどうしよう、こういう科白とこういう場面を入れて……と勝手な想像がふくらんでいく。

哲学者の仕事というのは一人ではできないものだ。フーコーも多くの人に支持され刺激を受けて歴史に残るような研究ができたわけだ。フランス思想界は狭い世界で(フランスだけではないかも)、その中で反目したり協力したり、なかなかこの人脈が華麗で、興味をそそられる。

 サルトルとの反目と協力、デリダとの論争と協力、ドゥルーズとの共闘・友愛、アルチュセールの支持と友情、などなど彼らがいかに思想を互いに切磋し彫琢していったのか、その跡を見るのがおもしろい。もちろん本書は入門書なので、そういった知の系譜については必要最小限しか触れられていないのはちょっと残念。

 第2章ではとりわけ「パレーシア」(真理を率直に語ること)という概念が丁寧に解説されている。フーコーの最晩年の思考はこの「パレーシア」の分析にあてられていた。フーコーはエイズにかかって死ぬ直前まで大学で講義を続けていて、その講義録が出版されているのだけれど、この人は自分の既発表論文をまとめて本にするという形式をとらなかった珍しい学者だそうだ。生きている間に出した本はみな書き下ろし。すごいね、これ。その他はインタビュー集などを出しているけど、フーコー死後に講義録が出版されている。未完の本も印刷ゲラがあるという噂とか。

 さて、そのパレーシアを分析することにより、フーコーは西洋における主体の変遷を探求する。古代ギリシャにおける主体と、スコラ哲学全盛時代の主体、そしてキリスト教支配下の主体とがいかに異なるかを、「真理を語ること」の方向性の違いで説明する。このあたりの解説はたいへん丁寧でわかりやすい。

 ソクラテスの時代には、自己にとって大切なことは真実を語ること、それも権力者や大衆の堕落や不道徳を厳しく指摘することであった。要するにひたすら他人を批判するのね。ふーん。でもそれは命がけの正義だったのだ。だからソクラテスは人々に嫌われて殺されてしまう。

 2世紀ごろのストア派の倫理の基本的原則は自己の意志に依存しているものだけが善と悪にかかわり、それ以外のものは善悪無記であることをくりかえし記憶し、それを点検することにある。自己への主権を確立するために不断の訓練を繰り返す。そのために「散歩」する! 哲学者って散歩する人だったのね(・o・)
 禁欲するのも鍛錬するのも、理想的な自己に近づき主体が自己を享受できるようにするためだったのだ。

 それに対し、キリスト教の伝統のもとでは自己は否定的にとらえられる。キリスト教では権力者に対して自己の真実を告解することによって、権力に服従する主体を作り上げることが正しいありかたとされる。弟子は師匠に自分の罪を告白し、自己を放棄して服従するのだ。それが徳が高いということ。こういうのは修道院で厳しく躾けられた。どんなに理不尽な命令でも師匠の命には疑問を差し挟まずに服従する。それが「あんたはエライ!」と褒め称えられる行為。(やだねぇー)


 この本はお薦めだ。ほんと、初めて読むにはぴったり。

第一章 ミシェル・フーコーの生涯
1 懊悩する青年 一九二六~六〇
2 『狂気の歴史』『言葉と物』の反響 一九六一~七〇
3 闘う知識人の旗手として 一九七〇~八四

第二章 ミシェル・フーコーの思想 狂気・真理・権力・主体
1 狂気――理性の他者
2 真理――その条件と系譜
3 権力――生の権力
4 主体――その桎梏

第三章 ミシェル・フーコーの著作
1 著書
2 講義録
3 インタビュー、評論など
ミシェル・フーコー略年譜
あとがき


<書誌情報>

はじめて読むフーコー / 中山元著. -- 洋泉社, 2004. -- (新書y ; 104)



