ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

サンシャイン2057

2007年05月19日 | 映画レビュー
 2057年、われらが太陽は力を失い、発散する熱量が減少して地球は凍てつく星となっていた。起死回生を目指して人類はマンハッタン島と同じ大きさの核爆弾を太陽に打ち込んで小太陽を生み出す計画を立て、任務を負ったイカロス1号が既に飛び立っていた。だがイカロスは途中で行方不明となり、ついに地球最後の核弾頭を積んだイカロス2号が太陽に向かっていた。乗り組むクルーは日本人カネダ(真田広之)船長以下世界各国から選び抜かれた8名。彼らは人類再生の重大な任務を達成することができるのだろうか?!

 とまあ、なんか「アルマゲドン」ぽい話であります。生きて帰れないかもしれない使命を負って8人は宇宙に飛び立つ。この映画のミソは太陽だ。いかに太陽を光り輝く神のように描くか、そこにかなりの工夫がある。映像的には斬新で、太陽に焦がれる乗組員の気持ちもよく伝わる。だがこの映画がSFとしては失格だと思えるのは、そもそも核爆弾を打ち込むぐらいであの大きな太陽を生き返らせることができるのか、その説明がまったくないこと。宇宙船の広さや構造がよくわからないので、いったい何が問題で乗組員たちが必死に作業をしているのか何を恐れているのか観客には伝わってこないのだ。

 それに、真田広之がかなり流暢な英語を駆使して頑張っているというのに、ほとんど彼のいいところがなくてさっさと退場したのにはがっくり。日本人よ頑張れ!とか思うのはやっぱりわたしが愛国者だからでしょーか。

 閉ざされた宇宙の中、地球との交信も不可能という状態のなかで次々起こる危機また危機を8人はどのように乗り越えるのか? 見所はこの密室のなかの葛藤と人間劇にある。SFとしての醍醐味よりも、太陽を再生させるとかいう話よりも、物語の肝要は、危機に立ち向かう人間の行動とエゴイズムと自己犠牲の思想にあるのだ。

 途中からはホラーのような展開。4人しか残っていないはずの宇宙船の中に5人目が搭乗しているなんて、まるで『11人いる!』の世界じゃないの。この場面からはすごく怖かったのだけれど、幻想的な雰囲気をマジカルな映像で見せていこうとするあまり、説明不足の描写が目立った。ツッコミどころ満載。

 そして肝心のスリリングな場面が長続きせず、ちょっと拍子抜け。2時間弱ではじわじわと迫ってくる恐怖は描き足りないのだろう。過去のSF作品へのオマージュや引用ととれる場面が幾つか散見されたのは面白かった。こういうのを見つけるのも映画ファンの楽しみの一つだ。

 決して退屈はしない作品だし、美術センスや映像のセンス(撮影監督が「コード46」のアルウィン・カックラー)はいいと思ったし、「アルマゲドン」なんかに比べると遙かに上質な作品だったが、いまいち突き抜けた物が感じられないのは残念。

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SUNSHINE
108分、アメリカ、2007年
監督: ダニー・ボイル、製作: アンドリュー・マクドナルド、脚本: アレックス・ガーランド、音楽: ジョン・マーフィ
出演: キリアン・マーフィ、真田広之、ミシェル・ヨーねクリス・エヴァンスねローズ・バーン、トロイ・ギャリティ、ベネディクト・ウォン

武士の一分

2007年05月18日 | 映画レビュー
 山田洋次の時代劇三部作をすべて劇場で見たが、いまから思えば「たそがれ清兵衛」がいちばん印象に残っている。

 妻と二人、慎ましく暮らす若侍。妻は美しく可愛く健気で、夫に尽くすことを何よりの喜びとしている。夫は優しく男前で、秀才なのに家柄がよくないのかわずか30石取りだ。だが貧しくても二人は楽しく暮らしている。父の代からの忠義者の中間が彼らによく尽くしている。物語はほとんどこの3人の会話から成り立っているようなものだ。脇を固める配役にベテランのいい役者を揃えて、仕事は万全だ。万全すぎて面白くない。

 原作はわずか数十頁の短編であり、それを2時間の映画にするのはやや難があった。どうということのない物語をどうということのない感動ものに仕立て上げる。もちろん、感動的な場面はあるし、ほろりとさせるのはお手の物だよ、山田さん。

 藩主のお毒味役を仰せつかっている地味な仕事の三村新之丞が、ある日、貝毒に当たって失明してしまう。困窮した彼のため、妻は上司に今後のことを頼みにいってそのまま手込めにされてしまう。などというありがちなパターンの話。で、妻を離縁した三村は、目も見えない身体で仇を討つために上司と一騎打ちをする。あ、全部書いちゃった。ネタバレですね(^^ゞ

 役者の中でも特に中間・徳平役の笹野高史、いいねぇ、この人最高! ユーモラスで暖かみのある演技には惚れた。それから、可憐な妻「かよ」! 名前がいいねぇ(^^)v。かよを演じた壇れいがほんとによく和装が似合う美人だ。ぽっちゃりとした顔は愛らしく、歳よりずいぶん若く見える。ほんとは35歳なんだよ! キムタクは鬘をかぶるとふつうの男に見えるね。スターのオーラがない。そのぶん、この時代劇にはぴったりだったかもしれない。

 全体としてはなんということのない小さなお話でまとめたけれど、細部はなかなかよいものがあった。ときどきクスリクスリと笑わせてもらったし。ただし、ラストシーンがベタなのはいただけない。

