ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『M 世界の、憂鬱な先端』(2)、及び 『限界の思考』

2006年02月26日 | 読書
 1月23日に『M 世界の、憂鬱な先端』について短い紹介を書き、続きは今週中にと予告して既に一ヶ月以上経ってしまった(汗)。本書の後半部分について抜粋紹介します。

 『M 世界の、憂鬱な先端』のMはもちろん宮崎勤を指すが、本書は宮崎事件だけではなく、神戸の少年による連続殺人事件についても触れている。文庫本全646ページのうち、宮崎事件は484ページが割かれ、神戸の事件は138頁が、21頁が大澤真幸氏による解説だ。

 神戸の事件について著者吉岡忍は、犯人の父親の友人にインタビューしている。犯人A少年の両親は沖永良部島から神戸に出てきた「移民」だ。同じ島出身の父親の友人が、吉岡のインタビューに答えた言葉が印象的だ。

「家なんかどうだっていいじゃないですか。両親がしっかり生きていれば、いつかAが少年院から出てきたとき、身を寄せる場所があるっていうことだから。まあな、あの家にもどるのはむずかしいな、きっと。会社も辞めにゃいかんかもしれん。それで食うに困るっていうんなら、そのときは…おれたちがいるじゃないですか。友だちがいる。温かい血の流れている島の人間がいっぱいいるっていうことを、あいつには忘れてほしくない」

 吉岡はこの言葉を聞いて、こう書いている。

《私はその言葉の向こうに、まだ息づいている神話を見たように思う。
 世界は浮島のように不安定で、壊れやすくできているが、そんな世の中で人と人は絆や愛のようなたよりなく、目に見えないものでつながることで、やっと生き、暮らし、世界を支えているのだということ。
 もう太陽の神様に相談するわけにはいかない。神様が当分出てきそうもないこともわかっている。
 そうだとすればますます、これ以外にやりようがない。友だち同士でやっていくしかないではないか。
 それが基本だ、と私も思う。私なりの言い方をすれば、親密圏となるだろうか。体験や課題の共有、なにかをいっしょにくぐり抜けてきたという感覚、趣味でも話題でもともに持ち合うことによってつながる親密な関係をもっと広げ、深めていくこと。それは<私>と<公>、<個人>と<世界>のあいだに、なんらかの絆でつながった親密な関係空間を作っていくということである》

 吉岡忍は、世界の憂鬱な先端に立ちながら、なおその憂鬱さと対峙し、そこから何かをつかもうとあがく。絶望しつつも、なお前向きに考えようとする。それは決して現実的具体的な処方箋ではないかもしれない。

 しかしわたしは、吉岡忍の物書きとしての誠実さに大きな共感と尊敬を覚える。あるOL殺人事件を取材した某ルポライターとは違って、吉岡忍の本には書き手の謙虚さが溢れているし、常に自省しつつ悩みつつ書いているその手に汗握るような葛藤が読者に伝わってくる。品のよさ、と一言で言ってしまえるのだろうか、「被害者には触らない」という自らに課した鉄則といい、丁寧に資料に当たる努力といい、物書きとして自らを律する凛とした精神に触れて、清々しい思いがする。

 ところで、宮崎事件死刑判決を受けて、大塚英志氏が『週刊金曜日』1月27日号にコメントを寄せているので、こちらも参照されたい。犯罪者から子どもを守るという発想で監視社会化を進めても、ことの解決にはならないだろうという意味のことを述べていた。



 最近、子どもが犠牲者になる事件が相次ぎ、動機がよくわからない犯行が続くと、「心の闇が」という論調に短絡してしまう。「心の闇」と言った途端に、わたしたちは犯行の動機や背景を文字通り闇に葬っているのではないか? そこでもう、「心の闇」に立ち入ろうとする努力を怠るのではなかろうか。

 例えば、年末京都の塾の殺人事件のように、コミュニケーションの破綻が即、殺人へと短絡するこの「底の抜けよう」はどうだ? これもまた「心の闇」ですませられることなのだろうか。
この事件が起きたとき思い出したのは宮台真司・北田暁大『限界の思考』(双風舎)だ。

 双風舎から出た宮台真司の対談本では『挑発する知』姜尚中, 宮台真司(2003年)
『日常・共同体・アイロニー』宮台真司, 仲正昌樹著(2004)の両方とも読んだが、今回の『限界の思考』が一番読みにくかった。

 それはたぶん、宮台氏への違和感が大きくなっているからだろう。宮台氏は何度も今の日本社会について「底の抜けた」という言葉で表現している。たとえばオウム真理教事件のあと、事件を受けて彼は処方箋を書いている。『終わりなき日常を生きろ』と。だが、最近の宮台は、「あえてするナショナリズム」の鼓舞へと方向転換している。彼はもはや自分のことを「真正右翼」と名乗ってはばからないし、若者達の日常への不平不満や「超越系」の人々のエネルギーの矛先を意図的に「ナショナリズム」へと向け、「アジア主義」へと収斂させようとしている。

 だが、宮台氏が「ピンポイント」照準を合わせている層が、必ずしも彼の主張を字義通りに受け取るとは限らないし、ましてやそのピンポイントがずれる可能性はかなり高い。彼が自分の言説の受け手として描いている層は若い世代の中上層インテリのようだが、実際はどうなのだろう? その影響力の及ぶ範囲は奈辺にありや?