『感じない男 』

2005年02月19日 | 読書
 大学教師がこういう赤裸々告白本を書いた勇気に拍手すべきなのか、奇を衒ったトンデモ本と酷評すべきなのか。もちろんわたしは前者の側なのだが、毀誉褒貶が激しくわかれそうな、あるいはまたまったく無視される可能性も高い本だ。

 男のセクシャリティを一人称で語りその問題点をえぐるという試みは、自己を深く洞察するその刃がそのまま読者にも鋭く突きつけられることを意味する。「私はこうだ。あなたはどうなんだ?」という問いかけにたじろぐ読者も多いのではないか。著者の真面目な問いに真摯に対峙しようとすればするほど読者もまた痛みを感じてしまう。

 ロリコンや制服フェチなどの現代の病理を分析し、性犯罪を抑止しようという森岡さんの試みは、「なぜ私は」少女に欲情し制服を偏愛するのかを自問自答することから始まる。そして、自分自身についてのケーススタディを一般化できないと断りつつ、かなりの割合でロリコン男に共通の心理が働いているのではないかと帰納する。

なぜ学校の制服に欲情するのか、なぜスチュワーデスやOLの制服ではないのか、と森岡さんは推理と分析を進める。そして、ロリコンや制服フェチの病巣がどこにあるのかを探っていく過程はスリリングでぐっと読ませるものがある。

 本書の大部分を貫く「不感症男」としての自己否定感・悲壮感は、わたしの同情をそそってしまう。読んでいるうちにどんどん森岡さんがかわいそうになってくるのだ。森岡さんは自分自身を対象に分析を進めるため、読者は男一般への同情や驚異よりむしろ、森岡正博その人への興味や同情を強くしてしまう。

 著者によれば、若い頃の性的劣等感や不快感が「自分のからだを愛せない男」をつくってしまい、その気持ちは「感じる女」への嫌悪感にまで結びついてしまうという。森岡さんが大学に入って最初に受けた性的アプローチはゲイの男性からだった。以降、しばしばゲイの男性から「狙われる存在」である自分に恐怖と嫌悪を感じ、自己改造を試みる。狙われる男から狙う男へ。マッチョな男への変身。こうしてできた「感じない男」。これがいま、レイプや少女買春などさまざまな歪みを社会の中にもたらしているという。

 「感じない男」とは、「男の不感症」や「自己否定」を自分の中に隠し持っておりながら、そのこからできるだけ目をそらそうとし、あたかもそんなものは存在しないかのようにふるまっている男のこと(p158)

 不感症とはつまり、「小便のような射精とそのあとの空虚な感じ」(p161)に陥る感覚のことだ。射精のあと、セックスの昂奮もあっという間に冷めて空しい気持ちに陥ってしまうこと。女性に比べてほとんどなんの快感も性交からは得ていない。排泄と同じくらいの気持ちよさしかない、という。

 こういう本を読むとついつい世のすべての男性に訊いてみたくなる、「あなたは不感症ですか」と。自分を等閑視しない著者の態度がそうさせるのだろう、やはり男の読者は自分に引きつけて読むようだ。たとえば曽根朗さんも本書を読みながらご自分の性体験を振り返ってしまったという。

 惜しむらくはこの本にユーモアが欠けていることだ。読みやすくて軽い本であるにもかかわらず、内容は決して軽くももちろん明るくもない。自身のセクシャリティを笑い飛ばせる余裕が森岡さんにあれば、と思う。もう不感症であることを悩まない、そんなことを気にしないというところまでやっとたどり着いたという著者にそこまで求めるのは酷なのだろうが、もし森岡さんが不感症を笑えるようになったら、わたしも遠くから密かに一緒に笑ってあげたい。そんな気持ちにさせる読後感のある本だ。

 夫にも一読を薦めたところ、「よくこんな本を書いたなあ」と感心していたが、ときどき「あはは」と声を出して笑うので、不審に思った。わたしはこんなに著者が悩みながら書いた本を読んで笑う人がいるなんて不思議だったのだが、夫は冷めた目で見ているから笑えるみたい。