 やはり、同じ藤沢周平もので原作をとってきたら、最初のが一番いいわなぁ。だんだん出し殻になってくるのはしょうがないか。原作がうちの図書館にあるので読んでみよう。

 ………読んだ。実に短い。読了したら、映画の評価が変わっていた(~o~)。この短い作品をあれだけ詩情溢れる映画にしたのだから、やはり山田洋次は手練の監督だ。ただ、ラストだけはやはり小説のほうがよい。実に簡潔で淡々とした余韻が深く残る。小説は、三村新之丞が妻の不倫を疑う場面から始まる。その心理の綾が簡潔な文体でよく描かれていて、嫉妬と愛に挟まれて行く男の気持ちが痛い。 

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121分、日本、2006年
監督・脚本: 山田洋次、製作: 久松猛朗、原作: 藤沢周平『盲目剣谺返し』、音楽: 冨田勲
出演: 木村拓哉、檀れい、笹野高史、小林稔侍、赤塚真人、左時枝、大地康雄、緒形拳、桃井かおり、坂東三津五郎

硫黄島からの手紙

2007年05月17日 | 映画レビュー
 硫黄島二部作、これは構成もテーマも「父親たちの星条旗」のほうが2ランクぐらい上だ。「手紙」のほうはふつうの良作。「星条旗」はそれに比べれば傑作と言っていいだろう。

 アメリカ人が描くアメリカの戦争映画に英雄は必要なかったが、アメリカ人が描く日本の戦争映画には英雄が必要だった。そのことがこの二作の決定的な差異を生んだ。

 アメリカが戦争にまつわる言説を批判するとき、英雄物語を脱構築する必要があったし、戦後の苦しみを描かなければならなかった。そしてその英雄達が戦った相手について真正面から向き合おうとしたとき、顔も名前も見えない日本兵が同じ人間であることをアメリカ人に理解させるためには、日本人の中にも英雄がいたことを強調する必要があった。それゆえ、この二作は同じ硫黄島の戦いを描きながら作品の質もテーマも異なるものとならざるをえなかったのだ。

 アメリカ人がよくここまで日本映画を監督できたものだと感心する。と同時に、これがアメリカ人の撮る日本映画の限界なんだろうと思う。その限界が二部作の出来の落差に結果した。アメリカ人に日本の戦争を理解させるために物語をシンプルにし、合理的で温情な将校を登場させる。しかも彼らは知米派・親米派で英語を自由にあやつれるのだ。本作は、アメリカ人のプライドを温存しアメリカ人を安心させる作風であったがためにアメリカの批評家から高く評価されたのだろう。

 ところで、俳優について。特筆すべきは二宮和也だ。元パン屋の一兵卒を演じた彼の存在感は圧倒的だ。実にうまい。いい役者になるだろう。

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LETTERS FROM IWO JIMA
141分、アメリカ、2006年
製作・監督: クリント・イーストウッド、製作総指揮: ポール・ハギス、原作: 栗林忠道 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』、脚本: アイリス・ヤマシタ、音楽: クリント・イーストウッド
出演: 渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童、裕木奈江

ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール

2007年05月16日 | 映画レビュー
 主演男優が自分自身の役で(職業はかえてあるけど)登場し、自分で監督して自分の妻を主演女優にすえて自分たちのことを描くコメディ。こういう内幕暴露の自己言及物は一回しか使えないネタだね。一発芸には違いないけど、かなり笑えて面白かった。

 わたしにはシャルロット・ゲンズブールがちっとも美人に見えなくて、むしろ生理的にああいう顔は苦手で、それが苦痛でたまらなかった。あの手の顔の人がいても別にいいんだけれど、映画の登場人物ということになるとじっと顔を見続けていなければならないわけで、それがもう気持ち悪くて…ああ、世の中には絶対に自分と合わない顔ってあるんだなぁとつくづく思ってしまった。

 で、そういう苦痛を除けば、有名女優を妻に持った男の悲喜劇をなかなか巧みに描いて笑わせてくれる作品だった。これは男の嫉妬一般に通じる話で、だからこそ身につまされるような人もいることだろう。プレイボーイ役の男優がテレンス・スタンプっていうのも粋だね。あんな「おじいちゃん」にやきもきするイヴァン・アタルもバカです。
 
 R-15です、念のため。なにしろフリ○ンですから。(レンタルDVD)

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MA FEMME EST UNE ACTRICE
95分、2001年、フランス
監督・脚本: イヴァン・アタル、製作: クロード・ベリ、音楽: ブラッド・メルドー
出演: シャルロット・ゲンズブール、イヴァン・アタル、テレンス・スタンプ、ノエミ・ルボフスキー ナタリー

17歳のカルテ

2007年05月15日 | 映画レビュー
 キャラの勝利という感じだが、アンジェリーナ・ジョリーが圧倒的な存在感を発揮している。こういう役がぴったりだね、地でやってるんと違う?

 この映画を見ながらフーコーの「監獄と軍隊と工場と病院は似ている」という言葉を思い出す。さらに、境界例ということで矢幡洋氏の『窒息する母親たち』も思い出す。

 1960年代を舞台にした主人公スザンナ(ウィノナ・ライダー)の体験記が原作になっている。したがって、この映画に描かれていることはほとんどが実際にあったことに基づくのだろう。リサ(アンジェリーナ・ジョリー)のような強烈な個性の持ち主が実際にいたのかどうかは知らないが、彼女が精神的に病んでいるようには見えず、単に個性が強すぎて扱いに困るという程度に思えるのだ。そういう娘を親が厭って病院に閉じ込めたのだとしたらそれこそが悲劇だろう。彼女が何度脱走しても結局は病院に戻ってくるということが、彼女の孤独を表して悲しい。

