ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

野いちご

2009年01月25日 | 映画レビュー
 ドイツ表現主義ふうの奇怪な夢の場面があったり美しい花畑の回想シーンがあったり、幻想に満ちた世界。それは死を目前にした老人の一時の幸せなのだろうか、それとも後悔か。

 ベルイマンにはもっと緊張感に満ちた作品を期待してしまうから、この物語のように中途半端なギスギス感は不満が残る。どうせならギタギタにお互い傷つけ合えばいいのに、老人と息子の嫁は仲違いしているようで実は敬愛しあっているという複雑な関係。

 さて、1957年当時の76歳といえば今の90歳近い感覚だろうか。死を目前にした高名な医師は何を幻想し、何を夢見るのだろう。彼の白昼夢に登場する若き日の恋人や妻は彼の人生をどのように彩りどのように傷つけたのだろう…

 76歳の老医師イサークの独白で始まる物語は、彼の息子の妻とともにゆくロードムービーだ。息子の嫁は美しいマリアンヌ。彼女を助手席に乗せ、後半は彼女が運転して、イサークは50年に及ぶ医師生活を表彰されるその式典に参加すべく車で出発した。途中で若い頃に住んでいた屋敷の側を通り、3人の若者を拾い、危うく正面衝突しそうになった車の運転手夫婦を拾い…というようにロードムービーは何組かの新たな同乗者を乗せて進む。

 後期のベルイマン作品しか知らない人にとっては驚くほど明るくユーモラスな映画だ。頑固な老イサークと老家政婦との会話もボケと突っ込みが楽しい。ロードムービーの途中で出会う人々との会話も機知に富んでいて、途中で出会うのは実在の人々ばかりではなく、もう既に亡くなった妻や昔の恋人とも幻の中で出会う。

 イサークはどうやら医師として人々に尊敬されているらしく、式典への道のりの途中で立ち寄ったガソリンスタンドの若い夫婦からも「先生は恩人ですから代金はいただきません」と申し出られる。息子の嫁マリアンヌには「自分のことにしか関心のないエゴイスト」だとひどい言葉で非難されるけれど、結局のところ、マリアンヌもイサークを敬愛しているのだ。老イサークには96歳になる老母がいて、一人暮らしの邸にイサークは立ち寄ってみる。この老母もまた厳しい人で、年老いても口は減らない。

 ベルイマンらしさはなんといっても登場人物たちの辛辣な会話だろう。なぜ家族どうしでそこまで棘のある言葉を交わすのだろう、と思えるほどに人物たちは互いを批判しあう。しかし、晩年のベルイマン作品ほどにはその棘の刺し傷は深くない。そこが中途半端に思えて不満が残る。

 また、イサークが道中に見る夢が自分の棺桶だったり妻の不貞だったり、「悪夢」といえるようなものばかりで、恐怖心をそそる。一方、道中で野いちごを摘むイサークはその香りに刺激されたのか、昔の恋人の幻を見る。かつて美しかった自分の婚約者を弟にとられてしまったのだ。イサークの「回想」場面は、老イサークが恋人と弟との会話を盗み見るように展開する。つまり、過去の場面にそのまま現在のイサークが観客として登場するのである。

 この映画は物語全部が老いたイサークが死ぬ前に見たつかの間の夢だとも解釈できるし、あるいは死が近いイサークが最後に過去を懐かしみ後悔し現在の栄光を喜び「いろいろあったけれど、満足な一生だった」と安らかな思いにふけるうたかたの「マイ・ウェイ」熱唱もの、ともとれる。

 針のない時計とか、現在と過去とのシームレスな交錯とか、過去が現在を映す鏡として象徴されるとか、表象論的には面白い題材があるのだろうけれど、わたしには見ていて面白い映画とは思えなかった。でも研究会「記憶の会」でのさまざまな議論を受けて、わたしの浅い読みよりもかなり多くのテーマを含む興味深い映画であることを知り、再見したらいろんな発見があるような気がした。(DVD)

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野いちご
SMULTRON-STALLET
スウェーデン、1957年、上映時間 90分
監督・脚本: イングマール・ベルイマン、音楽: エリック・ノードグレーン
出演: ヴィクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン 、グンナール・ビョルンストランド、ビビ・アンデショーン、グンネル・リンドブロム、マックス・フォン・シドー