ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『新聞と戦争』

2008年09月21日 | 読書
 最近読書日記を書かないのは、面倒くさいというのが一番の理由だが、それ以外にも、学生たちがコピペして安直にレポートを提出することが横行しており、わたしのブログからもコピペしていく者が後を絶たない様子にうんざりしたからでもある。勉強の第一歩は「書き写すこと」だと思う。だから、小学校のとき、最初に教えられることは板書を書き写すことだったはず。手で書き写すなら勉強になると思うが、コピペではまったく本人のためにならない。

 まあ、でもコピペしてもらえるというのは名誉なことであると喜ぶべきかもしれない。

 それはともかく、久しぶりに本の感想を少し。とても読みやすく面白いので、お奨めします。



 この本、思ったより大部なので大学の後輩A記者が書いた第7章だけを読もうと思ったのだけれど、ついでだからまあ1章だけは読んでおこうかと思って読み始めたらおもしろくて止められなくなった。新聞の戦争責任を自己批判するというこの企画は、朝日だけのものなのだろうか? ライバル毎日新聞はこういう企画をしていないのだろうか。

 元の新聞連載を読んでいなかったのだけれど、よく調べて書いてあるのには感心した。さすがは大朝日の記者ですな。連載ものを集めたために、各回の文字数が一定で、レイアウトがすべて同じ。見開きの2ページ左側には写真が掲載されているという体裁がなかなかによい。この写真も貴重なものばかりだ。有名な写真もあるが、初めて見る写真がほとんどなので新鮮だった。各回読み切りなので、どこから読み始めても困ることはない。とはいえ、やはり第1章から順に読むのが理解が深まっていいと思う。

 ほとんどの章が興味深かったが、特に肉弾三勇士の下りが面白かった。というのも、葉っぱさんから寄贈を受けた亡き御尊父のアルバムにこの肉弾三勇士の写真があったから、目に焼き付いていたので。大阪朝日が「肉弾三勇士」と呼び、大阪毎日は「爆弾三勇士」と呼んだという。両社が競い合って肉弾三勇士の歌を読者から募集し、同じ日に当選者を発表したというあたりのむき出しのライバル意識には笑えた。しかも、堂島川を挟んで両社が連日「肉弾三勇士の歌」と「爆弾三勇士の歌」を流して、話し声も聞こえないほどうるさかったというのには二度笑った。

 巻末に特集章があり、これは連載が終わってから識者のインタビューなどを掲載したもの。このインタビューがまた興味深かった。
 この続きの連載がまた朝日新聞で企画されているという。楽しみである。
 
<書誌情報>
新聞と戦争 / 朝日新聞「新聞と戦争」取材班著. 朝日新聞出版, 2008

「現代思想」8月号

2007年12月30日 | 読書
 「ゆきゆきて、神軍」を夏に見て以来、「責任」という言葉が頭の中をめぐっていた。一億総無責任といわれる日本人の心性は江戸時代からあったようで、忘年会を開く民族は世界中で日本人だけらしい。江戸の末期に武士が始めた「年忘れの無礼講」が起源ということだが、一年の総括を一切せず、困ったことやいやなことは酒を飲んで忘れようという上役にとって都合のいい、「部下をまるめこむ会」だったという。誰も責任を追及されたりしないようにあらかじめ予防線を張るための会だったということで、それがあっという間に日本中に広がる習慣になるのだから恐ろしい。(出典は『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』2007年、光文社新書)

 『現代思想』を買ったのは何年ぶりだろう、実に久しぶりのことだ。読みたかったのは磯前順一さんの論文「外部とは何か? 柄谷行人と酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」だったのだが、偶然にも東京裁判特集だったので、ここでも戦争犯罪と戦犯について考えるヒントを仕入れることができた。

 さて、磯前さんの論文は、柄谷行人と酒井直樹というポストモダニスト二人の「内部/外部」」のとらえかたの違いについて述べている。ここでいう内部/外部とは日本におけるそれを指す。柄谷にとって外部とは共同体の外部であり、他者との出会いも外部で実現する。柄谷はしばしばアメリカに滞在するようになって、「日本には外部あるいは他者と出会う空間が存在しない」と気付いた。磯前さんの問題意識は、「柄谷のいうように、日本において、本当に外部は存在しないのだろうか? そもそも外部と内部とは何か?」というものだ。ガヤトリク・スピヴァク、ホミ・バーバ、エドワード・サイードといったポストコロニアル知識人の間には戦略的差異はないのか? 彼らを参照するだけでよいのか?と、磯前氏は問う。

 磯前論文の課題は靖国神社A級戦犯問題なのだが、磯前さんの論文は戦犯問題を越えてわたしに「他者」と「外部」を問うテーゼを示してくれる。だが残念なことに、この論文は興味深い示唆に富むにもかかわらずどこか隔靴掻痒の感がぬぐえない。だが、いくつかメモしておきたい言葉があるので引用。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(p182)

 かつて、わたしはホミ・バーバに面談を求めたさいに、彼に認められようと、どれほど自分が彼の思想を的確に理解しているかを勢い込んで喋った。しばらく、黙って聞いていた彼は、こういった。「私をよく理解してくれていることはよく分かった。しかし、お前はホミ・バーバではない。おまえ自身の考えは一体何なんだ。私に無くて、お前に在るもの。それが私にとってお前と話す価値だ」。それは、まぎれもなく内部に同質化する欲望を拒絶する思考であり、柄谷言葉を借りるなら単独者として人が向き合う対話への姿勢である。すでに述べたように、柄谷にとって、日本は閉ざされた内部として否定的なかたちで存在する。そのような閉鎖性を打破するために、彼は交通の場としての外部を措定する。(p.184)>