 17歳で「境界例」と診断され、精神病院に入院させられたスザンナにしても、「病気」と言いがたいような症状だし、まさにフーコーの言葉通り、病気は時代と社会によって創られるのだと痛感する。そんな彼女が病院の中でさまざまな症例の女性患者たちと接し、看護婦と諍いつつも気持ちを通じ合わせていく様子が丹念に描かれる。女性患者たちの中でもっとも強烈な印象を残しかつ魅力的なのがリサだ。リサのような「悪い子」はどこにでもいる。人の心を傷つけるような冷たい言葉を平気で浴びせたり、暴力的だったり反抗的だったり。

 ほのぼのとした青春ドラマという場面もあるにはあるが、痛すぎる青春を描いた作品。アンジェリーナの怪演につきます。(DVD)

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GIRL, INTERRUPTED
1999年、アメリカ。127分
監督: ジェームズ・マンゴールド、製作: ダグラス・ウィック、原作: スザンナ・ケイセン、脚本: ジェームズ・マンゴールド、リサ・ルーマー、アンナ・ハミルトン=フェラン、音楽: マイケル・ダナ
出演: ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー、クレア・デュヴァル、ウーピー・ゴールドバーグ

王の男

2007年05月14日 | 映画レビュー
 李氏朝鮮史上悪名高い王ヨンサングン(燕山君)が寵愛した芸人が宮廷の陰謀に巻き込まれていく、エンタメ心たっぷりのスリリングな物語。

 食うや食わずの貧しい芸人二人組のチャンセンとコンギルが、都へ出て大衆的な仮面劇で人気を博し、やがて宮廷に召抱えられる。ここまでのスピーディかつ滑稽でカラフルな展開は、これぞ映画という醍醐味たっぷり。なかなか楽しい。しかもコンギル役のイ・ジュンギが切れ長流し目の美形ときてるから、韓国ではオバサマたちが大騒ぎだそうな。しかし、このイ・ジュンギがいまいちわたしの好みとは違うのだな。ただし、彼のぽっちゃりした唇はたいへん色っぽくて可愛くてよい。奪ってしまいたいっ。とか思う御仁も多かろう。

 この映画に描かれている農楽や仮面劇のような朝鮮の伝統的民衆劇が物珍しいかどうかで映画の評価にも影響を与えそうだ。わたしにはこういう大衆芸能が珍しくはないし、映画の中で役者たち(とスタント)が演じる芸もそれほど驚くようなものではない。あれに比べれば上海雑技団のほうがずっと腕は上だ。後、朝鮮の劇だけではなく、京劇の真似事が登場する。こちらのほうはなかなか色鮮やかで目を見張るものがあった。映画全体の魅力の半分以上が彼らの演じる芸にあるわけだから、ここが魅力的でなければ興醒めなのだ。たぶん、日本の多くの観客にとっては物珍しく面白いのではなかろうか。

 そして、もう一つの見所は、宮廷内の権力闘争に芸人たちが巻き込まれていくところだ。王の寵愛を受けて出世していくコンギルと、それをよく思わないチャンセンとの葛藤が大きなドラマとなる。狂王と呼ばれた燕山君(ヨンサングン)にしても、偉大すぎる父王と何かと比べられるコンプレックスや、幼い頃に母を亡くしたトラウマがマザコン王を生んでしまうという人物造形上の由来もきちんと描かれていて、またそういう要因がドラマのクライマックスの大きな伏線となるあたりも映画的で面白い。ただ、物語全体の構造は極めてシンプルでそれは少し物足りない。

 一介の芸人が芸の魅力と美貌で宮廷でのし上がっているさまは痛快だ。と同時に、それを潔しとしない反権力魂を捨てないチャンセンの根性に胸すく思いがする。

 
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122分,韓国、2006年
監督: イ・ジュンイク、製作総指揮: キム・インス、原作: キム・テウン、脚本: チェ・ソクファン、音楽: イ・ビョンウ
出演: カム・ウソン、イ・ジュンギ、チョン・ジニョン、カン・ソンヨン

007/カジノ・ロワイヤル

2007年05月13日 | 映画レビュー
 映画館では隣の座席の男の子が「すげぇ」を連発していた。ほんと、すごいっ。面白かったぁ~。ショーン・コネリーと同じぐらい、ダニエル・クレイグの007は素敵。これは意外な収穫でした。

 でもね、エヴァ・グリーンがどう見てもボンドが愛したただ一人の女性、運命の女ヴェスパーには見えないのよね、わたしには単なる厚化粧女にしか見えないので困った。欧米人が見るとあの手の顔が美貌に見えるのかしら??

 巻頭からいきなりのアクションに次ぐアクション。ジェームズ・ボンドが”00”を拝受したという導入部で、彼は「殺しのライセンス」を得たことをいきなり標的に告げる。この場面、おしゃれです。やはり凝りに凝ったね、新ボンド。ダニエル・クレイグがボンドというのはこれまでのイメージを一新するのものであり、危惧も囁かれたが、わたしは個人的には大いに気に入った。ダニエルの目が可愛いのよね、目が。

 テーマ曲が高らかに歌われたあと、続いてアフリカ、ウガンダマダガスカルの場面。ここがド派手。007もだけど、追われる標的の身体能力の高さにびっくり。高所アクションなんて心拍数激増で、事前に服用した薬の副作用もあってわたしは心臓がバクバクしてちょっと気分が悪くなってしまった。ダイハードな男がアクションシーンの連続でまずは観客の目を釘付けにさせたあとは、静的な場面へと転回し、美女登場。このあたりの演出や展開はお約束どおりといった感じ。

 わたしの興味は、脚本に参加しているポール・ハギスがどのあたりを担当したか、ということ。わざわざ彼の手を入れたからには、かなりこれまでのボンドよりも心理描写や構成が緻密になっているはず。確かにショーン・コネリー時代にあったようなおふざけやユーモアや荒唐無稽な可笑しさというものはない。今回の敵はマッドサイエンティストではなく、ビジネスに生きるクールな男で、彼自身がテロリストたちに狙われているという設定。

