ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「歴史家は誰か?」と問う『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 覚え書き

2005年01月30日 | 読書
わたしはたぶん小説だけではなく、学術書ですら、著者への感情移入なしに読むことができないのだろう。だから、東浩紀の『存在論的、郵便的』に強く惹かれ、またこの本も心震わせながら読んでしまう。この著者がもう亡くなっていること、彼が享年33歳で癌でなくなり、本書の出版を待たずに旅立ったことを予め知っていて読んだからこそ、未来へ向けて書かれたこの本にどれだけの想いを著者が込めたかと思うと、平静に読めない。

 だから、そんな気持ちで読んだ本を冷静に批評することも書評を書くこともできない。ましてや、その内容がわたしの根底を揺さぶるような大きな刺激に満ちているのだから、なおさらだ。

 この本に出会ったのは偶然だった。めったに読まないのだが、ふと東浩紀のブログを読んだときに、東の著書を英訳するプロジェクトがあることを知った。しかも、翻訳予定者の保苅実という若い研究者が病気のために翻訳を辞退するメールを送ってきたという事情も知った。さらに、その保苅という人物は死んでしまったこと、彼のお姉さんが亡き弟を追悼するためのメモリアルHPを作っていることも知った。
 
 http://www.hokariminoru.org/j/index-j.html

 ここには保苅実さんが闘病中に友人知人に送ったメールも記載されており、涙なしには読めない。そして、彼が最後にたった一冊残した著書がどんな本なのだろうかと興味をもった。bk1を検索すると、書評の鉄人メルさんが既に絶賛書評をつけていた。メルさん自身も学究の道を歩もうとする研究者の卵であり、おそらく大きな刺激を本書から受けたのだろう。ブログでも取り上げておられ、その興奮ぶりが手に取るように伝わってきた。

 ためしにと、近所の図書館にリクエストした本書、一章を読み終わる前に購入を決意し、今わたしの手元にある。

 そして、著者後書きを読み終わった瞬間に涙がこぼれた。さらに、友人の研究者による「もうひとつのあとがき」を読んでもう一度涙がこぼれた。さらに、保苅さんの師である清水透さん(慶應義塾大学教授、ラテンアメリカ社会史専攻)の解説を読んでまた泣けた。

 学術書を読んで泣くなんて、初めての体験だ。こんなに泣いてばかりでいいんだろうか。

 清水さんの亡くなった娘さんは保苅実さんと同い年だそうだ。保苅さんと出会う一年前に娘さんを癌で亡くしていた清水さんは、1996年に保苅さんから、ご自身の著書への感想文と保苅さんの論文の要約を書いた便りをもらった。それから二人の交流は続いていたという。

 清水さんは娘と弟子を癌で喪った。保苅さんがホスピスの床で遺した「清水透批判」を真摯にうけとめ、これから、保苅から課された課題に取り組むと述べている。 


『ねじまき鳥クロニクル』は本当に「究極の愚作」か?

2005年01月20日 | 読書
Posted by pipihime at 22:07 │Comments(2) │TrackBack(1)
2005年01月20日



 「ねじまき鳥」は長い小説だった。ある友人は、「いったいいつになったらおもしろくなるんやろうとずっと我慢して読んでたけど、とうとう我慢できずに途中で放り投げた」と言っていた。さもありなん。確かに、引っ張り引っ張りずぅ~っと読者を引っ張りつづけて、結局最後にオチをつけないのだから、これはまあ、詐欺といえば言える。

 編集者・書評者の故ヤスケンさんも『本など読むなバカになる』の中でそういう意味のことを書いている。だけどね、ヤスケンさんの酷評、あたっているところもずいぶんあるんだけど、わたしはちょっと違うなあと思っている。

 たとえば、物語の初めのほうで、主人公たちが夫婦喧嘩する場面。主人公「僕」は岡田亨という30歳の失業者。法律事務所の使い走りのような仕事をしていたが、つい最近辞めた。妻の久美子は雑誌の編集者。二人の間に子どもはいない。結婚して6年の彼らは、ささいなことで喧嘩をする。それはおかずの組み合わせが気に入らなかったという妻の不平が発端なのだ。あるいはまたトイレットペーパーの色や柄が気に入らないという。そんなささいな妻の好みを、6年も一緒に暮らした夫が知らないなんておかしい、とヤスケンは批判する。妻の生理周期は熟知しているのに、なんで料理の好みを知らないわけがあろうか、不自然だ、と。

