「大いなる陰謀」でロバート・レッドフォードに見いだされたアンドリュー・ガーフィールドがナイーブな演技で光彩を放っている。しかし、これは大変重苦しい映画で、救いのなさに打ちのめされそうになる。
BOY A、すなわち少年A。我が国にもそう呼ばれた、その名がまるで固有名詞のようだった少年がいた。神戸で、近所の子ども達を惨殺した14歳の少年。かれが少年院を出所したとき、正確にはどのような「騒ぎ」や波紋があったのか、忘れてしまった。詳細は覚えていないが、この映画の人々のように、前科を持つ少年に「世間の目」は疑惑や冷酷なものに満ちていたのではなかったか?
犯罪を犯した少年をなぜ無関係な人々までが憎むのだろう? なんの関係があって? 誰のために? 罪を憎んで人を憎まずというけれど、罪も人もよく知りもしないでなぜ一人の少年を追い詰め迫害することを我が正義と信じることができるのだろうか。それはきっと、自分だけは無罪だと思っているからだろう。自分は残虐な犯罪とは無縁な無辜の人間だと思いこめなければそんなことは不可能ではないのか。
主人公ジャックが少年院から仮出所してくるところから映画は始まる。彼はこれまでの名前を棄て、「ジャック」という名前で新しい人生を歩み始めるのだ。仕事もみつかった。彼が前科者であることを知って雇い主は雇ってくれた、寛大な人のようだ。幸い、いい同僚に恵まれ、恋人もできた。無口でシャイなジャックが恋人と心を通わせるようになるまでがなかなかまどろっこしいけれど、その描写がゆったりとして、よい。恋人ミシェルは決して美人ではない、むしろぽっちゃり型の女性で、同僚たちからは密かに「白鯨」と呼ばれている。ミシェルと徐々に心を通わせるようになったジャックには、いつも温かい目で彼を見つめてくれる後見人もいる。しかしそんな彼の生活がある日、暗転する…
<以下、若干ネタバレぎみ>
映画は、ジャックの前科をなかなか明らかにしない。彼がどんな犯罪を犯したのか、フラッシュバックによって過去が描かれるが、肝要な部分は曖昧にされている。観客は徐々にジャックの過去を知り、今目の前にいるこの純朴な青年がかつてどのような犯罪を犯したのか知らされることにより、「罪」よりも先にジャックという「人」を見るよう誘導される。やがてジャックの犯罪が明らかになるけれど、その全容は伏せられたままである。もしこの犯罪が、もっと残虐なものだったらどうなのだろうか? ジャックが極悪非道な犯罪者であれば世間の非難は当然のものなのだろうか? この映画はジャックに同情心をそそるように作られているため、主張のポイントがたいへんわかりやすいものとなっている。それだけにラストは、「本当はこんなに良い子なのに」という心暖かな観客の同情心を目一杯そそる悲痛な思いに満ちている。そこが釈然としないところだ。厳しく言えば、アンフェアである。心優しい大人しく孤独な男の子が、恵まれない家庭の寂しさから非行に走り、やがて悪ガキ友人の犯罪に巻き込まれていく。悪ガキと書いたが、この子とて生育歴に問題があり、情状酌量の余地は大いにある。この「悪ガキ」をいっそ主役にしてみたら、この映画は奥の深いものになったろう。
いずれにしても、簡単には救いの余地のない映画であり、ここに描かれた「社会への告発」を、わたしたちは身を引くことなく受けとめることが可能なのだろうか、と思う。この映画を見にわざわざ劇場まで足を運ぶ人々はこの映画の主張をきちんと受け止めることができるのだろう。こんな映画が商業的にはヒットしないことがこの国の不幸であり、ヒットしたらしたでかえって不気味に思うし、この映画を見る人口の少なさに「自己満足」を感じてしまう映画ファンの存在こそがむしろ問題かもしれない(と、自虐的に思うこの頃…)。
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BOY A
上映時間 107分
製作国 イギリス、2007年、上映時間107分
監督: ジョン・クローリー、製作: リン・ホースフォード、原作: ジョナサン・トリゲル、脚本: マーク・オロウ、音楽: パディ・カニーン
出演: アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン、ケイティ・ライオンズ、ショーン・エヴァンス
BOY A、すなわち少年A。我が国にもそう呼ばれた、その名がまるで固有名詞のようだった少年がいた。神戸で、近所の子ども達を惨殺した14歳の少年。かれが少年院を出所したとき、正確にはどのような「騒ぎ」や波紋があったのか、忘れてしまった。詳細は覚えていないが、この映画の人々のように、前科を持つ少年に「世間の目」は疑惑や冷酷なものに満ちていたのではなかったか?