 
 そして、書店で立ち読みした『喪失とノスタルジア』がとても面白そうだったので、読んでみたいと思っている。「現代思想」という雑誌に掲載された論文だけではこの人の思想の核の部分は読み取れないのではなかろうか。

「魂萌え!」

2007年11月18日 | 読書
 これは面白かった。

 63歳の夫が急死、葬儀の後に愛人の存在が発覚。遺された平凡な妻敏子59歳はどうする? 葬儀のために8年ぶりにアメリカから帰国した長男は、一度も会ったことのない妻子を連れていた。しかもいきなり「お母さん、同居したいんだけど」と言い出す。突然の喪失、騙されていたことの衝撃、息子の我がまま、娘の気まま。翻弄される敏子が変身していく。

 わたしとは全然違うタイプ、全然違う立場の敏子なのに彼女の気持ちがよく分かる。桐野の筆が細部のリアリズムに凝っているからだ。「あるある」感の多さに納得。他人事とは思えない出来事の連続に一気に読んでしまった。お奨め。

---------------------------

魂萌え! / 桐野夏生著. 毎日新聞社, 2005


「二十四時間の情事」をカルースはいかに分析したか

2007年11月14日 | 読書
 『トラウマ・歴史・物語』の第2章「文学と記憶の上演」はディラスの脚本によるアラン・レネ監督の映画「ヒロシマ私の恋人」(「二十四時間の情事」)についての分析だ。

 ここからいくつか引用を。主演の岡田英次はフランス語をまったく理解しないという。彼は完璧に音だけでフランス語の科白を覚えた。しかも、撮影のときに同時録音した音が雑音のため使えなくなり、音をそっくりアフレコする必要が生まれたのだという。岡田はこの難業もやってのけた。彼は自分にとって意味不明のフランス語をもう一度最初から流暢にしゃべり直したのだ。


[岡田英次は]自分がしゃべるテクストのセリフを暗記したのではなく、彼にとっては文法的には何の意味もなさない音声としてそのセリフを覚えて暗唱した。まったく驚くべきことである。オカダは、映画の中に差異を導入したが、それは、彼が自分の役を通して演じたわけではなかった。つまり、この物語にとって、フランス語を話す日本人男性は、物まねとか鏡像とかの関係の中で、その役を演じた俳優を表象しているのではないからである。映画の中の日本人男性は、母国語を一時外国語に置き換えるためにその外国語を学んだが、一方、その日本人男性を演じた俳優は、音として覚えた言語の音声を声に出したのである。音声を声として発話すると、彼自身の存在が空になってしまうかというと、実はその反対である。流暢にフランス語をしゃべる物語の中の人物は、指示対象となる日本人像を一部喪失したが、音声を出すことで、オカダと役柄の人物とは、はっきり区別されたのである。オカダが音声を丸暗記したと言うことを、喪失や忘却として解釈するべきではない。つまりオカダは自己内の差異を表象したというより、言葉としてその差異を声に出して演じたのであり、それは翻訳不可能なものである。あの役のために彼がしたことは、自分の声の代替不可能性という具体性を演じたことである。こうしてオカダは自分の話している言語の意味を所有したり、支配したりするのではなく、その声の再を比類なきかたちで伝達する話し方を映画に導入した。そして、このことこそが、『ヒロシマ私の恋人』という映画が語ろうとする、人類の深淵にひそむ哲学であり真実でもあるものとつながっている。(p73-74)


 トラウマ的悲劇は理解し合えない。女が「ヒロシマを見た」と言う。男は「君は何も見なかった」と答える。二人は理解し合えないのではないか。しかし、映画はその「理解できない」ところから、互いへと「聞き合う」道を拓いているように思う。カルースも述べている。


 フランス人女性と日本人男性の対話の中で鳴り響いていたもの、そして、文化や体験の間にある溝を越えて二人を通じ合わせていたもの、それは、二人が直接には理解しあえないという認識から来たものである。映画全体を通じて二人を結びつけることを可能とした者は、いまだ完全にはつかみとられていない体験、いまだ語りつくされていない

物語の、謎に満ちた言語である。相手のことについて知っているというだけでは、二人が情熱的な出会いの中で語り合い、聞き取りあうことはなかったであろう。自分たちのトラウマ的過去について十分に知らないという基盤に立つとき、二人は語り合い、聴き取りあうことができたのだ。(p81)



 ※映画「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」の感想は一つ前のエントリーを参照してください。



<書誌情報>

トラウマ・歴史・物語 : 持ち主なき出来事 / キャシー・カルース [著] ; 下河辺美知子訳. みすず書房, 2005


シュタージ関係2冊

2007年10月05日 | 読書
 映画「善き人のためのソナタ」を見る前に読んでおきたいのがこの2冊。見た後でもいいけどね。


監視国家 :東ドイツ秘密警察に引き裂かれた絆 / アナ・ファンダー著 伊達淳訳 白水社 2005.10


 シュタージの人間と監視された人間の両方へのインタビュー。巻末の解説によれば、シュタージの切り刻まれたファイルを復元するのに375年かかるという。



ファイル:秘密警察とぼくの同時代史 / T.ガートン・アッシュ著 今枝麻子訳 みすず書房 2002.5


 友達だと思っていた人間が自分を監視し密告する人間だったとは! それを知ることの衝撃に胸が塞がれる思いがする。しかも誰もが自分が密告者であったことを正当化するのだ。ほかにどうしようもなかったのだ、と。

 おもしろいことに両書ともドイツ人が書いたものではない。アナ・ファンダーはオーストラリア人、ガートン・アッシュはイギリス人だ。シュタージについてはドイツ人自らが何かを書くことはできないのか? いや、そんなことはないはずで、日本語訳がないだけだろうか。

 証言集である『監視国家』よりも本人が自分のファイルを探索していく過程と自分を監視していた人間にインタビューを申し入れていく過程を描いた『ファイル』のほうが生々しく面白かった。修辞もアッシュのほうが優れていると感じたし、何より彼のほうが視点が定まっている。彼にはリベラリズムへの信頼感がある。