 このことを通して作者は、夫婦のディスコミュニケーションなり、冷え切った夫婦生活を暗示しているのでもない。(p19)

 そして、オカダ・トオルという主人公のことをヤスケンさんは

 「僕」のキャラクターとは世の中に五万といる三十代前後の一種のモラトリアム人間、何かクリエイティヴ(オエッ!)なことが出来るのではと錯覚してはいるが実は何もできず、しかもやりたいことなど皆無、むろん、いわゆる社畜にはなりたくなく、軽蔑すらしている、しかし、どこかに常に欲求不満と将来に対する漠然たる不安はあるといったウルトラ薄馬鹿人間の典型とも言える(p21-22)

 と、ボロクソである。

 確かにそうなのだ。オカダ・トオルはふわふわととらえどころがなく実在感がなく、生身で生きているという感じのしない人間だ。確かに魅力的な人物とも思えない。けれど、わたしはこの冒頭の部分が一番気に入ったのだ。この二人の「薄馬鹿人間」たちの夫婦喧嘩にこそリアリティがあると感じた。

 何十年一緒に暮らしたって、ほんとうのところ、妻や夫のことを理解しているといえるだろうか? むしろますます相手の事を真剣に斟酌しなくなるのではなかろうか。ささいなことで「あなたはわたしを見ていない」と夫をなじるクミコの気持ちがわたしにはよくわかる。

 だからこそ、冒頭に置かれたこのささいな夫婦喧嘩の意味は大きいと思う。ところが、問題はこの夫婦のディスコミュニケーションに分け入っていく内容が展開されると期待してもいっこうに話がそちらの方向に進まないことにあるのだ。

 なんだかよくわからない登場人物が大勢登場するのだけれど、誰も彼もいったい何のために登場してきたのかさっぱり理解不能だ。謎をたくさんちりばめていくけれど、結局のところ「彼女はいったいなんだったの?」と思うころにはもう彼らは退場している。

 ただし、ヤスケンさんの怒りもイライラも確かによくわかるけれど、本作がそれほど一顧だにする必要もないほどの愚作だとは思えない。というのも、「間宮中尉」のサイドストーリーがものすごくおもしろかったからなのだ。間宮中尉というのは、ノモンハン事件以来、ずっと中国東北部で戦争し続けた軍人なのだが、彼の数奇な運命がわたしを惹きつける。
 そして、「レーニンはマルクスの言ったことのなかで自分にわかるところだけを都合よく引用し、スターリンはさらにレーニンの言葉のなかから自分にわかるところだけを利用した」という意味のことが描かれているくだりにきて、「名言やんか」と思わず手を打ってしまった。

 『ねじまき鳥』は主人公達の現実生活よりも、間宮中尉の回想録のほうがおもしろいから、これだけを戦記ものとして村上春樹は書けばよかったのに。 



 して、ヤスケンさんのこの本は、前半が『ねじまき鳥クロニクル』をこき下ろす精読批判だが、後半は読書案内になっていて、これがまたけっこうおもしろくて役に立つ。その中で、「一作ごとに腕を上げる」と誉められているのが小川洋子だ。小川洋子については斎藤環も『文学の徴候』で誉めていたし、「とみきち読書日記」でも『ブラフマンの埋葬』が取り上げられているし、去年のベストに『博士の愛した数式』を挙げておられたので、わたしも次に読んでみようと図書館にリクエスト中である。
 ほかにも、読まず嫌いだった村上龍を読んでみようと思わせる絶賛ぶりなので、やっぱりヤスケンさんは本好きをそそるのがうまい。

 ヤスケンさんは本を見る目があると思うし、すぐれた書評家・編集者なんだと思う。でも、読者は、「愚作」と自分でも思うような小説に惹かれてしまうことだってあるんだということを忘れてはいけない。