 舞台がカジノであり、クライマックスがカードゲームなので、映画的には静的な場面であり、ここで観客を退屈させないためにはいろんな仕掛けをしたいところ。ここでつぎはぎアクションをぶち込みたい欲望を抑えて、演出は手に汗握るポーカーゲームの場面に観客をうまく釘付けにする。隣の座席の坊やも退屈しなかったみたいで、なかなか上手い演出だ。ひたすらカードをしているだけではなく、その合間にいろんな事件が起きるし、ボンドが心優しい一人の男であることを見せる印象深い場面を挿入したりと、今回の007はかなり大人の渋い味付け。いいですねぇ。

 映画の見所の一つは美しいロケ地の風景。ヨーロッパの古城や古い町並みの空撮はため息が出るほど美しい。死ぬまでに一度はああいうところを訪れてみたい。

 一度は愛する女性のために辞職願を書いたボンドがなぜ非情なスパイの世界に戻っていったのか、それは見てのお楽しみ。今までの007の中で最高に面白くておしゃれで切なさが尾を引きます。

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CASINO ROYALE 上映時間144分(アメリカ/イギリス、2006年)
監督:マーティン・キャンベル、脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス、音楽:デヴィッド・アーノルド、テーマ曲:モンティ・ノーマン
出演:ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーン、マッツ・ミケルセン、ジュディ・デンチ、ジェフリー・ライト、ジャンカルロ・ジャンニーニ

ウーマン・ラブ・ウーマン

2007年05月13日 | 映画レビュー
 女が女を愛するとき、それは幸せな時なのか、社会と時代が赦さない悲しい時なのか。三つの時代のそれぞれに愛し合う女たちの悲喜劇を描いた3話オムニバス。劇場未公開のテレビドラマらしいが、アメリカではこういう同性愛のセックスシーンが出てくるドラマでも放送OKなのだろうか。

 3話それぞれが面白かったし、どれもそれなりにお気に入りなのだが、第1話の悲しさと第3話の明るさが好対照を示していて、やはりこの2作の印象が強い。

 レズビアンへの偏見が強かった1961年、年老いた同性愛カップルの一方が死んだとき、残された者のやり場のない悲しみが胸をえぐるようだ。同性愛カップルは結婚できないゆえに、「家族」ではない。何十年も一緒に暮らしても、二人の想い出の品は無残にも音信もなかった親戚にはぎ取られていく。失われるのは愛した者の命だけではない。彼女を追悼する「権利」も形見の品を引き取る「権利」も奪われるのだ。これほどの悲しみを悲しむヴァネッサ・レッドグレーヴの演技に感動した。

 そしてウーマン・リブが生まれて既に女性解放が進んでいる1972年、奔放なレズビアンの女子学生たちの中でも孤立してしまう一組のカップル。同性愛者といっても、さまざまなケースがあることを思い知らされる。性同一性障害の女性と愛し合う可憐な少女ミシェルが愛らしい。

 最後は2000年。レズビアンであることをカミング・アウトしている女優アン・ヘッシュが監督した作品は、同性愛カップルにも子どもが持てるという希望を描いた。生殖技術の向上は人工授精という「天恵」をレズビアンカップルにもたらす。このカップルたちはもう出産年齢ぎりぎり崖っぷちの女たち。彼女たちがなんとかして人工授精を成功させようとするドタバタ劇が楽しい。

 時代が変わればこんなにも同性愛者への視線が変わる。そして、そのことは同性愛者自身の闘いがもたらしたということを忘れるわけにいかない。社会的差別は黙っていてはなくならないだろう。彼女たちの闘いを支持したい。(レンタルDVD)

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IF THESE WALLS COULD TALK 2 :WOMAN LOVES WOMAN 上映時間96分(アメリカ、2000年)
監督:ジェーン・アンダーソン(1961)・マリサ・クーリッジ (1972)・アン・ヘッシュ (2000) 、製作:メアリー・ケイン、脚本: ジェーン・アンダーソン、シルヴィア・シシェル、アン・ヘッシュ、音楽: ベイジル・ポールドゥリス、主題歌: シンディ・ローパー
出演: ヴァネッサ・レッドグレーヴ、マリアン・セルデス、ジェニー・オハラ、ポール・ジアマッティ、ミシェル・ウィリアムズ、クロエ・セヴィニー、ナターシャ・リオン、シャロン・ストーン、エレン・デジュネレス、レジーナ・キング


うつせみ

2007年05月13日 | 映画レビュー
 これはすごい! よくこんな映画を作ったもんです。この奇抜なストーリー。面白かったわ! ハリウッド映画なんかの「面白かった」とはまったく質の異なる面白さ。

 主人公二人はまったく言葉を交わさない。とりわけ最後まで若者は一言も科白がない。言葉のない世界で二人は愛し合う。愛に言葉は要らない。それは支配欲で武装した暴力的な愛とは対極のものだから。

 若く美しく可憐な人妻は夫の暴力と支配欲に耐えかねて、広い屋敷に一人黙って悲しみを抱えている。その家に留守だと思って忍び込んできた若者は、食べ物を料理して食べ、洗濯物をし、庭でゴルフクラブを振るって打ちっ放しの練習をする。泥棒ではない。むしろ、家の片づけをし、散らかしてあった洗濯物を手で洗う若者にすがすがしさすら感じるのだ。彼への好意と好奇心からか、人妻は黙って彼と行動を共にするようになる。若者は器用に留守宅の鍵をピッキングし忍び込むと、冷蔵庫の残り物を使って調理をするのだ。そして洗濯物も。