 いずれにしても、この分野の分析はいま始まったばかり、という気がする。森岡さんの分析が正しいのかどうかは専門家がこれから批評してくれるだろうが、これを読む素人の女性であるわたしは、「不感症男」がかわいそうだと思う反面、そんなことで女を憎むなよ、とも思うし、もっといえば、「女だって不感症なんだよ、ほんとは」と教えてあげたい。
 感じてるフリをしている女性はいくらでもいるだろうし、感じないでおこうと思えばいくらでも感じないでセックスするのは可能だし。そんなものは自己暗示なんだと思うけど……


 それにしてもセックス。たかがセックス。もっと軽く考えられないのかなあ、すごく不思議だ。この本の内容はいま読書中のフーコー『性の歴史』第1巻をどうしても想起させる。性にまつわる言説は権力の本質に関係する。だからこそ、たかがセックスなのに、されどセックスなのだ。

 引き続き考えてみたい。

10年後の原爆漫画

2005年02月15日 | 読書
 たいへん短い漫画で、30分もかからずに全部読めるからぜひいろんな人に読んでもらいたい。

 戦争の実相が輻輳的であるのと同じように、被爆体験も被爆者の数だけある。そして、原爆の悲劇は一瞬で終わるのではない。
 「夕凪の街」は、被爆後10年も経ってからおとずれる後遺症の悲劇を描く。画調はやさしく細かい。レトロな雰囲気のする暖かい筆遣いだ。そして、淡々と静かに、一人の若い女性の死を描く。

 生き残った者の傷。生きていることの罪悪感。これは戦火を生き延びた人々を長らく苦しめたトラウマだ。そのトラウマを日々背負いながら、それでもやっぱり生き延びたことを喜び、そして未来へ繋ごうとしていた乙女は、貧しくても懸命に生きていた。いや、貧しいからこそ懸命に生きていた。

 その「生」を無残に引きちぎる原爆後遺症。ほのかな恋も、母へのいたわりも、亡くした家族への思いも、すべてを連れ去る「死」は彼女を迎えにやってくる。

 戦火を何一つ知らないわたしは、わたしたちは、この作品を読んで静かに涙を流す。号泣ではなく、ぽろりと一粒だけ。
 涙は一粒だけ。
 
 原爆を落とした人たちは、10年経って一人の女をまた殺したことを喜んでいるだろうか。これがトルーマン大統領の言葉どおり、神の使命に叶うことだったのだろうか。

 淡々と静かに語られた原爆のその後の物語だ。物語はこうして語り継がれる。いつまで語り継がねばならないのだろう?

映画「アトミック・カフェ」もぜひ合わせてご覧ください。
「アトミック・カフェ」評はここhttp://www.eonet.ne.jp/~ginyu/050210.htm

<書誌情報>

夕凪の街 桜の国 / こうの史代著 双葉社 2004

保苅さんの本、三度

2005年02月13日 | 読書
同じ本について3度も書くのは初めて。
よっぽどこの本は衝撃が強かったのだろう。

中国経済論専攻のkaikaji(梶谷懐)さんのブログを読んでかなりいいヒントを与えて頂いた。

じつは梶谷さんのbk1書評はよく読んでいたのだが、厳しい評が多くて、「研究者はこんなふうに厳しく読むんだなあ」と常々感じていた。わたしは自分自身が無知なのでたいていどんな本を読んでも「いいことが書いてある」と思ってしまうのだけど、この厳しさはどこに由来するのだろうとふと考えた。

それと同時に、保苅さんのこの本がどんなに欠点をいくつももっていようが素晴らしいものであることは否定できないと思うので、わたしは絶賛するのだが、それに対して梶谷さんの次の言葉にはっとした。

<<この本についてはネット上でもすでにいくつか書評が発表されているけど、そのほとんどが、絶賛というより個人的な思い入れを過剰なほど前面に出した書き方になっているのが印象的だ。その気持ちは確かにわからないではない。ただ、僕が思うのはそうやってこの本が一種の神格化の対象となってしまうことは多分この本の著者が一番望んでいないだろう、ということだ。

