ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「もどろき」

2001年05月11日 | 読書
2001年05月11日
 第124回芥川賞候補作。

 京都の米屋を舞台に、祖父、父、息子3代の生き様が語られる。息子の一人称による、自殺した父への鎮魂歌という趣がある作品だ。
 作家黒川創の来し方を彷彿させる物語である。
 確かに、芥川賞受賞作に比べると冗長感を否めない。しかし、ここに語られる作家の内奥の豊かさは受賞2作品に比して、決して劣ってはいない。否、「聖水」よりは受賞に値すると感じたのだが。

 実は黒川創の作品を読むのは初めてだ。本人を知っているだけに、先入観なしに読む自信がなく、これまで読まずにいたのだった(彼の思い出は近々書こう)。
 彼の文は読点を多用し、ぶつぶつと区切れていて、大江健三郎の小説を読んだ後では少々読みづらい。テーマは限りなく大きく広い。彼は日本近現代史を総括しようとしているようだ。あまりにも書きたいことが多すぎて、未消化になっている。テーマをもっと絞れば引き締まった作品になっただろう。芥川賞も受賞できたかもしれない。

 だが、彼が「もどろき」の中で小出しにしたテーマの数々はこれから大きく膨らんで、大河小説へと花開く期待を抱かせる。

 デッド・メールという「不存在の実在」が投げかける波紋。私もいつも思うこと。世界中の悲哀と憤怒の総和のエネルギーが不存在といえるだろうか? 人が死ぬ瞬間に激しく包まれた、慚愧と恐怖と憎悪の念波がこの宇宙から霧散してしまうなんて、信じられるだろうか? 人がその一生に抱えた数限りない思いはどこへ? いったいどこへ? あの悲しみも、あの苦しみも、いったいどこへ? 「デッド・レター」というキーワードは、私の心の襞に触れた。

 そしてやっぱり本作にもきら星の言葉の数々が。

 「ふつう、人は愛についてなど考えない。…愛というものについて考えるのは、愛についての知識人であって、ふつうの人は愛そのものを、もしくは、愛そのものの破滅を生きている。」 etc…

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「もどろき」
(黒川創著 新潮社 2001年)

「取り替え子」

2001年05月10日 | 読書
 1997年12月に自殺した伊丹十三は大江健三郎の義理の兄である。 伊丹と大江は高校時代からの友人で,伊丹の妹と大江が結婚し,二人は義兄弟となった。
 伊丹の自殺に衝撃を受けた大江が,3年後に伊丹の思い出と死と再生をつづったのが本小説である。これまでにもまして「極私小説」であるにもかかわらず,たいそうおもしろく読了できた。大江作品では近年なかった出色の出来ではないか。
 というのも,伊丹十三という有名人を題材にして,しかもそのスキャンダラスな死に纏わる事実が(相変わらず虚構と現実の境界が不明だが),書かれているために,ワイドショー的下世話な好奇心をそそられるのだ(^^;)。
 伊丹の伝記でもある本作は,徹頭徹尾,3人称を使用した1人称小説である。友人であり義兄である映画監督の死に打ちのめされた主人公・古義人(こぎと)が──そう,Cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)を想起しよう── 死後に友人・吾郎の妻からわたされた「田亀」(カセットテープ・レコーダー)と対話する。亡き人との対話に惑溺しながら,やがてその死を再生へと昇華させる魂の彷徨と思考の過程が,彼らの故郷である四国の森のなかの出来事と交差しながら描かれる。
 深い感動を呼ぶ作品である。
 ここで「取り替え子」(チェンジリング)は,死んだ吾郎が新たな生命の中に取り替えられて再生することを意味する。

 大江健三郎と本多勝一との長年の確執──というか,本多の大江攻撃──も随所に描かれ,本多の一方的な大江攻撃しか読んだことのない私には大いに興味深かった。
 すばらしい小説にはかならずきらりと光る警句・名言があふれているものだが、本作にも私のお気に入りになった多くのフレーズがあった。
 「死は時なのだ」
 「私の弟は人生で出会ったものを、全部ポケットにいれています Omnia mea mecum porto. いつも自分のものは自分でみんな持ち運ぶ」etc…  

「取り替え子(チェンジリング)」
(大江健三郎著 講談社 2000年)


大江健三郎の文体

2001年05月01日 | 読書
 私は大江健三郎の小説はほとんどすべて読んでいる。 特に初期のころの作品は評論も含めてすべて読了している。

 大江の作品では「万延元年のフットボール」が最も気に入っているが,「ピンチランナー調書」以降の作品は魅力に乏しいと感じていた。

 もともと学生からそのまま作家になった人物だから,小説には一般人の生活臭が感じられないし,そこがまた作家の内面の豊かさをおそらく本人の力量以上に引き出してきた力なのだと思う。 ところが「個人的な体験」以降はその傾向があまりにも甚だしく,極私的な世界にはまりこんでしまってそこから普遍化への道筋が拓かれていないと感じた(ただし、本作は深い感動を呼ぶ作品であった)。障害のある息子との対話を通してヒューマニズムの普遍性を獲得し,外界へと昇華させる小説手法なのかも知れないが,いまいちのめりこむようなおもしろさが感じられなかった。

 それは,文体にも表れている。大江の,あの英文直訳のような文体,およそ美文調とはほど遠い蛇のようなひねくれた文体は,斬新な魅力に溢れていた。だがその文体のもつ魅力が徐々に薄れてきたように感じたのは,その妙ちくりんな文体に私が馴れてしまったせいだと思っていたが,最新作「チェンジリング」を読んで腑に落ちた。

 彼は小説を書き始めた頃は翻訳本を盛んに読んでいたが、あるときから原書ばかり読むようになったらしい。そのころから、彼の作品からキラキラしたものがなくなり、「風変わりなほど新しい表現」や「なにか突拍子もないおかしさ」が消えたのだと。大江自身の作品を読んで、文体変化の理由が納得できた。やはり、「円熟」などではなく、私には陳腐化と映る変化である。