 ただしちょっと気になったのは、イギリスの「民主主義」への過度な評価だ。MI5の存在についても書かれていたけれど、どうなのかなぁと思った。イギリスだって「秘密警察」を持っているわけだしね。監視機構をもたない国家というのは存在しないのかもしれない。そもそも国家とはそのようなものではなかろうか。


ジョン・リードの伝記2冊

2007年10月01日 | 読書
 映画「レッズ」を見たあとでこの2冊を。

■ジョン・リードの伝記(1)

時代の狙撃手 : ジョン・リード伝 / タマーラ・ハーヴィ著 ; 飛田勘弐訳.
至誠堂, 1985. -- (至誠堂新書 ; 14)
------------------

 巻末にリードの自伝エッセイ「もうすぐ30歳」を収録。このエッセイには彼の恋愛のことはほとんど何も書かれていない。もちろんまだ「世界をゆるがした10日間」を書く前のエッセイである。

 この伝記には、リードがソビエトをどのように評価していたかが描かれていない。映画「レッズ」にあったような失望は書かれていないのだが、訳者の解説がそのあたりを補っている。

 ジョン・リードは多くの浮名を流したプレイボーイだったようだが、とりわけ8歳年上の富豪の女性との恋が大きなものだった。その女性と別れた後にルイーズ・ブライアントと出会っている。

■ジョン・リードの伝記(2)

ルポルタージュは世界を動かす:ジョン・リードから現代へ
 松浦総三・柴野徹夫・村山淳彦・内野信幸著. 大月書店. 1990



-------------

 本書は二部構成になっていて、前半がジョン・リードの伝記、後半がルポルタージュの歴史についての解説。『時代の狙撃手』のほうがリードの伝記としては詳しいのだけれど、こちらは日本の読者向けにたいへんわかりやすい解説がついているので、両書併読がお奨め。本書は時にたいへん臨場感溢れる描写があって伝記としてもなかなか読ませるものがある。それに映画「レッズ」のヒットの後を受けた企画だけあって、映画の内容を踏まえて書いてあるのも興味をそそるし、『時代の狙撃手』がルイーズとの恋と同じかむしろ長いぐらいに年上の人妻との恋を描いたけれど、本書はルイーズとの恋に焦点を絞っているのがいっそう興味をそそる。



 映画「レッズ」の解説もあり、史実と違う点について書いてあったのだが、なるほどウォーレン・ビーティがドラマチックにするために史実を変えたのだというのがよくわかった。それはルイーズが雪原を犬ぞりを駆って苦労してジャックに逢いに行く場面。実際にはルイーズがロシアに向かったのは夏なので、大雪原を渡る苦労はなかったはずだという。ビーティがフィクションに変えてしまって「ドクトル・ジバゴばりのシーンに捏造したという批判があるとか。

 あとは、ジャックとルイーズのロシアでの再会の場面は駅ではなく、ルイーズのホテルの部屋にジャックが歓声を上げて飛び込んできたというのが本当らしい。

 そうと知ると、映画的には絶対ビーティが変えた場面のほうがドラマチックでいいわ~

 それにしてもこの著者たちの口ぶりがいかにもオールド左翼だ。大月書店文化人の匂いがぷんぷん。


『映画の政治学』

2007年05月09日 | 読書
 (太字は本文からの引用)

《政治的で難解な監督として遇されてきたゴダールが、いまや知的でちょっとおしゃれな映画作家のようにもてはやされてしまう状況
 ……
 小川紳助の『三里塚』シリーズや土本典昭の『水俣病』シリーズを見たり論じたりすることさえも、高級な政治的趣味をもった人たちの「私的趣味」の世界と見られかねない
 …
 まちがいなく私たちはいま、映画を議論するための公的な空間自体を喪失するという困難な状況に立たされている。》(p.15)


 70年の頃のような熱い政治の文脈に映画を置くことがほんとうにできると思っているのだろうか。そして、それが必要なことなのだろうか。「ホテル・ルワンダ」のように映画を消費することに苛立つわたしでさえ、もはや映画を政治の道具として見ることは不可能ではないか、それはむしろ不要なことではないか、と思っている。では、わたしは映画をどのように見たいのだろう。どのように解釈し、それを社会に向けてどのように差し出していきたいのか? わたしの言葉がいったい誰に届くというのだろうか。

 この本は面白い。買ってもいいと思うぐらいだ。序文だけを読んで多少感じた違和感はその後ぶっとんだ。特にやはり中村秀之さんの論は読み応えがあった。それに斎藤綾子さんの木下恵介論も面白い。これはジェンダーから見る映画論なのだが、決して表層的攻撃的なジェンダー論ではないところがよかった。

 「市民ケーン」を見たらよけいに中村さんのすごさを体感。とてもあの映画からこういう読みはできない。本作をニュース映画批判だと看破する批評が公開当時にもあったのだが、その批判の仕方に対して、中村さんは次のように批判する。

《その批判の方法が「ケーンと彼の世界に対する、ニュース映画よりも豊かで信じるな見方を呈示する」点にあると書いてしまうとき、デニングは、表面と深層、外部と内部、真実と虚偽、さらには善と悪という二元的対立を受け入れ、結局のところ「内幕情報屋」的空間の視線構造にとらわれているのだ。これこそメロドラマ的な読解といわざるをえない。換言すれば、このような解釈が、この映画をめぐる言説空間それ自体のメロドラマ性を維持することい貢献してきたのだ》(p152-153)
 

 長い間本作の巻頭に挿入されているニュース映画は『マーチ・オブ・タイム』だと言われてきたが、中村さんはむしろ『ニューズ・オブ・ザ・デイ』というハースト社のニュース映画こそが参照元だと指摘している。そして、実はこの架空のニュース映画は『市民ケーン』そのものに似ている、という。