人が「歴史と記憶」の問題について好んで語ろうとするのは決まって戦争や「国民の歴史」が絡んでくる時であり、それがいつもこの問題に政治的な色合いを与えてしまう。しかし、そういった政治的な思惑を一旦離れた「実在」というものに関する純粋に哲学的な探求として、例えば「経験」に対して真摯なラディカルなオーラル・ヒストリアンと科学的「実在」に対して真摯な科学哲学者との間に対話は可能なのではないか、そこに何か大きな可能性が見出せるのではないか>>


そして、これはわたしが梶谷さんのブログのコメントにも書いたことだが、本書についての不満点や限界点は以下のようなところにあると感じる。
それはすなわち、「歴史の普遍性」「実証主義」などといった言葉について保苅氏が定義を曖昧にしたまま使用したことだ。ほかにもいくつも、歴史哲学上の論争に上がりそうな形而上学の用語はいくつも登場するし、そのいちいちについて保苅さんは用語解釈を避けて使用している。たぶん、そういった「哲学的論争」に保苅さんは首を突っ込むつもりがなかったのだろう。ただ、その定義が曖昧なままであるため、誤解を生む場面や、読者が首をひねるような文脈もまた否定できない。

ホカリは形而上学的空論をきらってフィールドに出た歴史家だったのだ。彼のもやもやと形をもたない思想もまた星雲の志がよく現れたものだ。若くして亡くなったことをこれほど惜しまれる人も少ないのではなかろうか。梶谷さんのブログへこのようなコメントが寄せられていた。

<<彼は「背中が痛いんだ」「精密検査の結果待ちで・・」と病状を訴えつつ、女性のキャリーバッグを持ってあげるような、このギョウカイには珍しい(・・失敬・・)紳士でした。明るくユーモアのセンスがあり、ハンサムで優しく、フェミニストだったから、老若問わず女性に大人気でした。シンポでの発表は素人が聞いても面白く、分かりやすい表現で難しいことを話す天才でした。>>(by ナンシー北京さん)


惜しい人を亡くしたという言葉を一万回保苅さんに捧げたい。合掌。

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』についてのkaikajiさんのコメントはこちら
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050202
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/comment?date=20050208#c


メモ:『歴史的理性の批判のために』

2005年02月06日 | 読書
 この本は電車の中で立ち読むするような類のものではなかったと反省。じっさい、内容も難しいのだが、文体も読みにくくて、上村氏が翻訳しておられるガヤトリ・スピヴァクほどではないにしても、かなり読み進めるのが辛かった。それに序章と第1章はおもしろかったけどだんだんだれてきて、途中はとっても退屈。 目は字面を追っているけれど頭は遙か1万光年の彼方。

 しかしそれでも最後まで読み通した。上村さんは新しい歴史哲学「ヘテロロジーの歴史」を打ち立てようとしておられるらしいが、その実態が最後まで明らかにされないままだったので、うやむやにされてしまったような不満感が残る。ヘテロロジーとはこの場合、ミクロな歴史とマクロな歴史の融合というぐらいの意味のようだ。その哲学を上村氏は三木清やスピヴァクを導き手として構築しようとしている。だが、上村哲学のオリジナリティはどこにあるのだろうか? それが見つけられなかったことが最大の不満か。


 以下、特に序章と第一章について詳しくまとめてみる。


序章 経験の敗北

 取り上げられているのは市村弘正の『敗北の二十世紀』。わたしが全然知らない思想家だが、その市村の文体には「不思議な息づかい」があるという。市村は詩人の吉増剛造について同書の中で言及している。その様子を上村忠男は「世界の応答に耳を澄ましつつ、応答する世界の声を形象性あざやかな言葉に分節化していく詩人・吉増剛造と、その詩人の息づかいに合わせて呼吸する思想史家・市村弘正のしなやかな文体の呼吸法」だと絶賛する。