 やがて若者は警察に捕らえられ、独房に入れられる。彼が出所するのを待ち続ける人妻は…

 この静かで不思議な雰囲気を持つファンタジーは、留守宅に次々忍び込む二人に「空っぽの家族」を象徴させている。家人が留守の家には、それぞれの家庭の匂いが残っているのだけれど、都会のきちんと整頓されたおしゃれなマンションや高級住宅の中はそこに住む人々の関係の薄さや疲労や虚飾を表していて興味深い。他人の家を覗く悪魔的な視線の冷徹さも暖かさも同時に持つ二人が、つかのま、空っぽの家の中で疑似家族となる。

 そして、冷厳な現実の前にはファンタジーはみじんに砕け散る。過失によって人を傷つけた罰なのか、他者の領域に踏み込んだ者が受ける罰なのか、二人は引き裂かれるのだ。引き裂かれた二人にはもう未来はないのだろうか。

 いえ、二人は永遠の愛を育む。軽やかに軽やかに。言葉のない世界で女は初めて愛の言葉を発する。それは間違った相手に間違って伝わるけれど、誤配を乗り越えて愛し合う二人は結びつく。これは究極の愛の姿を描いた寓話だ。(レンタルDVD)

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上映時間88分(韓国/日本、2004年)
製作・監督・脚本:キム・ギドク、音楽: スルヴィアン
出演: イ・スンヨン、ジェヒ、クォン・ヒョコ



マンハッタン殺人ミステリー

2007年05月13日 | 映画レビュー
 これはケッサクだ! こんなに面白いミステリーもなかなかないよ。ウディ・アレンが暗い表情で喋りまくり、複数人のしゃべくりが重なる会話劇の面白さはやはり群を抜く。この頃まではアレンのコメディは絶好調だったんじゃないかな。

 「精神分析医にかかればいいんじゃない?」という科白が何度も登場するように、ここには精神分析に対する皮肉ともとれる言説が何度も顔を覗かせる。じっさい、ダイアン・キートン扮する倦怠期の主婦は、強迫神経症(死語?)的な症状を呈しているし、インテリ・ニューヨーカーたちのびょーきを笑う映画だ。やはりコメディは自嘲ものに限る。自分を相対化し、突き放して笑う。ここに知的な笑いの源泉があるのだ。ウディ・アレンはユダヤ的コメディアンだと痛感する一作。

 最後は夫婦の危機も乗り越えて丸く収まるというのはウディ・アレンの願望かも。相手役がダイアン・キートンというのも彼の私生活を考えれば意味深ね。(レンタルDVD)

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MANHATTAN MURDER MYSTERY 上映時間107分(アメリカ、1993年)
監督・脚本:ウディ・アレン、脚本:マーシャル・ブリックマン
出演:ダイアン・キートン、ウディ・アレン、アラン・アルダ、アンジェリカ・ヒューストン、ジェリー・アドラー、ロン・リフキン

ラブソングができるまで

2007年05月13日 | 映画レビュー
 80年代がこれほど笑えるものだとは思わなかった。MTVそっくりな巻頭の歌と踊りのシーンといい、ヒュー・グラントの若作りの髪型も大笑い。80年代の人気ポップグループのボーカル、今はすっかり落ち目の「あの人は今」という元スターという役がぴったりなのがこの人、ヒュー・グラント。いいねぇ、こういう役がよく似合っててしょぼくれた感じが自然に醸し出されている。

 落ち目歌手兼作曲家のアレックスが、自分の落ちた姿をちっとも卑下してなくて、むしろシニカルに嗤っているところが面白い。全然深刻になったり悩んだりしているふうがなくて、とにかく仕事があれば遊園地でかつてのギャルいまは中年のおばさん相手のしょぼいショーでもなんでもやってしまうという軽いノリのアレックスがポストモダンふうといえば言えるのか。

 ソフィーは作家との恋に傷つき、ましてや元カレが自分をモデルに小説を発表したもんだからいよいよどん底に傷ついている。そんな彼女だけれど、何気なく口にした歌詞がすっかりアレックスのお気に入りになり、二人で人気歌手コーラの新曲を作ることになるが…

 このコーラを演じた若い子は本物のアイドル歌手なのかと思ったらなんと本作が映画デビューの新人だそうで、日本人にも受けそうな愛らしい顔やスレンダーな身体はこれからブレイクしそうな雰囲気。そしてコーラが仏教オタクなのか、やたらインド音楽に身を捩って踊る姿が面白可笑しい。本人が真剣なのがなお可笑しい。

 二人して歌を作っていく場面は微笑ましくスリリングでとてもいいテンポだ。セリフもしゃれている。ただ、あまりにストレートな展開なので先が完璧に読めてしまって面白みに欠けたかも。

 いい映画にはキラリと光る脇役の存在がある。この映画ではアレックスのマネージャーがそう。よくぞ落ちぶれたスターをずっと支えているものだと感心するのだが、この人もやっぱりシニカルでよかった。ただ、「ノッティングヒルの恋人」みたいに変わった友人達が異彩を放つというほどには抜けてなかった。お話全体としてはやはり「ノッティングヒルの恋人」のほうが面白いけど、本作もなかなかいいです。

 挿入されている歌の数々は覚えやすいメローな旋律がいい感じ。サントラ欲しくなった。

 それにしても80年代がナツメロ時代になるとは、わたしも歳を食ったもんだわ。

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MUSIC AND LYRICS 上映時間104分(アメリカ、2007年)
監督・脚本:マーク・ローレンス、音楽:アダム・シュレシンジャー
出演:ヒュー・グラント、ドリュー・バリモア、ブラッド・ギャレット、クリステン・ジョンストン