《『マーチ・オブ・タイム』のコピーであると見せかけてテクストの外部の方向をあからさまに指示しながら、実はそれが含まれているこの映画それ自身をも再帰的に指示している。つまりテクストを開く他者言及とそれを閉じる自己言及を同時に、かつ遊戯的におこなっているのである。》

 中村さんは本作の参考本としてしばしば取り上げられる『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』に手厳しい批判を加える。

《製作裏話をウェルズとハーストの個人的な出会いに由来する対決として描いたこの「ドキュ・ドラマ」は、恥ずかしいほどに、後の通俗的な意味での「メロドラマ」に仕立てられている。それは、映画の効果として生み出された観念を、あたかもこの映画の原因であったかのように置き換え、事後的に起源を捏造している》

 やはり、末尾のまとめの言葉が圧巻だった。この映画がこういうものだと、いったい誰が気づくだろう? しかし、たった一人(あるいは数人)の観察眼鋭い社会学者が気づいたとして、本作がそのように受容されていないとしたら、ウェルズが本作に仕掛けたメッセージはどこにも届いていないではないか。中村さんは本作をどのような映画だと看破したのだろうか、それは以下の通りである。

 《『市民ケーン』という「興行的な仕掛け」は、映画の受容をめぐるコンテクストそれ事態のメロドラマ性を脱構築する装置だった。……『市民ケーン』に一杯食わせられていることにはほとんど誰もきづかなかった……『市民ケーン』は、表層と深層の区別、外部と内部の分割、さらには両者への偽と真の配分というメロドラマ的な操作そのものを派手に見世物化し、あるいはイベント化しつつ、他方でこれらの対立の一切を脱臼させているのだ。》

---------------------

以下、本書の目次を引用。

はじめに  長谷正人

第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』――「映像の社会学」の可能性をめぐって  長谷正人

第2章 失われたファルスを求めて――木下惠介の「涙の三部作」再考  斉藤綾子

第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入――『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ  中村秀之

第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く――『救命艇』のなかの黒人  飯岡詩朗

第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない――第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶  ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]

第6章 柳田國男と文化映画――昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像  藤井仁子

第7章 反到着の物語――エスノグラフィーとしての小川プロ映画  北小路隆志

あとがき  中村秀之

2006年マイベスト:読書篇

2007年01月07日 | 読書
 ほとんど本を読んでいないのにベストを選ぶというのもおこがましいが、まあ自分のメモのために記しておこう。去年読んだ本のリストを作ってみても既に「この本なに?」というのがあるから驚きだ。一年前に読んだはずの瀬名秀明『デカルトの密室』なんて、いったいなんの本なのか見当もつかない有様。小説だったっけ? あ、bk1の解説と書評を読んでやっと思い出した。というか、全然覚えていないことが確認された(^^;)。こんな状態だから、読んだ本のことは次から次へと忘れていく。大丈夫かい、わたしの脳みそ。ほとんど腐っているのではなかろうか。

 さて、2006年に出版されたものの中から選ぶのではなく、読んだ本の中からなので、発行年はさまざま。それにすぐ忘れるから、年初に読んだ本ほど内容を忘れている。特に2006年に出版されたものの中でこれはぜひ、というのを挙げれば『松岡正剛千夜千冊』だろう。すごい本です、これは。よく出版したなぁと感動する。全8巻分売不可、税込み10万円弱。誰が買うんでしょうねぇ~。わたしは地元の図書館にリクエストしたけど、地元は買ってくれず、府立中央図書館からの相互貸借で届けられた。図書館から持って帰るのも一苦労という大部な本だ。何しろ一冊1000頁前後ですからね。電車の中で立ち読みもできない。別巻だけが貸出不可で館内閲覧のみだったのでやむなく館内でざざざっと読み、残る7冊を持って帰ったけれど、自転車の前籠と後ろ籠に積んでふらふらとこぐのもしんどかった(^^;)。



 Webで連載中は千夜のうちわずか数夜しか読んだ覚えがないが、こうやって一冊の本になり、分野ごとに編集されてみると、その偏りのなさに驚いてしまう。一人の著者につき一冊だけ取り上げるという原則だから、その一冊をどのように松岡氏が選んだかも興味深い。ふつうの書評や読書案内ではなく、個人的な読書回想記の形をとっているので、そこが面白くもあり冗漫になる場合もある。

 こういう大部な本は隅から隅まで読むものではなく、折に触れて取りだしては興味のある部分だけ読むようなものである。当然わたしも全部読んだはずがない。読了本でないけどベストに入れてしまうのは、こういう本を出版してしまったことに対する敬意を表したいという思いもあるからだ。

 で、これはわたしの興味からいうと別巻が最も面白い。連載中の苦労話裏話、出版にまつわる四方山話が書かれていて、そそられる。また、松岡正剛の伝記がたっぷり読めてこれまた面白い。別に彼のファンというわけでもないからまあこういうのはどうでもいいようなものだが、でも読み始めたら面白いのだ。この人、こんなに波瀾万丈なんだなぁとか、いったいどこでどうやって時間を作って読書しているんだろうとか、疑問が湧いてきて、またいっそうそそられる。もう図書館に返却してしまったけれど、そのうちまた借りて読みたい。地元の図書館が買ってくれたらなぁ。残念だ。

 その他の本についてはまた時間があればコメントします。あ、そうそう、永井均さんの『ルサンチマンの哲学』は電車の中で読み始めたらあまりの面白さに夢中になり、デパートで買った高級サンドイッチを網棚に忘れてきてしまったというこぼれ話もついてます(悔)。サンドイッチはなんとか取り戻しました。わざわざ車に乗って隣市の駅まで取りにいったもんね。ふー