<書誌情報>

 ねじまき鳥クロニクル / 村上春樹著 ; 第1部 : 泥棒かささぎ編 - 第3部 :
鳥刺し男編. -- 新潮社, 1997. -- (新潮文庫 ; む-5-11~む-5-13)

 本など読むな、バカになる / 安原顯著. -- 図書新聞, 1994
 

悲恋四谷怪談

2005年01月19日 | 読書
2005年01月19日
 短くブツブツと切った文体。連用形・接続詞止め。そして、まどろっこしく説明する部分があるかと思うと、肝心のところをぼやかして書かない、心憎いばかりの筆。

 愛し合いながらも傷つけ合うことしかできなかった、深い業に生き死んだ男と女の悲しい物語だ。

 四谷怪談をこんなふうにアレンジするなんて、新鮮な驚きに満ちた物語だった。岩は気の強い現代的な女性として描かれている。いや、現代でもなかなかこのように強い性格の賢い女は少ないだろう。気立ては荒々しいが自分の信念をしっかりもった女性として作者は岩を描いている。だが、自分の信念をしっかり持っているということは逆に言えば他者を受容しにくい性格でもあるわけで、岩は病気によって醜く崩れた自分の顔のことがあるため、夫となった伊右衛門にも素直になれないのだ。

 岩自身は決して自分の醜くなった顔を恥じてはいない。だが、自分と違って温厚でやさしく無口な夫に対して、うまく接することができないのだ。民谷家に婿養子にやってきたイエモンに、岩は心とはうらはらにきつい言葉ばかりを投げかけてしまう。

 新婚まもなく二人はイエモンの上司の奸計により別れさせられるのだが、二人は深く互いを愛していたのだ。これが実はちょっと不思議なんだけど、なぜイエモンは岩を愛しく思えるのだろう? 自分に妻らしいやさしい眼差しを向けたこともなさそうな岩をなぜイエモンは愛せたのだろう。

 なぜ二人がかくも深く愛し合えたのかは謎の部分があるのだが、それでも、どんなに相手を愛していても傷つけることしかできないその悲しさがこの切れ切れの文体から強く漂ってくるのだ。
 だから、最後の一行を読み終えた瞬間にいきなり涙があふれてきた。

 登場人物については初めから、岩=小雪、イエモン=唐沢寿明というキャラ設定で読んでいたので、そのイメージしか頭に浮かばなかった。原作のあとで映画を観たときも、もともとそういうイメージだったから違和感はまったくないのだが、敵役の上司伊藤喜兵衛だけがイメージ違ったなぁ。

 いずれにしても、この主要な3人のキャラクターは、「異様」と言っていいぐらい極端に立っている。だから、キャラクターの強い性格に引っ張られて、少々説得力のないストーリー運びでも強引に読まされてしまうのだ。徐々に壊れていく女(梅)のこころ、お岩の幻影、ストーリーは後になるほど怪談めいてくる。ゾクゾクしながら読んでいくと、最後に悲恋に涙する。

 観てから読むか、読んでから観るか。やっぱり「観てから読む」が正解だと思う。いや、観なくてもいいかも。

  映画評はこちら

<書誌情報>
 
 嗤う伊右衛門 / 京極夏彦[著]. -- 角川書店, 2001. -- (角川文庫 ; 12215)

 

わたしの人生を変えたかも知れない一冊

2005年01月17日 | 読書
 この本に20年まえ出会っていたら。著者の保苅実さんがわたしの身近にいて交流できていたら。わたしはがんばって歴史研究を続けていたかも知れない。研究者になろうともう一度本気で考えたかもしれない。

 わたしがやりたかった歴史学がここにある。実証主義など年寄りがやればいい、若手はたったと先を行かせてほしい、などと堂々と言うなんて。

 図書館から借りて読み始めた本だが、第一章を震える想いで読み進め、1章を読み終えたときに「この本は買おう」と決意し、bk1に注文した。今日届いたので、明日からまた続きを読もう。読了したら久しぶりにbk1に投稿したい。