ブラッド・ダイヤモンド

2007年05月13日 | 映画レビュー
 ブラッド・ダイヤモンド=「血のダイヤモンド」とは、紛争地域で産出され、武器購入費に当てられるダイヤモンドのことだ。何人もの仲買人の手を経て密輸され、宝石会社の手によって世界中に供給される。それは宝飾品だけではなく工業用にも使われているから、わたしたちの日常生活の中にも深く浸透しているといえるだろう。

 本作は、内戦下のシエラレオネを舞台にダイヤモンドをめぐって血で血を洗う争いをスリリングに描く。社会派ズウィックの作品だけれど、社会派作品というよりは戦争アクションもののようだ。「グローリー」や「ラストサムライ」のときと同じくズウィックの戦場描写はリアルで激しく、手に汗握る。

 9歳で両親を惨殺されたダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)が、報道記者を装ってダイヤの密売を行っている。彼は傭兵の経験もあって武器の使い方には精通している。彼はアフリカ生まれのアフリカ育ちであるから、聞きなれないアクセントの英語をしゃべるので耳につく。密輸が発覚して逮捕された留置場で、一人の精悍なアフリカ人ソロモンが幻のピンクダイヤを隠していることを知ったダニーは、うまくソロモンに接近し、彼の行方不明の家族を探してやるともちかける。マディーは統一革命戦線(RUF)という反政府組織に拉致され、強制的にダイヤの採掘労働をさせられていたのだ。そしてここに、武器の資金源たるブラッド・ダイヤモンドの売買の実態を取材しているアメリカの女性ジャーナリスト、マディーがからむ。ダニーは美しいマディーに惹かれ、彼女にブラッド・ダイヤモンドのネタを提供するかわりに自分達のダイヤ探しに協力するよう取引する。かくてピンクダイヤを追う3人の危険な道行が始まった。

 家族愛に燃えるアフリカ人とダイヤ密売で大もうけを企む白人のアフリカーナ、そして美しいジャーナリスト。この三人が戦火をかいくぐってピンクダイヤモンドを掘り出す旅に出る。物語の構造じたいは古くからあるハリウッドの「お宝探しもの」と同じだ。鉱物資源を争奪して内戦が激化し、大金に化ける貴重資源が武器の購入費となる。住民を虐殺したRUFが「人民を解放するため」に労働力を徴発し、少年たちを兵士として狩り出すという恐るべき実態をこの映画は描く。

 ダイヤは買う者が居るから高く売れる。先進国が消費するダイヤのためにアフリカでは何万人もの人々の血が流れる、その構造をもっとえぐってほしかったのだが、最後まで物語を引っ張る力はあくまでスリルとアクションなのだ。そして描写不足とも思える恋愛。孤独な無頼漢ダニーが最後に見せる優しさがほろりとくるが、この役はレオナルド・ディカプリオに適役だったかどうかは疑問が残る。童顔のレオくんも髭をはやしてかなり精悍な雰囲気を作っているのだけれど、どうしても甘さが残るので、あまり悪辣な感じがしない。まあ、そういうところがかえっていいのかもしれない。その甘さや優しさが最後に観客の心をつかむのだから。

 ソロモン役のジャンモン・フンスーは西アフリカ出身の俳優で、息子を思う父を熱演して涙をそそった。少年兵の問題はいまだに尾を引き、まだ何万人もの兵士が存在しているというテロップが流れていた。現在ではキンバリー・プロジェクトが実施されていて、紛争ダイヤモンドは市場に流通しないような歯止めがかかっているということだが、実態はそれほど甘くなさそうだ。ズウィック監督はインタビューに答えて「ダイヤを買えとか買うなとかは言っていない。ただ、紛争ダイヤモンドの実態を知って考えて欲しい」と述べている。だが、ダイヤを採掘している労働者たちは彼らが決して手にすることのない貴石を探しているのだという矛盾をわたしたちはどう考えるのか、答えはおのずと見えてくる。

 大変よくできたアクションものなので、最後まで退屈しないでしょう。この映画を観てもなおダイヤを買おうという気になる人は少ないと思う。

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BLOOD DIAMOND 143分(アメリカ、2006年)
監督:エドワード・ズウィック、脚本:チャールズ・リーヴィット、音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演: レオナルド・ディカプリオ、ジェニファー・コネリー、ジャイモン・フンスー、マイケル・シーン、アーノルド・ヴォスルーカギソ・クイパーズ


『映画の政治学』

2007年05月09日 | 読書
 (太字は本文からの引用)

《政治的で難解な監督として遇されてきたゴダールが、いまや知的でちょっとおしゃれな映画作家のようにもてはやされてしまう状況
 ……
 小川紳助の『三里塚』シリーズや土本典昭の『水俣病』シリーズを見たり論じたりすることさえも、高級な政治的趣味をもった人たちの「私的趣味」の世界と見られかねない
 …
 まちがいなく私たちはいま、映画を議論するための公的な空間自体を喪失するという困難な状況に立たされている。》(p.15)


 70年の頃のような熱い政治の文脈に映画を置くことがほんとうにできると思っているのだろうか。そして、それが必要なことなのだろうか。「ホテル・ルワンダ」のように映画を消費することに苛立つわたしでさえ、もはや映画を政治の道具として見ることは不可能ではないか、それはむしろ不要なことではないか、と思っている。では、わたしは映画をどのように見たいのだろう。どのように解釈し、それを社会に向けてどのように差し出していきたいのか? わたしの言葉がいったい誰に届くというのだろうか。

 この本は面白い。買ってもいいと思うぐらいだ。序文だけを読んで多少感じた違和感はその後ぶっとんだ。特にやはり中村秀之さんの論は読み応えがあった。それに斎藤綾子さんの木下恵介論も面白い。これはジェンダーから見る映画論なのだが、決して表層的攻撃的なジェンダー論ではないところがよかった。