「苦海浄土」石牟礼道子著
「歴史と瞬間」和田康著
「東京タワー : オカンとボクと、時々、オトン」リリー・フランキー著
「私家版・ユダヤ文化論」内田樹著
「戦争で死ぬ、ということ」島本慈子著 岩波新書
「自己・あいだ・時間 : 現象学的精神病理学」木村敏著 (ちくま学芸文庫)
「かの子撩乱」瀬戸内晴美著
「映画の政治学」長谷正人, 中村秀之編著
「記憶/物語」 岡真理著 岩波書店
「バックラッシュ」上野千鶴子, 宮台真司, 斎藤環 [ほか著] 双風舎
「ルサンチマンの哲学」永井均著
「松岡正剛千夜千冊」

バタイユ論『歴史と瞬間』(2)

2006年09月10日 | 読書
 わたしがバタイユ論をさぼっているうちに、ソネアキラさんが湯浅博雄『バタイユ』についてアップされた。うっ、これは無言の催促かはたまたエールか、プレッシャーか(笑)。

 ま、おかげで湯浅さんのバタイユ論について書く手間が省けたというもので、曽根さん、ありがとうございました。

 曽根朗さんのバタイユ論は卒業論文ということで、まさに若さ溢れるきびきびした文章が微笑ましい。論文というよりはエッセイ風の文体が馴染みやすさを醸し出している。

 確かに曽根さんの論文を読んでもバタイユの全体像はわからない。バタイユの伝記的研究でもない。作品の逐条的な解説でもない。けれど、バタイユを読んだ若き日の曽根さんがバタイユに心酔していく様子が手に取るようにわかる。そして、よく難解な本をたくさん読まれたものだと感心するのが、引用されたバタイユ論の数々だ。サルトル、デリダ、フーコー、ブランショ、etc.
 
 特に印象に残ったフレーズは

 《難解なものに価値を認めるなんてヘーゲルだけで沢山ではないか。》
 《バタイユの著作の根底にあるのは、憤怒である。怖れでもなければ、慄き、嘆きでもない。》
 《バタイユは悪をとらえようとした》
 《机に向かって書くのではなく、カフェテラスで書くっていう、そういうのがモラリストだと思う。》
 《バタイユの顔は、結局一つなのだ。聖人か、ペテン師か二者択一することができない。》

これは若き曽根朗のバタイユである。30年近く前、曽根朗という学生はバタイユをこう読んだ。バタイユを「憤怒の人」ととらえたところが面白い。それはひょっとして、当時の曽根さんがやはり「憤怒の人」であったからかもしれない。あるいは、どんなに明るくのんびりしたように見えても、底には「憤怒」を抱えていたのかもしれない。カフェテラスで書くことに評価を置く態度は今と変わらないように思う。

 バタイユ論を読んでわたしは思わず曽根朗論を論じてしまいました(笑)。曽根さん、失礼をお許しください。なんだか曽根さんがとても近くに感じられました。


 さて、『歴史と瞬間』はバタイユへのアプローチに「時間」という主題を用いた研究書だ。これまで、湯浅博雄氏が「消尽」というテーマで魅力的なバタイユを論じてこられたが、バタイユを「時間」というタームで分析した研究者はほぼいなかったと言える。バタイユ自身は時間論とよべるようなものは書いていないにもかかわらず、バタイユを理解するときに「時間」は避けられない重要なテーマだそうだ。

《 私たちの誰もが、たとえば風景の美や心地よさにわれを忘れ、陶酔し、意識を不分明にくもらせるとき、知らず知らずのうちに、こうした「瞬間」を生きている。その意味で、これはごくありふれた経験である。だが、にもかかわらず、それは私たちの意識にとって把握不可能なままにとどまっている。この経験を誰もが知っていながら、誰ひとりとしてそれを明確に意識していない。こうした瞬間は、必然的に私たちの意識や言語からこぼれ落ちるのであり、私たちはそれを避けがたく忘却してしまうのである。……平静な意識活動にあらがうものであるこの瞬間は、「忘却」の経験と深い関係をもっている。したがってそれは、歴史上にその痕跡をけっして十全には残さない。なぜなら、歴史とはつねに記憶され、言葉で記録され、想起され、読まれうるもの、まさしく忘却にあらがうものの総体にほかならないからである。この意味で、瞬間の経験とは、すぐれて〈非-歴史的な〉経験であると言わなければならない 》 p16

 そのときそのときの「瞬間」の蕩尽に生きたバタイユ。彼にとっては未来への投企など意味のないことだったのかもしれない。著者和田康氏は歴史をつかもうとして「瞬間」に着目した。常に忘却へと開かれるその「瞬間」をバタイユはどうとらえたであろうか。(以下、続く)

ユダヤの知性

2006年09月01日 | 読書
 内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』を読んでいちばん疑問に思ったことは、ユダヤ民族がそこまで高度で世にも珍しい知性の発展のさせかたを民族的伝統として培ってきたというのなら、なぜイスラエルは殺戮をやめないのか、ということだ。

《 だから、「神=隣人を追い払う」という起源的事実は、善性を基礎づけるためには、決してあってはならないことなのであるにもかかわらず、私の善性を基礎づけるために、「かつて私は主を追い払った」という起源的事実にかかわる偽りの記憶を私は進んで引き受けなければならないのである。 実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白すること。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。(略)

 人間は間違うことによってはじめて正しくなることができる。人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」とう仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。そのような迂路によってレヴィナスは人間性を基礎づけたのである。》
  p.223-225 原文の傍点省略

 これについてはぜひ内田さんに書いてもらいたいものだと思う。確か内田さんはブログで、「『ここはわれわれの父祖伝来の土地だ』と言い張る人間のタイムスパンが2000年というようなときには、もうハナから話が合うはずがない」という意味のことを書いていたな。