 さらに一人、導きの人はヴァルター・ベンヤミン。

 ここで上村が言いたいことは、「経験の敗北」であり、「敗北の経験」ではない。ベンヤミンにしろアドルノにしろ、戦火を生き延びた帰還兵の記憶のトラウマについて語るとき、それは「敗戦の記憶」ではなく、記憶そのものが経験されえないということである。

 市村の『敗北の二十世紀』は、「「物語」の不可欠と不可能とを顕わにした時代としての二〇世紀という規定」をしているらしい。

 物語能力をこえて忘却へいざなうほどの破壊と消滅の生起。理解力をこなごなに砕く表象不能な出来事の出現。砕かれた記憶の土台の縁に、かろうじて記憶の切片が貼りついているような事態。そのような物語不能な状態に耐えぬくためにこそ必要不可欠な「廃墟」からの物語。--ブレのほどは明らかであろう。市村が「経験の貧困化」に代えて「経験の消滅」というとき、そこでは疑いもなく、アーレントが『全体主義の起源』のなかで巧みにも「忘却の穴」と形容したナチス・ドイツの絶滅収容所のことが思い浮かべられているのである。(p22)

 上村は市村弘正の『敗北の二十世紀』を絶賛し、さらには『この時代の縁(へり)で』を高く評価する。ということなので、要は市村のこの二冊を読めばいいようである。

 『この時代の縁で』は市村と吉増剛造との対談であり、映画「ショアー」が取り上げられている。「ショアー」は長い長いドキュメンタリーなのでわたしは恐れをなして未見である。だが、このアウシュヴィッツを生き残った人々の証言映画である「ショアー」、いつかは見なければ、と思う。

 ショアーを監督したランズマンはサルトルの秘書を経験した人物で、「ショアー」の証言者たちにも「生きられたことがら」(サルトル『家の馬鹿息子』)そのものをふたたび演じてみせることを要求している。


 「ショアー」をめぐる市村・吉増対談を長々と引用したあとで、上村は次のようにまとめに入る。

「経験」こそは古来<歴史=物語>の糧であると見なされてきたのではなかったか。ところが、その「経験」の蓄積のうえに物語を紡ぐことのできた時代は、すでに遠い。いまではもう、物語は「廃墟」からの物語としてしか可能ではない。(p34)

 <記憶>と一体化したかたで<歴史>が存在していた時代は、やがて過去のものとなる。近代国民国家の形成期には、人びとの生活からはすでに記憶の環境が奪われつつあり、これにともなって<歴史>もまた<記憶>との一体性を喪失していく。そして、そこでは「記憶の環境(milieux de memorie)」に代わって「記憶の場所(lieux de memorie)」が登場することとなる。記念碑や文書資料館、等々である。かつて<記憶>は<歴史>にとっての典拠であった。その典拠であった<記憶>を、いまや<歴史>は大賞と化す。そして、人びとの日常生活のなかに根づいている集合的記憶のかずかうを蒐集して回り、それらをキケロ的=ルネサンス的人文主義の伝統のなかで開発され錬成されてきた記憶術にならうかのようにして、さまざまな形態の<場所>に貼り付けることによって保存し、もってナショナル・アイデンティティ形成のための手立てとなそうとするのである。(p36ー37)

 映画「ショアー」は、「記憶の場所」からではなく、「記憶の非場所」からの歴史の問い掛けという試みをなしている。
 

第1章 アウシュヴィッツと証言の危機

 取り上げられているのは
 アンナ・ハーレントの『全体主義の起源』『イェルサレムのアイヒマン』
 
 そして、それらおよび映画「ショアー」を論じた高橋哲哉の「記憶されえぬもの 語りえぬもの」(『岩波講座現代思想』第九巻)

 『声の回帰 : 映画『ショアー』と「証言」の時代』ショシャナ・フェルマン著 ; 上野成利, 崎山政毅, 細見和之訳.太田出版, 1995(批評空間叢書)