 「市民ケーン」を見たらよけいに中村さんのすごさを体感。とてもあの映画からこういう読みはできない。本作をニュース映画批判だと看破する批評が公開当時にもあったのだが、その批判の仕方に対して、中村さんは次のように批判する。

《その批判の方法が「ケーンと彼の世界に対する、ニュース映画よりも豊かで信じるな見方を呈示する」点にあると書いてしまうとき、デニングは、表面と深層、外部と内部、真実と虚偽、さらには善と悪という二元的対立を受け入れ、結局のところ「内幕情報屋」的空間の視線構造にとらわれているのだ。これこそメロドラマ的な読解といわざるをえない。換言すれば、このような解釈が、この映画をめぐる言説空間それ自体のメロドラマ性を維持することい貢献してきたのだ》(p152-153)
 

 長い間本作の巻頭に挿入されているニュース映画は『マーチ・オブ・タイム』だと言われてきたが、中村さんはむしろ『ニューズ・オブ・ザ・デイ』というハースト社のニュース映画こそが参照元だと指摘している。そして、実はこの架空のニュース映画は『市民ケーン』そのものに似ている、という。

《『マーチ・オブ・タイム』のコピーであると見せかけてテクストの外部の方向をあからさまに指示しながら、実はそれが含まれているこの映画それ自身をも再帰的に指示している。つまりテクストを開く他者言及とそれを閉じる自己言及を同時に、かつ遊戯的におこなっているのである。》

 中村さんは本作の参考本としてしばしば取り上げられる『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』に手厳しい批判を加える。

《製作裏話をウェルズとハーストの個人的な出会いに由来する対決として描いたこの「ドキュ・ドラマ」は、恥ずかしいほどに、後の通俗的な意味での「メロドラマ」に仕立てられている。それは、映画の効果として生み出された観念を、あたかもこの映画の原因であったかのように置き換え、事後的に起源を捏造している》

 やはり、末尾のまとめの言葉が圧巻だった。この映画がこういうものだと、いったい誰が気づくだろう? しかし、たった一人(あるいは数人)の観察眼鋭い社会学者が気づいたとして、本作がそのように受容されていないとしたら、ウェルズが本作に仕掛けたメッセージはどこにも届いていないではないか。中村さんは本作をどのような映画だと看破したのだろうか、それは以下の通りである。

 《『市民ケーン』という「興行的な仕掛け」は、映画の受容をめぐるコンテクストそれ事態のメロドラマ性を脱構築する装置だった。……『市民ケーン』に一杯食わせられていることにはほとんど誰もきづかなかった……『市民ケーン』は、表層と深層の区別、外部と内部の分割、さらには両者への偽と真の配分というメロドラマ的な操作そのものを派手に見世物化し、あるいはイベント化しつつ、他方でこれらの対立の一切を脱臼させているのだ。》

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以下、本書の目次を引用。

はじめに  長谷正人

第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』――「映像の社会学」の可能性をめぐって  長谷正人

第2章 失われたファルスを求めて――木下惠介の「涙の三部作」再考  斉藤綾子

第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入――『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ  中村秀之

第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く――『救命艇』のなかの黒人  飯岡詩朗

第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない――第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶  ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]

第6章 柳田國男と文化映画――昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像  藤井仁子

第7章 反到着の物語――エスノグラフィーとしての小川プロ映画  北小路隆志

あとがき  中村秀之

市民ケーン

2007年05月09日 | 映画レビュー
本作を見る直前まで中村秀之さんの「市民ケーン」(『映画の政治学』所収、別エントリー参照)を読んでいたため、どのようなマスメディア論的読みができるかと思っていたのだが、全然そういうところにはわたしの意識が働くことはなかった。むしろ、人間ドラマというか恋愛ドラマのほうに心が傾き、映画のなかにのめり込んでいった。

 亡くなってしまった大富豪新聞王を回顧するニュース映画を冒頭で延々と映し出し、やがて本文へと入っていくこの構成のたくみなこと! 中村秀之さんはこの冒頭のニュース映画こそ、「市民ケーン」全体のポストモダン的本質を顕わにする部分だと指摘している。虚実が入り交じるこの巻頭の部分で、観客はニュース映画こそが作られたものであり、この映画の「本文」に描かれるケーンの姿こそが真実だと思わされる。だが、ラストで確かにその「真実」を描いたはずの「市民ケーン」という映画じたいが実は真実をつかみそこなっていることを知らされるのだ。謎を牽引する言葉、ケーンの死に際の最後の「薔薇のつぼみ」という言葉の謎を追う一人の記者。そして最後にかれがたどり着いた「薔薇のつぼみ」の真相が、実は真相でなどなかったという「衝撃のラスト」。

 わたしはずっとこの「薔薇のつぼみ」という言葉の謎は「マクガフィン」(@ヒチコック)だと思っていた。じっさい、マクガフィンには違いない。だが、そのマクガフィンにウェルズ監督は二重の意味を持たせた。ということは、実はマクガフィンではないのだ! 何重にも転倒させられる本作の巧みな構成にこそ天才ウェルズの才能がいかんなく発揮されている。もちろん映像は素晴らしい。今となってはさほど珍しいテクニックではないが、これを見た公開当時の人々はさぞや驚愕しただろう。

 華麗なるカメラワークばかり論評されることが多い本作だが、わたしはここに描かれた男性の支配的な愛情にとても興味を惹かれる。映像のテクニカルな部分だけではなく、脚本が優れているので、ありきたりなように見える男女の愛憎劇が巧みに観客の心を掴む。若くして大富豪となり、新聞社を買い取って好きなように権力を振るうケーンだが、彼は生涯求め続けた愛を結局は得ることなく孤独に死を迎える。その憐れさが最後に強烈な余韻を残す。