予告編まで出しながら脳みそが溶けたので最近読んだ本のコメントで誤魔化す

2006年08月27日 | 読書
 また来週、なんていう予告をしておきながら先週の土・日はあまりの暑さに呆然としているうちに終わってしまいました。知的活動はいっさいできず。とほほ。

 今週は忙しくてまとまった時間が取れそうにないので、こういう難しい本(『歴史と瞬間』)の感想文を書くのはちょっと無理なので、9月に入ってから改めて書きます。

 というわけで、本日はお茶濁しに、最近読んだ本の中から印象に残ったものの短評を。
 


 毎度おなじみ内田樹さんの編著による、「護憲本」? 「?」がつくところが普通の護憲ものとは違うところ。下記の4人による著作で、この順番に並んでいる。内容の面白さもこの順番。
 やっぱり内田さんって、誰も思いつかないような「ニッチ」な部分にコメントを入れてくるね。すごいと思ったわ。保守と言えば究極の保守がこの人。だってね、「今のままでいい」というのだから。憲法を変える必要はない。自衛隊があったっていい。今のままで日本は平和で繁栄してきたんだからって。で、その論拠はというと…これが日本の「解離性」がミソだっていうのね。詳細は本書を手にとってお読みください。

 それから、映画評論でお馴染みの町山さんが在日コリアンの帰化者だということは知らなかった。今アメリカで活躍中の町山さんらしいコメントが興味深い。

憲法がこのままで何か問題でも? 内田樹
改憲したら僕と一緒に兵隊になろう 町山智浩
三十六計、九条に如かず 小田嶋隆
普通の国の寂しい夢 平川克美著

<書誌情報>
 9条どうでしょう / 内田樹 [ほか] 著. -- 毎日新聞社, 2006




 次は最近、たくさん本を出しているという印象の強い斎藤貴男さんの対談集。途中まではものすごく面白かったけど、さすがに同じような論調が続くと飽きてくる。でも、「ゆとり教育」をめぐる宮崎哲弥さんとの論争で目が覚める。これは面白かった。簡単に言えば斎藤さんが悲観的で宮崎さんが楽観的。斎藤さんがゆとり教育反対で宮崎さんが賛成。さて、どちらの現状分析と未来予想が正しいのかな。どっちもどっち、という部分があって、この論争はこれだけで本が一冊書けそうだ。議論が途中で終わっちゃってて、惜しい。

 格差社会に警鐘を鳴らす対談集です。山田昌弘さんとの対談もあって、この人の『希望格差社会』を読んだ時よりは好感が持てた。斎藤さんによると、『希望格差社会』にしろ三浦展『下流社会』にしろ、売れたのはこれらの本に「怒りがない」からだという。なるほど、わたしがこの2作にイヤな感じを受けたのは、「怒りがない」からか。
 とりわけ『下流社会』なんて、格差をおもしろがって笑っているようなところがあって、とても嫌な感じだったのだ。

<書誌情報>
 みんなで一緒に「貧しく」なろう : 斎藤貴男対談集 / 斎藤貴男著. -- かも
がわ出版, 2006. -- (かもがわCブックス ; 6)




 さて三冊目。この本は副書名から判断してネットの言説分析かと勘違いしたけど、内容は中間層が崩壊していく現代日本・韓国・中国の社会変動について書かれたものだ。たいへん手際よくわかりやすくまとめてあって、読みやすい。特に中国や韓国の状況については勉強になった。書き手はまだ大学院生。これからが楽しみな逸材がまた登場した、という感じ。

<書誌情報>
 不安型ナショナリズムの時代 : 日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由 /
高原基彰著. -- 洋泉社, 2006. -- (新書y ; 151)




 最後はベストセラー小説を。ユーモアにあふれて面白くてサクサク読めて泣かせる。究極のマザコン小説と揶揄するのは品がない振る舞いだろう。自伝小説というのは、ただ自分の生きてきた道を振り返るだけでは面白くない。そこはかとない人生への哀感や切なさがにじむフレーズにはぐっと胸を掴まれる。この小説に惹かれるのは、説教臭さがないからだろう。ひたすらな母への愛にはただ感動するしかない。ここまで息子をしっかり捕まえてしまった母の功罪というものを考えずにはいられない。無償の愛の美しさと怖さを見た。

<書誌情報>
 東京タワー : オカンとボクと、時々、オトン / リリー・フランキー著. --
扶桑社, 2005

『歴史と瞬間 ジョルジュ・バタイユにおける時間思想の研究 』予告編

2006年08月13日 | 読書
昨年の春より予告していた「バタイユ月間」、ようやく終わりました。月間といいながらここまで延び延びになってしまったのはひとえにわたしの怠慢によります。

 この間、さまざまな励ましやご協力をいただいた皆様には伏してお詫び申し上げ、また暑く、いや、厚くお礼もうしあげます。ほんまに暑いですねぇ~、なんとかならんのかいっ、関係者出て来い!
 
 おっと、閑話休題。
 特に記して謝意を表したいかたがお二人。かつての卒業論文を3度にわたってネットにアップしてくださった曽根朗さん、そしてメールでご連絡くださった猿虎(永野潤)さん、ほんとうにありがとうございました。
 
 ここでお一人、重要な方に謝辞を捧げねばなりませんが、その方はすでにこの世になく、それがまたわたしには大いなる衝撃で、本書へのコメントもいっそう遅くなってしまいました。

 『歴史と瞬間』という高価な本を、一面識もないわたしに贈ってくださった和田康さんには、もっと早く本書の感想をお送りしなければならなかったのに、もはやお礼の言葉も和田さんには届けることがかないません。去年の5月に本書を送ってきてくださった和田さんは、9月に自死されたとのこと。そのことを知ったのは今年の5月でした。その時点でまだ本書を読み始めていなかったのですが、著者の死という衝撃的な「外部事情」を織り込むことなしに本書を読み進めることはできませんでした。