 この本を読んで、「宮台の暴走」に危惧を表明してそれを止めようとしている北田暁大氏のへの好感度がかなりアップした。そこまで計算の上で宮台氏が北田さんの引き立て役になったのなら、彼の深慮遠謀も大したものだ。

<書誌情報>
 限界の思考 / 宮台真司著 : 北田暁大著. -- 双風舎, 2005

『図書館に訊け!』

2006年02月26日 | 読書
 本書では、図書館とはどういうところか、本屋とどう違うのか、なぜ図書館は必要なのか、といったことから始まって、資料の多様性の解説・評価、目録の見方、文献検索の方法等々、およそ図書館を使いこなすHow toはすべて指南されている。
 インターネット時代だからこそ、図書館の資料と合わせて調査しなければならない理由についても詳しく書かれていて、これは必読。ピンポイントで検索結果を出してくるインターネットの検索エンジンからはこぼれおちる情報がいくらでもあるのだ。
 それに、ロボット型検索エンジンを使っても、実はネット上の情報のわずか20パーセントも網羅できないという。どうすれば目的の情報にたどりつけるのか、各種データベースの特長を知り尽くした図書館員ならではのネット・スキルが頼りである。調べ物と言えばすぐに”Google”や”Yahoo!”に飛びついているようではダメなのだ。
 本書は図書館初心者向けに書かれているが、現役図書館員であるわたしが読んでもおもしろい。知っていることばかり書いてあると思いきや、軽妙な語り口や豊富な知識に基づく図書館の世界の解説には、改めて目を見開かされることが多々あり、この世界の広さと深さに感じ入った。また、ときどき話題が脱線するのも楽しい。
 さらに、図書館(特に大学図書館)にはどういう種類の本や雑誌があって、論文を書くにはどのようにそれらを区別識別して有効活用すればいいのか、どの資料が信頼に堪えうるものなのか、その評価方法、見分け方のヒントが丁寧に書かれているのは、図書館員にとっても改たな気づきがあり、大変お役立ちだ。
 そして、もっとも役に立つのは「レファレンス・ブック」(参考図書)の使い方だろう。レファレンス・ブックとは、調べ物をするのに役立つ資料のことで、百科事典類や文献目録がその典型だ。例えば百科事典の使い方一つとっても、いきなり当該項目を読みにいくのではなく、まず索引巻から当たるようにという。索引を調べることによって、相互関連のある項目が一覧できるのだ。索引を利用することによって、一つの項目だけを読んでいては気づかない裾野の広がりを知ることができる。レファレンスブックの使い方ひとつとってみても、図書館員の指導なしにはなかなか上達しない。とにかく、「モノを利用するのではなく、ヒトを利用」せよと井上さんは言う。司書であるよりも前に図書館のヘビーユーザーである著者でこそ書けた本だと言えよう。

 ではここで本書からレファレンス(調べ物についての質問と回答)の実例について挙げてみよう。「永井荷風が太平洋戦争の敗戦の前日、谷崎潤一郎と岡山で会って、翌8月15日昼前に別れている。そのときに荷風が乗った列車と時刻を調べたい」。これ、いったいどうすれば図書館で調べがつくのか、そんな古い時刻表を持っている図書館があるのだろうか。
 あるいはこういうのはいかが?「『金色夜叉』のお宮と寛一の歌が入ったCDがあるらしいが、どうやったら手に入るか」「行政文書をA4判に統一するに当たって作成されたマニュアルのようなものはあるのか」「昭和13年の5万円は今の貨幣価値に直すといくら」
 こういった質問に図書館員は答えてしまうのだ。もっとも、答を即座に示すのではなく、あくまでも調べ方について助言・教示するだけなのだが。それにしても図書館の膨大な資料の前で立ち尽くす利用者にとって、図書館員はなんと頼りになる水先案内人だろう。
 本書は既に4刷になっている。これからbk1で注文する人は誤植の少ない版を読めるわけで、ラッキーですね。ぜひ武田徹さんの『調べる、伝える、魅せる!』との併読をお勧めします。(bk1投稿書評)

バタイユ月間始まる

2006年02月20日 | 読書
 去年の夏にはバタイユ月間が既に終わっていないといけないはずだったのに、とうとう冬までずれこみ、下手をするともう春が来るのである。月日の経つのは早い、あせる。

 曽根朗さんにエールを頂戴してわざわざ卒論のバタイユ論のアップまでしていただいたのに今までのびのびになって申し訳ない思いでいっぱいだ。

 今のところ読み終わったのは『バタイユ入門』(酒井健著)と『マダム・エドワルダ バタイユ作品集』(「眼球譚」「マダム・エドワルダ」「死者」「エロティシズムに関する逆説」「エロティシズムと死の魅惑」収録)だけ。

 酒井健さんの『バタイユ入門』は読みやすく分かりやすくおもしろく、かなりお奨めの入門書だ。できれば久しぶりにbk1に書評投稿したいと思っている。

 これを読んでからバタイユの小説を読んだから、たいへん理解しやすかった。いえ、バタイユの小説じたいは決して難解なわけではなく、絶句するような猥褻な描写が続いて目が点になるのだが(特に「眼球譚」)、「なぜバタイユはこんな話を書いたのか?」という「謎」を解くヒントになるのだ。
 バタイユにとって眼球は、病床にあった父の姿を彷彿とさせるものだ。バタイユの父は梅毒によって全身が冒され、目が見えなくなって時々白目を剥いていたという。最後は発狂して亡くなったそうだが、その壮絶な病状がバタイユの作品に色濃く影を落としている。