 「ショアー」のランズマン監督はユダヤ系であり、彼がなそうとしたホロコーストの証言・記憶の共有化が、イスラエルの特権化へと横滑りする危険性をもっていることに注意すべき。

 プリモ・レーヴィの証言が孕むアポリアについては、アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』で考察している。(「レーヴィのパラドクス」→アガンベンを読むこと)。

 上村忠男は高橋哲哉を評価しつつも、高橋がフェルマンを誤読していると批判している。これに対して高橋哲哉が『証言のポリティクス』の中で反論しているらしい(猿虎(永野潤)さんのブログ参照)。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050206#p1 続きを読む


小川洋子の2作

2005年02月01日 | 読書
「とみきち読書日記」のとみきちさんが的確に指摘するように、この小説は「日常からかけ離れ、時がとまった、死と隣り合わせの世界。大事件は起こらず、声高に主張する人もおらず、しんとした、生と死のみに支配される現実」を描く。

 タイトルが『ブラフマンの埋葬』なのだから、ブラフマンは死ぬのだ。予定された死を待つブラフマンという小動物がこの作品のいっぽうの主人公といえる。

 この小説ほど、「書かないことによって伝える技」に長けた作品も少ないだろう。そもそもブラフマンってなんなのか、主人公「僕」は誰なのか、何歳なのか、なぜ<創作者の家>という別荘の管理人をしているのか、まったく何の説明もない。いや、説明はある。ブラフマンは森から迷い出た小動物であること、茶色い毛と長いしっぽをもつこと、チョコレート色の大きな目をしていること等々。けれど、最後までブラフマンについて作家は名指しを避ける。これが何者なのか、作家は描かない。だが、このブラフマンが主人公「僕」にとってかけがえのないパートナーであることは痛いほど伝わってくる。

 そして、この小説には擬音語がいっさい登場しない。擬態語もたぶんないと思う。主人公の一人称小説であるにかかわらず、感情描写はいっさいない。悲しい寂しいつらい楽しい嬉しい、それらの言葉は慎重に避けられている。
 それでもなお、いやそれゆえにこそ読者は主人公の孤独も悲しみも恋心もすべてを知っている。ブラフマンが死んでも「僕」は泣かない。いや、泣いたかもしれないが、そのような描写はない。けれど、読者はブラフマンの死に感情移入して泣くだろう。

 これは見事な寓話だ。無駄な言葉が一語もない。そぎ落とされた小説空間。堪能した。
 唯一の欠点はラストだ。あっけなさ過ぎる。もっと読んでいたいという読者の欲望に火を付けたままこのような終わり方をするのはズルイ。


 小説が発表された順とは逆に、「ブラフマン」の次に「博士の愛した数式」を読んだ。数学に、いや、数字にこれほどの愛を語った作品がかつてあっただろうか? 素数を愛した数学教授が、どれほどの絶望的な孤独の中にあったか、その孤独を見守り続けた家政婦母子のやさしさと共に、奇矯な人であった変人博士のやさしさが思いっきり伝わる作品だ。

 60歳を過ぎた博士は数学の天才でありながら17年前の交通事故によって脳を損傷し、80分しか記憶が保たなくなってしまった。まるで映画「メメント」みたいな博士なんだけど、問題は「わたしの記憶は80分しか保てない」ということすら忘れてしまうということ。だから博士は体中にメモを貼り付けている。これって、「メメント」の主人公が体中に入れ墨をいれたのと同じね。
 「メメント」がサスペンスだったのに引き替え、こちらは、80分しかもたない記憶にたよって人は人と繋がれるのか、という大難問を扱ったヒューマン・ドラマだ。

 この小説にはいくつもの愛が描かれている。そして、描かれずにほのめかされた愛もある。やっぱり小川洋子という人はうまい。お奨めの逸品。しみじみします。


<書誌情報>

ブラフマンの埋葬 / 小川洋子著. -- 講談社, 2004

博士の愛した数式 / 小川洋子著. -- 新潮社, 2003