 「作者の死」を述べたのはロラン・バルトだったけれど、文字通り作者が死んでしまったという事実が本書に「テクストから作者へ」というバルトと逆ベクトルの読みをわたしに強いることになりました。

 バタイユを読もうと思ったのは、そもそもアガンベンを読み始めたからです。その前にアガンベンは大澤真幸さんの作品にふれることによって興味をもちました。このように芋づる式の読書を進めるうちに、バタイユを読もうという気持ちになり、まずは入門書を手始めに読書を始めたのが去年の夏。それから延々、一年がかりで、あちこち脱線しながらバタイユ関連の本を読み進めて参りました。 

 読書のスピードが異様に落ち、レビューを書く気力もうせたこのごろ、何人ものブロガーが毎日のようにブログをアップされているご様子にはまさに驚嘆するしかないという思いです。

 というわけで、本日は『歴史と瞬間』の予告編でありました。本編はまた来週にでも。
 
曽根朗さんのバタイユ論についても来週、まとめてコメントさせていただきます。

 曽根朗さんのバタイユ論第1回
  第2回
  第3回

人文系ヘタレ中流インテリのための

2006年06月20日 | 読書
『マルクスの使いみち』
稲葉 振一郎、松尾 匡、吉原 直毅著: 太田出版: 2006

 これはまた読みにくい本だ。3人の鼎談だけれど、最初のほうはいったい何がなにやらさっぱり。経済学説史の解説が延々と続くけど、初心者向けじゃないよ、これ。

 やっと3章になって面白くなってきた。そこまでの抽象的な経済モデル論には面白みを感じられなかったのだが、3章では具体的な像が描いてあるので、わたしのような頭にもわかりやすい。
 最終章は要するに「平等な社会」、「公正な社会」とは何かをめぐる議論だ。結局のところわたしは、経済学よりも社会倫理のほうに興味があるということだろう。こういう話題だと面白く読めるのだ。なぜ平等な社会がいいのか、をめぐる議論にはコンセンサスがない。カント流の「他と入れ替え不可能な絶対的個人」が大切だからこそ、「平等主義」が正義だといえるのか、逆に、「個人なんていくらでも取替え可能なものなんだ」と気楽に考えるところから「平等」を模索するのか、大きく二つの方向があるという。

 あと、興味深かったのはローマーの提唱する「市場社会主義」論だ。株式クーポンを国民に配ってみんなで株主になるという制度。このクーポンは売買不可、譲渡も不可、要するに選挙権みたいなものね。相続もできないから、どんなに儲けても子孫に残すことはできない。
 うーむ、これ、なかなかいいかも。

 本書には内容以前に編集上というか、出版上の問題がある。鼎談といいながら、ほとんどが稲葉さんと吉原さんの対談なのだ。松尾という人はいったい何のために出てきたのか、と思うぐらい、登場場面がない。後書きでご本人も自分はほとんど口を挟む余裕がなかったと書いているが、まさにそう。その上、ちょっとまとまって長くしゃべったところほど削除されてしまったと不満が書いてある。可哀想に。

 マルクスの使いみち、といいながらいったどこに具体的な使いみちがあるのかよくわからない本だったけど、要するにマルクスの教えというのは今でもうち捨てていいもんではないよ、ということが書いてある。でもそんなことなら別に本を読まなくてもわたしだってそう思っているんだけど…
 
 ま、マルクス主義から新古典派に転向した人たちの書いた本であり、しかもマルクスの尻尾を引きずったまま、というところが今風なのかな。(どこが今風?(^^;))

時間論二冊

2006年05月21日 | 読書
 まだまだ続くバタイユ月間。とか言いながら、実は今、カポーティの『冷血』を読んでいたりする(笑)。で、読み終わったら『ダヴィンチ・コード』を読むつもりで文庫本を積んであるのだ。

 さて、新しいバタイユ論である『歴史と瞬間』(和田康著)を読もうとして、これが時間論であることを序文で知ったからには先に時間論の予習を、などと思ったのがちょっとした運の尽きで、いまや時間を哲学することにハマってしまっているではないか。

 最初に読んだのは『時間は実在するか』。これは予想したのと違う本だった。やたら理屈っぽくて、ああでもないこうでもないと、論理学的展開をなす。こういうのは苦手だわ、わたしってやっぱり文系人間。少しでも数学的な叙述の匂いを嗅いだらもうだめ。

 本書は、マクタガートの時間論を批判的に検討し、マクタガートの結論である「時間は実在しない」に異議を唱えるものだ。そもそも、時間が実在しないなどという論がわたしの日常実感と懸け離れているのだ。どんなにへりくつをこねて「だから時間は実在しない」などと結論づけられてもそれには納得できないのだから、「実は時間は実在するのですよ」という結論を用意されてもね、そんなの当たり前やんか、としか思えない。
 
 時間にはA系列とB系列のとらえかたがあり、A系列こそが時間の本質だというのがマグタガートの論。

・<A系列> ある時点であるできごとは「現在」であったが、それはかつては「未来」であったことであり、やがては「過去」になる。つまり、2006年5月21日は現在であるが、去年の今日から見れば未来であり、来年の今日から見れば過去である。このように、ひとつの時間は同時に三つの位置(過去・現在・未来)を持つ。

・<B系列> ある出来事は別の出来事よりも前であり、それは動かない。時間は順序に従っている。たとえば、太平洋戦争のあとに原爆投下があり、その後に日本の敗戦がある。この時間の順列は確定していて動かない。