犯罪を犯した少年をなぜ無関係な人々までが憎むのだろう? なんの関係があって? 誰のために? 罪を憎んで人を憎まずというけれど、罪も人もよく知りもしないでなぜ一人の少年を追い詰め迫害することを我が正義と信じることができるのだろうか。それはきっと、自分だけは無罪だと思っているからだろう。自分は残虐な犯罪とは無縁な無辜の人間だと思いこめなければそんなことは不可能ではないのか。
主人公ジャックが少年院から仮出所してくるところから映画は始まる。彼はこれまでの名前を棄て、「ジャック」という名前で新しい人生を歩み始めるのだ。仕事もみつかった。彼が前科者であることを知って雇い主は雇ってくれた、寛大な人のようだ。幸い、いい同僚に恵まれ、恋人もできた。無口でシャイなジャックが恋人と心を通わせるようになるまでがなかなかまどろっこしいけれど、その描写がゆったりとして、よい。恋人ミシェルは決して美人ではない、むしろぽっちゃり型の女性で、同僚たちからは密かに「白鯨」と呼ばれている。ミシェルと徐々に心を通わせるようになったジャックには、いつも温かい目で彼を見つめてくれる後見人もいる。しかしそんな彼の生活がある日、暗転する…
<以下、若干ネタバレぎみ>
映画は、ジャックの前科をなかなか明らかにしない。彼がどんな犯罪を犯したのか、フラッシュバックによって過去が描かれるが、肝要な部分は曖昧にされている。観客は徐々にジャックの過去を知り、今目の前にいるこの純朴な青年がかつてどのような犯罪を犯したのか知らされることにより、「罪」よりも先にジャックという「人」を見るよう誘導される。やがてジャックの犯罪が明らかになるけれど、その全容は伏せられたままである。もしこの犯罪が、もっと残虐なものだったらどうなのだろうか? ジャックが極悪非道な犯罪者であれば世間の非難は当然のものなのだろうか? この映画はジャックに同情心をそそるように作られているため、主張のポイントがたいへんわかりやすいものとなっている。それだけにラストは、「本当はこんなに良い子なのに」という心暖かな観客の同情心を目一杯そそる悲痛な思いに満ちている。そこが釈然としないところだ。厳しく言えば、アンフェアである。心優しい大人しく孤独な男の子が、恵まれない家庭の寂しさから非行に走り、やがて悪ガキ友人の犯罪に巻き込まれていく。悪ガキと書いたが、この子とて生育歴に問題があり、情状酌量の余地は大いにある。この「悪ガキ」をいっそ主役にしてみたら、この映画は奥の深いものになったろう。
いずれにしても、簡単には救いの余地のない映画であり、ここに描かれた「社会への告発」を、わたしたちは身を引くことなく受けとめることが可能なのだろうか、と思う。この映画を見にわざわざ劇場まで足を運ぶ人々はこの映画の主張をきちんと受け止めることができるのだろう。こんな映画が商業的にはヒットしないことがこの国の不幸であり、ヒットしたらしたでかえって不気味に思うし、この映画を見る人口の少なさに「自己満足」を感じてしまう映画ファンの存在こそがむしろ問題かもしれない(と、自虐的に思うこの頃…)。
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BOY A
上映時間 107分
製作国 イギリス、2007年、上映時間107分
監督: ジョン・クローリー、製作: リン・ホースフォード、原作: ジョナサン・トリゲル、脚本: マーク・オロウ、音楽: パディ・カニーン
出演: アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン、ケイティ・ライオンズ、ショーン・エヴァンス