<書誌情報>

ラディカル・オーラル・ヒストリー : オーストラリア先住民アボリジニの歴
史実践
  保苅実著. -- 御茶の水書房, 2004

要注意:電車の中で読むと座席から落ちます

2005年01月15日 | 読書
 これはおもしろいわ! 大笑い。

 対談やってる二人とも多読家だし、よくそれだけいろいろ読んでるよなー、いくら仕事とはいえ、すごい! と感心してしまった。それに、古典だの名作だのといわれている作品にもたじろぐことなく「どこがいいのかわからん」とけなすことけなすこと。わたしなんて小心者だから、「世間の評判が高いのにどこがいいのか理解できないのはきっとわたしがバカだからだ」と思ってしまうのだが、この人たちはそんなこと思わない。

 確かに現在の目から見たら表現が古臭くておもしろくない小説っていっぱいあるけど、そこまでミソクソに言わなくてもええやんか、と思うような部分もけっこうある。たとえば、 尾崎紅葉の『金色夜叉』をコケにするくだりでは、

 「この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖って遣る覚悟だ」とまで口走る始末ですよ、たかが女にふられたくらいで。もう、一刻も早くカウンセリング受けたほうがいいよって、祈るような気持ちで読み進めましたね、わたしは(笑)。


 大笑いしたけど、こういう言い方っていいのかしらん。

 けなしてばかりではなく、さすがに目が利くようで、夏目漱石や芥川龍之介はべた誉めなのだ。内田百間(漢字出ません)も巧い巧いと誉められていた。川端康成の『雪国』はこき下ろされてたなぁ、単なるスケベ男の話だ、みたいに。

 ここで取り上げられて「名文だ」「いいよ、いいよ」と誉められている小説はどれもたいてい読みたくなるから、やっぱり本読み屋の図書紹介は上手いと思う。以前は毛嫌いしていた芥川も再読してみようかという気になったし。

 脚注が豊富についていて、これがまた面白いのだ。真面目な用語解説もあるけど、本文に対するツッコミがあったりして、また笑える。この註が本文並みかそれ以上に長いので、この本は読むのに時間がかかった。

で、この二人の書評にはなかなかな感心したのだが、特にこれはと思ったのは、『五体不満足』に対する評価だ。


 岡野:僕らは、乙武君個人を責めるつもりで喋ってる意図はまるでないということ。つまり、一つはこれはきちんと書物として出版された表現行為だから、書評を生業とするわれわれはこれまたきちんとこれを書物として批評しようとしているんだと。それから、乙武君自身が本の中で、心のバリアフリーを訴えているわけだから、受け手のわれわれも、他の本と同じ地平でフェアに論じようとしていると。逆に言うと、この本の不幸は実は、なんとなく誰もが気後れして正当な書評をされなかったことにあると思っているんだ。

 豊崎:だから怖れずにいうと、乙武君だって自分の障害に苦しみながら、周囲の無理解や差別と戦っている人たちと身近に接しなかったはずないと思うのに、その葛藤がまったく抜けて落ちてる、それがこの本の欠点。

 これはなかなか言えないことで、著者たちもかなり気を使ってこの部分を書いたことがわかる。ここだけ文体(というか喋り方)が違うのだもの。


 というわけで、本好きにはお奨めします。おもしろいよ~



<書誌情報>

 百年の誤読 / 岡野宏文, 豊崎由美著. -- ぴあ, 2004

精神科医の小説分析

2005年01月03日 | 読書
 映画だけじゃなくて、漫画だけじゃなくて、小説も精神分析の俎上に乗せてしまう多才な斎藤さん、本書で取り上げた作家は23名。その顔ぶれも多彩で、わたしなんか全然知らない作家が何人も登場する。『文學界』での連載をまとめたものだ。最後の一章は書き下ろし。

 で、この人の文体の特長なのか、文脈をどうたどればいいのか少々わかりにくいところがあって、だからわたしが読んでいない作品や知らない作家についての言及部分はいっそうわかりにくい分析になっている。引用文が少ないのがその一因だ。とりわけ前半がそうだ。後になるほど引用が増えてわかりやすくなっているから、きっと連載の途中で編集者か読者から指摘があったんだろう。