 それにしても哲学者というのはひょっとしたらものすごく不幸な人かもしれないと思った。だってね、時間が実在するのかどうかなんてそんなことを一生懸命考えているのだもの。実在するに決まってるやんか。実在するからこそ、いろんな悩みや悲哀が生まれるわけで、そこに疑問をはさむのは確かに根源的かもしれないけれど、ちょと(わたしの感覚と)違う、と思わざるをえない。違ってもいいけど、時間について根源的に考えるのもスリルがあるけれど、なんだか論理のこねくり回し方に、「こういう形而上学を唱えることがなんか意味あるわけ?」と思ってしまう。

 わたしもたいてい実学に無関係なものが好きな人間だけど、これはなんだか、日常のなかにフィードバックしてこないような気がする。論理展開としては面白いし、教養として知っておくのも悪くないと思ったが、それ以上のものを感じない。

 ただし、入不二さんの「第四の形而上学」には、いかにもポストモダン的な香りがする。三つどもえの時間論、というのがそうだ。ポストモダンというよりも、ひょっとしたら弁証法かも。どっちにしてもよくわかりません。

 bk1での書評を見ると、森岡正博さんとオリオンさんが高く評価しておられるので、哲学者には受けるのかも、と思った。わたしってやっぱり無知蒙昧か。



 
 それに対して、中島さんのこの本はずっとわたしの実感に近いものだった。時間とは過去を考えることであり、では、過去はどこへ行ったのか? 過去はもうない。未来は? 時間を線でとらえることの過ちを指摘したこの本は斬新なアイデアに満ちていた。時間を空間論と混同する過ち。では、時間をどのようにとらえるのか? 結局のところ、結論がわたしに納得できたわけではない。だが、過去をとらえること、記憶をとらえることについてはたいへん刺戟に満ちた論が展開されていた。

 この本については引用を含めてもう少し展開してみたい(続く)



<書誌情報>

「時間」を哲学する : 過去はどこへ行ったのか / 中島義道著. 講談社, 1996 (講談社現代新書)


時間は実在するか / 入不二基義著. 講談社, 2002.(講談社現代新書)

『若者が働くとき』bk1投稿書評

2006年05月01日 | 読書
 近年、若年労働者問題について書かれた本が目白押しだが、どうやったら若者を定職に就かせることができるのかという視点でしか語られてこなかった。これに対して熊沢氏は、以下のように異議を申し立てる。

《就職後の就労継続をむつかしくしている職場の状況——労働内容、労働条件、人間関係をふくむ労働環境などが、もっときびしい検証にさらされるべきであろう。政策論についていえば、こうして職場の状況をさておいてともかく正規雇用に就職させればよいというものではない》(p9)
 本書は、たとえば本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』が持つ、「労働市場の問題を等閑視して若者の就労問題を若者の「自己責任」に転嫁するな」という問題意識を共有している。若者バッシングの言説分析である『「ニート」…』とは違って、熊沢氏は若者の労働現場の過酷な実態について、労働統計の分析と当事者たちの聞き取りを通じて明らかにする。
 働きたくてもそもそもパイが限られている、さらにせっかく就職しても過酷な労働に擦り切れてしまい、早々に離職し、やがてニートになってしまうその実態を、ファミリーレストランを一例に検証する。
 ファミレスは非正規社員の比率の高い職場だ。非正規社員は勤務時間を選べるが、少数の正社員は勤務体制がきっちり組み込まれ、統括責任を負わされ、店長になると厳しい査定にさらされる。定時に退勤できないことなどはザラであり、過酷な労働に疲れ果てて離職する若者が後を絶たない。その様子を見ているフリーターたちもまた、「ここの正社員になどなりたくない」と思ってしまう。
 このように正規従業員が早々と辞めてしまう理由としては、以下の3つが挙げられるという。
1)企業が長期的スパンで人材を育成する力を無くしてしまい、即戦力、即座の業績を求めている。
2)その結果、労働時間が長くなる。過酷なノルマの存在。
3)職場の人間関係の緊張が高い。「上司が怖い」。
 ところが、不本意な職場、過酷な労働条件であっても若者たちは総じて自分の職場や上司に対して肯定的であるという。彼らは自分たちの職場を自らの力で変えていこうという気概に欠ける。そんな面倒なことをするぐらいならさっさと辞めてしまうのだ。
 現代の若者は忍耐力において旧世代より劣るかもしれないが、若者の離職率の高さの責任は、「勝ち組、負け組」の分化を公認する政策思想や、今や「なんでもあり」の観を呈する労務管理のほうにある(p54)。
 若者の労働問題についての処方箋としては、経営側に向かっては労務管理のあり方への反省を促し、学校に対しては職業教育の重視を提言している。そして熊沢氏らしい主張は、労働組合への期待と叱咤だ。さらに若者自身には、過酷な労働条件に対して団結して闘えと訴える。
 最終章の若者たちのパネルディスカッションが興味深い。彼らは、労働条件に対する不満はそれほど持っていない。むしろ、ときには正社員以上に「仕事が楽しい」「やりがいがある」と、自分の労働に肯定的な評価を下している。彼らは雇用形態にこだわりがない。そういう価値観に熊沢氏は複雑な思いを抱くという。
 本書の大部分を割いて若者が置かれた困難な状況を描いてきた著者だが、一方で若者に対して、その認識の甘さや 「社会に出会う」ことを忌避する態度に苦言を呈してもいる。そして、「木を伐り水を汲む」地味な仕事にも人々に喜んでもらえる労働の喜びがあることを訴え、社会に出会うことなく「自分探し」を続ける倦んだ若者に、そのことの空しさに気づくよう呼びかけている。実際、旧世代はいつも若者たちにうるさがられるものだ。けれど、このことは言い続けねばならない。私もそう思う。
 著者が若者に向けた言葉には限りない愛情と激励が込められている。使い捨てられるな、燃え尽きるな、と。彼らにその言葉が届くことを切に祈る。

<書誌情報>
若者が働くとき : 「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず
 熊沢誠著. ミネルヴァ書房, 2006