 ケーンは女性たちを愛した。しかしその愛は、「君に愛を与えよう、そのかわり私を愛しなさい、私の望むように」というマッチョなものだ。これは多くの男性が持つ愛情のありかたではなかろうか。男が女を愛するとき、その見返りに求めるものは女が彼の思うままになること、女が彼の望みのままに彼を愛し、女が彼の望みの性格・才能・気遣いを見せること。ケーンの愛情はまさにそのようなものであった。彼が大富豪であり権力者であったからこそその側面がわかりやすく見えるのだが、おそらく男の愛情は(何人かの女の愛情もまた)そのような権力欲に裏打ちされたものではなかろうか。それを決して責めることはできない。愛とは本質的に権力をふるうものだからだ。だが、その権力行使の結果は惨めな愛の敗残しかない。

 ところで、本作と並んで映画史上に輝く名作といわれている「第三の男」だが、オーソン・ウェルズが出演しているという共通点を除けばまったく作品の質は異なる。「第三の男」など足下にも及ばない。カメラ、脚本、演技が三位一体で魅せてくれる「市民ケーン」は傑作です。

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CITIZEN KANE 上映時間119分(アメリカ、1941年)
製作・監督:オーソン・ウェルズ、脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ、撮影:グレッグ・トーランド、音楽:バーナード・ハーマン
出演: オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド

バベル

2007年05月08日 | 映画レビュー
 モロッコを旅するアメリカ人夫婦と、彼らを銃撃してしまったモロッコの少年たち、そしてアメリカ人夫婦の留守宅で子守をするメキシコ人の家政婦、さらには銃撃に使われた銃の持ち主だった日本人男性とその高校生の娘。モロッコとメキシコと日本を結んで展開する、人生の大きな裂け目。そこには傷ついた人々と傷つけ合った人々と傷を舐め合う人々の悲しい物語が横たわる。

 モロッコの羊飼いの少年達がふと起こした邪気のない悪戯によって瀕死の重傷を負ったアメリカ人女性スーザンは、異郷の地でなすすべなく死を待つ。夫婦二人の再生の旅だったのに、なんということが起きたのだろう。事態はテロリストによるアメリカ人を狙った銃撃事件だと誤解されて国際的な騒ぎへと発展する。だが警察は次第に捜査の手を真犯人である少年達へと伸ばしていく。

 日本では、聾学校に通うチエコが大人になりかけの少女らしい好奇心溢れる日常生活を友人達と楽しんでいるようだった。だが彼女にはつい最近母親を亡くすという悲しい出来事があったのだ。街で心をときめかせた少年からは聾唖者である自分を「モンスターを見るように」扱われてショックを受ける。チエコの孤独、不満、悲しさを菊地凛子がものすごく印象的な目で演技していた。世を拗ねたような眼差し、そして男を求める飢餓感は自分をおとしめることによって鬱憤晴らしをしているかのようだ。激しい音楽に若者達が身を委ねるクラブハウスの騒音の中で、耳の聞こえない彼女は疎外感を感じる。その様子が印象的な演出で描かれていたが、この場面で気分の悪くなる人が何人もいたようで、映画館では注意書きを配っていた。

 イニャリトゥの演出は手持ちカメラの多用により多少目が疲れたが、セリフで語らせるよりも映像によって語らせるその省略の多い構成には余韻が残る。やはりアリアガ脚本・イニャリトゥ監督というのはベストコンビではなかろうか。彼らは象徴的なショットの挿入によって不条理の生む痛さと、切なさが醸し出す優しさ、文明への批判をさらに印象深く刻みつける。たとえば、アメリカ人スーザンは夫との関係がぎくしゃくしつつ異国を旅しているのだが、彼女には現地の人々や文化を見下すような振る舞いがある。しかし傷ついた彼女を介抱し休ませたのはその現地の人びとであり、彼女の痛みを和らげたのは老婆が差し出した阿片(?)なのだ。パック旅行のアメリカ人仲間がさっさと傷ついた二人を見捨てて去ってしまったのと対照的に、モロッコの人々の優しさが心に沁みる。

 アメリカの留守宅に残された子ども達を連れてメキシコに一時帰国した乳母は、息子の結婚式に出席して一日を楽しむ。だが帰途、とんでもない間違いが起こって子ども達は砂漠に置き去りにされてしまう…! 愚かな人々には目の前のことしか見えない。自分の目先の利害だけで行動した結果がとんでもない事態を生むことを彼らは知らない。

 日本の大都会、バベルの塔のように聳える超高層マンションの最上階が天にも届かんとする人間達の愚かさの象徴だ。その最上階で抱き合う親子をカメラは神の視点から撮る。そこに住む人々の心が通い合わないのはバベルの塔への天罰なのか。そしてまた、愚かな児戯から人を撃ってしまった少年たちがたどった悲劇もまた神の罰なのだろうか。

 本作に難を言えばいくつかある。菊地凛子の全裸は高校生に見えないし、時間軸を微妙にずらした3カ所の物語にとって時間軸をずらせたことの効果がそれほど見られない。だが、いくつかの小さな瑕疵を越えて、生きることの不条理と、結び付き合うこと、他者に受け入れられることの渇望を切なく描いた見事な作品だ。なぜ本作ではなく「ディパーテッド」がアカデミー賞なのか、理解できない。(映倫 PG-12)

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BABEL 上映時間143分(アメリカ、2006年)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本:ギジェルモ・アリアガ、
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演: ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子、二階堂智、アドリアナ・バラーザ
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