 というわけで、とりわけ最初の赤坂真理とか舞城王太郎とかの章はわかりにくい。それに比べ、読んでいておもしろいのは、わたしに馴染みのある作家の分析だ。
 その中でももっともおもしろかったのが島田雅彦と保坂和志の章だ。大江健三郎もおもしろかったけど、大江の『取り替え子』の分析は加藤典洋のほうが鋭かったね(『小説の未来』だったか、『テクストを遠く離れて』か、どっちかに掲載)。
 島田雅彦の「天皇萌え」なんていう言葉には驚いてしまった。そうか、やっぱり島田雅彦って天皇が好きなんだ。いや待てよ、そうかな。

 島田は単一主義を回避し続ける作家だそうだ。陣野俊史(誰?(^^;))が島田のことを「『左翼』に対して『サヨク』、『本物』にたいして『模造』…」を対置していると評するのに対して、斎藤環は

 たしかにこれは、島田にあっては顕著な特質だろう。しかし…[中略]…単一主義に対して、それをずらしたり複数化したりという戦略は、単一主義の強靱さを結果的に際だたせてしまう。デリダやドゥルーズの試みが、けっしてラカンの「否定神学」を衰弱させえなかったこと、時には「ラカン」を強化してしまったことを想起されたい。それは魂のヒステリー的な双生児なのだ。(p165)

 と言う。

 陣野の記述は、必ずしも正確ではない。島田は二項対立ではなく、第三項を持ち出して対立そのものを脱臼させようとするのだ。だから正確には、「左翼」対「右翼」の間に「サヨク」を、「本物」対「贋物」の間に「模造」を、「都市」対「田舎」の間に「郊外」を、そして「帝国」対「独立国」の間に「植民地」を挿入する、と言わなければならない。その身振りには、デリダが「サンポリック」対「イマジネール」の間に「エクリチュール」を持ち出し、「生」対「死」の間に「生き延びること」を持ち出し、「去勢」対「去勢否認」の間に「割礼」を持ち出す身振りを思い起こさせる。なるほど、彼らはまさに、隠喩的対立を換喩的に脱臼させる、という手法においては共通している。(p165-166)

 それにしても島田雅彦のことを「島田は細心の注意を払って下手な小説を書き続ける」と評価するとは(笑)。これを読んで島田は喜ぶのか怒るのか、どっちだろう。

 島田の天皇萌えは、天皇制の本質を考える大きなヒントになるという。

 天皇を支える磁場は、多重構造になっている。それは、必ずしも空虚な中心がひとつある、というものではない。単純な批判やフェク化の戦略がことごとく通用しないのは、批判やフェイクがすべて「君側の奸」として天皇をとりまく人や制度に吸収され、決して中心には及ばない仕組みになっているからだ。…[中略]…中心が空虚であるかどうかは知らない。ただはっきりしていることは、さまざまな「良きもの」を投影するうえでは、空虚なスクリーンほど都合がいい、ということだ。おそらく天皇は、構造的な欠如という機能は持たない。そこにあるのは「空虚なスクリーン」という虚構的イメージだけだ。(p169-170)

という論から始まって、島田の天皇萌えが皇太子への執着というかたちで現れるという分析へと繋がるのだ。
 おもしろかったわあ、これ。


 映画分析の時と同じに、やはり斎藤さんは「真実は一つしかない」と言い切るし、自分は正しい読みしかしていない、と断言する。すごい。多様な読みがあるなどというヤワなことを言わないのだ、この人は。なんかミヤダイにも似てるね。

 斎藤さんは自分と同年代の言論人に親しみを覚え、彼らの作品を評価するという。その斎藤さんが挙げた名前が、宮台真司、大澤真幸、大塚英志、いとうせいこう、宮崎哲弥だ。彼らの合い言葉は「絶望から出発しよう」なんだそうな。

 奇妙なことに、この世代には一つの分裂がある。それが「シニシズムとコミットメントとの分裂」だ。舞台裏を知り尽くしながら、それでも彼らは、いや私たちは、「世界」に関わろうとする。批評家でありながら活動家。(p161-162)

 なるほどね、わたしもこの世代なんだけど。そうなのかな? 自己分析は不可能です。

<書誌情報>

 文学の徴候 斎藤環著 文藝春秋 2004